高英男

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高 英男
こう ひでお
本名 吉田 英男(よしだ ひでお)
生年月日 (1918-10-09) 1918年10月9日
没年月日 (2009-05-04) 2009年5月4日(満90歳没)
出生地 樺太
民族 日本人
ジャンル 歌手俳優
活動期間 1936年 - 2008年

高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - 2009年5月4日)は、樺太(現・サハリン)出身の日本歌手俳優。日本におけるシャンソン音楽普及の第一人者であり、フランス国内でも活躍。独自のムードを醸し出す歌手・俳優として知られた。経済学者日本大学第4代総長の呉文炳は従兄弟にあたる。

略歴[編集]

大正7年(1918年)10月9日、樺太泊居町で生まれる。8人兄弟の末っ子だった。生後すぐ、母方の伯母の嫁ぎ先へ戸籍上だけ養子に。高は実家の姓で、大陸名のような名前だが日本人である。実家・養家は共に製紙工場を経営しており、王子製紙の創立者の一人である。

11歳のとき、勉学のために樺太から単身東京へ出され、下谷の従弟のもとに身を寄せる。吉田の家が、浅草でも知られた顔だったため、映画・舞台を自由に見て回れた。

本人曰く「《樺太の自然児》として育った子供が、急に人と人の関係が複雑な芸能界のウラみたいなトコで過ごすようになっちゃったんだから、こりゃあ変な男が出来ないはずがないですよ(笑)」

父親は医者にさせたく獨逸学協会学校中等部入学、卒業後武蔵野音楽学校へ進学。同級に木下忠司大谷冽子がいる。入学後、先輩の紹介で、ディナ・ノタルジャコモにベルカント唱法を習う。

昭和11年(1936年)、初舞台。ソロで3曲歌う。またその頃、コーラスグループ「コーロエーコー」に入団。最年少団員だった(なお最年長は東海林太郎)。

武蔵野音楽学校入学後、一年強で日本大学へ転学。当時既に歌で稼いでいたため、学校側がうるさく言ってきていたのと、徴兵を遅らせるため、当時殆ど無い音楽科がある日本大学へ移ったというのが真相である。

日本大学では、学生仲間でタンゴのバンドを結成し、ヴォーカルを担当。日大の後輩には、西村晃三木のり平小林桂樹などがいる。

昭和17年(1942年)、日本大学卒業。即、徴兵。大学出なので幹部候補生ということで少尉になるも、肺結核に罹り、即除隊。療養の傍ら、慰問に参加。

昭和20年(1945年)暮れにNHKの出演テストに合格、翌年よりNHK音楽番組に引っ張りだこ状態で出演。その頃、NHKで三浦環の最期の録音に偶然立ち会う。また、その頃葦原邦子との仕事がきっかけから中原淳一に目をかけられるようになり、中原プロデュースのもと売り出して行く事になる。演技の基礎は中原と交遊の深かった杉村春子から学んだという[1]

中原とは終生まで親密な付き合いがあり、晩年は高が館山の別宅で面倒を見ていた。中原の妻である葦原邦子やその子らとも親しい。ただし、中原の長男中原洲一は高に対して複雑な思いがあったことを自身の著書で記している。

昭和26年(1951年)、フランス・パリへ留学。ソルボンヌ大学に学ぶ。

昭和27年(1952年)、帰国。帰朝リサイタルでは、フランスから持ち帰った『愛の讃歌』『ロマンス』『詩人の魂』などを日本人では初めて披露する。また、このときの中原淳一の発案で、日本人のシャンソン歌手第一号となる。昭和28年(1953年)、キングレコードから『枯葉/ロマンス』でレコードデビュー。

またこの年、作曲家の中田喜直からの指名で『雪の降る町を』を吹き込む。その後も『詩人の魂』『セ・シ・ボン』『パダム・パダム』など、シャンソンを次々吹き込む一方、日本劇場等の舞台にも多く出演する。日劇では昭和56年の閉館まで、トップスター扱いでほぼ毎年出演し、活躍する。

昭和33年(1958年)、再びパリへ行き翌34年帰国。昭和36年(1961年)へ三度パリへ行き、大手プロダクションと8年間の長期契約を結んだ。そのため、1年のうちは10ヶ月はフランス、2ヶ月は日本で仕事というかたちを昭和44年(1969年)まで続け、日仏両国で精力的に活動する。パリではラジオのレギュラー番組も持ったほか、ジョゼフ・コスマダミアなどとも親交を結び、多くの大劇場に出演しトリを飾るなどしている。昭和44年末に、心臓の調子が思わしくなくフランスでの契約を更改せず帰国、日本での歌手活動に専念。

昭和47年(1973年)春に、日本での契約を終えてフリーになっていたこともあり、再びパリへ行き、フランスでの歌手活動を始めるも神経性狭心症で倒れ、無念の帰国。以後約1年半に渡り、千葉県館山で療養生活を送る。昭和48年末から歌の仕事を徐々に再開。心臓の持病の為、この時期から俳優の仕事は一切断り、歌手業に専念。

昭和49年(1974年)に再起リサイタルを自身の憧れであった帝国劇場で行い大盛況を収める。以後、帝劇では五年連続でリサイタルを行い、いずれも大盛況を収めている。

昭和52年(1977年)から昭和61年(1986年)まで日本歌手協会理事を務める。

昭和57年(1982年)、国立劇場でポピュラー歌手としては初のワンマンショウ開催。なお、国立劇場では昭和62年(1987年)にも大劇場でリサイタルを行っている。

昭和60年(1985年)、63年(1988年)と心筋梗塞で倒れ大手術を受けるも奇跡的に回復し復帰している。またこの頃から平成5年(1993年)頃まで、淡谷のり子とジョイントショーを度々開催。

平成元年(1989年)、紫綬褒章受章。

平成3年(1991年)、日本シャンソン協会設立時には淡谷のり子と共に名誉顧問就任。

平成4年(1992年)、フランス文化勲章シュバリエ章受章。

平成7年(1995年)、勲四等旭日小綬章受章。

平成8年(1996年)、歌手生活六十周年記念リサイタル開催。

生涯を通じ、結核、狭心症、心筋梗塞…の病魔に襲われ、晩年は老衰から歩行困難となるなど、健康状態は決して良好では無かったが、その影を全く感じさせない華やかなステージを繰り広げ、晩年も自身の老いを逆手に取るような飄々としたトークで聴衆を沸かせ続けた。その姿は「まさに歌が命を支えている」と永六輔から評されている。

平成15年(2003年)ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で出演作『ゴケミドロ』の上映に参加、クロージングセレモニーにて「雪の降る町を」を熱唱。

平成21年(2009年)5月4日午前9時40分、肺炎のため死去。90歳。生前最期のステージは2008年11月26日の「三越ポピュラー・ハイライト2008」。同年12月21日には東京ビルで開催されていたイベント『光と音のシンフォニー「ライティング・オブジェ 2008」』(自身の作による絵画を出品していた)に来場するなど元気な姿を見せていたが翌09年2月より体調を崩して千葉市内の病院に入院し、闘病生活を続けていた。

エピソード[編集]

  • 日本で初めてシャンソン歌手を名乗った人物であるため、日本のシャンソン歌手第1号と呼ばれている。中原淳一が「日本にはジャズ歌手というものがあるんだから、シャンソン歌手というものがあってもいいじゃないか」と作った造語だが、高の活躍によって認知・定着した。
  • 持ち歌はシャンソンに限らず、タンゴやポピュラー曲、オリジナルの流行歌と幅広く手掛け、日本の舶来音楽普及に尽力し続けた。またシャンソンでも文学的香りのするものからコミカルなものまでシャンソンの種類でも幅広く手掛けており、日本ではあまり歌いこなせる人が多くないシャンソン・ファンテジストと呼ばれるコミカルな楽曲も得意としていた。
  • 舞台化粧は中原淳一の発案で、男性版宝塚を想定した、濃淡の濃い化粧をしていたことでも知られる。化粧をした日本人初の男性歌手と言われているが本人は否定(浅草オペラ出身の田谷力三が先にいた)、「みんな多かれ少なかれやっていたよ」と語っている。
  • 実父の姉(伯母)が呉文聰に嫁いでおり、呉建呉文炳兄弟は従兄弟にあたる。
  • 芸名である高英男は旧姓(実家の姓)であるが、デビュー以来「日本人では無いのでは」という問い合わせが少なからずあったという。日本史に高師直(こうの・もろなお)という武将があるとおり「高」という苗字は決して日本で無い苗字ではない。ちなみに韓国には同姓同名の映画監督がかつていた(後に改名)。
  • 個性を買われ、俳優として石井輝男作品にギャング役などで多数出演。また宇宙人に憑依される凄腕殺人スナイパーを演じた「吸血鬼ゴケミドロ」は、海外でも公開された。なお、本人は現実離れしたこの手の役を喜んで演っている。
  • 公開当時、「吸血鬼ゴケミドロ」の併映作品は「黒蜥蜴」であり、美輪と高が楽屋であったときに「何、女演ってんだい」「な~に、そっちこそ、オバケ演っちゃって~」と言い合ったそうである。

主な出演映画[編集]

  • 「ギャング対ギャング」(昭和37年・東映 石井輝男) - 塚原 役
  • 「十一人のギャング」(昭和38年・東映 石井輝男) - 広岡 役
  • 「柳生武芸帳 片目水月の剣」(昭和38年・東映 長谷川安人) - 時田采女 役
  • 「大悪党作戦」(昭和41年・松竹 石井輝男) - 轟一郎 役
  • 吸血鬼ゴケミドロ」(昭和43年・松竹 佐藤肇) - 寺岡博文 役
  • 「やくざ刑罰史 私刑」(昭和44年・東映 石井輝男) - 田口 役
  • 江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」(昭和44年・東映 石井輝男) - 監守 役

テレビ番組[編集]

ほか多数

賞歴[編集]

  • 平成元年:紫綬褒章
  • 平成4年:フランス文化勲章シュバリエ章
  • 平成7年:勲四等旭日小綬章

代表曲/持ち歌[編集]

  • 雪の降る街を
  • 枯葉
  • ロマンス
  • 幸福を売る男
  • 落ち葉の巷(三人のスリの唄)
  • 一人のスリの唄
  • セ・シ・ボン
  • 男と女
  • パダム・パダム
  • 詩人の魂
  • 詩人が死んだ時

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

  • 第3回 (1953年1月2日、NHK東京放送会館第1スタジオ) 『ロマンス』
  • 第5回 (1954年12月31日、日比谷公会堂) 『ロマンス』
  • 第7回 (1956年12月31日、東京宝塚劇場) 『セ・シ・ボン』
  • 第8回 (1957年12月31日、東京宝塚劇場) 『ブン』
  • 第10回 (1959年12月31日、東京宝塚劇場) 『ギターとタンブリン』
  • 第11回 (1960年12月31日、日本劇場(日劇)) 『ロマンス』
  • 第12回 (1961年12月31日、東京宝塚劇場) 『カミニート』

脚注[編集]

  1. ^ 『別冊太陽 美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事』 平凡社、1999年、p176、138

 

関連項目[編集]