風魔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

風魔(かざま、ふうま)あるいは、風摩(かざま)、風間(かざま)は、相州乱波、乱波(らっぱ)とも呼ばれる、戦国時代相模国で活動した忍者集団で、遅くとも第3代当主・北条氏康の時代から主家滅亡までの間、後北条氏に仕えていた。天正年間頃に知られていた頭目の苗字が「風摩」ないしは「風魔」とされ、忍びだったらしいこの苗字の人間が数十年にわたる文献にあらわれることから、今日では風間家の者が代々頭目を継承したと解釈されている。主家の滅亡後は江戸近辺で盗賊として活動したが、密告により一網打尽にされたらしい。

また、現在の神奈川県小田原市付近の相模国足柄下郡風祭の近くに風間谷という地名があることから、忍者の解説書などではこのあたりを根城にしていたと書かれている。[1]

概要[編集]

槇島昭武の著した軍学書関八州古戦録』によれば、天文15年(1546年)あるいは天文12年(1543年)に関東管領上杉憲政川越城に攻めよせた時、北条氏康配下の小田原方の忍びである二曲輪猪助が斥候として柏原に差し向けられた。この二曲輪猪助が「風間小太郎が指南を得たる(風間小太郎から指導を受けた)」と書かれている。[2]これが江戸期の文献中における「風間小太郎」の唯一の言及なのだが、彼が相州乱破の頭目かどうかについては触れられていない。

同じく槇島昭武の『北越軍談』には、弘治3年(1557年)頃の出来事として、小田原の風間次郎太郎から幻術を学んだ鳶加藤なる幻術師が越後の長尾景虎のもとに現れたという話が載っている。[3]


北条家の遺臣である三浦浄心の著した『北条五代記』によれば、天正年間の風摩一党は、山賊、海賊、強盗、窃盗の四隊、合計二百人から成る大所帯に膨れ上がっていた。頭目の風摩(かざま)某なる人物は、身の丈七尺二寸(約2.2メートル)の巨漢で、大きく裂けた口から何本もの牙が突き出すという、鬼のような異相をしていたという。[4]この風摩某も今日、風魔小太郎を名乗ったと考えられているが、文献的根拠はない。

同じく三浦浄心の『慶長見聞集』によれば、後北条氏滅亡後、風魔一党の残党・係累が盗賊となって江戸近辺を荒らしまわり、対立していた盗賊の向崎甚内の密告によって根絶やしにされたという。時期については記述がないが、後述の『武江年表』では、天正18年(1590年)とされている。[5]なお、この『慶長見聞集』が、今日一般的に知られている「風魔」表記の初出となる。

この事件について、戸部新十郎の『忍者と盗賊』などの著作では、風魔小太郎が捕縛・処刑されたと書かれているが、『慶長見聞集』をはじめ、同時代の記録にはそうした記述が存在しない。[6]


武江年表』の天正18年(1590年)の記事に、天正年間に風魔(初出)という名の乱破が徒党を組んで、関東で強盗働きを行ったが、この年(天正18年)を境に姿を消したという記述があって、『北条五代記』が出典として挙げられている。ただし、『武江年表補正略』などを著して『武江年表』の改訂作業を行った江戸時代後期の考証家・喜多村信節は、この記述は誤りで、「乱破」は徒党の名称、「風魔」はその中の一人の名前だと追記している。[7]


なお、軍記物『北条記』によれば、小田原の由井源蔵(北条氏照)の配下である横江忠兵衛と大橋山城守が、北条方の軒猿(忍者の呼称のひとつ)として名前が挙がっているが、風魔一党との関連性は不明である。

関連項目[編集]

モチーフとした作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 川口素生 『スーパー忍者列伝』 PHP研究所1976年 
  2. ^ 槇島昭武 『関八州古戦録 改訂版』 新人物往来社1976年 
  3. ^ 井上鋭夫・編 『上杉史料集』 新人物往来社1969年 
  4. ^ 槇島昭武 『北条史料集』 人物往来社1966年 
  5. ^ 三浦浄心 『慶長見聞集』 新人物往来社1969年 
  6. ^ 戸部新十郎 『忍者と盗賊』 河出書房新社1986年 
  7. ^ 今井金吾 『定本 武江年表 上』 筑摩書房2003年10月