菖蒲城

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菖蒲城址(2011年6月)

菖蒲城(しょうぶじょう)は、武蔵国埼玉郡新堀村(現在の埼玉県久喜市菖蒲町新堀)にあった日本の城古河公方足利成氏が、康正2年(1456年)に金田式部則綱に命じて築城させた。城の竣工が5月5日菖蒲の節句にであったために命名された。天正18年(1590年小田原征伐ののち廃城となり、以降は徳川家康に仕えた内藤正成が栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700を知行し、上級旗本として14代、幕末まで同地を治めた。

歴史・沿革[編集]

享徳4年(1455年)6月、足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力。城主の金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ、近江国佐々木氏の末裔されるが詳細は不明。初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称した。金田氏の墓所は曹洞宗久林山永昌寺にある。

考古資料[編集]

旗本内藤家栢間陣屋裏門(2011年6月)

遺構[編集]

菖蒲園の入り口には旗本内藤家栢間陣屋裏門が1998年に移築されている。明治政府により陣屋は破却されたが、裏門は領内の名主だった三須家に引き取られていた。

現在は遺構は残っていないが、1996年にバス停建設による埼玉県道12号川越栗橋線の拡幅工事前の発掘調査が実施され、平安時代竪穴住居跡や中世土塁状の遺構が出土。

遺物[編集]

上記発掘調査により、14世紀常滑産板碑延文6年・1361年銘を含む)、16世紀石臼や石、鉄砲の弾丸、大量の土器、陶磁器永楽通宝などの古銭が出土した。

ギャラリー[編集]

観光[編集]

アクセス[編集]

周辺[編集]

  • 城址には菖蒲園があり、35,000株の菖蒲が植えられている。

文献[編集]

  • 埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書 第232集 南埼玉郡 菖蒲町 『菖蒲城』 主要地方道川越栗橋線関係埋蔵文化財発掘調査報告 1999年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯36度3分42.2秒 東経139度35分39.5秒