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「金大中事件」の版間の差分

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== 事件の背景 ==
金大中は[[1971年]]の大統領選挙で[[民主党 (韓国)|民主党]](当時)の正式候補として立候補したが、民主共和党(当時)の候補・[[朴正煕]](パク・チョンヒ)現役大統領(当時)にわずか97万票差で敗れた。朴正煕は辛くも勝利したが、[[民主主義]]回復を求める金大中に危機感を覚えた。そんなさなかの大統領選直後、大型トラックが金大中の車に突っ込み、3人が死亡。金大中は、[[腰]]と股関節の障害を負った。(後に韓国政府はKCIAが行った交通事故を装った[[暗殺]]工作であったことを認めている。その際、日本の[[暴力団]]への依頼を検討していた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20071013it13.htm 金大中氏の拉致、日本暴力団に依頼検討…韓国究明委に証言]</ref>)年、朴は非常事態宣言を発布し憲法を無視して国家を戒厳令下においた。そのとき海外にいた金大中は韓国に帰れば殺されると判断し帰国を断念。日本や([[アメリカ合衆国|アメリカ十月維新]]の実力者と会見をしたり、海外在住の同胞達に講演したりして、韓国の民主主義と[[自由選挙]]を求める運動を行った。)
。そのとき海外にいた金大中は韓国に帰れば殺されると判断し帰国を断念。日本や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の実力者と会見をしたり、海外在住の同胞達に講演したりして、韓国の民主主義と[[自由選挙]]を求める運動を行った。
 
丁度その頃、朴正煕の側近であった[[李厚洛]](イ・フラク)中央情報部長が[[平壌]]を訪問し、平壌の[[金英柱]]組織指導部長と会談し、逆に金英柱部長の代理として[[朴成哲]]第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し[[祖国統一]]促進のための原則で合意した。
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