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[[茨城県]]水海道町(現・[[常総市]])に代々医師の家に<ref>『君たちの天分を生かそう』P.146</ref>生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は[[千姫]]の侍医と伝わり、祖父は[[江戸]]で修行した[[蘭学]]医だった<ref>『幸運な医者』p.5</ref>。父は[[京都]]で[[小児科医]]を開業していた<ref>『君たちの天分を生かそう』p.147</ref>。
[[茨城県]]水海道町(現・[[常総市]])に代々医師の家に<ref>『君たちの天分を生かそう』P.146</ref>生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は[[千姫]]の侍医と伝わり、祖父は[[江戸]]で修行した[[蘭学]]医だった<ref>『幸運な医者』p.5</ref>。父は[[京都]]で[[小児科医]]を開業していた<ref>『君たちの天分を生かそう』p.147</ref>。


[[京都市立明倫小学校]]<ref>『幸運な医者』p.90</ref>、[[京都府立洛北高等学校・附属中学校|京都一中]]<ref>『幸運な医者』p.91</ref>、[[第三高等学校 (旧制)|旧制第三高等学校]]、[[京都大学大学院医学研究科・医学部|京都帝国大学医学部]]卒業<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447058/228 京都帝国大学一覧 昭和7年]|page=439|year=1933|publisher=京都帝国大学}}</ref>。大学時代は「社会科学研究会」に所属して[[マルクス主義]]の研究・運動を行うが<ref>『幸運な医者』P.49</ref>、[[共産党]]に入党する決心はできなかった<ref>『私の読んだ本』P.90</ref>。1929年には[[太田典礼|太田武夫]]が京都の[[被差別部落]]でひらいていた診療所に手伝いに行っていた<ref>[[南博]]・社会心理研究所著『昭和文化 1925-1945』[[勁草書房]]、1987年、pp.132-133</ref>。
[[京都市立明倫小学校]]<ref>『幸運な医者』p.90</ref>、[[京都府立洛北高等学校・附属中学校|京都一中]]<ref>『幸運な医者』p.91</ref>、[[第三高等学校 (旧制)|旧制第三高等学校]]、[[京都大学大学院医学研究科・医学部|京都帝国大学医学部]]卒業<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447058/228 京都帝国大学一覧 昭和7年]|page=439|year=1933|publisher=京都帝国大学}}</ref>。大学時代は「社会科学研究会」に所属して[[マルクス主義]]の研究・運動を行うが<ref>『幸運な医者』P.49</ref>、[[共産党]]に入党する決心はできなかった<ref>『私の読んだ本』P.90</ref>。1929年には[[太田典礼|太田武夫]]が京都の[[被差別部落]]でひらいていた診療所に手伝いに行っていた<ref>[[南博 (社会心理学者)|南博]]・社会心理研究所著『昭和文化 1925-1945』[[勁草書房]]、1987年、pp.132-133</ref>。


[[1932年]]に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた[[平井毓太郎]]らの影響で小児[[結核]]を研究対象とする。1937年から[[中京区]]西ノ京の健康相談所、1942年から[[京都府]]衛生課結核予防係、のち[[和歌山県]]衛生課長<ref>『私の読んだ本』P.111</ref>。その間、1940年に初の著書『結核』を刊行。[[1943年]]に「小児の慢性肺結核の発生に関する研究」により[[博士(医学)|医学博士]]の[[学位]]を授与される<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124334/248 日本医学博士録 明治21年5月-昭和18年8月末]|page=486|editor=東西医学社編輯部|publisher=[[東西医学社]]|year=1944}}</ref><ref>{{Cite Web|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/500000314310|title=書誌事項(CiNii Dissertations)|publisher=国立情報学研究所|accessdate=2018-04-21}}</ref>。
[[1932年]]に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた[[平井毓太郎]]らの影響で小児[[結核]]を研究対象とする。1937年から[[中京区]]西ノ京の健康相談所、1942年から[[京都府]]衛生課結核予防係、のち[[和歌山県]]衛生課長<ref>『私の読んだ本』P.111</ref>。その間、1940年に初の著書『結核』を刊行。[[1943年]]に「小児の慢性肺結核の発生に関する研究」により[[博士(医学)|医学博士]]の[[学位]]を授与される<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124334/248 日本医学博士録 明治21年5月-昭和18年8月末]|page=486|editor=東西医学社編輯部|publisher=[[東西医学社]]|year=1944}}</ref><ref>{{Cite Web|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/500000314310|title=書誌事項(CiNii Dissertations)|publisher=国立情報学研究所|accessdate=2018-04-21}}</ref>。
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[[太平洋戦争]]中、召集されて[[軍医]]となり[[ビルマ]]に派遣を命じられるが、父の友人の京都市衛生局長の助言により<ref>『私の読んだ本』P.152</ref>、内地の陸軍の結核病院に転属となる<ref>『幸運な医者』p.15</ref>。戦後、県に辞表を提出し、[[大阪府]]の民間病院[[小児科学|小児科]]に勤務、その後[[京都]]に診療所を開く。
[[太平洋戦争]]中、召集されて[[軍医]]となり[[ビルマ]]に派遣を命じられるが、父の友人の京都市衛生局長の助言により<ref>『私の読んだ本』P.152</ref>、内地の陸軍の結核病院に転属となる<ref>『幸運な医者』p.15</ref>。戦後、県に辞表を提出し、[[大阪府]]の民間病院[[小児科学|小児科]]に勤務、その後[[京都]]に診療所を開く。


小児科の医師として診療する傍ら、[[久野収]]の勧めもあって[[1949年]]に[[平和問題談話会]]に参加<ref>メンバーは[[安倍能成]]、[[有沢広巳]]、[[大内兵衛]]、[[川島武宜]]、[[久野収]]、[[武田清子]]、[[田中耕太郎]]、[[都留重人]]、[[鶴見和子]]、[[中野好夫]]、[[羽仁五郎]]、[[丸山眞男]]、[[宮原誠一]]、[[蠟山政道]]、[[和辻哲郎]]、[[鵜飼信成]]、[[桑原武夫]]、[[南博]]、[[宮城音弥]]、[[杉捷夫]]、[[清水幾太郎]]、[[辻清明]]、[[奈良本辰也]]、[[野田又夫]]、松田道雄、[[矢内原忠雄]]、[[南原繁]]。</ref>、[[末川博]]、[[恒藤恭]]、[[田中美知太郎]]、[[桑原武夫]]らの知遇を得る。[[1960年]]に[[京都大学人文科学研究所]]の共同研究「革命の比較研究」などに参加する。[[1978年]]には[[武谷三男]]、[[野間宏]]、[[水上勉]]らとともに安楽死法制化を阻止する会声明発起人となった。
小児科の医師として診療する傍ら、[[久野収]]の勧めもあって[[1949年]]に[[平和問題談話会]]に参加<ref>メンバーは[[安倍能成]]、[[有沢広巳]]、[[大内兵衛]]、[[川島武宜]]、[[久野収]]、[[武田清子]]、[[田中耕太郎]]、[[都留重人]]、[[鶴見和子]]、[[中野好夫]]、[[羽仁五郎]]、[[丸山眞男]]、[[宮原誠一]]、[[蠟山政道]]、[[和辻哲郎]]、[[鵜飼信成]]、[[桑原武夫]]、[[南博 (社会心理学者)|南博]]、[[宮城音弥]]、[[杉捷夫]]、[[清水幾太郎]]、[[辻清明]]、[[奈良本辰也]]、[[野田又夫]]、松田道雄、[[矢内原忠雄]]、[[南原繁]]。</ref>、[[末川博]]、[[恒藤恭]]、[[田中美知太郎]]、[[桑原武夫]]らの知遇を得る。[[1960年]]に[[京都大学人文科学研究所]]の共同研究「革命の比較研究」などに参加する。[[1978年]]には[[武谷三男]]、[[野間宏]]、[[水上勉]]らとともに安楽死法制化を阻止する会声明発起人となった。


[[1967年]]に小児科の診療を辞め、執筆・評論活動に専念。1967年に出版した代表作でベストセラーの『育児の百科』([[岩波書店]])をはじめ、数多くの著作があり、主な著作はシリーズ『松田道雄の本』([[筑摩書房]]・全16巻)に収められた。また、ロシア語史料に基づく[[ロシア革命|ロシア革命史]]研究の開拓者としても知られ、その分野の著書も多数ある。
[[1967年]]に小児科の診療を辞め、執筆・評論活動に専念。1967年に出版した代表作でベストセラーの『育児の百科』([[岩波書店]])をはじめ、数多くの著作があり、主な著作はシリーズ『松田道雄の本』([[筑摩書房]]・全16巻)に収められた。また、ロシア語史料に基づく[[ロシア革命|ロシア革命史]]研究の開拓者としても知られ、その分野の著書も多数ある。

2023年10月22日 (日) 22:30時点における版

松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は、日本の医師育児評論家歴史家著述家マジック研究家の松田道弘は息子。

来歴・人物

茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に[1]生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった[2]。父は京都小児科医を開業していた[3]

京都市立明倫小学校[4]京都一中[5]旧制第三高等学校京都帝国大学医学部卒業[6]。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが[7]共産党に入党する決心はできなかった[8]。1929年には太田武夫が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた[9]

1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。1937年から中京区西ノ京の健康相談所、1942年から京都府衛生課結核予防係、のち和歌山県衛生課長[10]。その間、1940年に初の著書『結核』を刊行。1943年に「小児の慢性肺結核の発生に関する研究」により医学博士学位を授与される[11][12]

太平洋戦争中、召集されて軍医となりビルマに派遣を命じられるが、父の友人の京都市衛生局長の助言により[13]、内地の陸軍の結核病院に転属となる[14]。戦後、県に辞表を提出し、大阪府の民間病院小児科に勤務、その後京都に診療所を開く。

小児科の医師として診療する傍ら、久野収の勧めもあって1949年平和問題談話会に参加[15]末川博恒藤恭田中美知太郎桑原武夫らの知遇を得る。1960年京都大学人文科学研究所の共同研究「革命の比較研究」などに参加する。1978年には武谷三男野間宏水上勉らとともに安楽死法制化を阻止する会声明発起人となった。

1967年に小児科の診療を辞め、執筆・評論活動に専念。1967年に出版した代表作でベストセラーの『育児の百科』(岩波書店)をはじめ、数多くの著作があり、主な著作はシリーズ『松田道雄の本』(筑摩書房・全16巻)に収められた。また、ロシア語史料に基づくロシア革命史研究の開拓者としても知られ、その分野の著書も多数ある。

1949年に『赤ん坊の科学』で毎日出版文化賞1963年に『君たちの天分を生かそう』で児童福祉文化賞をそれぞれ受賞[16]

死後、個人蔵書は「松田道雄文庫」として熊本学園大学に収められた。

主な著書

  • 『結核』 弘文堂 1940
  • 『人間と医学』 中央公論社 1947
  • 『からだとこころ おばけ退治』 大雅堂 1948(新少年文庫)
  • 『医学の誤謬』 白東書館 1948
  • 『結核とのたたかいの記録』 白東書館 1948
  • 『赤ん坊の科学』 創元社 1949
  • 『新しい育児百科』 羽仁説子共編 日本評論社 1950
  • 『結核をなくすために』 岩波新書 1950
  • 『あられ療法』 創元社 1953
  • 『療養の設計』 岩波新書 1955
  • 『宛名のない見舞状 療養者のために』 六月社 1956
  • 『常識の生態』 河出新書 1956
  • 『育児日記』 文藝春秋新社 1957
  • 『現代史の診断』 拓文館 1957
  • 『はじめての子供』 中央公論社 1958
  • 『社会主義リアリズム』 三一書房 1958
  • 『私は赤ちゃん』 岩波新書 1960
  • 私は二歳』 岩波新書 1961
  • 『君たちの天分を生かそう』 筑摩書房 1962
  • 『京の町かどから』 朝日新聞社 1962
  • 『小児科医の眼』 文藝春秋新社 1963(ポケット文春)
  • 『こんなときお母さんはどうしたらよいか 暮しの手帖の本』 暮しの手帖社 1964
  • 『巨視的しつけ法』 筑摩書房 1964(グリーンベルト・シリーズ)
  • 『日本式育児法』 講談社現代新書 1964
  • 『母親のための人生論』 岩波新書 1964
  • 『私の幼児教育論』 岩波新書 1965
  • 『日本知識人の思想』 筑摩叢書 1965
  • 『おやじ対こども』 岩波新書 1966
  • 『往診・宅診・休診 幼児をもつ母親のために』 立風新書 1966 改題「愛児の診断書」
  • 『育児の百科』 岩波書店 1967 のち文庫 のちレーザーディスク、のちビデオ付書籍
  • 『あなたの家庭はそれでよいか』 日本放送出版協会 1968
  • 『恋愛なんかやめておけ』 筑摩書房 1970(ちくま少年図書館)のち朝日文庫
  • 『世界の歴史 22 ロシアの革命』 河出書房新社 1974 のち文庫
  • 『革命と市民的自由』 筑摩書房 1970
  • 『私の読んだ本』 岩波新書 1971
  • 『われらいかに死すべきか』 暮しの手帖社 1971 のち平凡社ライブラリー
  • 『きみはなにがこわい? おばけとたましいの話』 少年少女講談社文庫 1972
  • 『現代への視角』 五木寛之久野収共著 三一新書 1972
  • 『わたしの保育指針』 新評論 1972
  • 『市民として 家庭時評』 毎日新聞社 1972
  • 『洛中洛外』中央公論社 1972
  • 『お母さんは心配しすぎる 2-3歳児』 中央公論社 1972
  • 『人生ってなんだろう 正続』 筑摩書房 1973-74
  • 『自由を子どもに』 岩波新書 1973
  • 『わたしの育児教室』 文藝春秋 1973
  • 『人間の威厳について』 筑摩書房 1975
  • 『花洛 -京都追憶-』 岩波新書 1975 「明治大正京都追憶」と改題、岩波同時代ライブラリー
  • 『一年生の人生相談』 筑摩書房 1976
  • 『在野の思想家たち 日本近代思想の一考察』 岩波書店 1977
  • 『私の教育論』 筑摩書房 1977
  • 『松田道雄の本』1-16 筑摩書房 1979-81
  • 『女と自由と愛』 岩波新書 1979
  • 『本の虫 「ハーフ・タイム」53・1-55・12』 筑摩書房 1983
  • 『安楽死』 岩波ブックレット 1983
  • 『日常を愛する 「ハーフ・タイム」56・1-58・9』筑摩書房 1983.11 平凡社ライブラリー
  • 『わが生活わが思想』 岩波書店 1988
  • 『町医者の戦後』 岩波ブックレット 1988
  • 『私は女性にしか期待しない』 岩波新書 1990
  • 『安楽に死にたい』 岩波書店 1997
  • 『幸運な医者』 岩波書店 1998

翻訳

脚注

  1. ^ 『君たちの天分を生かそう』P.146
  2. ^ 『幸運な医者』p.5
  3. ^ 『君たちの天分を生かそう』p.147
  4. ^ 『幸運な医者』p.90
  5. ^ 『幸運な医者』p.91
  6. ^ 京都帝国大学一覧 昭和7年』京都帝国大学、1933年、439頁。 
  7. ^ 『幸運な医者』P.49
  8. ^ 『私の読んだ本』P.90
  9. ^ 南博・社会心理研究所著『昭和文化 1925-1945』勁草書房、1987年、pp.132-133
  10. ^ 『私の読んだ本』P.111
  11. ^ 東西医学社編輯部 編『日本医学博士録 明治21年5月-昭和18年8月末東西医学社、1944年、486頁。 
  12. ^ 書誌事項(CiNii Dissertations)”. 国立情報学研究所. 2018年4月21日閲覧。
  13. ^ 『私の読んだ本』P.152
  14. ^ 『幸運な医者』p.15
  15. ^ メンバーは安倍能成有沢広巳大内兵衛川島武宜久野収武田清子田中耕太郎都留重人鶴見和子中野好夫羽仁五郎丸山眞男宮原誠一蠟山政道和辻哲郎鵜飼信成桑原武夫南博宮城音弥杉捷夫清水幾太郎辻清明奈良本辰也野田又夫、松田道雄、矢内原忠雄南原繁
  16. ^ 松田 道雄とは - コトバンク(2021年7月25日閲覧)

外部リンク