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'''宮城 与徳'''([[正字]]:'''宮城 與徳'''、みやぎ よとく、[[1903年]][[2月10日]] - [[1943年]][[8月2日]])は、[[日本]]の[[洋画家]]、[[左翼]]運動家、[[社会運動]]家。「南龍一」と名乗り、[[ゾルゲ諜報団]]に参加した。[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[スパイ]]として[[ゾルゲ事件]]に関与して[[逮捕]]され、[[拘留]]先で病死した。
{{出典の明記|date=2014年2月13日 (木) 02:21 (UTC)|ソートキー=沖縄人1943年没みやき よとく}}
'''宮城 与徳'''(みやぎ よとく、[[1903年]][[2月10日]] - [[1943年]][[8月2日]])は、[[日本]]の[[洋画家]]、[[左翼]]運動家、[[社会運動]]家。「南龍一」と名乗り、[[ゾルゲ諜報団]]に参加した。[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[スパイ]]として[[ゾルゲ事件]]に関与して[[逮捕]]され、[[拘留]]先で病死した。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生誕からアメリカ時代まで ===
[[沖縄県]][[名護市]]生まれ。[[沖縄師範学校]]中退後、1915年に渡米する。[[カリフォルニア州]]立美術学校、[[サンディエゴ]]市立美術学校卒業。在学中に[[社会主義]]運動に傾注し、1925年、[[社会問題]]研究会を[[屋部憲伝]]らと結成。1931年、[[アメリカ共産党]]に入党する。1932年合同国家政治保安部(OGPU)の[[ナウム・エイチンゴン|エイチンゴン]]の徴募に応じ、情報活動の訓練を受けた。
[[沖縄県]][[国頭郡]][[名護町]][[東江]](現・[[名護市]])に生まれる<ref name="nomotop29">野本、pp.29 - 30</ref>。父の与正は1904年には[[フィリピン]]で道路工事に従事し<ref>野本、p.46</ref>、1905年には[[ハワイ]]、さらに[[1906年]]には渡米して[[カリフォルニア州]]に移住した<ref name="nomotop29"/>。このため、母方の祖父母に預けられて育つ<ref name="nomotop29"/>。小学校時代、担任教師の影響で絵に興味を持つ<ref name="nomotop34">野本、pp.34 - 35</ref>。[[高等小学校]]1年生の時に、描いた絵が東京の展覧会に入選した<ref>野本、p.88。同級生1人も同時に入選している。</ref>。上級学校に進学する意向があり、宮城自身は美術工芸の専門講義のあった沖縄県立工業徒弟学校(現・[[沖縄県立沖縄工業高等学校]])を希望していたが、学業成績がよかったことから学費不要で「出世コース」とされた[[沖縄師範学校|沖縄県師範学校]]を周囲に勧められ、1917年に予科に入学<ref>野本、p.54、pp.88 - 89。野本は「首里工業学校」と記しているが当時の校名だと沖縄県立工業徒弟学校になる。</ref>。しかし、[[結核]]に罹患したことから本科に進んだ1918年に中途退学した<ref>野本、p.36</ref>。


1919年6月、父に呼び寄せられる形で渡米、カリフォルニア州の[[インペリアル郡|インペリアルバレー]]に住む父と兄の元に移る<ref>野本、p.54、90。3歳年上の兄・与整は1916年に先に渡米していた。</ref>。カリフォルニアではブローリー公立学校の外国人部に入学する一方、父は息子2人の移住を見届けてから沖縄に帰国している<ref>野本、pp.54 - 55</ref>。1920年頃、絵の勉強のため[[サンフランシスコ]]に出るが、2か月ほどで[[ロサンゼルス]]に移る<ref>野本、p.59、91</ref>。1921年秋、サンフランシスコのカリフォルニア州立美術学校に入学したが、その後[[サンディエゴ]]の美術学校に、現地に在住する叔父の援助を得て移る<ref>野本、pp.92 - 93、114。宮城自身はゾルゲ事件時の供述調書で「官立サンディエゴ美術学校」と記しているが、野本一平の調査では当時サンディエゴにあった美術学校は私立のサンディエゴ・アカデミーオブファインアート(1937年閉校)だけしかないという。</ref>。
[[アグネス・スメドレー]]の工作により、1933年[[コミンテルン]]の指示で(アメリカ共産党員[[木元伝一]]に指示されて)帰国、10月24日に[[横浜市|横浜]]に到着し、同年末フランクフルター・ツァイトゥング特派員「ジョンソン」こと[[リヒャルト・ゾルゲ]]と[[ブランコ・ド・ヴーケリッチ]]に[[上野]][[美術館]]で接触する。


これと前後して、1921年にはロサンゼルス在住の沖縄出身青年による「黎明会」というグループの結成に[[屋部憲伝]]らと参加<ref>野本、p.59</ref>。黎明会は社会的な問題にも関心を示し、保守的な沖縄出身者からは「左翼」「危険分子」とみる向きもあったという<ref>野本、p.71、73</ref>。
当初は、「ジョンソン」の任務を[[共産主義]]の宣伝活動であると聞かされていたため、諜報活動に従事することを拒否していたが、ゾルゲの説得に負け、翌1934年1月末にスパイ活動を行うことを決意する。その後、近衛内閣嘱託の[[尾崎秀実]]らと国際的な諜報活動をはじめる。当初は情報の日本文を英文に翻訳することだけに使われていたが、後に情報収集を行うようになった。[[1936年]]3月、共産主義者の[[三田村四郎]]の内縁の妻であった[[九津見房子]]と知り合い、情を通じたうえ情報収集の補助者とした。また、元日本共産党員の[[山名正実]]、[[田口右源太]]および共産主義者で医師の[[安田徳太郎]]を情報収集員とした。さらに、アメリカで知り合った[[秋山幸治]]を英訳の補助者として[[1934年]]6月ごろから[[報酬]]を与えた。宮城のアメリカでの情婦であった[[北林トモ]]は、1936年12月、夫を騙して宮城の後を追って帰国し、[[渋谷]]の[[洋裁]]店に勤めながら、宮城の情報収集員となった。これらの6人はいずれも[[リヒャルト・ゾルゲ|ゾルゲ]]の承認を受けていなかった<ref>竹内春夫『ゾルゲ謀略団』</ref>。


1925年7月、サンディエゴのホテル経営者の妻で[[宮城県]]出身の八巻千代と出奔し、再びロサンゼルスに移る<ref>野本、pp.109 - 110</ref>。これはホテルに長期滞在している間に親交を深め、「駆け落ち」したものであった<ref>野本、pp.112 - 114</ref>。二人の結婚生活は6年続いたが、千代は1931年に宮城の元を去り別居する形で離婚する(正式に結婚したことはなかった)<ref>野本、p.133</ref>。残された宮城は、北林芳三郎・トモ夫妻の家に下宿した<ref>野本、p.134</ref>。北林トモは宮城より17歳年上で、年若い宮城の面倒を見る形であった<ref>野本一平は「19歳年上」と記している(野本、p.134)が、北林は1886年生まれ(加藤2014、p.140)のため、実際には17歳差である。</ref>。[[松本清張]]や[[尾崎秀樹]]は二人が男女関係にあったと記しているが、[[加藤哲郎 (学者)|加藤哲郎]]は「事実ではない」と否定し<ref>加藤、p.152</ref>、元妻の千代も戦後のインタビューで「(宮城が「ツバメ」のような)そんな関係では絶対なかった」と証言している<ref>野本、p.136</reF>。
1941年に[[検挙]]され、1943年に[[巣鴨拘置所]]において[[結核]]のため獄死。


この間、黎明会周辺の仲間とILD(国際労働者救援会)など複数の会合に関わる。[[1929年]]4月、訪米中の[[伊波普猷]]がロサンゼルスを訪れた際には、仲間とともに案内した<ref>野本、p.128</ref>。また、1931年に[[竹久夢二]]がアメリカに滞在した際には一時期起居をともにしていた。画業では1928年に初めてロサンゼルスで個展を開き<ref name="ogata">下記外部リンク先(沖縄大学緒方ゼミ)を参照。</ref>、1930年には日本人画家24人の出展した展示会を取り上げた美術雑誌の記事に言及された(詳細は後述)。
== 評価 ==
軍人の肖像画を描かせたら秀逸との評価があるが、生前は国内ではほとんど無名に近い画家であった。


1931年、[[アメリカ共産党]]に入党する。ゾルゲ事件時の供述調書によると、前年に訪ねてきた「モスクワ帰りの矢野某」の勧誘によるものとしている。この「矢野某(矢野努)」は、豊田令助(または将月令助)のことで<ref>加藤2014、p.160</ref>、豊田は1932年にアメリカ共産党日本人部の全国書記に任命されている<ref>加藤2014、p.166</ref>。宮城はアメリカ共産党では目立った活動をしなかった。加藤哲郎によると、当時のアメリカ共産党には労働運動の指導や反戦・反ファシズム活動をおこなう「オモテの顔」と、[[ソビエト連邦]]や[[コミンテルン]]からの要請を受けて地下の国際活動に人員を提供する「ウラの顔」があった<ref>加藤2014、p.140、pp.154 - 155</ref>。宮城は「オモテ」の活動にはほとんど関与せず、「ウラ」の要員として引き入れられたと加藤は述べている<ref>加藤2014、p.160、166</ref>。
[[ソ連]]のために働いた功績からソ連政府より勲章と表彰状を受けたとされていたが、近年その存在が確認された。それを受けて、[[ロシア]]政府は与徳の親族らに勲章と賞状を授与した<ref>[http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-01-13_1586 与徳の勲章ロシアで発見、初確認、親族に授与へ(沖縄タイムズ[[2010年]](平成22年)1月13日配信)]</ref>。遺族や関係者は、平和活動と評価されあわせて名誉が回復したなどと述べている。


宮城の周辺では、1932年1月15日に労働運動を指導したアメリカ共産党に対する大量検挙(ロングビーチ事件)が起き、100人以上の逮捕者の中には宮城と親交のあった沖縄出身者5名(又吉淳・宮城与三郎(宮城の従兄)、照屋忠盛、山城次郎、島〔袋〕正栄
== 親族 ==
)が含まれていた<ref name="jiten">『沖縄を知る辞典』日外アソシエーツ、2000年(執筆は加藤哲郎[http://homepage3.nifty.com/katote/longbeech.html])</ref><ref>「島〔袋〕正栄」は、『沖縄を知る辞典』や野本一平の評伝、加藤哲郎の「宮城与徳訪日の周辺」では「島正栄」、『ゾルゲ事件 覆された神話』では「島袋正栄」である</ref>。彼らを含む日本人9名は「強制退去」ではない自主的な出国([[亡命]])としてソ連への移住を勝ち取るが<ref>野平、p.177</ref>、ソ連国内で[[大粛清]]の犠牲となったことが、ソ連崩壊後に確認されている<ref name="jiten"/><ref>加藤2014、p.159</ref>。
従兄の[[宮城与三郎]]は、[[1932年]]に[[アメリカ]]でアメリカ共産党党員として活動していたことから逮捕追放され、ソ連に渡った。しかし、多くの在ソ[[日本人]]共産主義者同様[[大粛清]]に巻き込まれ、[[1938年]]日本のスパイの疑いで銃殺されている。

=== 日本への帰国と死去 ===
宮城の供述調書では、「矢野」こと豊田と「白人のコミンテルンの男」から1932年末に日本渡航とロサンゼルス居住のアメリカ共産党員「ロイ」と連絡を取ることを指示され、1933年に接触した「ロイ」の指令を受けて日本に渡ったとされた。この間の経緯の実態は未詳な点が多いが、「ロイ」についてはハワイ出身のアメリカ共産党員だった[[木元伝一]]であることが、[[渡部富哉]]や加藤哲郎の研究により確認されている<ref>加藤2014、p,170 - 171</ref><ref>「ロイ」について、以前は[[野坂参三]]説などがとなえられたり、宮城の日本派遣に関与した人物としてアメリカ共産党員のジョー小出こと鵜飼宣道の名があげられて「スパイ」疑惑が指摘されたりしたが、加藤哲郎は資料の解読からそれらの説を否定・批判している(加藤2011、p11)</ref>。[[ベノナ]]では「矢野」が「ソ連の情報機関を支援するためのエージェント」として宮城を徴募したとなっている<ref>加藤2014、p.167</ref>。元ソ連[[内務人民委員部]](NKVD)幹部である[[パヴェル・スドプラトフ]]の回想には[[ナウム・エイチンゴン|エイチンゴン]]が徴募した工作員の一人が宮城だとする記述がある<ref>加藤2014、p.168。この内容はスドプラトフの著書『KGB衝撃の秘密工作』(ほるぷ出版、1994)からの引用。</ref>。また、渡部富哉はロシアの歴史家・ユーリー・ゲオルギーエフからの情報として、宮城の日本渡航を指示したのは、日本への駐在経験のあるカール・ヤンソンであるとしている<Ref name="watabe">渡部富哉「ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの」ちきゅう座スタディルーム[http://chikyuza.net/xoops/modules/news2/article.php?storyid=117]</ref>。宮城の日本派遣を指示したのがコミンテルンなのか、[[リヒャルト・ゾルゲ]]の所属していた[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|労働赤軍本部第4局]](GRU)なのか、あるいは内務人民委員部なのかは判然としないが、いずれにせよ当時のアメリカ共産党はモスクワから複数のルートで対アジア工作をおこなう上での拠点であった<ref>加藤2014、pp.171 - 173</ref>。宮城自身は後に警察に提出した「手記」で「(帰国時点で)諜報活動に関する訓練がな」かったと述べている<ref name="misuzu3p317">『現代史資料3 ゾルゲ事件(三)』みすず書房、1962年、p.317</ref>が、渡部富哉や加藤哲郎は宮城が日本に出発するまでの間に諜報活動のための訓練をアメリカ国内で受けていたのではないかと推察している<Ref name="watabe"/><ref>加藤2014、p.175</ref>。また加藤哲郎は、入党から日本渡航までの実態を知るには「モスクワにあると思われる宮城与徳の党個人資料・PPTUS([[太平洋労働組合書記局|汎太平洋労働組合書記局]])資料により再検討しなければならない」と記している<ref>加藤2014、p.142</ref>。宮城の供述調書では、「長くても3ヶ月」で帰米するように命じられていた。

宮城は1933年10月24日に[[ぶゑのすあいれす丸]]で日本に到着した<ref name="nomotop207">野本、pp.207 - 208</ref>。1933年の秋か冬に「浮世絵買いたし」という新聞広告のサインにより、[[ブランコ・ド・ヴーケリッチ]]と[[神田 (千代田区)|神田]]で接触し、ゾルゲとの面会方法を伝えられる<ref name="katasima">片島紀男『ゾルゲ事件 ヴケリッチの妻・淑子』同時代社、2006年、p.72。この内容はヴーケリッチの供述調書に基づく。</ref><ref>接触時期については、宮城の供述調書では「11月頃」(『現代史資料24 ゾルゲ事件(四)』みすず書房、1971年、pp.374 - 375)、ヴーケリッチの調書では「12月頃」(片島、p.71)と食い違いがある。</ref>。それに従い、[[上野]]の[[東京都美術館|東京府美術館]]でゾルゲと接触し<ref name="katasima"/>、しばらくして諜報活動に入った。警察に提出した「手記」によると、1934年1月頃、ゾルゲから「アメリカに帰らず、日本の自分のもとで仕事をしてほしい」という要請を受け<ref>『現代史資料3 ゾルゲ事件(三)』みすず書房、1962年、pp.308 - 309</ref>、時間をおいてから、日ソ間の戦争回避というゾルゲの語る目的に共感して「国法に触れることは勿論、戦時においては死刑に処せられる」ことを知った上で(諜報団に)参加したと述べている<ref name="misuzu3p317"/>。1934年5月には、ゾルゲから[[尾崎秀実]](当時[[大阪朝日新聞]]在職)と接触を取ることを命じられ、その仲介により、ゾルゲは翌月に[[奈良市]]で尾崎と再会している。

諜報団に加わった当初、宮城は情報の日本文を英文に翻訳することだけに使われていたが、後に情報収集を行うようになった。[[1936年]]3月、[[九津見房子]]と知り合い、情報収集の補助者とした。また、元日本共産党員の[[山名正実]]、[[田口右源太]]および医師の[[安田徳太郎]]を情報収集の協力者とした。さらに、アメリカで知り合った[[秋山幸治]]を英訳の補助者として[[1934年]]6月ごろから[[報酬]]を与えた。1936年に単身で帰国した北林トモは、[[渋谷]]の[[洋裁]]店に勤めながら、宮城の情報収集協力者となった。これらの6人はいずれもゾルゲの承認を受けていなかった<ref>竹内春夫『ゾルゲ謀略団 - 日本を敗戦に追い込んだソ連謀略団の全貌』日本教育新聞社、1991年</ref>。このほか、鈴木邦子という元[[津田塾大学|津田英学塾]]生を秋山とともに、資料翻訳の補助者としていた<Ref>加藤2014、pp.151 - 152。鈴木邦子は事件検挙当時[[警視庁]]外事課通訳をしており、そのために裁判記録からほぼ抹消された。また加藤哲郎は、鈴木邦子が警察に対する情報提供者となっていた可能性を指摘している。</ref>。安田徳太郎は、結核が完全には癒えていなかった宮城を診療する立場でもあった<ref>野本、pp.237 - 238</ref>。

宮城はゾルゲの自宅には日本語教師という名目で、また尾崎秀実の自宅には娘の絵の教師として出入りし、両者の連絡役をおこなっていた<Ref>[http://chikyuza.net/xoops/modules/news2/article.php?storyid=104 3)モスクワで発掘された「特高功労上申書] - 渡部富哉「ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの」(ちきゅう座スタディルーム)</ref>。

この間、1935年には[[田端 (東京都北区)|田端]]の絵画塾で講師を務めた<ref name="ogata"/>。1937年6月には父の[[還暦]]祝いのため18年ぶりに帰郷する<ref name="nomotop251">野本、pp.251 - 252</ref>。この際、両親から勧められた金城カナという女性と8月に結婚し、東京に呼び寄せたが、家を不在にすることが多かった宮城とは合わずに6か月ほどで離婚した<ref name="nomotop251"/>。1938年9月から10月にかけて、中国大陸を視察旅行する<ref>野本、pp.253 - 254</ref>。この旅行中に父が亡くなっている。

1941年10月10日、[[麻布区]][[龍土町]]の下宿先で逮捕され、[[築地警察署]]に連行される。取り調べ中に2階の取調室の窓から飛び降りて自殺を図ったが、[[聖路加国際病院|聖路加病院]]に搬送されて手当を受け、逮捕3日目に取り調べは再開された<Ref>野本、p.267</ref>。拷問を伴った取り調べにより自供し、その後に他の諜報団メンバーが逮捕された。

宮城の逮捕は、[[和歌山県]]で9月27日に逮捕された北林トモに続く形であった。[[特別高等警察]](特高)は1930年代から、内部に送り込んだスパイや日本での検挙者、アメリカ[[連邦捜査局]](FBI)の資料などからアメリカ共産党の日本人党員の情報を収集し、日本に帰国した党員に内偵をかけていた<ref>加藤2014、pp.144 - 150</ref>。逮捕が政界や国際関係に影響を与えかねないゾルゲや[[尾崎秀実]]を避けて、そうした点での懸念の薄い北林や宮城が、特高から検挙の糸口に選ばれたのである<ref>加藤2014、p.139</ref>。さらに特高は取り調べの過程で、自らを含む官憲が収集していたアメリカ共産党に関する情報を、宮城自身が供述したように文書化し、その後の言論弾圧事件に利用したと加藤哲郎は記している<ref name="katop141">加藤2014、pp.141 - 143。たとえば、宮城の供述ではアメリカ共産党には「東洋民族課」というセクションがあることになっているが、そうした組織は存在しなかった。</ref>。前記の通り、宮城は地下の国際活動の一端に従事しただけで、アメリカ共産党の詳しい組織を知りうる立場にはなかった<ref name="katop141"/>。

宮城は起訴されたが、一審判決が下る前の1943年8月2日、持病の結核を悪化させて巣鴨の[[東京拘置所]]において獄死。遺骨は下宿先の家人が引き取り、沖縄の母の元に送った<ref>野本、p.284。この下宿先の家主は宮城を気に入って、居所を移った際には宮城も一緒に転居したという。検挙後も面会や文通で宮城の面倒を見た。</ref>。第二次世界大戦後、遺骨は[[メキシコ]]に移住していた兄・与整のもとに送られたのち、1966年に[[多磨霊園]]にあるゾルゲの墓の隣に(ゾルゲ事件関係者の墓碑として)合葬された<ref>野本、pp.287- 288</ref>。

== 人物・評価 ==
在米中の1930年1月、美術雑誌『アート・ダイジェスト』に掲載された、日本人画家24人による展覧会の批評記事の中で、名前を挙げて評価された4人の一人として取り上げられ、絶賛を受けた<ref>野本、pp.99 - 101。このとき宮城が出展したのは、当時の妻・千代を描いた肖像画であった。</ref>。

ゾルゲ事件でともに検挙された[[マックス・クラウゼン]]は「宮城は丸っきり(引用者注:尾崎秀実とは)反対な人間で非常に単純な善い人である。彼は自分の単純な人間であることを人に見られるのを少しも意に介しない」「彼は非常に単純で親切に見受けられたので個人的に私は彼が非常に好きであった」と手記に記している<ref>野本、pp.214 - 215</ref>。クラウゼンは手記の中で宮城が「肺病にもかかわらず酒が好き」と記しているが、野本一平は日本に来てから酒をたしなんだという説を紹介している<ref>野本、p.248</ref>。

戦後、ゾルゲ事件に関連した[[川合貞吉]]や[[尾崎秀樹]]の著書で宮城の経歴や人となりが紹介された。

郷里の沖縄では1960年代以降に再評価がなされ、1990年に名護市と那覇市で遺作展が開かれた<ref name="rn060510">[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-13497-storytopic-5.html 激動の時代背景つづる 生誕100年、宮城与徳の記念誌発刊] - [[琉球新報]]2006年5月10日</ref>。生誕100年に当たる2003年には地元で記念行事が開催され<ref name="rn060510"/>、2006年1月20日には宮城の記念碑が([[徳田球一]]の記念碑と並ぶ形で)建立された<ref name="ogata"/><ref>[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-205666-storytopic-64.html コラム「南風」 君たちの時代] - 琉球新報2013年4月22日</ref>。

ソ連政府は1964年のゾルゲを皮切りに事件関係者を再評価し、宮城に対しては1965年1月19日付の「最高会議幹部会令」で受勲対象に決定したが、当時は親族が確認できず、授与されないままとなっていた<ref>[http://japanese.ruvr.ru/2010/01/14/4595962/ ゾルゲ事件関与者・宮城与徳さん 祖国戦争勲章を受賞] - [[ロシアの声]]2010年1月14日</ref><ref name="kyodo">[http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010011301000710.html ソ連の勲章45年ぶりに授与 ゾルゲ事件の宮城の遺族に] - [[47NEWS]]([[共同通信]])2010年1月13日</ref>。21世紀になってから[[ロシア]]政府が親族らに勲章と賞状を授与することを決定し、2010年1月13日に駐日ロシア大使館で、ベールイ駐日大使からアメリカ在住の姪に旧ソ連の「2等祖国戦争勲章」が授与された<ref name="kyodo"/><ref>[http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-01-13_1586 与徳の勲章ロシアで発見、初確認、親族に授与へ] - [[沖縄タイムス]]2010年1月13日{{リンク切れ|date=2014年10月}}</ref>。姪は「勲章を両手に取るまで半信半疑だった。名誉回復につながったと思う」と述べた<ref name="kyodo"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*加藤哲郎「宮城与徳訪日の周辺 - 米国共産党日本人部の二つの顔」日露歴史研究センターゾルゲ事件国際シンポジウム([[沖縄大学]])資料、2011年[http://members.jcom.home.ne.jp/katote/Okinawamiyagi.pdf]
*加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』[[平凡社]]〈[[平凡社新書]]〉、2014年
*野本一平『宮城与徳 移民青年画家の光と影』[[沖縄タイムス社]]、1997年

== 関連文献 ==
*宮城与徳生誕百年を記念する会(編)『君たちの時代 宮城与徳生誕百年記念誌』宮城与徳生誕百年を記念する会、2006年
*『宮城与徳遺作画集』沖縄タイムス社、1990年

== 外部リンク ==
*[http://www.okinawa-u.ac.jp/~ogata/flash2005/miyagi/index.html 宮城与徳] - [[沖縄大学]]緒方修ゼミ(2005年度「世界のウチナーンチュ」内)



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2014年11月10日 (月) 11:18時点における版

宮城 与徳正字:宮城 與徳、みやぎ よとく、1903年2月10日 - 1943年8月2日)は、日本洋画家左翼運動家、社会運動家。「南龍一」と名乗り、ゾルゲ諜報団に参加した。ソ連スパイとしてゾルゲ事件に関与して逮捕され、拘留先で病死した。

生涯

生誕からアメリカ時代まで

沖縄県国頭郡名護町東江(現・名護市)に生まれる[1]。父の与正は1904年にはフィリピンで道路工事に従事し[2]、1905年にはハワイ、さらに1906年には渡米してカリフォルニア州に移住した[1]。このため、母方の祖父母に預けられて育つ[1]。小学校時代、担任教師の影響で絵に興味を持つ[3]高等小学校1年生の時に、描いた絵が東京の展覧会に入選した[4]。上級学校に進学する意向があり、宮城自身は美術工芸の専門講義のあった沖縄県立工業徒弟学校(現・沖縄県立沖縄工業高等学校)を希望していたが、学業成績がよかったことから学費不要で「出世コース」とされた沖縄県師範学校を周囲に勧められ、1917年に予科に入学[5]。しかし、結核に罹患したことから本科に進んだ1918年に中途退学した[6]

1919年6月、父に呼び寄せられる形で渡米、カリフォルニア州のインペリアルバレーに住む父と兄の元に移る[7]。カリフォルニアではブローリー公立学校の外国人部に入学する一方、父は息子2人の移住を見届けてから沖縄に帰国している[8]。1920年頃、絵の勉強のためサンフランシスコに出るが、2か月ほどでロサンゼルスに移る[9]。1921年秋、サンフランシスコのカリフォルニア州立美術学校に入学したが、その後サンディエゴの美術学校に、現地に在住する叔父の援助を得て移る[10]

これと前後して、1921年にはロサンゼルス在住の沖縄出身青年による「黎明会」というグループの結成に屋部憲伝らと参加[11]。黎明会は社会的な問題にも関心を示し、保守的な沖縄出身者からは「左翼」「危険分子」とみる向きもあったという[12]

1925年7月、サンディエゴのホテル経営者の妻で宮城県出身の八巻千代と出奔し、再びロサンゼルスに移る[13]。これはホテルに長期滞在している間に親交を深め、「駆け落ち」したものであった[14]。二人の結婚生活は6年続いたが、千代は1931年に宮城の元を去り別居する形で離婚する(正式に結婚したことはなかった)[15]。残された宮城は、北林芳三郎・トモ夫妻の家に下宿した[16]。北林トモは宮城より17歳年上で、年若い宮城の面倒を見る形であった[17]松本清張尾崎秀樹は二人が男女関係にあったと記しているが、加藤哲郎は「事実ではない」と否定し[18]、元妻の千代も戦後のインタビューで「(宮城が「ツバメ」のような)そんな関係では絶対なかった」と証言している[19]

この間、黎明会周辺の仲間とILD(国際労働者救援会)など複数の会合に関わる。1929年4月、訪米中の伊波普猷がロサンゼルスを訪れた際には、仲間とともに案内した[20]。また、1931年に竹久夢二がアメリカに滞在した際には一時期起居をともにしていた。画業では1928年に初めてロサンゼルスで個展を開き[21]、1930年には日本人画家24人の出展した展示会を取り上げた美術雑誌の記事に言及された(詳細は後述)。

1931年、アメリカ共産党に入党する。ゾルゲ事件時の供述調書によると、前年に訪ねてきた「モスクワ帰りの矢野某」の勧誘によるものとしている。この「矢野某(矢野努)」は、豊田令助(または将月令助)のことで[22]、豊田は1932年にアメリカ共産党日本人部の全国書記に任命されている[23]。宮城はアメリカ共産党では目立った活動をしなかった。加藤哲郎によると、当時のアメリカ共産党には労働運動の指導や反戦・反ファシズム活動をおこなう「オモテの顔」と、ソビエト連邦コミンテルンからの要請を受けて地下の国際活動に人員を提供する「ウラの顔」があった[24]。宮城は「オモテ」の活動にはほとんど関与せず、「ウラ」の要員として引き入れられたと加藤は述べている[25]

宮城の周辺では、1932年1月15日に労働運動を指導したアメリカ共産党に対する大量検挙(ロングビーチ事件)が起き、100人以上の逮捕者の中には宮城と親交のあった沖縄出身者5名(又吉淳・宮城与三郎(宮城の従兄)、照屋忠盛、山城次郎、島〔袋〕正栄 )が含まれていた[26][27]。彼らを含む日本人9名は「強制退去」ではない自主的な出国(亡命)としてソ連への移住を勝ち取るが[28]、ソ連国内で大粛清の犠牲となったことが、ソ連崩壊後に確認されている[26][29]

日本への帰国と死去

宮城の供述調書では、「矢野」こと豊田と「白人のコミンテルンの男」から1932年末に日本渡航とロサンゼルス居住のアメリカ共産党員「ロイ」と連絡を取ることを指示され、1933年に接触した「ロイ」の指令を受けて日本に渡ったとされた。この間の経緯の実態は未詳な点が多いが、「ロイ」についてはハワイ出身のアメリカ共産党員だった木元伝一であることが、渡部富哉や加藤哲郎の研究により確認されている[30][31]ベノナでは「矢野」が「ソ連の情報機関を支援するためのエージェント」として宮城を徴募したとなっている[32]。元ソ連内務人民委員部(NKVD)幹部であるパヴェル・スドプラトフの回想にはエイチンゴンが徴募した工作員の一人が宮城だとする記述がある[33]。また、渡部富哉はロシアの歴史家・ユーリー・ゲオルギーエフからの情報として、宮城の日本渡航を指示したのは、日本への駐在経験のあるカール・ヤンソンであるとしている[34]。宮城の日本派遣を指示したのがコミンテルンなのか、リヒャルト・ゾルゲの所属していた労働赤軍本部第4局(GRU)なのか、あるいは内務人民委員部なのかは判然としないが、いずれにせよ当時のアメリカ共産党はモスクワから複数のルートで対アジア工作をおこなう上での拠点であった[35]。宮城自身は後に警察に提出した「手記」で「(帰国時点で)諜報活動に関する訓練がな」かったと述べている[36]が、渡部富哉や加藤哲郎は宮城が日本に出発するまでの間に諜報活動のための訓練をアメリカ国内で受けていたのではないかと推察している[34][37]。また加藤哲郎は、入党から日本渡航までの実態を知るには「モスクワにあると思われる宮城与徳の党個人資料・PPTUS(汎太平洋労働組合書記局)資料により再検討しなければならない」と記している[38]。宮城の供述調書では、「長くても3ヶ月」で帰米するように命じられていた。

宮城は1933年10月24日にぶゑのすあいれす丸で日本に到着した[39]。1933年の秋か冬に「浮世絵買いたし」という新聞広告のサインにより、ブランコ・ド・ヴーケリッチ神田で接触し、ゾルゲとの面会方法を伝えられる[40][41]。それに従い、上野東京府美術館でゾルゲと接触し[40]、しばらくして諜報活動に入った。警察に提出した「手記」によると、1934年1月頃、ゾルゲから「アメリカに帰らず、日本の自分のもとで仕事をしてほしい」という要請を受け[42]、時間をおいてから、日ソ間の戦争回避というゾルゲの語る目的に共感して「国法に触れることは勿論、戦時においては死刑に処せられる」ことを知った上で(諜報団に)参加したと述べている[36]。1934年5月には、ゾルゲから尾崎秀実(当時大阪朝日新聞在職)と接触を取ることを命じられ、その仲介により、ゾルゲは翌月に奈良市で尾崎と再会している。

諜報団に加わった当初、宮城は情報の日本文を英文に翻訳することだけに使われていたが、後に情報収集を行うようになった。1936年3月、九津見房子と知り合い、情報収集の補助者とした。また、元日本共産党員の山名正実田口右源太および医師の安田徳太郎を情報収集の協力者とした。さらに、アメリカで知り合った秋山幸治を英訳の補助者として1934年6月ごろから報酬を与えた。1936年に単身で帰国した北林トモは、渋谷洋裁店に勤めながら、宮城の情報収集協力者となった。これらの6人はいずれもゾルゲの承認を受けていなかった[43]。このほか、鈴木邦子という元津田英学塾生を秋山とともに、資料翻訳の補助者としていた[44]。安田徳太郎は、結核が完全には癒えていなかった宮城を診療する立場でもあった[45]

宮城はゾルゲの自宅には日本語教師という名目で、また尾崎秀実の自宅には娘の絵の教師として出入りし、両者の連絡役をおこなっていた[46]

この間、1935年には田端の絵画塾で講師を務めた[21]。1937年6月には父の還暦祝いのため18年ぶりに帰郷する[47]。この際、両親から勧められた金城カナという女性と8月に結婚し、東京に呼び寄せたが、家を不在にすることが多かった宮城とは合わずに6か月ほどで離婚した[47]。1938年9月から10月にかけて、中国大陸を視察旅行する[48]。この旅行中に父が亡くなっている。

1941年10月10日、麻布区龍土町の下宿先で逮捕され、築地警察署に連行される。取り調べ中に2階の取調室の窓から飛び降りて自殺を図ったが、聖路加病院に搬送されて手当を受け、逮捕3日目に取り調べは再開された[49]。拷問を伴った取り調べにより自供し、その後に他の諜報団メンバーが逮捕された。

宮城の逮捕は、和歌山県で9月27日に逮捕された北林トモに続く形であった。特別高等警察(特高)は1930年代から、内部に送り込んだスパイや日本での検挙者、アメリカ連邦捜査局(FBI)の資料などからアメリカ共産党の日本人党員の情報を収集し、日本に帰国した党員に内偵をかけていた[50]。逮捕が政界や国際関係に影響を与えかねないゾルゲや尾崎秀実を避けて、そうした点での懸念の薄い北林や宮城が、特高から検挙の糸口に選ばれたのである[51]。さらに特高は取り調べの過程で、自らを含む官憲が収集していたアメリカ共産党に関する情報を、宮城自身が供述したように文書化し、その後の言論弾圧事件に利用したと加藤哲郎は記している[52]。前記の通り、宮城は地下の国際活動の一端に従事しただけで、アメリカ共産党の詳しい組織を知りうる立場にはなかった[52]

宮城は起訴されたが、一審判決が下る前の1943年8月2日、持病の結核を悪化させて巣鴨の東京拘置所において獄死。遺骨は下宿先の家人が引き取り、沖縄の母の元に送った[53]。第二次世界大戦後、遺骨はメキシコに移住していた兄・与整のもとに送られたのち、1966年に多磨霊園にあるゾルゲの墓の隣に(ゾルゲ事件関係者の墓碑として)合葬された[54]

人物・評価

在米中の1930年1月、美術雑誌『アート・ダイジェスト』に掲載された、日本人画家24人による展覧会の批評記事の中で、名前を挙げて評価された4人の一人として取り上げられ、絶賛を受けた[55]

ゾルゲ事件でともに検挙されたマックス・クラウゼンは「宮城は丸っきり(引用者注:尾崎秀実とは)反対な人間で非常に単純な善い人である。彼は自分の単純な人間であることを人に見られるのを少しも意に介しない」「彼は非常に単純で親切に見受けられたので個人的に私は彼が非常に好きであった」と手記に記している[56]。クラウゼンは手記の中で宮城が「肺病にもかかわらず酒が好き」と記しているが、野本一平は日本に来てから酒をたしなんだという説を紹介している[57]

戦後、ゾルゲ事件に関連した川合貞吉尾崎秀樹の著書で宮城の経歴や人となりが紹介された。

郷里の沖縄では1960年代以降に再評価がなされ、1990年に名護市と那覇市で遺作展が開かれた[58]。生誕100年に当たる2003年には地元で記念行事が開催され[58]、2006年1月20日には宮城の記念碑が(徳田球一の記念碑と並ぶ形で)建立された[21][59]

ソ連政府は1964年のゾルゲを皮切りに事件関係者を再評価し、宮城に対しては1965年1月19日付の「最高会議幹部会令」で受勲対象に決定したが、当時は親族が確認できず、授与されないままとなっていた[60][61]。21世紀になってからロシア政府が親族らに勲章と賞状を授与することを決定し、2010年1月13日に駐日ロシア大使館で、ベールイ駐日大使からアメリカ在住の姪に旧ソ連の「2等祖国戦争勲章」が授与された[61][62]。姪は「勲章を両手に取るまで半信半疑だった。名誉回復につながったと思う」と述べた[61]

脚注

  1. ^ a b c 野本、pp.29 - 30
  2. ^ 野本、p.46
  3. ^ 野本、pp.34 - 35
  4. ^ 野本、p.88。同級生1人も同時に入選している。
  5. ^ 野本、p.54、pp.88 - 89。野本は「首里工業学校」と記しているが当時の校名だと沖縄県立工業徒弟学校になる。
  6. ^ 野本、p.36
  7. ^ 野本、p.54、90。3歳年上の兄・与整は1916年に先に渡米していた。
  8. ^ 野本、pp.54 - 55
  9. ^ 野本、p.59、91
  10. ^ 野本、pp.92 - 93、114。宮城自身はゾルゲ事件時の供述調書で「官立サンディエゴ美術学校」と記しているが、野本一平の調査では当時サンディエゴにあった美術学校は私立のサンディエゴ・アカデミーオブファインアート(1937年閉校)だけしかないという。
  11. ^ 野本、p.59
  12. ^ 野本、p.71、73
  13. ^ 野本、pp.109 - 110
  14. ^ 野本、pp.112 - 114
  15. ^ 野本、p.133
  16. ^ 野本、p.134
  17. ^ 野本一平は「19歳年上」と記している(野本、p.134)が、北林は1886年生まれ(加藤2014、p.140)のため、実際には17歳差である。
  18. ^ 加藤、p.152
  19. ^ 野本、p.136
  20. ^ 野本、p.128
  21. ^ a b c 下記外部リンク先(沖縄大学緒方ゼミ)を参照。
  22. ^ 加藤2014、p.160
  23. ^ 加藤2014、p.166
  24. ^ 加藤2014、p.140、pp.154 - 155
  25. ^ 加藤2014、p.160、166
  26. ^ a b 『沖縄を知る辞典』日外アソシエーツ、2000年(執筆は加藤哲郎[1]
  27. ^ 「島〔袋〕正栄」は、『沖縄を知る辞典』や野本一平の評伝、加藤哲郎の「宮城与徳訪日の周辺」では「島正栄」、『ゾルゲ事件 覆された神話』では「島袋正栄」である
  28. ^ 野平、p.177
  29. ^ 加藤2014、p.159
  30. ^ 加藤2014、p,170 - 171
  31. ^ 「ロイ」について、以前は野坂参三説などがとなえられたり、宮城の日本派遣に関与した人物としてアメリカ共産党員のジョー小出こと鵜飼宣道の名があげられて「スパイ」疑惑が指摘されたりしたが、加藤哲郎は資料の解読からそれらの説を否定・批判している(加藤2011、p11)
  32. ^ 加藤2014、p.167
  33. ^ 加藤2014、p.168。この内容はスドプラトフの著書『KGB衝撃の秘密工作』(ほるぷ出版、1994)からの引用。
  34. ^ a b 渡部富哉「ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの」ちきゅう座スタディルーム[2]
  35. ^ 加藤2014、pp.171 - 173
  36. ^ a b 『現代史資料3 ゾルゲ事件(三)』みすず書房、1962年、p.317
  37. ^ 加藤2014、p.175
  38. ^ 加藤2014、p.142
  39. ^ 野本、pp.207 - 208
  40. ^ a b 片島紀男『ゾルゲ事件 ヴケリッチの妻・淑子』同時代社、2006年、p.72。この内容はヴーケリッチの供述調書に基づく。
  41. ^ 接触時期については、宮城の供述調書では「11月頃」(『現代史資料24 ゾルゲ事件(四)』みすず書房、1971年、pp.374 - 375)、ヴーケリッチの調書では「12月頃」(片島、p.71)と食い違いがある。
  42. ^ 『現代史資料3 ゾルゲ事件(三)』みすず書房、1962年、pp.308 - 309
  43. ^ 竹内春夫『ゾルゲ謀略団 - 日本を敗戦に追い込んだソ連謀略団の全貌』日本教育新聞社、1991年
  44. ^ 加藤2014、pp.151 - 152。鈴木邦子は事件検挙当時警視庁外事課通訳をしており、そのために裁判記録からほぼ抹消された。また加藤哲郎は、鈴木邦子が警察に対する情報提供者となっていた可能性を指摘している。
  45. ^ 野本、pp.237 - 238
  46. ^ 3)モスクワで発掘された「特高功労上申書 - 渡部富哉「ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの」(ちきゅう座スタディルーム)
  47. ^ a b 野本、pp.251 - 252
  48. ^ 野本、pp.253 - 254
  49. ^ 野本、p.267
  50. ^ 加藤2014、pp.144 - 150
  51. ^ 加藤2014、p.139
  52. ^ a b 加藤2014、pp.141 - 143。たとえば、宮城の供述ではアメリカ共産党には「東洋民族課」というセクションがあることになっているが、そうした組織は存在しなかった。
  53. ^ 野本、p.284。この下宿先の家主は宮城を気に入って、居所を移った際には宮城も一緒に転居したという。検挙後も面会や文通で宮城の面倒を見た。
  54. ^ 野本、pp.287- 288
  55. ^ 野本、pp.99 - 101。このとき宮城が出展したのは、当時の妻・千代を描いた肖像画であった。
  56. ^ 野本、pp.214 - 215
  57. ^ 野本、p.248
  58. ^ a b 激動の時代背景つづる 生誕100年、宮城与徳の記念誌発刊 - 琉球新報2006年5月10日
  59. ^ コラム「南風」 君たちの時代 - 琉球新報2013年4月22日
  60. ^ ゾルゲ事件関与者・宮城与徳さん 祖国戦争勲章を受賞 - ロシアの声2010年1月14日
  61. ^ a b c ソ連の勲章45年ぶりに授与 ゾルゲ事件の宮城の遺族に - 47NEWS共同通信)2010年1月13日
  62. ^ 与徳の勲章ロシアで発見、初確認、親族に授与へ - 沖縄タイムス2010年1月13日[リンク切れ]

参考文献

  • 加藤哲郎「宮城与徳訪日の周辺 - 米国共産党日本人部の二つの顔」日露歴史研究センターゾルゲ事件国際シンポジウム(沖縄大学)資料、2011年[3]
  • 加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社平凡社新書〉、2014年
  • 野本一平『宮城与徳 移民青年画家の光と影』沖縄タイムス社、1997年

関連文献

  • 宮城与徳生誕百年を記念する会(編)『君たちの時代 宮城与徳生誕百年記念誌』宮城与徳生誕百年を記念する会、2006年
  • 『宮城与徳遺作画集』沖縄タイムス社、1990年

外部リンク