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「パガン王朝」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
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|日本語国名 = パガン王朝
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|建国時期 = [[1044年]]
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|位置画像 = Pagan-kingdom.jpg
|位置画像説明 = パガン王朝の支配領域(12世紀)
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|首都 = [[バガン|パガン]]
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|元首等氏名1 = [[アノーヤター]]
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|変遷1 = パガンの築城
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|変遷2 = アノーヤターの即位
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|変遷年月日3 = 1287年
|変遷4 = ソウニッの譲位
|変遷年月日4 = 1314年
|通貨 = [[物々交換]]
}}

'''パガン王朝'''は現在の[[ミャンマー]]に存在した、[[ビルマ族]]最初の王朝である。[[ビルマ語]]による[[年代記]](ビルマ語王統史)での雅称は'''アリー・マッダナ・プーラ'''(征敵の都)である<ref name="ohno100">大野『謎の仏教王国パガン』、100頁</ref>。[[首都]]は[[バガン|パガン]]。「パガン」とは「[[ピュー族]]の集落」を意味する「ピュー・ガーマ」が転訛したものと考えられている<ref name="ohno100"/>。国王が55代続いたと言うことが一連の伝統的な王統史には書かれてあるが、出土品と碑文によってこの論はおおむね否定されている<ref name="ohno130">大野『謎の仏教王国パガン』、130頁</ref>。43代以前の王で唯一碑文に名前が刻まれているのはソー・ヤハンであるが、それでさえも彼が王であったことを実証しているとは言い難い<ref name="ohno130"/>。

== 歴史 ==
{{ビルマの歴史}}
{{ビルマの歴史}}
=== ビルマ族の南下と王権の確立 ===
'''パガン王朝'''は[[ビルマ人]]最初の王朝である。[[首都]]は[[パガン]]。この王朝については分かっていない点が多い。国王が55代続いたと言うことが一連の伝統的な年代記には書かれてあるが、つじつまが合わないのでこれはおおむね否定されている。
[[南詔]]の尖兵として上ビルマに存在していたピュー族の[[驃国]]を征服し、その後[[イラワジ平野]]に定住したビルマ族を祖先とする<ref>石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、195頁 大野『謎の仏教王国パガン』、120-123頁</ref>。[[849年]]ごろに彼らが都を築いた<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、127頁</ref>パガンの地は降水量が少なく、[[稲作]]には不向きな土地であったが、米どころである[[チャウセー地方]]([[:en:Kyaukse District]])と[[ミンブー地方]]([[:en:Minbu District]])の中間点に位置していた。ビルマ族は先住していたピュー族から農耕技術を学び、彼らとの接触によって[[仏教]]を知ったと考えられる<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、125頁</ref>。


現存する王朝の出土品から初めて実在が確認される<ref name="ohno130"/>、王統史の言う「44代目」の[[アノーヤター]]([[1044年]] - [[1077年]])が最初の王とされる。アノーヤターは四方に軍を進めて領土を広げ、南方の[[モン族 (Mon)|モン族]]の都[[タトゥン]]([[:en:Thaton]])を制圧した際には、モン族の文化を取り込んでビルマ文化の構築に貢献した<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、137頁</ref>。また、国内の統制を高めるために密教的な要素の強い[[大乗仏教]]僧と見られる<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、135-136頁</ref>アリー僧の排除に取り掛かり、国を[[上座部仏教]]本位に変えた。魔力によって民衆に影響を及ぼすアリー僧を弾圧することで、民衆との連帯を強化したのである<ref name="ohno133">大野『謎の仏教王国パガン』、133頁</ref>。アノーヤターの名前が刻まれた[[磚仏]]は彼が実在の王であることを示すとともに、その出土地は彼が築城したと王統史に記録される城砦とほぼ一致しており<ref name="ohno133"/>、最初期のパガン王朝の支配領域が推測できる<ref name="ohno133"/>。
== 王権の確立と歴代王 ==
現在では年代記の言う「44代目」の[[アノーヤター]]([[1044年]] - [[1077年]])が最初の王とされる。アノーヤター王は[[大乗仏教]]僧と見られる「アリー僧」と呼ばれる僧を排除し、国を[[上座部仏教]]本位に変えた。[[ビルマ文字]]の成立は彼の統治時期かそれ以降と見られる。国王は専制君主で、その権力は絶大であったとされる。一方国王は「[[菩薩]]」であるとも見なされた。国王は世襲であり、直系の卑属であったが、親から子へ、兄から弟へ、祖父から孫へという場合もあった。


=== 全盛期 ===
== 官僚及び行政組織 ==
3代目の[[チャンシッター]]は、アノーヤター時代の遠征、即位後の下ビルマで起きた反乱の平定や[[クメール王朝]]との戦いで活躍した優秀な軍人だった。内政でも[[灌漑]]の推進、ビルマ族とモン族の融和によって国内の開発と安定に尽力した。しかし、チャンシッターがアノーヤターの血統に属していないことを推測できる要素が碑文と王統史の両方に存在しており<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、175-177頁</ref>、
官僚機構の最上位は大臣であり、国政全般を取り仕切った。大臣は国王の信頼が最も厚い者が任ぜられた。大臣は原則として複数であったが、人数は2人から7、8人までの幅があった。これ以外の重要官職は、軍事面では司令官及び各武将や水軍の将、司法官は裁判官及び検察官、書記長及び書記官、地方行政組織各段階の長である郡長・町長・村長、租税面ではカンコウン米を管理する穀倉奉行などがあった。その他、祭祀職として占星術師と婆羅門、侍医がいた。王宮内で国王の身近にあって公私ともに世話をするミンチンとミンセーと呼ばれる男性の役人がいた。
おそらくは彼の即位によってアノーヤターの血統は一度途絶えた。[[エインドーシン]]が交易の利権をめぐっての[[ポロンナルワ|シンハラ王朝]]の入寇<ref>伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、121頁 大野『謎の仏教王国パガン』、177頁</ref><ref>ビルマ語年代記には[[ベンガル]]地方のパティカヤの王が放った刺客によって暗殺されたと書かれる G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、74,78,484頁頁</ref>によって戦死した後、その子の[[ナラティンカー]](ミンインナラテインカー)が即位するが、碑文にナラティンカーの名前は確認できない<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、178頁</ref>。


ナラティンカーの後、アノーヤターの血を引く王子[[ナラパティシードゥー]]が即位、王統史にはナラパティシードゥーがクーデターによってナラティンカーを廃位した過程が記録されている<ref>G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、81頁</ref>。王朝はナラパティシードゥーの元で最盛期を迎える。チャウセー、[[シュエボー郡|シュエボー]]([[:en:Shwebo Township]])で灌漑を実施して生産力を高め、支配領域を[[マレー半島]]の付け根にまで広げる。文化においても、ビルマ独自の文化の萌芽が見られるようになった<ref>伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、121頁</ref>。
== 司法制度 ==
ティンパマやタシパマと呼ばれる裁判官が通常は3名から4名おり、主に貴族から選ばれた。民事事件の判決は法典(ダマタッ)が参照された。刑事事件は検事(コー・トウージー)が担当し、判例(アムヌンザー)を基に判決が下された。犯罪者には過酷な刑も科されたようである。民事訴訟での被告と原告は、法廷では仏典や仏舎利を手に持って宣誓した。訴訟に関する碑文はパカン時代の前半よりも後半の方が多く、訴訟の当事者も国王と出家、国王と庶民、出家と在家など多種多様であった。相続による訴訟事件も多かった。


ナラパティシードゥーの死後もアノーヤターの血統は保たれるが、[[チャゾワー]]の治世から寺領の増加による収入の減少、治安の悪化が国の発展に影を落とす<ref>伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、131頁</ref>。[[オウサナー]]とその子ミンヤンは暗殺者の手によって落命する不幸な最期を遂げ、次の[[タヨウピイェー]]の治世に王朝の国難が始まる。
== 滅亡 ==
隆盛を極めたパガン朝であったが、[[1253年]]にはビルマ北部にあった[[大理国]]が[[元 (王朝)|元]]の手に落ちたことにより、その存在が脅かされはじめた。[[1277年]]のタヨウピイェー王の時代、元はパガンに贈った朝貢を求める使者が行方不明であることを理由に軍を派遣し威嚇攻撃した([[モンゴルのビルマ侵攻]])。その後もタヨウピイェー王が、元に対し従順を見せなかったため、元は[[1286年]]に雲南王フゲチの子である雲南王エセン・テムル(也先鐵木兒:営王、[[梁王国|梁王]])を征緬副都元帥として派遣し、翌年にタヨウピイェー王は逃亡、パガンは陥落し滅亡した([[パガンの戦い]])。


==歴代王君主==
=== 滅亡 ===
{{See also|モンゴルのビルマ侵攻}}
#[[アノーヤター]]([[1044年]]-[[1077年]])
オウサナーの死後、ミンヤンの子であるタヨウピイェーが即位した。かつては隆盛を極めたパガン朝であったが、[[1253年]]にはビルマ北部にあった[[大理国]]が[[モンゴル帝国]]の手に落ちたことにより、その存在が脅かされはじめた。過度の寺院への寄進によって財政は悪化し<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、208頁</ref>、王家と姻戚関係によって王宮内での影響力を強め、[[ミンヂャン郡|ミンザイン]]([[:en:Myingyan]])に軍事力を有する[[シャン族]]の3兄弟、[[アサンカヤー (ピンヤ朝)|アサンカヤー]]、ヤーザティンジャン、[[ティハトゥ (ピンヤ朝)|ティハトゥ]]の台頭が始まった。

[[1277年]]に[[元 (王朝)|元]]はパガンに贈った朝貢を求める使者が行方不明であることと、臣従先をパガンから元に乗り換えた[[タイ系民族|金歯族]]がパガンの攻撃を受けていることを理由に<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、211頁 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、132頁</ref>軍を派遣し威嚇攻撃した。その後もタヨウピイェーが、元に対し従順を見せなかったため、元は[[1286年]]に雲南王フゲチの子である雲南王エセン・テムル(也先鉄木児:営王、[[梁王国|梁王]])を征緬副都元帥として派遣した。翌[[1287年]]にタヨウピイェーはパガンを放棄して南ビルマの[[パテイン]]([[:en:Pathein District]])に逃亡、パガンは陥落し([[パガンの戦い]])、モンゴル軍撤退の条件として元への[[朝貢]]を承諾した。

パガンへの帰還の途上でタヨウピイェーは庶子ティハトゥに毒殺され<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、213頁</ref>、タヨウピイェーの長子ウザナと庶子ティハトゥも後継者争いで落命、生き残ったタヨウピイェーの子[[チョウスワー]]が即位した。チョウスワーは元に対して朝貢を行って王位を認められるが、独自に使節を送っていたシャン族のアサンカヤーも元から璽を与えられ支配権を認められていた<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、214頁</ref>。また、[[1281年]]前後からビルマ南部の港湾都市[[モッタマ]]で反乱が起きており、[[1287年]]にモン族の[[ワーレルー]]が[[スコータイ朝]]の後援によってモッタマに[[バゴー|独立政権]]を打ち立てていた。1299年頃、シャン族の3兄弟とタヨウピイェーの妃の共謀でチョウスワーは廃位され、その子[[ソウニッ]]が王に擁立される。

[[大都]]に亡命したソウニッの兄弟の要請によって<ref>『元史』巻211、列伝第97、外夷3、緬、大徳4年の条</ref>[[1301年]]にビルマにモンゴル軍が侵入するが、アサンカヤーは防衛に成功<ref>『元史』巻211、列伝第97、外夷3、緬、大徳5年の条</ref>、アサンカヤーの勝利は碑文の記録でも称賛される<ref>大野「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、99頁</ref>。[[仏塔]]の建築に要する煉瓦の燃料となる木材の乱伐、チャウセーでの大規模な灌漑によってパガンの土壌は建設当時以上に痩せており<ref>G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、115頁</ref>、モンゴルによる破壊と共に食糧の供給量が減少したことで、王都の人口流出が進んだ。3兄弟に擁されたソウニッは実権を有さない名目だけの王であり<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、56頁</ref>、[[1314年]]にパガン王家に代々伝わる金帯と金盆がティハトゥに送られたことで王朝は名実共に滅亡した。譲位後ソウニッはパガンの知事に任ぜられるが、1369年にその子ウオサナーが没した時にパガン王家の男子継承者は断絶した<ref>G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、116頁</ref>。

== 社会 ==
=== 民族と身分 ===
[[File:burma18.jpg|thumb|left|200px|アノーヤター、ソウルーが建設したシュエズィーゴン仏塔]]
現在のミャンマーの民族構成は、パガン時代の民族構成を原型としている<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、141頁</ref>。

主要構成民族はビルマ族を含めた14の民族であり、[[トーアン族|パラウン族]]、[[モン族 (Mon)|モン族]]、シャン族、[[ワ族]]、[[クメール人]]などが王国内に居住していた<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、138-141頁</ref>。他に先住民族であるピュー族、[[インド]]と[[華人|中国]]からの移住者も含まれる。

身分は王族、廷臣、一般庶民、仏僧のほか、[[奴隷]]で構成されていた。奴隷は個人に使役される奴婢と寺院に寄進された[[三宝]]奴隷に大別される<ref>大野「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、111頁 大野『謎の仏教王国パガン』、205頁</ref>。三宝奴隷は功徳を積むという目的上、元々は下層階級と考えられておらず、識字率も10%前後と高かった<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、206頁</ref>。彼らが従事する作業は農作業、僧の世話、職人、芸人の4つに分類され、檀家は家族、時には自分自身を奉げて来世の幸福を祈った。彼ら奴隷は三宝奴隷、奴婢奴隷とともに「チュン」と呼ばれ、その子孫は奴隷身分に拘束され、世襲奴隷(タバウ)という身分が新たに形成された。タバウは差別を受けて居住地、就業、婚姻に大きな制限が課され、今世紀のビルマ独立に至ってようやく偏見からの解放が始まった<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、63-64頁 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、126頁</ref>。




=== 王権と官制 ===
国王は専制君主でその権力は絶大であったとされ、碑文には王は万物を支配する人物と刻まれる。一方で王は「[[菩薩]]」、菩薩の化身として崇められている[[白象 (動物)|白象]]の所有者であるとも見なされた<ref name="ohno182">大野『謎の仏教王国パガン』、182頁</ref>。原則として国王は世襲であり、次代の王に即位するのは先代王の直系の卑属であった<ref name="ohno182"/>。親から子へ王位が渡ることがほとんどであったが、兄から弟へという場合もあり、チャンシッターは孫のアラウンシードゥーを後継者に任じた。

官僚機構の最上位は大臣であり、国政全般を取り仕切った。大臣は国王の信頼が最も厚い者が任ぜられた。大臣は原則として複数であったが<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、183頁</ref>、人数は2人から7、8人までの幅があった。これ以外の重要官職は、軍事面では司令官及び各武将や水軍の将、司法官は裁判官及び検察官、書記長及び書記官、地方行政組織各段階の長である郡長・町長・村長、租税面ではカンコウン米を管理する穀倉奉行などがあった。その他、祭祀職として占星術師と婆羅門、侍医がいた。王宮内で国王の身近にあって公私ともに世話をするミンチンとミンセーと呼ばれる男性の役人がいた。

=== 行政区画 ===
政府は土地をカルイン(カヤイン)、トゥイク(タイ)、ヌインナム(ナインガン)の3つの地域に区分していた。カルインは王朝が元々領有していた領域<ref name="itoh123124">伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、123-124頁</ref>であり、生産性の高いチャウセー、ミンブー、タウンビョンに属していた。行政の中心であったが、ビルマ族以外の他民族も混在して居住していた。カルインの周辺に王朝が伸張に伴って獲得した土地であるトゥイクが配され、その外に中央統治が及ばないヌインナムが置かれた。地方の行政区画は[[村]](ルワー)で構成され、大きなルワーが周辺の小さいルワーに影響を行使していた。[[エーヤワディー川]]によってパガンと稲作地帯に属するカルインが結ばれ、外部に畑作地帯のトゥイクが置かれている<ref name="itoh123124"/>のが、王朝の構図である。そのために王都近辺に農業地帯を持たないパガンにとって大規模な灌漑施設を有する地方の離反は致命的であり、また王朝末期に海洋交易の拠点であるモッタマを失ったことで没落はより顕著になった<ref>伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、291-292頁</ref>。シャン族の3兄弟が王朝末期に政治的権力を握ることができた一因には、タヨウピイェーにチャウセーの統治を任じられていたため、食料の供給権を有していたこともある<ref>G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、111頁</ref>。

=== 司法制度 ===
ティンパマやタシパマと呼ばれる裁判官が通常は3名から4名おり<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、185頁</ref>、主に王侯貴族から選ばれたが、僧侶が裁判官を兼任した例もあった。民事事件の判決は法典(ダマタッ)が参照された。刑事事件は検事(コー・トウージー)が担当し、判例(アムヌンザー)を基に判決が下された。犯罪者には通常[[財産刑]]が課されたが、罪の度合いが甚だしい犯罪、特に盗賊には過酷な刑も科されることがあった<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、186頁</ref>。民事訴訟での被告と原告は、法廷では仏典や仏舎利を手に持って宣誓した。訴訟に関する碑文はパカン時代の前半よりも後半の方が多く、訴訟の当事者も国王と出家、国王と庶民、出家と在家など多種多様であった。特に多かった案件は、相続による訴訟事件である<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、190頁</ref>。判決が下り事件が解決すると、被告と原告が食用の茶を食べあうのが習慣だった<ref>大野「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、103頁</ref>。


== 農業 ==
歴代の王にとっての課題は、パガン周辺地域の開拓と[[治水]]であった。アノーヤターはチャウセーの灌漑と[[メイッティーラ郡|メイッティーラ]]の治水を行った。チャウセーのパンラウン川とゾージー川に5つの堤と[[用水路]]が設置され、ナラパティシードゥーの治世に堤が一つ増設された。アラウンシードゥーとエインドーシンはマンダレーの付近に2つの人造湖を建造、ナラパティシードゥーはモンとムーで運河の工事を行うが失敗した<ref>G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、88頁</ref>。

土地の土壌と気候に応じて、低湿地には水田(レー)、高地には庭園(ウイン)、冠水する低地には沖積地(カイン)、水の確保が困難な土地には畑(ヤー)、以上4種の農地が開拓された。さらに水田は冬季栽培用のムインと栽培に雨季の降水が必要なタンに細分された。[[ウシ|牛]]、[[スイギュウ|水牛]]、[[ウマ|馬]]が耕作に使用され、収穫物は[[米]]、[[ヒヨコマメ]]、[[ゴマ]]、[[ココヤシ]]、[[バナナ]]など、碑文の記録により現在77種類が判明している<ref>収穫物の詳細については大野『謎の仏教王国パガン』、197頁を参照</ref>。

ビルマ史家タントンは王朝全体の農地の面積を8.8万ヘクタールから44万ヘクタールと計算し<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、195-196頁</ref>、英領化された直後である[[1892年]]当時のビルマ全体の農地面積(3640000ヘクタール)<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、196頁</ref>の40分の1から8分の1ほどの広さだった。しかし、その多くは寺院の私領地であり、寺領が増大する王朝後期は税収の減少が問題となる<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、149-150,196-197頁</ref>。そのためチャゾワーなどの王たちは寺領への課税を試みたが、寺院の反対によって失敗に終わっている。

== 経済 ==
9世紀まで存在していたモン族の国家とは異なり、パガン王朝に鋳造貨幣は存在しなかった<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、198頁</ref>。[[奴隷]]、象、馬、舟などを代価として物々交換が行われ、時には[[金]]、[[銀]]、[[銅]]などの金属の重量によって商取引が成立した。取引の対象となったのは主に土地と奴隷、家畜であり<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、198頁</ref>、奴隷の価格は年齢と性別によって異なり、土地取引については、カルインが多く含まれるチャウセー、ミンブーの地価は高く、トゥイクは安かった。取引の際には立会人が必要とされ、契約が成立した後は立会人とともに飲酒肉食をする習慣が存在した。


== 文化 ==
[[File:Bagan, Hpaya-thon-zu-Group.JPG|thumb|220px|パヤートンズー寺院]]

=== 宗教 ===
パガン王朝の国教は[[上座部仏教]]である。アノーヤターはタトゥンから招聘した高僧シン・アラハンによって上座部仏教に改宗するとともに、民衆に影響力を持つアリー僧を強制的に還俗させた。アノーヤターがタトゥンに進攻した理由について史料は経典と仏舎利を入手するためと伝えるが<ref>石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、198頁</ref>、研究者の中には宗教的理由に疑問を呈する意見もある<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、136頁</ref>。[[1190年]]に留学を終えてセイロン島から帰朝したタラインの仏僧チャパタが創設した南伝系の大寺派が、王朝の国教に据えられた。チャパタの死後に大寺派は三つに分かれ、タトゥンに起源を持つ上座部仏教の一派とともに、いずれの宗派も在家信者への布教活動に熱心だった。伝道活動は陸路と河川路の両方を経由してタイ、ラオス、カンボジアまでわたり、今日の東南アジアにおける上座部仏教の地位を形成した<ref>石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、201-202頁</ref>。

上座部仏教以外に大乗系、密教系、[[ヒンドゥー教]]も王朝の宗教として併存しており、上座部仏教とそれらの宗教の違いは明確に認識されていなかった<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、142頁 伊東利勝「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、126頁</ref>。住民には[[ナーガ]]信仰を持つものも多く<ref>伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、126頁 大野『謎の仏教王国パガン』、84-85頁</ref>、宮廷行事には、ヒンドゥー教の[[占星術]]師、[[バラモン]]僧が参画していた。上座部仏教を導入したアノーヤターは大乗仏教寄りの信仰の持ち主であり<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、134頁</ref>、アノーヤターの名が刻まれた[[観音]]像が多く発掘されている。大乗仏教、密教の影響は王朝末期にも残り、[[1255年]]に王妃タンブーラによって建立されたパヤートンズー寺院には密教的な要素の強い壁画が描かれた<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、84-85頁</ref>。

13世紀以降には、密教的な要素の強い[[アラニャ僧団]]が勢力を拡大する。森の中で活動する出家僧の集団を母体としており、[[マハーカサッパ]]の元で勢力を拡大した。王朝滅亡後の[[1388年]]の碑文には、マハーカサッパが[[ナンダウンミャー]]の病を治癒したことで王から財宝と土地を寄進された伝説が記されている<ref>伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、301-302頁</ref>。1240年代にチャウセー地方に進出、[[1247年]]から[[1272年]]かけてシュエボー、チンドウィン一帯の土地を購入して寺領を増やした。彼らは土地購入の契約締結はもちろんのこと日常においても飲酒、肉食を行い<ref name="itoh131">伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、131頁</ref>、その習慣は上座部仏教には受け入れがたいものであった。アラニャ僧団領の増加による収入減に対処するため、チャゾワーはセイロン島の仏教界と協調した宗教活動によってアラニャ僧団の弱体化を図ったが<ref name="itoh131"/>、マハーカサッパの死後もアラニャ僧団の教えは広まり、パガン滅亡後にビルマ仏教界の一大勢力となる。

=== 建築 ===
パガン王朝時代に建築された寺院[[仏塔]]は、ビルマ芸術の頂点とも言えよう<ref>石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、203頁</ref>。特に、この時代は大型寺院の建築技術に著しい発展が見られる<ref>石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、204頁</ref>。ピュー族の文化から受け継いだ<ref name="itoh121">伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、121頁</ref>[[入隅迫持|迫持工法]]によるアーチ建築が特徴であり、ナラパティシードゥー以降は明るい色彩の窟院、仏塔が建てられるようになった<ref>伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、122頁</ref>。

王侯貴族などの富裕層は来世の幸福を願って[[功徳]]を積むため、宗教施設の建設と三宝への寄進を盛んに行った<ref name="itoh127">伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、127頁</ref>。寺院の建立には多額の費用が掛かり、[[1196年]]にナラパティシードゥーが建立した仏塔は一基あたり44027チャッ([[チャット (通貨)|Tyat]]、現在もミャンマーの通貨単位に名前を残す)<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、198,200頁</ref>の銀が払われた。成人男子の奴隷1人の価格は銀20チャッから25チャッであり<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、199頁</ref>、仏塔の建立に奴隷2200人と同じ支出を要した計算になる。別の碑文には、窟院の建設費用は施設一式を含めて20000チャッが払われたこと<ref>大野「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、107頁</ref>、仏像、窟院、僧院、塀の一式を建造するのに銀10000クラヤブ(165000グラム、奴隷300人超)<ref name="itoh127"/>の出費があったと書かれる。そして建築事業に従事する労働者が報酬として支払われる銀、衣服、食料を求めてパガンに多く流入した<ref>伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、127-128頁</ref>。

=== 文字 ===
アノーヤター時代の碑文には[[サンスクリット文字]]のみが使用され、次代の[[ソウルー]]の時代の文字は[[パーリ語]]が使われた。アラウンシードゥーの時代はサンスクリット文字とパーリ語が使用され、[[ビルマ文字]]が主流となるのはナラパティシードゥーの治世を待たなければならない<ref name="ohno177">大野『謎の仏教王国パガン』、177頁</ref>。モン族が使用していた文字はチャンシッターの治世に頻繁に使用され、このことは彼がモン族の縁者であったことを示唆している<ref name="ohno177"/>。ナラパティシードゥー以後の碑文の多くはビルマ文字で記され、サンスクリット文字、パーリ語、モン文字は次第に使われなくなった<ref name="itoh121"/>。[[1112年]]に製作されたミャ・ゼーディー碑文は四面にそれぞれビルマ文字、モン文字、パーリ語、ピュー文字で王の功徳が記されており、当時のパガンで複数の文字が共存していた様子を偲ばせる。

=== 芸能、絵画 ===
祈願<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、159頁</ref>の時には楽器が演奏され、歌唱と踊りを専門とする者もいた。当時の楽器は[[太鼓]]、[[シンバル]]、[[ラッパ]]、[[角笛]]などがあり、奏者は三宝奴隷が主であったが<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、206頁</ref>、楽器の演奏を生業とする芸人も存在していた。彼ら芸人の姿は寺院内の仏教壁画でも確認することができる。仏教壁画には宗教儀式や当時の風俗のほかに、チャンシッター・オンミンの壁画には王朝末期に襲来したモンゴル軍と元朝の大[[ハーン]][[クビライ]]の姿も描かれた<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、64頁</ref>。

== 外交 ==
国土を接するクメール王朝としばしば争い、アノーヤター時代より支配下に置いていた[[サルウィン川|サルウィン河口]]域を介してタイの北中部と交易を行った。セイロン島とは王朝南部の港湾都市を通じて経済と宗教において交流を持っており、[[12世紀]]末からは仏僧の相互派遣による仏教知識の伝達が活発になった。セイロンの王朝とは時に対立することもあり、セイロンの年代記『大史(マハヴァムサ)』はナラパティシードゥーがセイロン商人と駐在官を排除したことを記録する<ref name="GEH488">G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、488頁</ref>。セイロン商人と駐在官は投獄もしくは追放され、セイロン商船への補給の停止、象の輸出の禁止を実施した<ref>G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、86-87頁</ref>パガンに対して、セイロンは報復としてパガンの村落を破壊し、住民を誘拐して奴隷とした。僧侶を介した交渉によって両国の関係は修復されたと『大史』は説明するが、ビルマ語年代記にセイロンとの抗争は記録されていない<ref name="GEH488"/>。

[[中国]]の[[漢籍]]史料では'''蒲甘'''と表記され、[[北宋]]の時代に中国と接触を持った。[[景徳]]元年([[1004年]])に三仏斎([[シュリーヴィジャヤ王国]])、大食(アラビア)の使節と共に入朝したことが[[1225年]]に成立した『諸蛮誌』に記され<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、114頁</ref>、[[崇寧]]5年([[1106年]])に再び朝貢した際の記録は『諸蛮誌』以外に『[[宋史]]』『文献通考』にも残る。1106年の朝貢当時、以前とは異なり大国に成長しているため、他の小国と同じように扱ってはならず、アラビア、ベトナムなどの大国と同等の応接をするべしとの通達が[[尚書省]]から出された<ref> 『宋史』巻489、列伝第248、外国5、蒲甘
</ref>。


== ギャラリー ==
<gallery>
Image:Bagan01.jpg
Image:Ananda Temple Bagan.jpg|アーナンダ寺院([[1091年]]建立)
Image:That-byin-nyu.jpg|タッビンニュ寺院(アラウンシードゥーによって建立)
Image:burma12.jpg|スーラーマニ寺院([[1183年]]建立)
Image:Ananda-Bagan-Myanmar-15-gje.jpg|アーナンダ寺院のレリーフ
Image:Ananda-Bagan-Myanmar-30-gje.jpg|アーナンダ寺院内の仏像
Image:Burma17.jpg|仏教壁画
Image:Sulamani-Bagan-Myanmar-23-gje.jpg|スーラーマニ寺院内の仏教壁画
</gallery>


== 歴代君主 ==
#[[アノーヤター]]([[1044年]] - [[1077年]])
#[[ソウルー]](1077年 - [[1084年]])
#[[ソウルー]](1077年 - [[1084年]])
#[[チャンシッター]](1084年 - [[1113年]])
#[[チャンシッター]](1084年 - [[1113年]])
#シードゥー(1113年 - [[1165年]])
#[[アラウンシードゥー]](1113年 - [[1165年]])
#[[エインドーシン]](ナラトゥー)(1165年 - [[1170年]])
#[[エインドーシン]](ナラトゥー)(1165年 - [[1170年]])
#[[ナラティンカー]](1170年 - [[1173年]])
#[[ナラティンカー]](1170年 - [[1173年]])
25行目: 172行目:
#[[チャゾワー]](1234年 - [[1250年]])
#[[チャゾワー]](1234年 - [[1250年]])
#[[オウサナー]](1250年 - [[1254年]])
#[[オウサナー]](1250年 - [[1254年]])
#[[タヨウピイェー]](ナラティーハパテ)(1254年- [[1287年]])
#[[タヨウピイェー]](ナラティーハパテ)(1254年 - [[1287年]])
#[[チョウスワー]](1287年-[[1299年]])
#[[チョウスワー]](1287年 [[1299年]])
#[[ソウニッ]](1299年 - [[1314年]])
パガン朝は、タヨウピイェーが元に降伏した1287年をもって事実上滅亡したが、名実共に完全な滅亡を遂げたのは、その息子であるチョウスワーが殺された1299年とも言える説もある。
パガン朝は、タヨウピイェーが元に降伏した1287年をもって事実上滅亡した<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、56頁</ref>。史料によって王名の表記と在位年はそれぞれ異なるが、ここでは『出生票集王統史』に準拠する。

== パガン王朝に関する史料 ==
[[File:Myazedi-Inscription-Burmese.JPG|thumb|120px|ミャ・ゼーディー碑文]]
パガン王朝の姿を現在に伝える史料としては、寺院が壁画に記録した墨文と寺院に奉納された碑文、そしてビルマ語で書かれた王統史の手写本がある。前者2つは信憑性が高い反面記録が断片的であり<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、35頁</ref>、後者は客観性と編纂された年代が遅い点に問題がある<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、31-34頁</ref>。

=== 主要ビルマ語王統史 ===
* 『普遍王統史(ヤーザウインジョー)』 [[1502年]]に僧侶テイーラウンタによって編纂された、現存する最古の王統史<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、33頁</ref>。パガン王朝に関する記述は少なく、王名の一覧だけにとどまる。
* 『出生票集王統史』 [[1678年]] - [[1698年]]の間に編纂された<ref>大野『謎の仏教王国パガン』、38頁</ref>、歴代国王の生没年、即位年の一覧表。
* 『大王統史(マハー・ヤーザウインドージー)』 [[1724年]]にウー・カラーによって編纂された。
* 『玻璃王宮大王統史(フマンナン・マハー・ヤーザウインドージー)』 [[1829年]]に[[コンバウン王朝|コンバウン王]][[パジードー]]の命で編纂された。


== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==

* G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』(東亜研究所訳, ユーラシア叢書, [[原書房]], 1976年)
* [[石澤良昭]]、[[生田滋]]『東南アジアの伝統と発展』(世界の歴史13巻, [[中央公論社]], 1998年12月)
* [[伊東利勝]]「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録([[石井米雄]]、[[桜井由躬雄]]編, 新版世界各国史, [[山川出版社]], 1999年12月)ISBN 4634413507
* [[大野徹]]「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録(石澤良昭責任編集, 岩波講座 東南アジア史2巻, [[岩波書店]], 2001年7月)ISBN 4-00-011062-4
* 伊東利勝「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録(石澤良昭責任編集, 岩波講座 東南アジア史2巻, [[岩波書店]], 2001年7月)ISBN 4-00-011062-4
* 大野徹『謎の仏教王国パガン』(NHKブックス, [[日本放送出版協会]], 2002年11月)ISBN 4140019530
* 太田常蔵「パガン」『アジア歴史事典』7巻([[平凡社]], 1959年)


==参考書籍==
== 関連項目 ==
* [[バガン]]
*[[大野徹]]『謎の仏教王国パガン』ISBN 4140019530
* [[ビルマ族]]
*大野徹「パカンの歴史」岩波講座『東南アジア史2』2001年、ISBN 4-00-011062-4
* [[ビルマ文字]]
* [[上座部仏教]]
* [[南詔]]


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[[Category:ミャンマーの歴史]]
[[Category:ミャンマーの歴史]]

2011年7月19日 (火) 10:47時点における版

パガン王朝
驃国 1044年 - 1314年 ピンヤ朝
バゴー
パガン王朝の位置
パガン王朝の支配領域(12世紀)
公用語 ビルマ語モン語ピュー語タライン語[1]
首都 パガン
元首等
1044年 - 1077年 アノーヤター
1173年 - 1210年ナラパティシードゥー
1254年 - 1287年タヨウピイェー
1299年 - 1314年ソウニッ
変遷
パガンの築城 849年
アノーヤターの即位1044年
への臣従1287年
ソウニッの譲位1314年
通貨物々交換

パガン王朝は現在のミャンマーに存在した、ビルマ族最初の王朝である。ビルマ語による年代記(ビルマ語王統史)での雅称はアリー・マッダナ・プーラ(征敵の都)である[2]首都パガン。「パガン」とは「ピュー族の集落」を意味する「ピュー・ガーマ」が転訛したものと考えられている[2]。国王が55代続いたと言うことが一連の伝統的な王統史には書かれてあるが、出土品と碑文によってこの論はおおむね否定されている[3]。43代以前の王で唯一碑文に名前が刻まれているのはソー・ヤハンであるが、それでさえも彼が王であったことを実証しているとは言い難い[3]

歴史

ビルマ族の南下と王権の確立

南詔の尖兵として上ビルマに存在していたピュー族の驃国を征服し、その後イラワジ平野に定住したビルマ族を祖先とする[4]849年ごろに彼らが都を築いた[5]パガンの地は降水量が少なく、稲作には不向きな土地であったが、米どころであるチャウセー地方en:Kyaukse District)とミンブー地方en:Minbu District)の中間点に位置していた。ビルマ族は先住していたピュー族から農耕技術を学び、彼らとの接触によって仏教を知ったと考えられる[6]

現存する王朝の出土品から初めて実在が確認される[3]、王統史の言う「44代目」のアノーヤター1044年 - 1077年)が最初の王とされる。アノーヤターは四方に軍を進めて領土を広げ、南方のモン族の都タトゥンen:Thaton)を制圧した際には、モン族の文化を取り込んでビルマ文化の構築に貢献した[7]。また、国内の統制を高めるために密教的な要素の強い大乗仏教僧と見られる[8]アリー僧の排除に取り掛かり、国を上座部仏教本位に変えた。魔力によって民衆に影響を及ぼすアリー僧を弾圧することで、民衆との連帯を強化したのである[9]。アノーヤターの名前が刻まれた磚仏は彼が実在の王であることを示すとともに、その出土地は彼が築城したと王統史に記録される城砦とほぼ一致しており[9]、最初期のパガン王朝の支配領域が推測できる[9]

全盛期

3代目のチャンシッターは、アノーヤター時代の遠征、即位後の下ビルマで起きた反乱の平定やクメール王朝との戦いで活躍した優秀な軍人だった。内政でも灌漑の推進、ビルマ族とモン族の融和によって国内の開発と安定に尽力した。しかし、チャンシッターがアノーヤターの血統に属していないことを推測できる要素が碑文と王統史の両方に存在しており[10]、 おそらくは彼の即位によってアノーヤターの血統は一度途絶えた。エインドーシンが交易の利権をめぐってのシンハラ王朝の入寇[11][12]によって戦死した後、その子のナラティンカー(ミンインナラテインカー)が即位するが、碑文にナラティンカーの名前は確認できない[13]

ナラティンカーの後、アノーヤターの血を引く王子ナラパティシードゥーが即位、王統史にはナラパティシードゥーがクーデターによってナラティンカーを廃位した過程が記録されている[14]。王朝はナラパティシードゥーの元で最盛期を迎える。チャウセー、シュエボーen:Shwebo Township)で灌漑を実施して生産力を高め、支配領域をマレー半島の付け根にまで広げる。文化においても、ビルマ独自の文化の萌芽が見られるようになった[15]

ナラパティシードゥーの死後もアノーヤターの血統は保たれるが、チャゾワーの治世から寺領の増加による収入の減少、治安の悪化が国の発展に影を落とす[16]オウサナーとその子ミンヤンは暗殺者の手によって落命する不幸な最期を遂げ、次のタヨウピイェーの治世に王朝の国難が始まる。

滅亡

オウサナーの死後、ミンヤンの子であるタヨウピイェーが即位した。かつては隆盛を極めたパガン朝であったが、1253年にはビルマ北部にあった大理国モンゴル帝国の手に落ちたことにより、その存在が脅かされはじめた。過度の寺院への寄進によって財政は悪化し[17]、王家と姻戚関係によって王宮内での影響力を強め、ミンザインen:Myingyan)に軍事力を有するシャン族の3兄弟、アサンカヤー、ヤーザティンジャン、ティハトゥの台頭が始まった。

1277年はパガンに贈った朝貢を求める使者が行方不明であることと、臣従先をパガンから元に乗り換えた金歯族がパガンの攻撃を受けていることを理由に[18]軍を派遣し威嚇攻撃した。その後もタヨウピイェーが、元に対し従順を見せなかったため、元は1286年に雲南王フゲチの子である雲南王エセン・テムル(也先鉄木児:営王、梁王)を征緬副都元帥として派遣した。翌1287年にタヨウピイェーはパガンを放棄して南ビルマのパテインen:Pathein District)に逃亡、パガンは陥落し(パガンの戦い)、モンゴル軍撤退の条件として元への朝貢を承諾した。

パガンへの帰還の途上でタヨウピイェーは庶子ティハトゥに毒殺され[19]、タヨウピイェーの長子ウザナと庶子ティハトゥも後継者争いで落命、生き残ったタヨウピイェーの子チョウスワーが即位した。チョウスワーは元に対して朝貢を行って王位を認められるが、独自に使節を送っていたシャン族のアサンカヤーも元から璽を与えられ支配権を認められていた[20]。また、1281年前後からビルマ南部の港湾都市モッタマで反乱が起きており、1287年にモン族のワーレルースコータイ朝の後援によってモッタマに独立政権を打ち立てていた。1299年頃、シャン族の3兄弟とタヨウピイェーの妃の共謀でチョウスワーは廃位され、その子ソウニッが王に擁立される。

大都に亡命したソウニッの兄弟の要請によって[21]1301年にビルマにモンゴル軍が侵入するが、アサンカヤーは防衛に成功[22]、アサンカヤーの勝利は碑文の記録でも称賛される[23]仏塔の建築に要する煉瓦の燃料となる木材の乱伐、チャウセーでの大規模な灌漑によってパガンの土壌は建設当時以上に痩せており[24]、モンゴルによる破壊と共に食糧の供給量が減少したことで、王都の人口流出が進んだ。3兄弟に擁されたソウニッは実権を有さない名目だけの王であり[25]1314年にパガン王家に代々伝わる金帯と金盆がティハトゥに送られたことで王朝は名実共に滅亡した。譲位後ソウニッはパガンの知事に任ぜられるが、1369年にその子ウオサナーが没した時にパガン王家の男子継承者は断絶した[26]

社会

民族と身分

アノーヤター、ソウルーが建設したシュエズィーゴン仏塔

現在のミャンマーの民族構成は、パガン時代の民族構成を原型としている[27]

主要構成民族はビルマ族を含めた14の民族であり、パラウン族モン族、シャン族、ワ族クメール人などが王国内に居住していた[28]。他に先住民族であるピュー族、インド中国からの移住者も含まれる。

身分は王族、廷臣、一般庶民、仏僧のほか、奴隷で構成されていた。奴隷は個人に使役される奴婢と寺院に寄進された三宝奴隷に大別される[29]。三宝奴隷は功徳を積むという目的上、元々は下層階級と考えられておらず、識字率も10%前後と高かった[30]。彼らが従事する作業は農作業、僧の世話、職人、芸人の4つに分類され、檀家は家族、時には自分自身を奉げて来世の幸福を祈った。彼ら奴隷は三宝奴隷、奴婢奴隷とともに「チュン」と呼ばれ、その子孫は奴隷身分に拘束され、世襲奴隷(タバウ)という身分が新たに形成された。タバウは差別を受けて居住地、就業、婚姻に大きな制限が課され、今世紀のビルマ独立に至ってようやく偏見からの解放が始まった[31]



王権と官制

国王は専制君主でその権力は絶大であったとされ、碑文には王は万物を支配する人物と刻まれる。一方で王は「菩薩」、菩薩の化身として崇められている白象の所有者であるとも見なされた[32]。原則として国王は世襲であり、次代の王に即位するのは先代王の直系の卑属であった[32]。親から子へ王位が渡ることがほとんどであったが、兄から弟へという場合もあり、チャンシッターは孫のアラウンシードゥーを後継者に任じた。

官僚機構の最上位は大臣であり、国政全般を取り仕切った。大臣は国王の信頼が最も厚い者が任ぜられた。大臣は原則として複数であったが[33]、人数は2人から7、8人までの幅があった。これ以外の重要官職は、軍事面では司令官及び各武将や水軍の将、司法官は裁判官及び検察官、書記長及び書記官、地方行政組織各段階の長である郡長・町長・村長、租税面ではカンコウン米を管理する穀倉奉行などがあった。その他、祭祀職として占星術師と婆羅門、侍医がいた。王宮内で国王の身近にあって公私ともに世話をするミンチンとミンセーと呼ばれる男性の役人がいた。

行政区画

政府は土地をカルイン(カヤイン)、トゥイク(タイ)、ヌインナム(ナインガン)の3つの地域に区分していた。カルインは王朝が元々領有していた領域[34]であり、生産性の高いチャウセー、ミンブー、タウンビョンに属していた。行政の中心であったが、ビルマ族以外の他民族も混在して居住していた。カルインの周辺に王朝が伸張に伴って獲得した土地であるトゥイクが配され、その外に中央統治が及ばないヌインナムが置かれた。地方の行政区画は(ルワー)で構成され、大きなルワーが周辺の小さいルワーに影響を行使していた。エーヤワディー川によってパガンと稲作地帯に属するカルインが結ばれ、外部に畑作地帯のトゥイクが置かれている[34]のが、王朝の構図である。そのために王都近辺に農業地帯を持たないパガンにとって大規模な灌漑施設を有する地方の離反は致命的であり、また王朝末期に海洋交易の拠点であるモッタマを失ったことで没落はより顕著になった[35]。シャン族の3兄弟が王朝末期に政治的権力を握ることができた一因には、タヨウピイェーにチャウセーの統治を任じられていたため、食料の供給権を有していたこともある[36]

司法制度

ティンパマやタシパマと呼ばれる裁判官が通常は3名から4名おり[37]、主に王侯貴族から選ばれたが、僧侶が裁判官を兼任した例もあった。民事事件の判決は法典(ダマタッ)が参照された。刑事事件は検事(コー・トウージー)が担当し、判例(アムヌンザー)を基に判決が下された。犯罪者には通常財産刑が課されたが、罪の度合いが甚だしい犯罪、特に盗賊には過酷な刑も科されることがあった[38]。民事訴訟での被告と原告は、法廷では仏典や仏舎利を手に持って宣誓した。訴訟に関する碑文はパカン時代の前半よりも後半の方が多く、訴訟の当事者も国王と出家、国王と庶民、出家と在家など多種多様であった。特に多かった案件は、相続による訴訟事件である[39]。判決が下り事件が解決すると、被告と原告が食用の茶を食べあうのが習慣だった[40]


農業

歴代の王にとっての課題は、パガン周辺地域の開拓と治水であった。アノーヤターはチャウセーの灌漑とメイッティーラの治水を行った。チャウセーのパンラウン川とゾージー川に5つの堤と用水路が設置され、ナラパティシードゥーの治世に堤が一つ増設された。アラウンシードゥーとエインドーシンはマンダレーの付近に2つの人造湖を建造、ナラパティシードゥーはモンとムーで運河の工事を行うが失敗した[41]

土地の土壌と気候に応じて、低湿地には水田(レー)、高地には庭園(ウイン)、冠水する低地には沖積地(カイン)、水の確保が困難な土地には畑(ヤー)、以上4種の農地が開拓された。さらに水田は冬季栽培用のムインと栽培に雨季の降水が必要なタンに細分された。水牛が耕作に使用され、収穫物はヒヨコマメゴマココヤシバナナなど、碑文の記録により現在77種類が判明している[42]

ビルマ史家タントンは王朝全体の農地の面積を8.8万ヘクタールから44万ヘクタールと計算し[43]、英領化された直後である1892年当時のビルマ全体の農地面積(3640000ヘクタール)[44]の40分の1から8分の1ほどの広さだった。しかし、その多くは寺院の私領地であり、寺領が増大する王朝後期は税収の減少が問題となる[45]。そのためチャゾワーなどの王たちは寺領への課税を試みたが、寺院の反対によって失敗に終わっている。

経済

9世紀まで存在していたモン族の国家とは異なり、パガン王朝に鋳造貨幣は存在しなかった[46]奴隷、象、馬、舟などを代価として物々交換が行われ、時にはなどの金属の重量によって商取引が成立した。取引の対象となったのは主に土地と奴隷、家畜であり[47]、奴隷の価格は年齢と性別によって異なり、土地取引については、カルインが多く含まれるチャウセー、ミンブーの地価は高く、トゥイクは安かった。取引の際には立会人が必要とされ、契約が成立した後は立会人とともに飲酒肉食をする習慣が存在した。


文化

パヤートンズー寺院

宗教

パガン王朝の国教は上座部仏教である。アノーヤターはタトゥンから招聘した高僧シン・アラハンによって上座部仏教に改宗するとともに、民衆に影響力を持つアリー僧を強制的に還俗させた。アノーヤターがタトゥンに進攻した理由について史料は経典と仏舎利を入手するためと伝えるが[48]、研究者の中には宗教的理由に疑問を呈する意見もある[49]1190年に留学を終えてセイロン島から帰朝したタラインの仏僧チャパタが創設した南伝系の大寺派が、王朝の国教に据えられた。チャパタの死後に大寺派は三つに分かれ、タトゥンに起源を持つ上座部仏教の一派とともに、いずれの宗派も在家信者への布教活動に熱心だった。伝道活動は陸路と河川路の両方を経由してタイ、ラオス、カンボジアまでわたり、今日の東南アジアにおける上座部仏教の地位を形成した[50]

上座部仏教以外に大乗系、密教系、ヒンドゥー教も王朝の宗教として併存しており、上座部仏教とそれらの宗教の違いは明確に認識されていなかった[51]。住民にはナーガ信仰を持つものも多く[52]、宮廷行事には、ヒンドゥー教の占星術師、バラモン僧が参画していた。上座部仏教を導入したアノーヤターは大乗仏教寄りの信仰の持ち主であり[53]、アノーヤターの名が刻まれた観音像が多く発掘されている。大乗仏教、密教の影響は王朝末期にも残り、1255年に王妃タンブーラによって建立されたパヤートンズー寺院には密教的な要素の強い壁画が描かれた[54]

13世紀以降には、密教的な要素の強いアラニャ僧団が勢力を拡大する。森の中で活動する出家僧の集団を母体としており、マハーカサッパの元で勢力を拡大した。王朝滅亡後の1388年の碑文には、マハーカサッパがナンダウンミャーの病を治癒したことで王から財宝と土地を寄進された伝説が記されている[55]。1240年代にチャウセー地方に進出、1247年から1272年かけてシュエボー、チンドウィン一帯の土地を購入して寺領を増やした。彼らは土地購入の契約締結はもちろんのこと日常においても飲酒、肉食を行い[56]、その習慣は上座部仏教には受け入れがたいものであった。アラニャ僧団領の増加による収入減に対処するため、チャゾワーはセイロン島の仏教界と協調した宗教活動によってアラニャ僧団の弱体化を図ったが[56]、マハーカサッパの死後もアラニャ僧団の教えは広まり、パガン滅亡後にビルマ仏教界の一大勢力となる。

建築

パガン王朝時代に建築された寺院仏塔は、ビルマ芸術の頂点とも言えよう[57]。特に、この時代は大型寺院の建築技術に著しい発展が見られる[58]。ピュー族の文化から受け継いだ[59]迫持工法によるアーチ建築が特徴であり、ナラパティシードゥー以降は明るい色彩の窟院、仏塔が建てられるようになった[60]

王侯貴族などの富裕層は来世の幸福を願って功徳を積むため、宗教施設の建設と三宝への寄進を盛んに行った[61]。寺院の建立には多額の費用が掛かり、1196年にナラパティシードゥーが建立した仏塔は一基あたり44027チャッ(Tyat、現在もミャンマーの通貨単位に名前を残す)[62]の銀が払われた。成人男子の奴隷1人の価格は銀20チャッから25チャッであり[63]、仏塔の建立に奴隷2200人と同じ支出を要した計算になる。別の碑文には、窟院の建設費用は施設一式を含めて20000チャッが払われたこと[64]、仏像、窟院、僧院、塀の一式を建造するのに銀10000クラヤブ(165000グラム、奴隷300人超)[61]の出費があったと書かれる。そして建築事業に従事する労働者が報酬として支払われる銀、衣服、食料を求めてパガンに多く流入した[65]

文字

アノーヤター時代の碑文にはサンスクリット文字のみが使用され、次代のソウルーの時代の文字はパーリ語が使われた。アラウンシードゥーの時代はサンスクリット文字とパーリ語が使用され、ビルマ文字が主流となるのはナラパティシードゥーの治世を待たなければならない[66]。モン族が使用していた文字はチャンシッターの治世に頻繁に使用され、このことは彼がモン族の縁者であったことを示唆している[66]。ナラパティシードゥー以後の碑文の多くはビルマ文字で記され、サンスクリット文字、パーリ語、モン文字は次第に使われなくなった[59]1112年に製作されたミャ・ゼーディー碑文は四面にそれぞれビルマ文字、モン文字、パーリ語、ピュー文字で王の功徳が記されており、当時のパガンで複数の文字が共存していた様子を偲ばせる。

芸能、絵画

祈願[67]の時には楽器が演奏され、歌唱と踊りを専門とする者もいた。当時の楽器は太鼓シンバルラッパ角笛などがあり、奏者は三宝奴隷が主であったが[68]、楽器の演奏を生業とする芸人も存在していた。彼ら芸人の姿は寺院内の仏教壁画でも確認することができる。仏教壁画には宗教儀式や当時の風俗のほかに、チャンシッター・オンミンの壁画には王朝末期に襲来したモンゴル軍と元朝の大ハーンクビライの姿も描かれた[69]

外交

国土を接するクメール王朝としばしば争い、アノーヤター時代より支配下に置いていたサルウィン河口域を介してタイの北中部と交易を行った。セイロン島とは王朝南部の港湾都市を通じて経済と宗教において交流を持っており、12世紀末からは仏僧の相互派遣による仏教知識の伝達が活発になった。セイロンの王朝とは時に対立することもあり、セイロンの年代記『大史(マハヴァムサ)』はナラパティシードゥーがセイロン商人と駐在官を排除したことを記録する[70]。セイロン商人と駐在官は投獄もしくは追放され、セイロン商船への補給の停止、象の輸出の禁止を実施した[71]パガンに対して、セイロンは報復としてパガンの村落を破壊し、住民を誘拐して奴隷とした。僧侶を介した交渉によって両国の関係は修復されたと『大史』は説明するが、ビルマ語年代記にセイロンとの抗争は記録されていない[70]

中国漢籍史料では蒲甘と表記され、北宋の時代に中国と接触を持った。景徳元年(1004年)に三仏斎(シュリーヴィジャヤ王国)、大食(アラビア)の使節と共に入朝したことが1225年に成立した『諸蛮誌』に記され[72]崇寧5年(1106年)に再び朝貢した際の記録は『諸蛮誌』以外に『宋史』『文献通考』にも残る。1106年の朝貢当時、以前とは異なり大国に成長しているため、他の小国と同じように扱ってはならず、アラビア、ベトナムなどの大国と同等の応接をするべしとの通達が尚書省から出された[73]


ギャラリー


歴代君主

  1. アノーヤター1044年 - 1077年
  2. ソウルー(1077年 - 1084年
  3. チャンシッター(1084年 - 1113年
  4. アラウンシードゥー(1113年 - 1165年
  5. エインドーシン(ナラトゥー)(1165年 - 1170年
  6. ナラティンカー(1170年 - 1173年
  7. ナラパティシードゥー(1173年 - 1210年
  8. ナンダウンミャー(オウサナー、ティーローミンロー)(1210年 - 1234年
  9. チャゾワー(1234年 - 1250年
  10. オウサナー(1250年 - 1254年
  11. タヨウピイェー(ナラティーハパテ)(1254年 - 1287年
  12. チョウスワー(1287年 - 1299年
  13. ソウニッ(1299年 - 1314年

パガン朝は、タヨウピイェーが元に降伏した1287年をもって事実上滅亡した[74]。史料によって王名の表記と在位年はそれぞれ異なるが、ここでは『出生票集王統史』に準拠する。

パガン王朝に関する史料

ミャ・ゼーディー碑文

パガン王朝の姿を現在に伝える史料としては、寺院が壁画に記録した墨文と寺院に奉納された碑文、そしてビルマ語で書かれた王統史の手写本がある。前者2つは信憑性が高い反面記録が断片的であり[75]、後者は客観性と編纂された年代が遅い点に問題がある[76]

主要ビルマ語王統史

  • 『普遍王統史(ヤーザウインジョー)』 1502年に僧侶テイーラウンタによって編纂された、現存する最古の王統史[77]。パガン王朝に関する記述は少なく、王名の一覧だけにとどまる。
  • 『出生票集王統史』 1678年 - 1698年の間に編纂された[78]、歴代国王の生没年、即位年の一覧表。
  • 『大王統史(マハー・ヤーザウインドージー)』 1724年にウー・カラーによって編纂された。
  • 『玻璃王宮大王統史(フマンナン・マハー・ヤーザウインドージー)』 1829年コンバウン王パジードーの命で編纂された。


脚注

  1. ^ 太田「パガン」『アジア歴史事典』
  2. ^ a b 大野『謎の仏教王国パガン』、100頁
  3. ^ a b c 大野『謎の仏教王国パガン』、130頁
  4. ^ 石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、195頁 大野『謎の仏教王国パガン』、120-123頁
  5. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、127頁
  6. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、125頁
  7. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、137頁
  8. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、135-136頁
  9. ^ a b c 大野『謎の仏教王国パガン』、133頁
  10. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、175-177頁
  11. ^ 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、121頁 大野『謎の仏教王国パガン』、177頁
  12. ^ ビルマ語年代記にはベンガル地方のパティカヤの王が放った刺客によって暗殺されたと書かれる G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、74,78,484頁頁
  13. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、178頁
  14. ^ G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、81頁
  15. ^ 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、121頁
  16. ^ 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、131頁
  17. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、208頁
  18. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、211頁 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、132頁
  19. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、213頁
  20. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、214頁
  21. ^ 『元史』巻211、列伝第97、外夷3、緬、大徳4年の条
  22. ^ 『元史』巻211、列伝第97、外夷3、緬、大徳5年の条
  23. ^ 大野「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、99頁
  24. ^ G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、115頁
  25. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、56頁
  26. ^ G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、116頁
  27. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、141頁
  28. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、138-141頁
  29. ^ 大野「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、111頁 大野『謎の仏教王国パガン』、205頁
  30. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、206頁
  31. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、63-64頁 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、126頁
  32. ^ a b 大野『謎の仏教王国パガン』、182頁
  33. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、183頁
  34. ^ a b 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、123-124頁
  35. ^ 伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、291-292頁
  36. ^ G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、111頁
  37. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、185頁
  38. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、186頁
  39. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、190頁
  40. ^ 大野「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、103頁
  41. ^ G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、88頁
  42. ^ 収穫物の詳細については大野『謎の仏教王国パガン』、197頁を参照
  43. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、195-196頁
  44. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、196頁
  45. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、149-150,196-197頁
  46. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、198頁
  47. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、198頁
  48. ^ 石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、198頁
  49. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、136頁
  50. ^ 石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、201-202頁
  51. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、142頁 伊東利勝「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、126頁
  52. ^ 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、126頁 大野『謎の仏教王国パガン』、84-85頁
  53. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、134頁
  54. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、84-85頁
  55. ^ 伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、301-302頁
  56. ^ a b 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、131頁
  57. ^ 石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、203頁
  58. ^ 石澤、生田『東南アジアの伝統と発展』、204頁
  59. ^ a b 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、121頁
  60. ^ 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、122頁
  61. ^ a b 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、127頁
  62. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、198,200頁
  63. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、199頁
  64. ^ 大野「パカンの歴史」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』収録、107頁
  65. ^ 伊東「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録、127-128頁
  66. ^ a b 大野『謎の仏教王国パガン』、177頁
  67. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、159頁
  68. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、206頁
  69. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、64頁
  70. ^ a b G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、488頁
  71. ^ G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、86-87頁
  72. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、114頁
  73. ^ 『宋史』巻489、列伝第248、外国5、蒲甘
  74. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、56頁
  75. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、35頁
  76. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、31-34頁
  77. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、33頁
  78. ^ 大野『謎の仏教王国パガン』、38頁

参考文献

関連項目