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「ヴィルヘルム・カイテル」の版間の差分

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| 生年月日 = [[1882年]][[9月22日]]
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| 画像説明 = [[1942年]]のヴィルヘルム・カイテル元帥
| 渾名 = ラカイテル(LaKeitel)
| 渾名 = ラカイテル(LaKeitel)
| 生誕地 = [[画像:Flag of the German Empire.svg|20px]] [[ドイツ帝国]]<br>[[画像:Flagge Herzogtum Braunschweig.svg|20px]] [[ブラウンシュヴァイク公国]]<br>ヘルムシュローデ
| 生誕地 = [[画像:Flag of the German Empire.svg|25px]] [[ドイツ帝国]]<br>[[画像:Flagge Herzogtum Braunschweig.svg|25px]] [[ブラウンシュヴァイク公国]]<br>ヘルムシュローデ
| 死没地 = [[画像:Flag of Germany (1946-1949).svg|20px]] [[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍占領下ドイツ]]<br>[[ニュルンベルク]]
| 死没地 = [[画像:Flag of Germany (1946-1949).svg|25px]] [[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍占領下ドイツ]]<br>[[ニュルンベルク]]
| 所属政体 = [[画像:Flag of the German Empire.svg|20px]] [[ドイツ帝国]]<br>[[画像:Flag of Germany.svg|20px]] [[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]<br>[[画像:Flag of Germany 1933.svg|20px]] [[ドイツ]]
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| 所属組織 = [[画像:War Ensign of Germany 1903-1918.svg|20px]] [[ドイツ帝国軍|ドイツ帝国陸軍]]<br/>(Kaiserliche Armee)<br/>[[画像:Flag of Weimar Republic (war).svg|20px]] [[ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和国軍陸軍]]<br/>(Reichsheer)<br/>[[画像:Balkenkreuz.svg|20px]] [[ドイツ国防軍|ナチス・ドイツ国防軍陸軍]]<br/>(heer)<br/>
| 所属組織 = [[画像:War Ensign of Germany 1903-1918.svg|20px]] [[ドイツ帝国軍|ドイツ帝国陸軍]]<br/>(Kaiserliche Armee)<br/>[[画像:Flag of Weimar Republic (war).svg|20px]] [[ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和国軍陸軍]]<br/>(Reichsheer)<br/>[[画像:Balkenkreuz.svg|20px]] [[ドイツ国防軍|ナチス・ドイツ国防軍陸軍]]<br/>(heer)<br/>
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| 除隊後 = [[ニュルンベルク裁判]]被告人<br/>絞首刑
| 除隊後 = [[ニュルンベルク裁判]]被告人<br/>絞首刑
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'''ヴィルヘルム・ボーデヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル'''('''Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keitel''', [[1882年]][[9月22日]] - [[1946年]][[10月16日]])<!-- (またヰルヘルム・ボーヰン・ヨハン・グスタフ・カテル) -->は、[[第二次世界大戦]]中のドイツ第三帝国の軍人。[[国防軍最高司令部]](OKW)総長。最終階級は[[元帥 (ドイツ)|元帥]]。
'''ヴィルヘルム・ボーデヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル'''('''Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keitel''', [[1882年]][[9月22日]] - [[1946年]][[10月16日]])は、[[ドイツ]]の軍人。[[第二次世界大戦]]中[[国防軍最高司令部]](OKW)総長を務めた軍における最終階級は[[元帥 (ドイツ)|元帥]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[1882年]]、[[ブラウンシュヴァイク公国]][[ハルツ山地]][[ヘルムシュローデ]]に小規模な農場を所持していた地主カール・カイテルの次男として生まれる。弟に[[ボデヴィン・カイテル]]がいる。弟ものちに軍人となり、カイテルの引き立てで1938年から1942年までドイツ陸軍人事部長を務めることになる
[[1882年]]、[[ブラウンシュヴァイク公国]][[ハルツ山地]][[ヘルムシュローデ]]([[:de:Helmscherode]])生まれる<ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/KeitelWilhelm/index.html LeMO]</ref><ref name="クノップ104">クノップ、104頁</ref><ref name="ヴィストリヒ56">ヴィストリヒ、56頁</ref>。父は小規模な農場を所持していた地主カール・カイテル(Carl Keitel)。母はそ妻アポロニア(Apollonia)(旧姓ヴィゼーリク(Vissering))<ref name="LeMO"/>

弟に[[ボーデヴィン・カイテル]]([[:de:Bodewin Keitel]])がいる。弟ものちに軍人となり、カイテルの引き立てで1938年から1942年までドイツ陸軍人事部長を務めることになる。


少年時代のカイテルは家族から離れて[[ゲッティンゲン]]の[[ギムナジウム]]に学んだ。
少年時代のカイテルは家族から離れて[[ゲッティンゲン]]の[[ギムナジウム]]に学んだ。


=== ドイツ帝国軍時代 ===
=== ドイツ帝国軍時代 ===
同校を卒業後、父親の命令で軍人の道を進むこととなった<ref name="クノップ109">クノップ、109頁</ref>。士官学校を経ずして<ref name="クノップ109">クノップ、109頁</ref><ref name="ゴールデンソーン53">ゴールデンソーン、53頁</ref>、1901年3月に[[ヴォルフェンビュッテル]]([[:de:Wolfenbüttel]])の第46野戦砲兵隊に士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した<ref name="LeMO"/><ref name="Axis">[http://www.geocities.com/~orion47/ Axis Biographical Research]の"Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel"の項目</ref>。
同校を卒業後、父親の命令でドイツ帝国軍に入隊し、[[士官学校]]をへずして、1900年に第46野戦砲兵隊に[[少尉]]として任官した。1902年には中尉に昇進するとともに公国の首都[[ブラウンシュヴァイク]]の勤務となり、同地で摂政の宮廷舞踏会などに招かれるようになり、将来を約束された軍人となっていく。1909年にハノーファーの資産家の娘リーザ・フォンテーン(Lisa Fontaine)と結婚して6児をもうけた。大尉として従軍した[[第一次世界大戦]]では、1914年に[[フランドル]]において榴弾の弾片で負傷し、[[二級鉄十字章]]と[[一級鉄十字章]]、そして[[戦傷章|戦傷章黒章]]を受賞している。この第一次世界大戦初期の戦闘の参加はカイテルの生涯で唯一の実戦経験である。1915年3月から[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に配属となる。本部内では事務能力を高く認められて、1917年にはドイツ陸軍の歴史の中で最年少の参謀本部首席将校となった。またこの参謀本務勤務時代に四歳年長の[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]少佐(当時)と親しくなった。

1902年8月に少尉(Leutnant)に昇進するとともに<ref name="Axis"/>、公国の首都[[ブラウンシュヴァイク]]の勤務となる<ref name="クノップ109">クノップ、109頁</ref>。同地で摂政の宮廷舞踏会などに招かれるようになり、将来を約束された軍人となっていく。非常にまじめで「[[ギャンブル]]もせず、浮いた噂の一つもない」と言われていた<ref name="クノップ109"/>。

野戦砲兵学校や軍事乗馬学校を出た後、1908年には所属する第46野戦砲兵連隊の連隊長副官となった<ref name="LeMO"/><ref name="Axis"/>。1909年に[[ハノーファー]]の資産家の地主の娘リーザ・フォンテーン(Lisa Fontaine)と結婚<ref name="LeMO"/><ref name="クノップ110">クノップ、110頁</ref>。カイテル夫妻は6児をもうけた。

[[第一次世界大戦]]が開戦した際には第46砲兵連隊長副官の中尉だった。カイテルの連隊は[[西部戦線]]に動員された<ref name="LeMO"/>。カイテルは榴弾の破片で戦傷を負い、[[二級鉄十字章]]と[[一級鉄十字章]]、そして[[戦傷章|戦傷章黒章]]を受章した<ref name="Axis"/><ref name="クノップ110"/>。この第一次世界大戦初期の戦闘の参加はカイテルの生涯で唯一の実戦経験である<ref name="クノップ110"/>。

病院を退院した後、1915年3月から[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に配属となる。本部内では事務能力を高く認められて、1917年にはドイツ陸軍の歴史の中で最年少の参謀本部首席将校となった<ref name="クノップ112">クノップ、112頁</ref>。またこの参謀本務勤務時代に四歳年長の[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]少佐(当時)と親しくなった<ref name="クノップ112"/>。


=== ヴァイマル共和国軍時代 ===
=== ヴァイマル共和国軍時代 ===
第一次世界大戦の敗戦後、[[ドイツ義勇軍|義勇軍(フライコール)]]の活動に参加。またヴェルサイユ講和条約によって総人員10万人、将校は4000人にまで制限された[[ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和国軍]] (Reichswehr) の将校に選び残された。彼の事務能力の高さがうかがわれる。新ドイツ軍は参謀本部を置くことも禁止されていたが、「[[兵務局 (ドイツ陸軍)|兵務局]](Truppen amt)」と名前を偽装して事実上参謀本部を復活させた。カイテルもこの兵務局に配属となり1925年には兵務局の部署のひとつ編成部(T2部)に配属されている。1929年10月には同部の部長に就任した
第一次世界大戦の敗戦後、[[ドイツ義勇軍|義勇軍(フライコール)]]の活動に参加<ref name="ヴィストリヒ36">ヴィストリヒ、36頁</ref>。また[[ヴェルサイユ条約]]によって総人員10万人、将校は4000人にまで制限された[[ヴァイマル共和国軍]] (Reichswehr) の将校に選び残された。彼の事務能力の高さがうかがわれる<ref name="クノップ114-116">クノップ114-116頁</ref>


ヴァイマル共和国軍ではまず第10旅団参謀<ref name="Axis"/>、ついで1920年から1922年まで[[ハノーファー]]の騎兵学校の戦術教官となる<ref name="LeMO"/><ref name="Axis"/>。さらに1922年から1925年にかけてヴォルフェンビュッテルで第6砲兵連隊隷下の第7中隊長を務めた<ref name="Axis"/>。
カイテルはヴェルサイユ条約により様々な制限が課せられていたドイツ軍の軍拡の逃げ道を模索した。武装民兵集団の「国境警備隊」に大量の武器を提供して名目上軍の武器にならぬようにしたり、[[スペイン]]・[[オランダ]]・[[スウェーデン]]・[[日本]]など比較的中立的かつ生産設備が整った外国で航空機や戦車や[[Uボート]]の建造を行った。


ヴァイマル共和国軍はヴェルサイユ条約で参謀本部を置く事を禁止されていたが、「[[兵務局 (ドイツ陸軍)|兵務局]](Truppen amt)」と名前を偽装して事実上参謀本部を復活させた。カイテルもこの兵務局に配属となり、1925年から1927年には兵務局の部署のひとつ教育部(T4部)に配属され、「東部国境守備隊」の教育と軍備を担当した<ref name="LeMO"/><ref name="Axis"/><ref name="クノップ116">クノップ、116頁</ref>。
ソ連とも関係を深めようとした。ソ連で軍事演習を行わせ、また1931年にはカイテル自身がソ連を訪問している。「共産主義の偉大さ」を見せつけるためにソ連側が一方的に設定したツアーコースを回されるだけであったが、カイテルは共産主義に感化されたところがかなりあったらしく、後に「もう少しでボルシェヴィキになって帰ってくるところだった」などと語っている。

ついで1927年から1929年にかけて[[ミンデン]]で第6砲兵連隊隷下の第2大隊長を務めた<ref name="LeMO"/><ref name="Axis"/>。

1929年10月には兵務局に戻り、陸軍編成部長に就任した<ref name="LeMO"/><ref name="Axis"/><ref name="クノップ117">クノップ、117頁</ref>。カイテルはヴェルサイユ条約により様々な制限が課せられていたドイツ軍の軍拡の逃げ道を模索した。武装民兵集団の「国境警備隊」に大量の武器を提供して名目上軍の武器にならぬようにしたり、[[スペイン]]・[[オランダ]]・[[スウェーデン]]・[[日本]]など比較的中立的かつ生産設備が整った外国で航空機や戦車や[[Uボート]]の建造を行った<ref name="クノップ117"/>。

ソ連とも関係を深めようとした。ソ連で軍事演習を行わせ、また1931年にはカイテル自身がソ連を訪問している。「共産主義の偉大さ」を見せつけるためにソ連側が一方的に設定した[[コルホーズ]]などのツアーコースを回されるだけであったが、カイテルは共産主義に感化されたところがかなりあったらしく、後に「もう少しで[[ボルシェヴィキ]]になって帰ってくるところだった」などと語っている<ref name="クノップ117-118">クノップ、117-118頁</ref>。


=== ナチス・ドイツ軍時代 ===
=== ナチス・ドイツ軍時代 ===
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-H12262, Nürnberg, Reichsparteitag, Tag der Wehrmacht.jpg|right|thumb|250px|[[1938年]]ナチ党の[[ニュルンベルク党大会]]に出席したドイツ国防軍幹部達。左から空軍の[[エアハルト・ミルヒ]]、カイテル(間にいる人物)、[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]、海軍[[エーリヒ・レーダー]]、[[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス]]]]
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-H12262, Nürnberg, Reichsparteitag, Tag der Wehrmacht.jpg|right|thumb|250px|[[1938年]][[9月12日]]、ナチ党の[[ニュルンベルク党大会]]に出席したドイツ国防軍幹部達。<br><small>左から[[エアハルト・ミルヒ]]空軍大将国防軍最高司令部総長カイテル砲兵大将(間にいる人物)、陸軍総司令官[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]砲兵大将、海軍総司令官[[エーリヒ・レーダー]]海軍上級大将第8軍団長[[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス]]騎兵大将。</small>]]
カイテルは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]が1933年に政権を獲得するまではそれに一切関わっていない。むしろ増長著しいナチスの[[突撃隊]](SA)をいまいましくさえ思ていたようである
カイテルは[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]が1933年に政権を獲得するまではそれに一切関わっていない。むしろ増長著しいナチスの[[突撃隊]](SA)をいまいましくさえ思い、[[アドルフ・ヒトラー]]を「大ぼら吹き野郎」と呼んで馬鹿にしていた<ref name="クノップ118-119">クノップ、118-119頁</ref>

しかし1933年1月30日にヒトラー内閣が成立し、カイテルの親友ブロンベルクがヒトラー内閣の国防相に任命され、さらに1933年7月には[[バート・ライヘンヒル]]で開かれた「突撃隊指導者大会」でカイテル自身がヒトラーと会見をもつ機会があり、徐々にヒトラーに心酔するようになった<ref name="クノップ119">クノップ、119頁</ref>。ただしナチ党には最後まで入党していない。1933年10月に編成部長の職を離職し、1934年4月に[[少将]]に昇進するとともに[[ポツダム]]の師団の師団長代理となった<ref name="クノップ120">クノップ、120頁</ref>。1934年10月には[[ブレーメン]]に派遣され第22師団の編成にあたった<ref name="Axis"/>。


ドイツがヴェルサイユ条約を一方的に破棄して再軍備を始めた年である[[1935年]][[10月1日]]には[[国防軍部]] (Wehrmachtamt)の部長に就任した<ref name="Axis"/>。国防軍部は国土防衛・対外防諜・軍需経済の各課を保有する国防省の最重要部署であった。カイテルのメモによるとこの人事は陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]のブロンベルクへの推挙によるという<ref name="ゲルリッツ132">ゲルリッツ、132頁</ref>。以降ヒトラーとブロンベルクの下で急速に昇進する。1936年1月には[[中将]]に昇進し、1937年には砲兵[[大将]]となった。ブロンベルクとカイテルは[[ゲシュタポ]]とも連携して「政治的に信用できない者」を国防軍から次々と追放していき、軍のナチ化をすすめた<ref name="クノップ125">クノップ、125頁</ref>。
しかし1933年1月30日にヒトラー内閣が成立し、カイテルの親友ブロンベルクがヒトラー内閣の国防相に任命され、さらに1933年7月には[[バート・ライヘンヒル]]で開かれた「突撃隊指導者大会」でカイテル自身がヒトラーと会見をもつ機会があり、徐々にヒトラーに心酔するようになった。ただしナチ党には最後まで入党していない。


[[File:Bundesarchiv Bild 183-H13192, Adolf Hitler im Sudetenland.jpg|thumb|left|250px|[[1938年]][[10月3日]]、[[ズデーテン併合]]の道中、昼食を取るナチ党首脳と国防軍将軍たち。<br><small>テーブル奥右からカイテル大将、[[ズデーテン・ドイツ人党]]党首[[コンラート・ヘンライン]]、総統[[アドルフ・ヒトラー]]、陸軍総司令官ブラウヒッチュ大将、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]、第16装甲軍団長[[ハインツ・グデーリアン]]中将。</small>]]
ヒトラーとブロンベルクのもとでカイテルは急速に昇進した。1934年4月には[[少将]]。ドイツがヴェルサイユ条約を一方的に破棄して再軍備を始めた年である1935年10月には[[国防軍部]] (Wehrmachtamt) 部長に就任した。1936年1月には[[中将]]に昇進し、1937年には砲兵[[大将]]となった。ブロンベルクとカイテルは「政治的に信用できない者」を国防軍から次々と追放していき、軍のナチ化をすすめた。
1938年1月、カイテルの息子[[カール・ハインツ・カイテル]]とブロンベルクの娘ドロテー・フォン・ブロンベルクが結婚することとなったが、2月にはヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]を解任した([[ブロンベルク罷免事件]])。さらに後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言した。このために[[国防軍最高司令部]](OKW)を設けられ、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。国防軍最高司令部は旧国防省の任務をほぼ受け継いでおり、カイテルの職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職であった<ref name="ゲルリッツ169">ゲルリッツ、169頁</ref><ref name="クノップ133">クノップ、133頁</ref>。また併せて国防軍最高司令部の陸軍への支配力を高める意味からカイテルの弟であるボーデウィン・カイテル少将が陸軍人事部長に任命されている<ref name="ゲルリッツ168">ゲルリッツ、168頁</ref>。


1938年11月には[[上級大将]]に昇進している。ドイツ国防軍に[[国家社会主義]]思想を徹底させる事に励むカイテルは、かつて皇帝の軍隊の参謀本部将校だったにもかかわらず、皇帝への忠誠心をあっさり放り捨て、[[1939年]][[1月27日]]の旧ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の誕生日記念式典にも軍部は一切参加してはならないと厳命した<ref name="クノップ138">クノップ、138頁</ref>。1939年4月にはナチ党員でないにもかかわらず、[[チェコスロバキア併合]]の際の進軍の褒賞として[[黄金ナチ党員バッジ]]を授与された<ref>パーシコ、上巻42頁</ref>。
1938年1月、カイテルの息子[[カール・ハインツ・カイテル]]とブロンベルクの娘ドロテー・ブロンベルクが結婚することとなったが、2月にはヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]を解任、後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言し、このために[[国防軍最高司令部]]を設け、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。この職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職である。11月には[[上級大将]]に昇進している。


カイテルは、同僚からドイツ語のおべっか使いをもじった「ラカイテル」と呼ばれたり<ref group="注釈">フランス語で下僕を意味するlaquaisを変じ、laquai-tel即ち、ラ・カイ・テル(La-Kei-tel)と揶揄されたとする説もある(ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気の歴史』片岡啓治 訳、[[講談社]]、2000年、ISBN 4-06-159433-8、p.249)。</ref>、始終頭を縦に振るおもちゃのロバをさす「ニヒゲゼル」とも呼ばれた<ref>ジョセフ・パーシコ『ニュルンベ事裁判 上』p.126。</ref>。
カイテルは、同僚からドイツ語のおべっか使い(Lakai)をもじった「ラカイテル」と呼ばれたり<ref name="クノップ137">クノップ、137頁</ref><ref name="パーシコ上126">パーシコ、上巻126頁</ref><ref group="注釈">フランス語で下僕を意味するlaquaisを変じ、laquai-tel即ち、ラ・カイ・テル(La-Kei-tel)と揶揄されたとする説もある(ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気の歴史』片岡啓治 訳、[[講談社]]、2000年、ISBN 4-06-159433-8、p.249)。</ref>、始終頭を縦に振るおもちゃのロバをさす「ニヒゲゼル」とも呼ばれた<ref name="パーシコ上126"/>。ヒトラーは後年カイテについて「映画館の案内係程度の頭の持ち主」と評し、これを聞いたある将校が「ではなぜそのような人物をドイツ国防の最高位に任じたのですか」と聞くと、ヒトラーは「それはあの男が犬のように忠実だからだ」と答えたという<ref name="パーシコ9">パーシコ下巻9頁</ref>。


当時カイテルの副官だった将校の証言によると、ヒトラーを交えた作戦会議では、常に「総統閣下の仰る通り」「総統閣下、あなたは史上最高の軍事指導者です」「総統が過ちを犯されるはずはない」などと、口癖のように話していたという。ちなみに、国防軍最高司令部作戦部長[[アルフレート・ヨードル]]上級大将は、カイテルの軍事センスの無さを見抜き、作戦上の詳細は一切伝えず、大枠のみ伝えていたという。ただし実務能力は高かったため、統制の取れにくかった国防軍を短期間でひとつにまとめるという功績を残している。
当時カイテルの副官だった将校の証言によると、ヒトラーを交えた作戦会議では、常に「総統閣下の仰る通り」「総統閣下、あなたは史上最高の軍事指導者です」「総統が過ちを犯されるはずはない」などと、口癖のように話していたという。ちなみに、国防軍最高司令部作戦部長[[アルフレート・ヨードル]]上級大将は、カイテルの軍事センスの無さを見抜き、作戦上の詳細は一切伝えず、大枠のみ伝えていたという。ただし実務能力は高かったため、統制の取れにくかった国防軍を短期間でひとつにまとめるという功績を残している。


=== 第二次世界大戦 ===
=== 第二次世界大戦 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1985-0930-502, General Keitel in Lodz.jpg|right|thumb|250px|1939年9月、占領したポーランド・[[ウッチ]]を走るカイテル上級大将の自動車。]]
[[第二次世界大戦]]が勃発して1940年にドイツがフランスを下すと、カイテルはドイツ軍代表として[[コンピエーニュ]]での休戦協定に署名した。[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス戦]]での功績を賞されて同年7月に[[元帥 (ドイツ)|元帥]]に列せられる。しかし戦場で指揮を執ったわけでもないカイテルが元帥に叙されたことに反対の声も上がったという。
[[1939年]][[9月1日]]にドイツ国防軍による[[ポーランド侵攻]]が開始され、[[イギリス]]と[[フランス]]がドイツに宣戦を布告し、[[第二次世界大戦]]が勃発した。ポーランド侵攻は主に陸軍総司令官[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]の陸軍総司令部が中心となって作戦指導しており、カイテルの国防軍最高司令部の役割は二次的な物だった。しかしポーランド侵攻後、カイテルのもとには[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]の[[アインザッツグルッペン]]の虐殺に関する報告書が積み上がった。[[国防軍情報部]](アプヴェーア)部長[[ヴィルヘルム・カナリス]]提督もカイテルにアインザッツグルッペンに関する苦情を申し立てたが、カイテルは「国防軍がこうした虐殺に関与しなくていいようにするためには親衛隊とゲシュタポが隣にいる事を許可するしかない」と回答したという<ref>クノップ、138-139頁</ref>。


ヒトラーは1939年冬のうちにも対フランス戦を開始するつもりだったが、カイテルは陸軍総司令官ブラウヒッチュの兵に休息を取らせる必要があるという意見を容れて、1939年冬の軍事行動に反対し、ヒトラーと激しい口論をした。カイテルはヒトラーの罵倒に激怒して前線の部隊の指揮に回してほしいと求めたが、ヒトラーの説得で思いとどまったという。結局後になってヒトラーは1939年冬のフランス攻撃を諦めた<ref name="クノップ141">クノップ、141頁</ref>。
カイテルはイギリスを倒す前にソ連と戦争をすることには反対の立場であった。外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と組んでヒトラーに[[ヨシフ・スターリン]]と協議の場を持つことを提案している。しかしヒトラーに相手にされることはなかった。


1940年春の[[北欧侵攻]]では陸軍・海軍・空軍の共同作戦が重要とされてカイテルの国防軍最高司令部が主導することとなった。特に作戦本部長[[アルフレート・ヨードル]]が活躍し、ドイツ軍は対北欧戦に完全勝利を収めた。以降ヨードルはヒトラーの戦略アドバイザーとしての役割を敗戦まで担い続けた<ref>クノップ、141-142頁</ref>。
それにもかかわらず1941年末にモスクワ攻略が失敗した際にはカイテルがヒトラーからすさまじい叱責を受け、カイテルが自殺しそうになったとアルフレート・ヨードルは後に証言している。


[[File:Bundesarchiv Bild 146-1982-089-18, Waffenstillstand von Compiègne, Unterhändler.jpg|thumb|250px|left|1940年6月、ドイツ軍を代表してフランスとの間の休戦協定文書に署名したカイテル]]
[[1941年]]12月7日には『[[夜と霧 (法律)|夜と霧]]の布告』に副署した。この布告ではドイツ占領軍当局に反抗する者の殺害が指示されており、結果として多くの[[レジスタンス運動|レジスタンス]]が殺害された。
1940年5月からの[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|対フランス戦]]ではドイツ軍が連戦連勝を重ね、大国フランスをわずか6週間で下した<ref>クノップ、142-143頁</ref>。1940年6月21日から6月22日にかけてパリ郊外の[[コンピエーニュ]]において列車内(一次大戦のときにドイツが屈辱的な休戦協定を結ばされた時と同じ列車)でドイツとフランスの休戦協定の交渉が行われた<ref name="阿部464">阿部、464頁</ref>。カイテルはこの調印式にドイツ軍代表として出席し、フランス軍代表オンツィジェール将軍([[:fr:Charles Huntziger|fr]])に対して「この車両においてドイツ民族受難の時が始まった。一民族に与えうる最大の不名誉と屈辱が始まった。人間としての苦しみ、物質的な苦しみがここから始まったのだ。(略)その世界大戦終結より25年の時を経た1939年9月3日にイギリスとフランスは、またしても何の根拠もなくドイツに宣戦を布告した。今や武力による決着はつけられた。フランスは倒されたのである。」と宣言し<ref>クノップ、144-145頁</ref>、フランスに屈辱的な内容の休戦協定の締結を調印させた。カイテルはこの復讐劇に大変な満足感を感じ、後にこの瞬間を「わが軍隊生活最高の時」と語った<ref name="クノップ143">クノップ、143頁</ref>。


1940年7月19日に[[元帥 (ドイツ)|元帥]]に列せられる。戦場で指揮を執ったわけでもないカイテルが元帥に叙されたことに一部で反対の声も上がったが、大きな戦勝の中で元帥号の連発されるのも許されるムードだった<ref>クノップ、145-146頁</ref>。
[[スターリングラードの戦い]]以降、ドイツの戦況が悪化してくると、ヒトラーが死守命令を連発するようになる。撤退許可を求める者に対してはヒトラーが政治的な理由で却下し、その後ヒトラーは国防軍最高司令部総長カイテル元帥に話を振り、カイテルも「自分の意見を持たない無駄なおしゃべり」([[フランツ・ハルダー]])をして結局総統と同じ結論を出すのがドイツの作戦本部の日常の姿となっていった。ドイツの戦況がさらに悪化してもカイテルの主人への追従ぶりは変わらなかった。むしろさらに追従を強めていった。国防軍最高司令部の会議で部下の将校がヒトラーの死守命令に代わる新たな戦術を考えることを提案しただけでカイテルは「敗北主義者がこの場にいる資格はない」と絶叫して黙らせた。


[[Image:Wilhelm Keitel Kapitulation.jpg|right|thumb|250px|ソ連軍に対する降伏文書に署名するヴィルヘルム・カイテル]]
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J1117-500-002, Adolf Hitler und Wilhelm Keitel.jpg|thumb|200px|1941年3月9日、[[総統官邸]]。ヒトラー総統とカイテル元帥。]]
カイテルはイギリスを倒す前にソ連と戦争をすることには反対の立場であった。外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と組んでヒトラーに[[ヨシフ・スターリン]]と協議の場を持つことを提案している。しかしヒトラーに相手にされることはなかった<ref name="クノップ146">クノップ、146頁</ref>。それにもかかわらず1941年末にモスクワ攻略が失敗した際にはカイテルがヒトラーからすさまじい叱責を受け、カイテルが自殺しそうになったとアルフレート・ヨードルは後に証言している<ref name="クノップ151">クノップ、151頁</ref>。
[[1944年]]7月20日の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]の際には爆発現場に居合わせた。カイテルが真っ先に「我が総統ご無事ですか」と叫びながらヒトラーに駆け寄り、ヒトラーを抱きかかえて外へ連れ出している。その後、陰謀に関与した軍人は[[軍法会議]]ではなしに、[[反逆罪]]を裁く[[ローラント・フライスラー]]の[[人民法廷]]([[:de:Volksgerichtshof|Volksgerichtshof]])にかけるために、先ず、国防軍に名誉法廷 ([[:de:Ehrenhof (Wehrmacht)|Ehrenhof]]) にかけられることとなった。[[エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン]]元帥他55人の軍人の軍籍が剥奪された。[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]、[[ハインツ・グデーリアン]]他と並んでカイテルも名誉法廷の構成員の一人として同僚の名誉剥奪に関与した。また7月24日にはカイテルは国防軍の全軍人に対して敬礼はすべて手を掲げるナチス式敬礼にするよう命じている。1945年1月末には「将兵の行動に関する規定」に署名し、撤退命令を出す将校は「敗北主義者」として即決裁判で死刑、必要ならばその場で即座に殺害してよいこととした。脱走兵の親族に連帯責任を取らせる命令も出した。


[[1941年]]12月7日には『[[夜と霧 (法律)|夜と霧]]の布告』に副署した。この布告ではドイツ占領軍当局に反抗する者は軍法会議による判決が下されなかったならば、親族への通知なしにドイツの[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]へと移送されることになった。この法令によってフランスだけでも7000人を超える[[レジスタンス運動|レジスタンス]]と目された人物が痕跡も残さず姿を消した<ref name="クノップ153">クノップ、153頁</ref>。
[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]司令部、[[バーナード・モントゴメリー|モントゴメリー]]元帥の司令部における降伏式に続いて、[[1945年]][[5月8日]]、[[ベルリン]]市内のカールスホルスト ([[:de:Karlshorst|Karlshorst]]) の[[工兵]]学校においてソ連軍に対する降伏式が行われた。カイテル元帥は陸軍を代表してソ連との降伏文書の署名を行った(海軍は[[ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク]]提督 、空軍は[[ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ]]上級大将であった)。なお西側との降伏文書署名を行ったのはアルフレート・ヨードル将軍であった。この人事はどうやらカイテルが、[[ヒトラー内閣#参考:ヒトラーの遺書による内閣|ヒトラーの遺言]]により大統領兼国防軍総司令官となった[[カール・デーニッツ]]からあまり好まれていなかったためのようである。

また1941年10月にはゲリラに対処するための「報復に関する命令」、[[ソ連]]の[[政治将校]]に対処するための「[[コミッサール指令|政治委員に関する命令]]」([[:en:Commissar Order|en]])に署名し、1942年10月18日には破壊工作員などに対処するための「[[コマンドに関する指令]]」([[:en:Commando_Order|en]])に署名した<ref name="パーシコ上126">パーシコ、上巻126頁</ref>。

[[File:Bundesarchiv Bild 146-1990-044-13, Werner Mölders bei Adolf Hitler.jpg|left|thumb|250px|1941年7月25日。ヒトラー総統(中央)、カイテル元帥(ヒトラーの左後方)、空軍総司令官[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]国家元帥(右端)、空軍エースパイロット[[ヴェルナー・メルダース|メルダース]]大佐(左端)]]
[[スターリングラードの戦い]]以降、ドイツの戦況が悪化してくると、ヒトラーが死守命令を連発するようになる。撤退許可を求める者に対してはヒトラーが政治的な理由で却下し、その後ヒトラーは国防軍最高司令部総長カイテル元帥に話を振り、カイテルも「自分の意見を持たない無駄なおしゃべり」([[フランツ・ハルダー]])をして結局総統と同じ結論を出すのがドイツの作戦本部の日常の姿となっていった。ドイツの戦況がさらに悪化してもカイテルの主人への追従ぶりは変わらなかった。むしろさらに追従を強めていった。国防軍最高司令部の会議で部下の将校がヒトラーの死守命令に代わる新たな戦術を考えることを提案しただけでカイテルは「敗北主義者がこの場にいる資格はない」と絶叫して黙らせた。1943年1月にはナチ党官房長[[マルティン・ボルマン]]と総統官邸長官[[ハンス・ハインリヒ・ラマース]]とともに総統へ取り次ぐかどうかを決めるための機関として「三人委員会(Dreimännerkollegiums)」を創設している。

[[1944年]]7月20日の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]の際には爆発現場に居合わせた。カイテルが真っ先に「我が総統ご無事ですか」と叫びながらヒトラーに駆け寄り、ヒトラーを抱きかかえて外へ連れ出している<ref>パーシコ、下巻127頁</ref>。その後、陰謀に関与した軍人は[[軍法会議]]ではなく、[[反逆罪]]を裁く[[ローラント・フライスラー]]の[[人民法廷]]にかけるために、先ず、国防軍の[[名誉法廷]] ([[:de:Ehrenhof (Wehrmacht)|Ehrenhof]]) にかけられることとなった。[[エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン]]元帥他55人の軍人の軍籍が剥奪された。[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]、[[ハインツ・グデーリアン]]他と並んでカイテルも名誉法廷の構成員の一人として同僚の名誉剥奪に関与した。また7月24日にはカイテルは国防軍の全軍人に対して敬礼はすべて手を掲げるナチス式敬礼にするよう命じている。1945年1月末には「将兵の行動に関する規定」に署名し、撤退命令を出す将校は「敗北主義者」として即決裁判で死刑、必要ならばその場で即座に殺害してよいこととした。脱走兵の親族に[[連帯責任]]を取らせる命令も出した。

[[File:Wilhelm Keitel Kapitulation.jpg|right|thumb|250px|ソ連軍に対する降伏文書に署名するカイテル]]
ヒトラーの自殺を知ると、[[ヒトラー内閣#参考:ヒトラーの遺書による内閣|ヒトラーの遺言]]により大統領兼国防軍総司令官となった[[カール・デーニッツ]]の[[フレンスブルク政府]]の下に参じた。[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]司令部、[[バーナード・モントゴメリー|モントゴメリー]]元帥の司令部における降伏式に続いて、[[1945年]][[5月8日]]、[[ベルリン]]市内の[[カールスホルスト]]([[:de:Karlshorst|Karlshorst]]) の[[工兵]]学校においてソ連軍に対する降伏式が行われた。カイテル元帥は陸軍を代表してソ連との降伏文書の署名を行った(海軍は[[ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク]]提督 、空軍は[[ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ]]上級大将であった)。なお西側との降伏文書署名を行ったのは[[アルフレート・ヨードル]]将軍であった。この人事はどうやらカイテルが、デーニッツに好感を持たれていなかったためらしい。


現在、カイテルが降伏文書の署名を行った建物はドイツ・ロシア友好博物館 ([[:de:Deutsch-Russisches Museum Berlin-Karlshorst|Deutsch-Russisches Museum Berlin-Karlshorst]]) になり、[[ベルリンの戦い|ベルリン攻防戦]]や降伏式の資料が展示されている。 
現在、カイテルが降伏文書の署名を行った建物はドイツ・ロシア友好博物館 ([[:de:Deutsch-Russisches Museum Berlin-Karlshorst|Deutsch-Russisches Museum Berlin-Karlshorst]]) になり、[[ベルリンの戦い|ベルリン攻防戦]]や降伏式の資料が展示されている。 


カイテルは他のフレンスブルク政府の面々より一足早く、5月13日にアメリカ軍の捕虜となっている。大物捕虜が集められていた[[バート・モンドルフ]]のホテルを使って作られた収容所に送られた。同じくここに収容された[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[カール・デーニッツ]]、[[アルフレート・ヨードル]]らとともに[[ニュルンベルク]]に移送された。この移送の際にバート・モンドルフ、ついでニュルンベルクでも刑務所長を務める[[アメリカ軍]][[大佐]][[バートン・アンドラス]]([[:en:Burton C. Andrus]])によって起立させられ、さらに「お前たちはもはや軍人ではない。犯罪者だ。」と宣告されて階級章がはぎ取られた<ref name="パーシコ上75">パーシコ、上巻75頁</ref>。
カイテルは5月13日にアメリカ軍の捕虜となる。


=== 戦後 ===
=== ニュルンベルク裁判 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-V01732, Nürnberger Prozess, Angeklagte.jpg|thumb|250px|1945年、[[ニュルンベルク裁判]]。前列左から[[ヘルマン・ゲーリング]]、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]、カイテル。]]
[[ニュルンベルク裁判]]にて侵略戦争の企図、戦争犯罪および人道に対する罪により起訴されて戦犯として裁かれた。カイテルは審理中に抗弁することはほとんどなく、口をつぐんでいたという。また、死刑判決が出るのを覚悟していたという。「追従者」の顔はこの裁判の際にも見え、[[ヘルマン・ゲーリング]]が他の被告に「団結」を求めた際、最もゲーリングの支配を強く受けていた人物の一人がカイテルだったという。
カイテルは第1起訴事項「侵略戦争の[[共同謀議]]」、第2起訴事項「[[平和に対する罪]]」、第3起訴事項「[[戦争犯罪]]」、第4起訴事項「[[人道に対する罪]]」と全ての訴因において起訴された<ref name="ニュルンベルク裁判記録302">『ニュルンベルク裁判記録』、302頁</ref>。


被告人達の心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると彼の知能指数は129だった<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。
精神分析官ダグラス・ケリー少佐はこうしたカイテルの状態について「カイテルはすでに生きる目的を失ったかのようになっている。自殺の危険が最も高い被告だ」などと書いている。


1945年11月20日からニュルンベルク裁判が開廷した。カイテルは審理中に抗弁することはほとんどなく、口をつぐんでいたという。また、死刑判決が出るのを覚悟していたという。「追従者」の顔はこの裁判の際にも見え、[[ヘルマン・ゲーリング]]が他の被告に「団結」を求めた際、最もゲーリングの支配を強く受けていた人物の一人がカイテルだったという。
1946年10月2日に死刑判決が下され、カイテル自身やフランス代表により銃殺による死刑が主張されたものの、[[1946年]][[10月16日]]に絞首刑に処された。ほかの死刑囚と異なり、「止めるべきことを止められなかった」と罪を認めるニュアンスの最終弁論を行い、同様の趣旨の遺言も残している。2006年に新たに公開された遺言状では、ヒトラーに対する忠誠と、裏切り者になることへの忌避が綴られていた。

精神分析官ダグラス・ケリー少佐はこうしたカイテルの状態について「カイテルはすでに生きる目的を失ったかのようになっている。自殺の危険が最も高い被告だ」などと書いている<ref>パーシコ、下巻10頁</ref>。「止めるべきことを止められなかった」と罪を認めるニュアンスの最終弁論を行い、同様の趣旨の遺言も残している。2006年に新たに公開された遺言状では、ヒトラーに対する忠誠と、裏切り者になることへの忌避が綴られていた。

1946年10月1日に判決が下った。カイテルの判決文は「このように衝撃的かつ広範囲にわたって犯罪を犯した場合、被告がたとえ一軍人であったとしても、上官の命令であったという弁明は減刑理由にはできない」としてカイテルを4つの訴因全てで有罪とした<ref name="パーシコ下271">パーシコ、下巻271頁</ref>。その後の量刑判決でカイテルは絞首刑判決を受けた。絞首刑判決を受けた時、カイテルは上官の命令でも受けるかのように軽く頷いた<ref name="パーシコ下278">パーシコ、下巻278頁</ref>。

=== 処刑 ===
[[File:Dead wilhelmkeitel.jpg|right|thumb|left|250px|絞首刑執行後のカイテルの遺体]]
カイテル自身やフランス代表により銃殺による死刑が主張されたものの、絞首刑判決に変更はなかった。[[1946年]][[10月16日]]午前1時10分から自殺した[[ヘルマン・ゲーリング]]を除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。カイテルは、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]に次いで二番目に処刑された。

カイテルは軍人らしく誇り高い態度で絞首台に上った<ref name="マーザー392">マーザー、392頁</ref>。最後の言葉は「どうかドイツ国民に憐みを賜わらんことを。二百万人以上の兵士が祖国のために死んでいきました。今、私は息子たちの後を追います。全てに勝るドイツ!」<ref name="クノップ167">クノップ、167頁</ref><ref name="パーシコ下309">パーシコ、下巻309頁</ref><ref name="マーザー392">マーザー、392頁</ref>。

カイテルはなかなか絶命せず、絞首刑執行から死亡までに24分もかかった<ref name="マーザー395">マーザー、395頁</ref>。

自殺したゲーリングを含めてカイテルら11人の遺体は、ミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨は[[イザール川]]の支流[[コンヴェンツ川]]に流された<ref name="パーシコ313">パーシコ、下巻313頁</ref>。


== 人物 ==
== 人物 ==
*[[第二次世界大戦]]においてただの一度も実戦指揮の経験が無く、叙された唯一の[[陸軍]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]である。カイテル自身もこれを[[コンプレックス]]に感じるところがあったらしく、ニュルンベルク裁判の弁護士[[オットー・ネルテ]]に話したところによると、一個師団でもいいから前線で指揮をとらせてほしいと[[ヘルマン・ゲーリング]]に仲介してもらってヒトラーに嘆願したことがあるという<ref>ジョセフ・パーシコ『ニュルンベルク軍事裁判 下』p.8</ref>。しかしヒトラーがカイテルに期待する役割はあくまで「ラカイテル最高司令部総長」であり、敗戦まで嘆願が受け入れられることはなかった。
*[[第二次世界大戦]]においてただの一度も実戦指揮の経験が無く、叙された唯一の[[陸軍]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]である。カイテル自身もこれを[[コンプレックス]]に感じるところがあったらしく、ニュルンベルク裁判の弁護士[[オットー・ネルテ]]に話したところによると、一個師団でもいいから前線で指揮をとらせてほしいと[[ヘルマン・ゲーリング]]に仲介してもらってヒトラーに嘆願したことがあるという<ref>パーシコ、下巻8</ref>。しかしヒトラーがカイテルに期待する役割はあくまで「ラカイテル最高司令部総長」であり、敗戦まで嘆願が受け入れられることはなかった。
*カイテルはその内面の意志の弱さに反して立派なひげをはやしていかにも軍人らしい屈強な風貌であった。これをヒトラーがうまく利用することもあった。1938年にヒトラーがオーストリア首相[[クルト・フォン・シュシュニク]]に恫喝を行った際にシュシュニクがためらっているのを見るとヒトラーは次の間に控えていたカイテルを大声で呼びつけた。ヒトラーは「軍の準備は整っておるか」とシュシュニク首相を前にしてわざわざカイテルに聞き、カイテルは「できております。我が総統。」と答えた。シュシュニク首相はこの問答に震えあがり、辞意を固めたという<ref>ジョセフ・パーシコ『ニュルンベルク軍事裁判 』、p.9</ref>。
*カイテルはその内面の意志の弱さに反して立派なひげをはやしていかにも軍人らしい屈強な風貌であった。これをヒトラーがうまく利用することもあった。1938年2月12日にヒトラーがオーストリア首相[[クルト・フォン・シュシュニク]]に恫喝を行った際にシュシュニクがためらっているのを見るとヒトラーは次の間に控えていたカイテルを大声で呼びつけた。ヒトラーは「軍の準備は整っておるか」とシュシュニク首相を前にしてわざわざカイテルに聞き、カイテルは「できております。我が総統。」と答えた。シュシュニク首相はこの問答に震えあがり、辞意を固めたという<ref name="パーシコ下9">パーシコ9</ref>。
*カイテルの父は1934年に死去した。この際にカイテルはヘルムシュローデへ帰り、父の地主の仕事を継ぐため、軍に退官届をだしている。しかし妻リーザは夫に軍でのさらなる出世を求めており、リーザから軍にとどまるよう説得された。またカイテルの事務能力を評価していた[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]陸軍総司令官からも留任を求められ、結局カイテルは辞表を撤回した。カイテルは自身の回顧録に「心の底からヘルムシュローデへ帰りたかった」と書いている<ref>グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち 6人の将帥』。</ref>。
*カイテルの父は1934年に死去した。この際にカイテルはヘルムシュローデへ帰り、父の地主の仕事を継ぐため、軍に退官届をだしている。しかし妻リーザは夫に軍でのさらなる出世を求めており、リーザから軍にとどまるよう説得された。またカイテルの事務能力を評価していた[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]陸軍総司令官からも留任を求められ、結局カイテルは辞表を撤回した。カイテルは自身の回顧録に「心の底からヘルムシュローデへ帰りたかった」と書いている<ref name="クノップ122">クノップ、122頁</ref>。

== キャリア ==
=== 軍階級 ===
*[[1901年]][[10月14日]]、[[士官候補生]](Fahnenjunker)
*[[1902年]][[8月18日]]、[[少尉]](Leutnant)
*[[1910年]][[8月18日]]、[[中尉]](Oberleutnant)
*[[1914年]][[10月8日]]、[[大尉]](Hauptmann)
*[[1923年]][[6月1日]]、[[少佐]](Major)
*[[1929年]][[2月1日]]、[[中佐]](Oberstleutnant)
*[[1931年]][[10月1日]]、[[大佐]](Oberst)
*[[1934年]][[4月1日]]、[[少将]](Generalleutnant)
*[[1936年]][[1月1日]]、[[中将]](Generalleutnant)
*[[1937年]][[8月1日]]、[[大将|砲兵大将]](General der Artillerie)
*[[1938年]][[11月1日]]、[[上級大将]](Generaloberst)
*[[1940年]][[7月19日]]、[[元帥 (ドイツ)|元帥]](Generalfeldmarschall)


== 受章 ==
=== 受章 ===
*[[一級鉄十字章|一級鉄十字章(1914年版)]](Eisernes Kreuz (1914) I. Klasse)
*[[一級鉄十字章|一級鉄十字章(1914年版)]](Eisernes Kreuz (1914) I. Klasse)
*[[二級鉄十字章|二級鉄十字章(1914年版)]] (Eisernes Kreuz (1914) II. Klasse)
*[[二級鉄十字章|二級鉄十字章(1914年版)]] (Eisernes Kreuz (1914) II. Klasse)
110行目: 171行目:
*[[サヴォイア軍事勲章|サヴォイア大軍事勲章]]([[:de:Militärorden von Savoyen|Ordine militare di Savoia]])(イタリア勲章)
*[[サヴォイア軍事勲章|サヴォイア大軍事勲章]]([[:de:Militärorden von Savoyen|Ordine militare di Savoia]])(イタリア勲章)
*[[ミハイ勇敢公勲章|一級ミハイ勇敢公勲章]]([[:en:Order of Michael the Brave|Ordinul Mihai Viteazul]])(ルーマニア勲章)
*[[ミハイ勇敢公勲章|一級ミハイ勇敢公勲章]]([[:en:Order of Michael the Brave|Ordinul Mihai Viteazul]])(ルーマニア勲章)

== カイテルを演じた人物 ==
*[[ガブリエーレ・フェルツェッティ]] - 『[[ヒトラー 〜最期の10日間〜]]』([[:en:Hitler: The Last Ten Days]])(1973年、イギリス・イタリア、映画)
*[[フランク・フォンタイン]]([[:en:Frank Fontaine]]) - [[ニュルンベルク軍事裁判]](2000年、アメリカ・カナダ、テレビドラマ)
*[[クリスティアン・ドーマー]]([[:de:Christian Doermer]]) - [[オペレーション・ワルキューレ (テレビ映画)|オペレーション・ワルキューレ]](2004年、ドイツ、テレビ映画)
*[[ディーター・マン]]([[:de:Dieter Mann]]) - [[ヒトラー 〜最期の12日間〜]](2004年、ドイツ・オーストリア・イタリア、映画)
*[[ケネス・クランハム]]([[:en:Kenneth Cranham]]) - [[ワルキューレ (映画)|ワルキューレ]](2008年、アメリカ、映画)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
'''日本語文献'''
*グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち 6人の将帥』高木玲 訳、[[原書房]]、2002年、ISBN 978-4562034826
*{{Cite book|和書
*ジョセフ・パーシコ『ニュルンベルク軍事裁判 上』白幡憲之 訳、原書房、2003年、ISBN 978-4562028641
|year = [[1947年]]
*ジョセフ・パーシコ『ニュルンベルク軍事裁判 下』白幡憲之 訳、原書房、2003年、ISBN 978-4562028658
|title = ニュルンベルグ裁判記録
|publisher = [[時事通信社]]
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ウェルナー・マーザー]]
|translator = [[西義之]]
|year = [[1979年]]
|title = ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか
|publisher = [[TBSブリタニカ]]
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ヴァルター・ゲルリッツ]]
|translator = [[守屋純]]
|year = [[2000年]]
|title = ドイツ参謀本部興亡史 下
|publisher = [[学研M文庫]]
|isbn = 978-4059010180
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ロベルト・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])
|translator = [[滝川義人]]
|year = [[2002年]]
|title = ナチス時代 ドイツ人名事典
|series =
|publisher = [[東洋書林]]
|isbn = 978-4887215733
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*{{Cite book|和書
|author = [[グイド・クノップ]]([[:de:Guido Knopp|de]])
|translator = [[高木玲]]
|year = [[2002年]]
|title = ヒトラーの戦士たち 6人の将帥
|publisher = [[原書房]]
|isbn = 978-4562034826
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[ジョゼフ・E・パーシコ]]([[:en:Joseph E. Persico|en]])
|translator = [[白幡憲之]]
|year = [[1996年]]
|title = ニュルンベルク軍事裁判〈上〉
|publisher = [[原書房]]
|isbn = 978-4562028641
}}
**{{Cite book|和書
|author = ジョゼフ・E・パーシコ
|translator = 白幡憲之
|year = [[2003年]]
|title = ニュルンベルク軍事裁判〈上〉(新装版)
|publisher = 原書房
|isbn = 978-4562036523
}}
*{{Cite book|和書
|author = ジョゼフ・E・パーシコ
|translator = 白幡憲之
|year = 1996年
|title = ニュルンベルク軍事裁判〈下〉
|publisher = 原書房
|isbn = 978-4562028658
}}
**{{Cite book|和書
|author = ジョゼフ・E・パーシコ
|translator = 白幡憲之
|year = 2003年
|title = ニュルンベルク軍事裁判〈下〉(新装版)
|publisher = 原書房
|isbn = 978-4562036530
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[阿部良男]]
|translator = [[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]
|editor = [[ロバート・ジェラトリー]]([[:en:Robert Gellately|en]])
|year = [[2001年]]
|title = ヒトラー全記録 :20645日の軌跡
|series =
|publisher = [[柏書房]]
|isbn = 978-4760120581
}}
*{{Cite book|和書
|author = [[レオン・ゴールデンソーン]]([[:en:Leon Goldensohn|en]])
|translator = [[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]
|editor = [[ロバート・ジェラトリー]]([[:en:Robert Gellately|en]])
|year = [[2005年]]
|title = ニュルンベルク・インタビュー 上
|series =
|publisher = [[河出書房新社]]
|isbn = 978-4309224404
}}

'''外国語文献'''
*Werner Maser (Hrsg.): Wilhelm Keitel. ''Mein Leben – Pflichterfüllung bis zum Untergang. Hitlers Generalfeldmarschall und Chef des Oberkommandos der Wehrmacht in Selbstzeugnissen. postum zusammengestellt'', edition q im Quintessenz Verlag, Berlin 1998, ISBN 3861243539 (死後に編纂されたカイテルの自伝)
*Werner Maser (Hrsg.): Wilhelm Keitel. ''Mein Leben – Pflichterfüllung bis zum Untergang. Hitlers Generalfeldmarschall und Chef des Oberkommandos der Wehrmacht in Selbstzeugnissen. postum zusammengestellt'', edition q im Quintessenz Verlag, Berlin 1998, ISBN 3861243539 (死後に編纂されたカイテルの自伝)
*Wilhelm Keitel, Walter Görlitz (Hrsg.): ''Generalfeldmarschall Keitel – Verbrecher oder Offizier? Erinnerungen, Briefe, Dokumente des Chefs OKW''. 558 Seiten. Verlag Siegfried Bublies, Schnellbach 2000, (Lizenzausgabe des Verlags Musterschmidt, Göttingen 1961), ISBN 3-926584-47-5 (カイテル関連書簡の集成)
*Wilhelm Keitel, Walter Görlitz (Hrsg.): ''Generalfeldmarschall Keitel – Verbrecher oder Offizier? Erinnerungen, Briefe, Dokumente des Chefs OKW''. 558 Seiten. Verlag Siegfried Bublies, Schnellbach 2000, (Lizenzausgabe des Verlags Musterschmidt, Göttingen 1961), ISBN 3-926584-47-5 (カイテル関連書簡の集成)

2010年11月21日 (日) 18:15時点における版

ヴィルヘルム・カイテル
Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keitel
1942年のヴィルヘルム・カイテル元帥
渾名 ラカイテル(LaKeitel)
生誕 1882年9月22日
 ドイツ帝国
ブラウンシュヴァイク公国
ヘルムシュローデ
死没 1946年10月16日
連合軍占領下ドイツ
ニュルンベルク
所属組織  ドイツ帝国陸軍
(Kaiserliche Armee)
 ヴァイマル共和国軍陸軍
(Reichsheer)
 ナチス・ドイツ国防軍陸軍
(heer)
最終階級 元帥(Generalfeldmarschall)
指揮 国防軍最高司令部(OKW)
戦闘 第一次世界大戦
第二次世界大戦
除隊後 ニュルンベルク裁判被告人
絞首刑
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ヴィルヘルム・ボーデヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテルWilhelm Bodewin Johann Gustav Keitel, 1882年9月22日 - 1946年10月16日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中に国防軍最高司令部(OKW)総長を務めた。軍における最終階級は元帥

経歴

生い立ち

1882年ブラウンシュヴァイク公国ハルツ山地ヘルムシュローデ(de:Helmscherode)に生まれる[1][2][3]。父は小規模な農場を所持していた地主カール・カイテル(Carl Keitel)。母はその妻アポロニア(Apollonia)(旧姓ヴィゼーリンク(Vissering))[1]

弟にボーデヴィン・カイテル(de:Bodewin Keitel)がいる。弟ものちに軍人となり、カイテルの引き立てで1938年から1942年までドイツ陸軍人事部長を務めることになる。

少年時代のカイテルは家族から離れてゲッティンゲンギムナジウムに学んだ。

ドイツ帝国軍時代

同校を卒業後、父親の命令で軍人の道を進むこととなった[4]。士官学校を経ずして[4][5]、1901年3月にヴォルフェンビュッテル(de:Wolfenbüttel)の第46野戦砲兵隊に士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した[1][6]

1902年8月に少尉(Leutnant)に昇進するとともに[6]、公国の首都ブラウンシュヴァイクの勤務となる[4]。同地で摂政の宮廷舞踏会などに招かれるようになり、将来を約束された軍人となっていく。非常にまじめで「ギャンブルもせず、浮いた噂の一つもない」と言われていた[4]

野戦砲兵学校や軍事乗馬学校を出た後、1908年には所属する第46野戦砲兵連隊の連隊長副官となった[1][6]。1909年にハノーファーの資産家の地主の娘リーザ・フォンテーン(Lisa Fontaine)と結婚[1][7]。カイテル夫妻は6児をもうけた。

第一次世界大戦が開戦した際には第46砲兵連隊長副官の中尉だった。カイテルの連隊は西部戦線に動員された[1]。カイテルは榴弾の破片で戦傷を負い、二級鉄十字章一級鉄十字章、そして戦傷章黒章を受章した[6][7]。この第一次世界大戦初期の戦闘の参加はカイテルの生涯で唯一の実戦経験である[7]

病院を退院した後、1915年3月から参謀本部に配属となる。本部内では事務能力を高く認められて、1917年にはドイツ陸軍の歴史の中で最年少の参謀本部首席将校となった[8]。またこの参謀本務勤務時代に四歳年長のヴェルナー・フォン・ブロンベルク少佐(当時)と親しくなった[8]

ヴァイマル共和国軍時代

第一次世界大戦の敗戦後、義勇軍(フライコール)の活動に参加[9]。またヴェルサイユ条約によって総人員10万人、将校は4000人にまで制限されたヴァイマル共和国軍 (Reichswehr) の将校に選び残された。彼の事務能力の高さがうかがわれる[10]

ヴァイマル共和国軍ではまず第10旅団参謀[6]、ついで1920年から1922年までハノーファーの騎兵学校の戦術教官となる[1][6]。さらに1922年から1925年にかけてヴォルフェンビュッテルで第6砲兵連隊隷下の第7中隊長を務めた[6]

ヴァイマル共和国軍はヴェルサイユ条約で参謀本部を置く事を禁止されていたが、「兵務局(Truppen amt)」と名前を偽装して事実上参謀本部を復活させた。カイテルもこの兵務局に配属となり、1925年から1927年には兵務局の部署のひとつ教育部(T4部)に配属され、「東部国境守備隊」の教育と軍備を担当した[1][6][11]

ついで1927年から1929年にかけてミンデンで第6砲兵連隊隷下の第2大隊長を務めた[1][6]

1929年10月には兵務局に戻り、陸軍編成部長に就任した[1][6][12]。カイテルはヴェルサイユ条約により様々な制限が課せられていたドイツ軍の軍拡の逃げ道を模索した。武装民兵集団の「国境警備隊」に大量の武器を提供して名目上軍の武器にならぬようにしたり、スペインオランダスウェーデン日本など比較的中立的かつ生産設備が整った外国で航空機や戦車やUボートの建造を行った[12]

ソ連とも関係を深めようとした。ソ連で軍事演習を行わせ、また1931年にはカイテル自身がソ連を訪問している。「共産主義の偉大さ」を見せつけるためにソ連側が一方的に設定したコルホーズなどのツアーコースを回されるだけであったが、カイテルは共産主義に感化されたところがかなりあったらしく、後に「もう少しでボルシェヴィキになって帰ってくるところだった」などと語っている[13]

ナチス・ドイツ軍時代

1938年9月12日、ナチ党のニュルンベルク党大会に出席したドイツ国防軍幹部達。
左からエアハルト・ミルヒ空軍大将、国防軍最高司令部総長カイテル砲兵大将(間にいる人物)、陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ砲兵大将、海軍総司令官エーリヒ・レーダー海軍上級大将、第8軍団長マクシミリアン・フォン・ヴァイクス騎兵大将。

カイテルは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が1933年に政権を獲得するまではそれに一切関わっていない。むしろ増長著しいナチスの突撃隊(SA)をいまいましくさえ思い、アドルフ・ヒトラーを「大ぼら吹き野郎」と呼んで馬鹿にしていた[14]

しかし1933年1月30日にヒトラー内閣が成立し、カイテルの親友ブロンベルクがヒトラー内閣の国防相に任命され、さらに1933年7月にはバート・ライヘンヒルで開かれた「突撃隊指導者大会」でカイテル自身がヒトラーと会見をもつ機会があり、徐々にヒトラーに心酔するようになった[15]。ただしナチ党には最後まで入党していない。1933年10月に編成部長の職を離職し、1934年4月に少将に昇進するとともにポツダムの師団の師団長代理となった[16]。1934年10月にはブレーメンに派遣され第22師団の編成にあたった[6]

ドイツがヴェルサイユ条約を一方的に破棄して再軍備を始めた年である1935年10月1日には国防軍部 (Wehrmachtamt)の部長に就任した[6]。国防軍部は国土防衛・対外防諜・軍需経済の各課を保有する国防省の最重要部署であった。カイテルのメモによるとこの人事は陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュのブロンベルクへの推挙によるという[17]。以降ヒトラーとブロンベルクの下で急速に昇進する。1936年1月には中将に昇進し、1937年には砲兵大将となった。ブロンベルクとカイテルはゲシュタポとも連携して「政治的に信用できない者」を国防軍から次々と追放していき、軍のナチ化をすすめた[18]

1938年10月3日ズデーテン併合の道中、昼食を取るナチ党首脳と国防軍将軍たち。
テーブル奥右からカイテル大将、ズデーテン・ドイツ人党党首コンラート・ヘンライン、総統アドルフ・ヒトラー、陸軍総司令官ブラウヒッチュ大将、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、第16装甲軍団長ハインツ・グデーリアン中将。

1938年1月、カイテルの息子カール・ハインツ・カイテルとブロンベルクの娘ドロテー・フォン・ブロンベルクが結婚することとなったが、2月にはヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュを解任した(ブロンベルク罷免事件)。さらに後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言した。このために国防軍最高司令部(OKW)を設けられ、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。国防軍最高司令部は旧国防省の任務をほぼ受け継いでおり、カイテルの職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職であった[19][20]。また併せて国防軍最高司令部の陸軍への支配力を高める意味からカイテルの弟であるボーデウィン・カイテル少将が陸軍人事部長に任命されている[21]

1938年11月には上級大将に昇進している。ドイツ国防軍に国家社会主義思想を徹底させる事に励むカイテルは、かつて皇帝の軍隊の参謀本部将校だったにもかかわらず、皇帝への忠誠心をあっさり放り捨て、1939年1月27日の旧ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の誕生日記念式典にも軍部は一切参加してはならないと厳命した[22]。1939年4月にはナチ党員でないにもかかわらず、チェコスロバキア併合の際の進軍の褒賞として黄金ナチ党員バッジを授与された[23]

カイテルは、同僚からドイツ語のおべっか使い(Lakai)をもじった「ラカイテル」と呼ばれたり[24][25][注釈 1]、始終頭を縦に振るおもちゃのロバをさす「ニヒゲゼル」とも呼ばれた[25]。ヒトラーは後年カイテルについて「映画館の案内係程度の頭の持ち主」と評し、これを聞いたある将校が「ではなぜそのような人物をドイツ国防軍の最高位に任じたのですか」と聞くと、ヒトラーは「それはあの男が犬のように忠実だからだ」と答えたという[26]

当時カイテルの副官だった将校の証言によると、ヒトラーを交えた作戦会議では、常に「総統閣下の仰る通り」「総統閣下、あなたは史上最高の軍事指導者です」「総統が過ちを犯されるはずはない」などと、口癖のように話していたという。ちなみに、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将は、カイテルの軍事センスの無さを見抜き、作戦上の詳細は一切伝えず、大枠のみ伝えていたという。ただし実務能力は高かったため、統制の取れにくかった国防軍を短期間でひとつにまとめるという功績を残している。

第二次世界大戦

1939年9月、占領したポーランド・ウッチを走るカイテル上級大将の自動車。

1939年9月1日にドイツ国防軍によるポーランド侵攻が開始され、イギリスフランスがドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が勃発した。ポーランド侵攻は主に陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュの陸軍総司令部が中心となって作戦指導しており、カイテルの国防軍最高司令部の役割は二次的な物だった。しかしポーランド侵攻後、カイテルのもとには親衛隊(SS)アインザッツグルッペンの虐殺に関する報告書が積み上がった。国防軍情報部(アプヴェーア)部長ヴィルヘルム・カナリス提督もカイテルにアインザッツグルッペンに関する苦情を申し立てたが、カイテルは「国防軍がこうした虐殺に関与しなくていいようにするためには親衛隊とゲシュタポが隣にいる事を許可するしかない」と回答したという[27]

ヒトラーは1939年冬のうちにも対フランス戦を開始するつもりだったが、カイテルは陸軍総司令官ブラウヒッチュの兵に休息を取らせる必要があるという意見を容れて、1939年冬の軍事行動に反対し、ヒトラーと激しい口論をした。カイテルはヒトラーの罵倒に激怒して前線の部隊の指揮に回してほしいと求めたが、ヒトラーの説得で思いとどまったという。結局後になってヒトラーは1939年冬のフランス攻撃を諦めた[28]

1940年春の北欧侵攻では陸軍・海軍・空軍の共同作戦が重要とされてカイテルの国防軍最高司令部が主導することとなった。特に作戦本部長アルフレート・ヨードルが活躍し、ドイツ軍は対北欧戦に完全勝利を収めた。以降ヨードルはヒトラーの戦略アドバイザーとしての役割を敗戦まで担い続けた[29]

1940年6月、ドイツ軍を代表してフランスとの間の休戦協定文書に署名したカイテル

1940年5月からの対フランス戦ではドイツ軍が連戦連勝を重ね、大国フランスをわずか6週間で下した[30]。1940年6月21日から6月22日にかけてパリ郊外のコンピエーニュにおいて列車内(一次大戦のときにドイツが屈辱的な休戦協定を結ばされた時と同じ列車)でドイツとフランスの休戦協定の交渉が行われた[31]。カイテルはこの調印式にドイツ軍代表として出席し、フランス軍代表オンツィジェール将軍(fr)に対して「この車両においてドイツ民族受難の時が始まった。一民族に与えうる最大の不名誉と屈辱が始まった。人間としての苦しみ、物質的な苦しみがここから始まったのだ。(略)その世界大戦終結より25年の時を経た1939年9月3日にイギリスとフランスは、またしても何の根拠もなくドイツに宣戦を布告した。今や武力による決着はつけられた。フランスは倒されたのである。」と宣言し[32]、フランスに屈辱的な内容の休戦協定の締結を調印させた。カイテルはこの復讐劇に大変な満足感を感じ、後にこの瞬間を「わが軍隊生活最高の時」と語った[33]

1940年7月19日に元帥に列せられる。戦場で指揮を執ったわけでもないカイテルが元帥に叙されたことに一部で反対の声も上がったが、大きな戦勝の中で元帥号の連発されるのも許されるムードだった[34]

1941年3月9日、総統官邸。ヒトラー総統とカイテル元帥。

カイテルはイギリスを倒す前にソ連と戦争をすることには反対の立場であった。外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップと組んでヒトラーにヨシフ・スターリンと協議の場を持つことを提案している。しかしヒトラーに相手にされることはなかった[35]。それにもかかわらず1941年末にモスクワ攻略が失敗した際にはカイテルがヒトラーからすさまじい叱責を受け、カイテルが自殺しそうになったとアルフレート・ヨードルは後に証言している[36]

1941年12月7日には『夜と霧の布告』に副署した。この布告ではドイツ占領軍当局に反抗する者は軍法会議による判決が下されなかったならば、親族への通知なしにドイツの強制収容所へと移送されることになった。この法令によってフランスだけでも7000人を超えるレジスタンスと目された人物が痕跡も残さず姿を消した[37]

また1941年10月にはゲリラに対処するための「報復に関する命令」、ソ連政治将校に対処するための「政治委員に関する命令」(en)に署名し、1942年10月18日には破壊工作員などに対処するための「コマンドに関する指令」(en)に署名した[25]

1941年7月25日。ヒトラー総統(中央)、カイテル元帥(ヒトラーの左後方)、空軍総司令官ゲーリング国家元帥(右端)、空軍エースパイロットメルダース大佐(左端)

スターリングラードの戦い以降、ドイツの戦況が悪化してくると、ヒトラーが死守命令を連発するようになる。撤退許可を求める者に対してはヒトラーが政治的な理由で却下し、その後ヒトラーは国防軍最高司令部総長カイテル元帥に話を振り、カイテルも「自分の意見を持たない無駄なおしゃべり」(フランツ・ハルダー)をして結局総統と同じ結論を出すのがドイツの作戦本部の日常の姿となっていった。ドイツの戦況がさらに悪化してもカイテルの主人への追従ぶりは変わらなかった。むしろさらに追従を強めていった。国防軍最高司令部の会議で部下の将校がヒトラーの死守命令に代わる新たな戦術を考えることを提案しただけでカイテルは「敗北主義者がこの場にいる資格はない」と絶叫して黙らせた。1943年1月にはナチ党官房長マルティン・ボルマンと総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースとともに総統へ取り次ぐかどうかを決めるための機関として「三人委員会(Dreimännerkollegiums)」を創設している。

1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際には爆発現場に居合わせた。カイテルが真っ先に「我が総統ご無事ですか」と叫びながらヒトラーに駆け寄り、ヒトラーを抱きかかえて外へ連れ出している[38]。その後、陰謀に関与した軍人は軍法会議ではなく、反逆罪を裁くローラント・フライスラー人民法廷にかけるために、先ず、国防軍の名誉法廷 (Ehrenhof) にかけられることとなった。エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥他55人の軍人の軍籍が剥奪された。ゲルト・フォン・ルントシュテットハインツ・グデーリアン他と並んでカイテルも名誉法廷の構成員の一人として同僚の名誉剥奪に関与した。また7月24日にはカイテルは国防軍の全軍人に対して敬礼はすべて手を掲げるナチス式敬礼にするよう命じている。1945年1月末には「将兵の行動に関する規定」に署名し、撤退命令を出す将校は「敗北主義者」として即決裁判で死刑、必要ならばその場で即座に殺害してよいこととした。脱走兵の親族に連帯責任を取らせる命令も出した。

ソ連軍に対する降伏文書に署名するカイテル

ヒトラーの自殺を知ると、ヒトラーの遺言により大統領兼国防軍総司令官となったカール・デーニッツフレンスブルク政府の下に参じた。アイゼンハワー司令部、モントゴメリー元帥の司令部における降伏式に続いて、1945年5月8日ベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst) の工兵学校においてソ連軍に対する降伏式が行われた。カイテル元帥は陸軍を代表してソ連との降伏文書の署名を行った(海軍はハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク提督 、空軍はハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ上級大将であった)。なお西側との降伏文書署名を行ったのはアルフレート・ヨードル将軍であった。この人事はどうやらカイテルが、デーニッツに好感を持たれていなかったためらしい。

現在、カイテルが降伏文書の署名を行った建物はドイツ・ロシア友好博物館 (Deutsch-Russisches Museum Berlin-Karlshorst) になり、ベルリン攻防戦や降伏式の資料が展示されている。 

カイテルは他のフレンスブルク政府の面々より一足早く、5月13日にアメリカ軍の捕虜となっている。大物捕虜が集められていたバート・モンドルフのホテルを使って作られた収容所に送られた。同じくここに収容されたヘルマン・ゲーリングカール・デーニッツアルフレート・ヨードルらとともにニュルンベルクに移送された。この移送の際にバート・モンドルフ、ついでニュルンベルクでも刑務所長を務めるアメリカ軍大佐バートン・アンドラスen:Burton C. Andrus)によって起立させられ、さらに「お前たちはもはや軍人ではない。犯罪者だ。」と宣告されて階級章がはぎ取られた[39]

ニュルンベルク裁判

1945年、ニュルンベルク裁判。前列左からヘルマン・ゲーリングヨアヒム・フォン・リッベントロップ、カイテル。

カイテルは第1起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第2起訴事項「平和に対する罪」、第3起訴事項「戦争犯罪」、第4起訴事項「人道に対する罪」と全ての訴因において起訴された[40]

被告人達の心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると彼の知能指数は129だった[41]

1945年11月20日からニュルンベルク裁判が開廷した。カイテルは審理中に抗弁することはほとんどなく、口をつぐんでいたという。また、死刑判決が出るのを覚悟していたという。「追従者」の顔はこの裁判の際にも見え、ヘルマン・ゲーリングが他の被告に「団結」を求めた際、最もゲーリングの支配を強く受けていた人物の一人がカイテルだったという。

精神分析官ダグラス・ケリー少佐はこうしたカイテルの状態について「カイテルはすでに生きる目的を失ったかのようになっている。自殺の危険が最も高い被告だ」などと書いている[42]。「止めるべきことを止められなかった」と罪を認めるニュアンスの最終弁論を行い、同様の趣旨の遺言も残している。2006年に新たに公開された遺言状では、ヒトラーに対する忠誠と、裏切り者になることへの忌避が綴られていた。

1946年10月1日に判決が下った。カイテルの判決文は「このように衝撃的かつ広範囲にわたって犯罪を犯した場合、被告がたとえ一軍人であったとしても、上官の命令であったという弁明は減刑理由にはできない」としてカイテルを4つの訴因全てで有罪とした[43]。その後の量刑判決でカイテルは絞首刑判決を受けた。絞首刑判決を受けた時、カイテルは上官の命令でも受けるかのように軽く頷いた[44]

処刑

絞首刑執行後のカイテルの遺体

カイテル自身やフランス代表により銃殺による死刑が主張されたものの、絞首刑判決に変更はなかった。1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。カイテルは、ヨアヒム・フォン・リッベントロップに次いで二番目に処刑された。

カイテルは軍人らしく誇り高い態度で絞首台に上った[45]。最後の言葉は「どうかドイツ国民に憐みを賜わらんことを。二百万人以上の兵士が祖国のために死んでいきました。今、私は息子たちの後を追います。全てに勝るドイツ!」[46][47][45]

カイテルはなかなか絶命せず、絞首刑執行から死亡までに24分もかかった[48]

自殺したゲーリングを含めてカイテルら11人の遺体は、ミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨はイザール川の支流コンヴェンツ川に流された[49]

人物

  • 第二次世界大戦においてただの一度も実戦指揮の経験が無く、叙された唯一の陸軍元帥である。カイテル自身もこれをコンプレックスに感じるところがあったらしく、ニュルンベルク裁判の弁護士オットー・ネルテに話したところによると、一個師団でもいいから前線で指揮をとらせてほしいとヘルマン・ゲーリングに仲介してもらってヒトラーに嘆願したことがあるという[50]。しかしヒトラーがカイテルに期待する役割はあくまで「ラカイテル最高司令部総長」であり、敗戦まで嘆願が受け入れられることはなかった。
  • カイテルはその内面の意志の弱さに反して立派なひげをはやしていかにも軍人らしい屈強な風貌であった。これをヒトラーがうまく利用することもあった。1938年2月12日にヒトラーがオーストリア首相クルト・フォン・シュシュニクに恫喝を行った際にシュシュニクがためらっているのを見るとヒトラーは次の間に控えていたカイテルを大声で呼びつけた。ヒトラーは「軍の準備は整っておるか」とシュシュニク首相を前にしてわざわざカイテルに聞き、カイテルは「できております。我が総統。」と答えた。シュシュニク首相はこの問答に震えあがり、辞意を固めたという[51]
  • カイテルの父は1934年に死去した。この際にカイテルはヘルムシュローデへ帰り、父の地主の仕事を継ぐため、軍に退官届をだしている。しかし妻リーザは夫に軍でのさらなる出世を求めており、リーザから軍にとどまるよう説得された。またカイテルの事務能力を評価していたヴェルナー・フォン・フリッチュ陸軍総司令官からも留任を求められ、結局カイテルは辞表を撤回した。カイテルは自身の回顧録に「心の底からヘルムシュローデへ帰りたかった」と書いている[52]

キャリア

軍階級

受章

カイテルを演じた人物

参考文献

日本語文献

  • 『ニュルンベルグ裁判記録』時事通信社エラー: この日付はリンクしないでください。 
  • ウェルナー・マーザー 著、西義之 訳『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』TBSブリタニカエラー: この日付はリンクしないでください。 
  • ヴァルター・ゲルリッツ 著、守屋純 訳『ドイツ参謀本部興亡史 下』学研M文庫エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4059010180 
  • ロベルト・ヴィストリヒ(en) 著、滝川義人 訳『ナチス時代 ドイツ人名事典』東洋書林エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4887215733 
  • グイド・クノップ(de) 著、高木玲 訳『ヒトラーの戦士たち 6人の将帥』原書房エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4562034826 
  • ジョゼフ・E・パーシコ(en) 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈上〉』原書房エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4562028641 
    • ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈上〉(新装版)』原書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4562036523 
  • ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈下〉』原書房、1996。ISBN 978-4562028658 
    • ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈下〉(新装版)』原書房、2003。ISBN 978-4562036530 
  • 阿部良男 著、小林等高橋早苗浅岡政子 訳、ロバート・ジェラトリー(en) 編『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』柏書房エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4760120581 
  • レオン・ゴールデンソーン(en) 著、小林等高橋早苗浅岡政子 訳、ロバート・ジェラトリー(en) 編『ニュルンベルク・インタビュー 上』河出書房新社エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4309224404 

外国語文献

  • Werner Maser (Hrsg.): Wilhelm Keitel. Mein Leben – Pflichterfüllung bis zum Untergang. Hitlers Generalfeldmarschall und Chef des Oberkommandos der Wehrmacht in Selbstzeugnissen. postum zusammengestellt, edition q im Quintessenz Verlag, Berlin 1998, ISBN 3861243539 (死後に編纂されたカイテルの自伝)
  • Wilhelm Keitel, Walter Görlitz (Hrsg.): Generalfeldmarschall Keitel – Verbrecher oder Offizier? Erinnerungen, Briefe, Dokumente des Chefs OKW. 558 Seiten. Verlag Siegfried Bublies, Schnellbach 2000, (Lizenzausgabe des Verlags Musterschmidt, Göttingen 1961), ISBN 3-926584-47-5 (カイテル関連書簡の集成)

脚注

注釈

  1. ^ フランス語で下僕を意味するlaquaisを変じ、laquai-tel即ち、ラ・カイ・テル(La-Kei-tel)と揶揄されたとする説もある(ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気の歴史』片岡啓治 訳、講談社、2000年、ISBN 4-06-159433-8、p.249)。

出典

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  6. ^ a b c d e f g h i j k l Axis Biographical Researchの"Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel"の項目
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  29. ^ クノップ、141-142頁
  30. ^ クノップ、142-143頁
  31. ^ 阿部、464頁
  32. ^ クノップ、144-145頁
  33. ^ クノップ、143頁
  34. ^ クノップ、145-146頁
  35. ^ クノップ、146頁
  36. ^ クノップ、151頁
  37. ^ クノップ、153頁
  38. ^ パーシコ、下巻127頁
  39. ^ パーシコ、上巻75頁
  40. ^ 『ニュルンベルク裁判記録』、302頁
  41. ^ レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年早川書房 166頁
  42. ^ パーシコ、下巻10頁
  43. ^ パーシコ、下巻271頁
  44. ^ パーシコ、下巻278頁
  45. ^ a b マーザー、392頁
  46. ^ クノップ、167頁
  47. ^ パーシコ、下巻309頁
  48. ^ マーザー、395頁
  49. ^ パーシコ、下巻313頁
  50. ^ パーシコ、下巻8頁
  51. ^ パーシコ、下巻9頁
  52. ^ クノップ、122頁

外部リンク