松橋事件

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松橋事件
松橋事件の位置(熊本県内)
松橋事件
事件が発生した熊本県下益城郡松橋町(現宇城市
松橋事件の位置(日本内)
松橋事件
松橋事件 (日本)
場所 日本の旗 日本熊本県下益城郡松橋町(現宇城市
座標
北緯32度39分7.6秒 東経130度41分19.7秒 / 北緯32.652111度 東経130.688806度 / 32.652111; 130.688806座標: 北緯32度39分7.6秒 東経130度41分19.7秒 / 北緯32.652111度 東経130.688806度 / 32.652111; 130.688806
日付 1985年昭和60年)1月6日ころ (UTC+9)
概要 殺人事件
死亡者 1名(当時59歳)
被害者 冤罪被害1名
犯人 不明
動機 不明
刑事訴訟 将棋仲間の男に懲役13年の有罪判決が下され確定したが、服役後の再審無罪確定
管轄 熊本県警察宇城警察署
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松橋事件(まつばせじけん)は、1985年昭和60年)1月、熊本県下益城郡松橋町(現宇城市)で発生した殺人事件である[1][2]将棋仲間の男性が逮捕起訴され[3]懲役13年の有罪判決が言い渡され確定したものの[4][5][6]、服役後の再審無罪が言い渡され確定した[7][8]

日本弁護士連合会が支援する再審事件の一つである[1][9]

事件発覚

事件を捜査した松橋警察署(現宇城警察署

1985年昭和60年)1月8日9時30分ころ[3][5][6]熊本県下益城郡松橋町(現宇城市)の町営住宅の一室で、男性の遺体が発見された[10]。被害者は同室に一人で住む59歳の男性であった[10]司法解剖の結果、死後2日から4日が経過していると推定された[3]。遺体には頚部を中心に15の創傷があり、死因は刃物で頸部を刺されたことによる失血死であった[3]

捜査

捜査が始まると、被疑者はすぐに浮上した[3]。1月5日夜、被害者宅で将棋仲間4名による宴会が行われており[3][5]、その席で些細なことから被害者と将棋仲間Aとの間で激しい口論となった末に[3][10]Aが被害者宅を追い出されていたことが判明したのである[10]。そして、6日以降、被害者を見かけた者はいなかった[3]

警察は遺体が発見された8日夜からAの事情聴取を始めた[6][11]。Aは被害者と口論になったことは認めたが、そのまま帰宅しただけだとして事件への関与を否定した[12]。Aへの事情聴取は同月11日を除いて14日まで[13]連日のように行われた[1]。18日にはポリグラフ検査で陽性反応が出たことで追及を強めたが、Aは追い詰められたような態度になったものの否認を続けていた[14]。しかし、19日には殺害について曖昧な供述をするようになり[14]、「否認したまま逮捕してくれ」などと訴えた[10][14][15]。そして20日は見たいテレビ番組があると出頭を拒否したAに対して、警察の提案にAも同意したため自宅での取り調べを行うことになった[14]。その20日の自宅での取り調べでAはついに犯行を自白[3][14]、犯行に使った凶器として切り出し小刀を提出[16]。同日逮捕された[3][6][14]。翌21日付の熊本日日新聞には、取調室と思われる場所で逮捕状を執行される瞬間のAの写真が掲載された[17]

1月20日から2月4日にかけて、Aは以下のように供述した[18]

切り出し小刀の一種

1月5日夜の宴会で、親戚のことについて被害者と口論となったが、被害者に「俺には暴力団が一杯ついとるから、お前を殺すのはわけなかぞ」と脅されたため謝り、そのまま自転車で自宅に帰った[14]。しかしその途中で、以前から被害者に将棋のことで侮辱されていたことを思い出して怒りが再燃し、殺される前にこちらが殺そうと考え、自宅2階の作業場から切り出し小刀を持ち出して軍手をはめ、自転車で被害者宅に戻った[14]。ちょうど被害者が、宴会で一緒に飲んでいた別の将棋仲間を家まで送るところだったので、そのあとをつけた[14]。そして、自宅に戻った被害者の様子を裏口から窺って時機を見計らい、切り出し小刀で被害者の首を十数回刺して殺した[14]。犯行後、被害者宅を後にするときに被害者の自転車にぶつかり、怒りに任せてその自転車を土手の下に投げ捨てた[18]。自宅に戻る途中、軍手に被害者の血が付いているのに気付いて橋の上から川に捨てた[16]。自宅に戻ると、風呂場で切り出し小刀についた被害者の血を洗い流し、刃こぼれしていたので砥石で研いだ[16]

2月5日に至って、川から軍手が見つからないことや[16]凶器から血液反応がないことなどを追及されると[1][10]、Aは次のように供述を変更・追加した[16]

軍手は実は自宅に持ち帰って風呂の焚口で燃やした[16]。犯行時には血が付かないよう古いシャツを切った左袖部分の布を切り出し小刀に巻き付けていたが、その布も一緒に燃やした[10][19]。また、宴会に行ったときは皮底靴を履いていたが、犯行時にはゴム底靴に履きかえた[16]。皮底靴は1月18日に燃やし、燃え残った金具は石油缶の中に捨てた[16]

さらに、自宅の倉庫に拳銃実包を隠し持っていることも供述した[20]。これらの供述に基づいてAの自宅を捜索したところ、皮底靴の金具と拳銃・実包がAの供述通りの場所から発見された[20]

2月10日、Aは殺人罪熊本地方裁判所起訴され、さらに銃砲刀剣類所持等取締法違反および火薬類取締法違反でも起訴された[13]

裁判

確定審

熊本地方裁判所

週明けに初公判を控えた週末、2度目にして公判前最後となる接見に訪れた国選弁護人に対して、Aは「否認して争いたい」と伝えた[10][21]。しかし、起訴事実を認めたうえで情状酌量を求める弁護方針を立てていた国選弁護人の反応は[10]、「無罪を争うのは困難」として、どうしてもそうしたいのであれば私選弁護人を依頼した方が良いというものであった[10][22]。金銭的にも時間的にも余裕がなかったAは、やむをえず国選弁護人の弁護方針に従うこととした[10]

1985年昭和60年)4月8日の初公判で[23]、Aは、動機について若干争う姿勢を示したものの[3][13]、その他の点については起訴事実を全て認めた[1][10][13][23][24]。国選弁護人も、起訴事実を認めたうえで、飲酒による心神耗弱を主張した[4]。しかし、Aは、6月25日の[23]第4回公判での被告人質問における「犯行のことは記憶に残っているけれども、ほとんど記憶にない」という曖昧な供述を経て[4][10]、続く8月13日の[23]第5回公判での被告人質問以降は、被害者を殺害したことはないと全面否認に転じた[1][4][10][20][23]。これを受けて熊本地裁は国選弁護人を交代させ[4]、新たに三角修一弁護士が国選弁護人に就任[23][25]。Aの犯人性についての審理が行われたが[4]、目撃者はおらず、Aと犯行を直接結び付ける物証もなかったため、Aの自白をどう評価するかが焦点となった[1][19]

1986年昭和61年)12月22日、判決公判が開かれた[4][6][13][23]。熊本地裁は、

  • 1月20日以降の自白は、2月5日に一部付加ないし変更されているが、基本的な部分は一貫している[20]
  • 2月5日には拳銃等の不法所持も自白していることから、観念して本当のことを言う気になったという理由は十分首肯できる[20]
  • 犯行の動機・経緯・手段等について、客観的証拠に照らし不自然あるいは不合理な点はない[20]
  • 皮底靴の金具が供述通りに発見された事実や[20]、別の将棋仲間を送っていく被害者を尾行した際にある家の居間に明かりがついていたという供述は秘密の暴露にあたる[19]
  • ポリグラフ検査においても反応を示した[19]

などとしてAの自白の信用性を認め[6]、当時の捜査状況は「自白の任意性に疑いを抱かしめるほどの強制的なものであったとは、到底認めがたい」[10]として任意性も認めた[6]。そして、Aに対して懲役13年の有罪判決を下した[4][6][13][23]

Aは、控訴上告して無罪を主張したが[1][4][6][13]1988年(昭和63年)6月21日に福岡高等裁判所は控訴を棄却[23]1990年平成2年)2月14日には最高裁判所が上告を棄却して一審判決が確定した[6][23]。Aは服役し、1999年(平成11年)3月に仮釈放[2]、同年7月22日に刑期が終了した[1][26]

再審請求

再審請求までの経緯

布片が発見された熊本地方検察庁

上告審から国選弁護人となった齊藤誠弁護士は、国選弁護人となった時点で再審請求を視野に入れていた[27]1992年平成4年)3月24日、熊本地裁に対して再審請求予定として証拠物の保管を申請[23]1993年(平成5年)5月2日には、同じ法律事務所に所属し名張事件の再審請求に関わっていた野嶋真人弁護士とともに岡山刑務所に服役中のAに接見し、再審請求の準備を始めることを伝えた[28]。さらに、知り合いだった国宗直子弁護士に熊本の弁護士の紹介を頼んだところ、確定審で国選弁護人を務めた三角修一弁護士の息子の三角恒弁護士が弁護団に参加した[28]

同年、弁護団は熊本地方検察庁に対して事件に関する証拠の開示を請求した[28]。熊本地検はこれに応じ、証拠物の閲覧を許可した[28]1997年(平成9年)9月1日、熊本地検での3度目の証拠物閲覧で[29]、弁護団は、開示された証拠物の中から、Aが燃やして捨てたと供述していたシャツの布片を見つけた[10][29]。布片は全部で5点あり、弁護団が布片を組み合わせると、元のシャツの形が完全に復元された[10][30]。5点の布片のうち3点はAが逮捕された翌日1985年昭和60年)1月21日に領置され、同年2月5日にさらに1点が押収されたものであった[10][30]。Aは2月6日に、その時点で見つかっていなかった左袖部分について、犯行時切り出し小刀に巻き付けて使用し、犯行後に軍手とともに風呂の焚口で燃やしたと供述していた[31][32]。しかし、燃やしたはずの左袖部分は起訴後の2月14日には領置されており[10]、明らかに自白と矛盾するこの布片の存在は明らかにされないまま熊本地検で保管されていたのだった[31]。そして、警察の鑑定によれば[33]、その左袖の部分にも血液の付着した跡はなかった[10][33]

これと並行して、弁護団は1993年(平成5年)、日本医科大学の大野曜吉教授に遺体の傷などの法医学鑑定を依頼した[32]。事件直後に遺体を司法解剖した熊本大学の神田瑞穂教授は正式な鑑定書を完成させる前に死亡しており、確定審で証拠採用されたのは一部の傷について記載された警察の捜査報告書であった[32]。弁護団が日本弁護士連合会を通じて熊本大学に問い合わせたところ、神田教授が解剖時に作成した「鑑定書控」と題するメモが残されていた[32]。大野教授はこのメモをもとに傷の検討を行った[32]。神田教授のメモの取り方が一般的な鑑定書の記載方法と異なっていたため難航したが、神田教授の弟子にあたる熊本大学の恒成茂行教授の協力を得て、2007年(平成19年)9月10日に大野教授の鑑定書は完成した[34]。鑑定書の中で大野教授は、被害者の傷のうち2か所の傷口は凶器とされた切り出し小刀より幅が狭く[10]、この切り出し小刀は凶器たり得ないなどと指摘した[10][35]

なお、日弁連は1996年(平成8年)11月19日、弁護団の人権救済の申し立てを受けて調査委員会を設置し、武村二三夫弁護士が弁護団に加わった[32]。また、2011年(平成23年)8月11日には、再審に対する支援を理事会で決定している[34]

再審請求審

再審の申立にあたって弁護団と面会したAは、認知症を患い、裁判を受け服役したことも覚えていない状況であった[34]。このため、2012年平成24年)1月11日にAの成年後見を申し立て、同年3月2日に衛藤二男弁護士が成年後見人となった[34]。3月12日、衛藤弁護士が成年後見人として再審を請求[6][13][34]。高齢のAが再審請求中に死亡した場合に備え[2][4]、弁護団の依頼を受けて[36]Aの長男も再審を請求することになった[4][6][13]。Aの長男は、家族には迷惑を掛けられないと離婚した上で[36]2015年(平成27年)9月17日に再審を請求した[4][6][13]。2件の再審請求は併合されて熊本地裁で審理された[4]

弁護側は、Aが燃やしたと供述したシャツの布片が発見されたこと、凶器とされた切り出し小刀と遺体の傷は矛盾するとの鑑定、致命傷となった傷はセーターの上から刺されたもので傷口から血が出るのが見えたとするAの供述と矛盾するとの鑑定などを無罪を言い渡すべき明らかな証拠として示し、再審開始を求めた[37]

2016年(平成28年)6月30日、熊本地裁は、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を発見したとき」に該当すると判断し、再審開始を決定した[38][39]。決定理由の中で、確定審の争点はAの自白の任意性と信用性であったとして、再審請求審で弁護側の提示した証拠について以下のように判断した[40]

シャツの布片
Aは、犯行時切り出し小刀にシャツの左袖部分の布片を巻き付け、犯行後に軍手とともに風呂の焚口で燃やしたと供述したが、その左袖部分は現存し、血液の付着も認められなかった[19][41]。このことは、切り出し小刀に巻いた布片がシャツの左袖部分ではなかったというだけでなく、そもそも切り出し小刀に布片を巻いたという供述が「Aの体験に基づく供述ではないのではないか、すなわちその事実そのものが存在しなかったのではないかとの合理的な疑いが生じてくる」[41]
大野鑑定
大野鑑定は「非常に合理的」であり、被害者の遺体の傷のうち2か所について、凶器とされた「切出小刀によっては成傷し得ないのではないかという合理的な疑いが生じる」[40]。シャツの布片のことも併せて考えると、凶器とされた「切出小刀は被害者を殺害した凶器ではないという疑いは、一層強いものになる」[42]

そして、これらはAの自白の「重要部分に客観的事実との矛盾が存在する」ことを示しており[43]、さらに、自白の信用性を支えるとされたその他の事実も「その証明力や証拠価値に疑問が生じており」[43]、Aの自白のみで「確定判決の有罪認定を維持し得るほどの信用性を認めることは、もはやできなくなった」とした[42][43]

決定を受け検察側は直ちに福岡高裁即時抗告[44][45]。即時抗告審を担当した検察官は、障害者郵便制度悪用事件國井弘樹だった[2]。福岡高裁は2017年(平成29年)11月29日に即時抗告を棄却[45][46][47]。検察側はさらに12月4日に最高裁特別抗告を行ったが、2018年(平成30年)10月10日に棄却され、再審開始が確定した[45][47]。ただし、Aの長男は、福岡高裁で即時抗告審が行われていた2017年(平成29年)9月に病死したため[2][4][6][36]、Aの長男による再審請求手続きは終了している[6]

再審

2019年平成31年)2月8日、熊本地裁再審公判が開かれた[48][49]裁判長は、再審請求審で再審開始を決定した溝國禎久だった[49][50]。公判には、父や兄と疎遠だった[36]Aの二男が、兄のジャケットを着て傍聴した[2]

検察側は、確定審と再審請求審で提出された200点の証拠を改めて証拠請求したが、裁判所は、Aの自白調書や凶器とされた切り出し小刀など142点について却下した[2][48]。これを受けて論告で検察は「確定審と再審請求審で提出された証拠をもとに裁判所の適切な判断を求める」と述べるにとどまり[2]殺人罪についての求刑を放棄[2][48]銃砲刀剣類所持等取締法違反および火薬類取締法違反についてのみ、懲役2年を求刑した[48][49][51]。一方の弁護側は、最終弁論で「殺人事件の犯人とAさんを結び付ける証拠は何一つない。無罪は明らかだ」と述べ[52][53]、「殺人罪の汚名を着せられたまま刑の執行も受け、筆舌に尽くしがたい苦難に苦しめられてきた。後半生を全て奪われてしまったと言っても過言ではない」[52][53]「生きているAさんに『無実が認められましたよ』と伝えたい」[53][54]「一刻も早い無罪判決の言い渡しを切に希望する」として[52][53]、殺人罪について無罪、銃刀法違反と火薬類取締法違反については執行猶予つきの判決を求めた[48][49]。公判は約30分の審理で即日結審した[50][54]。傍聴していたAの二男は、閉廷後「あと2年早ければ、この場にいたのはずっと父を支えた兄だった。さらに2年早ければ、おやじも裁判を理解できたはずだ。検察には一言でも謝ってほしかった」と語った[2]

3月28日、判決公判が開かれ、殺人罪について無罪、銃刀法違反と火薬類取締法違反について懲役1年の判決を言い渡した[8][55][注釈 1]。判決理由の中で、自白など検察側が請求した証拠については、すでに再審請求審での長期間をかけた審理で信用性が否定されており、「相当の時間をかけて改めてその信用性を検討したとしても、検察官による新たな立証がされない以上、客観的事実と矛盾する疑いがあることを根拠とする再審請求審の判断と異なる結論に至ることは想定し得ない」などと証拠採用しなかった理由を述べ、Aが犯人であることを示す証拠はないと結論付けた[8][56]。検察側・弁護側とも、その日のうちに上訴権を放棄したため、判決は確定した[7]

判決後、弁護団は声明を発表し、「事件発生、逮捕から34年、再審請求から7年を要してようやく冤罪が晴らされた。再審公判では、Aさんの健康状態を考慮し、速やかに手続きを進めた熊本地裁の判断を高く評価する」としたものの[57]、齊藤弁護士は、確定審で「有罪という誤った判決を出した熊本地裁が、これに言及すると思っていたのに残念だ」と苦言を呈し、三角弁護士は「再審が決まっても検察が何度も抗告して、裁判を長引かせることができる再審制度の改正も訴えていかなければならない」と述べた[58]。Aの二男も、弁護団には「これでA家の矜持を保てた。感謝の言葉しかない」と感謝した一方で、「冤罪をつくり、判決を引き延ばした警察や検察の責任は今の法律では追及できない」と話した[58]。また、熊本地検の江口昌英次席検事は、「被告人が有罪であるという新たな主張・立証は行わず、裁判所に適切な判断を求めていたもので、その点を踏まえて裁判所が判断したものと考える。今後とも基本に忠実な捜査を徹底していきたい」[59]、熊本県警の甲斐利美刑事部長は、「無罪判決が言い渡されたことは真摯に受け止め、今後の捜査に生かしていきたい」とコメントした[59][60]

同日12時30分ころ[58]、弁護団やAの二男は、Aの入所する高齢者施設を訪れ、Aに無罪判決を報告した[58][61]。脳梗塞の後遺症でほぼ寝たきりの生活を送るAは、認知症の症状が進み、普段は感情を表情に表すこともほとんどないが[58]、弁護団が繰り返し無罪と伝えると、頬を緩め目に涙を浮かべたという[58][61]

脚注

注釈

  1. ^ Aはすでにこれを超えて服役しており、再度収監されることはない[8]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 齊藤 2011.
  2. ^ a b c d e f g h i j 江川 2019.
  3. ^ a b c d e f g h i j k 三角 2018a, p. 31.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 三角 2018a, p. 32.
  5. ^ a b c 福岡高裁 2017, p. 1.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 熊本地裁 2019, p. 2.
  7. ^ a b 熊本日日新聞』2019年3月29日付朝刊、3版、1面。
  8. ^ a b c d 西日本新聞』2019年3月29日付朝刊、19版、1面。
  9. ^ 人権擁護委員会が扱う人権分野”. 日本弁護士連合会. 2019年3月28日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 江川 2016.
  11. ^ 福岡高裁 2017, pp. 1–2.
  12. ^ 福岡高裁 2017, pp. 2–3.
  13. ^ a b c d e f g h i j 福岡高裁 2017, p. 2.
  14. ^ a b c d e f g h i j 福岡高裁 2017, p. 3.
  15. ^ 齊藤 2019a, p. 43.
  16. ^ a b c d e f g h 福岡高裁 2017, p. 4.
  17. ^ 浅野 2016, pp. 19–20.
  18. ^ a b 福岡高裁 2017, pp. 3–4.
  19. ^ a b c d e 福岡高裁 2017, p. 6.
  20. ^ a b c d e f g 福岡高裁 2017, p. 5.
  21. ^ 齊藤 2019a, p. 44.
  22. ^ 齊藤 2019a, p. 43-44.
  23. ^ a b c d e f g h i j k 齊藤 2019a, p. 37.
  24. ^ 三角 2018a, pp. 31–32.
  25. ^ 浅野 2016, p. 19.
  26. ^ 齊藤 2019a, p. 38.
  27. ^ 齊藤 2019a, pp. 38–39.
  28. ^ a b c d 齊藤 2019a, p. 39.
  29. ^ a b 齊藤 2019a, pp. 39–40.
  30. ^ a b 齊藤 2019b, p. 58.
  31. ^ a b 三角 2018a, p. 34.
  32. ^ a b c d e f 齊藤 2019a, p. 40.
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  38. ^ 福岡高裁 2017, pp. 2–6.
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参考文献

判決文等

再審請求即時抗告審
再審

書籍

  • 三角恒「松橋事件」『隠された証拠が冤罪を晴らす-再審における証拠開示の法制化に向けて』、現代人文社、2018年、31-36頁。ISBN 9784877987121

雑誌記事

  • 浅野健一「松橋事件で再審開始決定-冤罪を助長する犯人視報道をやめよ」『自然と人間』第245号、「自然と人間」事務局、2016年、18-21頁。NAID 40021000751
  • 「再審請求審における明白性の判断方法-松橋事件再審請求審・再審開始決定[熊本地裁平成28.6.30]」『新・判例解説watch』第20号、日本評論社2017年、221-224頁。NAID 40021251450
  • 新屋達之「刑事訴訟法判例研究(61)自白の信用性の減殺により再審が開始された事例-松橋事件再審開始決定[熊本地裁平成28.6.30決定]」『法律時報』第89巻8号、日本評論社、2017年、117-120頁。NAID 40021229044
  • 三角恒「岐路に立つ裁判官(15)松橋事件再審開始決定に関する弁護人の考察」『判例時報』第2368号、判例時報社、2018年、134-138頁。NAID 40021574353
  • 齊藤誠「再審開始確定、熊本 松橋事件メモ(上)」『進歩と改革』第805号、「進歩と改革」研究会、2019年、37-44頁。NAID 40021755361
  • 齊藤誠「再審開始確定、熊本 松橋事件メモ(下)」『進歩と改革』第806号、「進歩と改革」研究会、2019年、56-61頁。NAID 40021772456

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