瀬長亀次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
瀬長 亀次郎
せなが かめじろう
Prison Release of Kamejiro Senaga.JPG
生年月日 1907年6月10日
出生地 沖縄県豊見城市
没年月日 (2001-10-05) 2001年10月5日(94歳没)
出身校 第七高等学校放校(退学)
(現・鹿児島大学
所属政党 沖縄人民党→)
日本共産党
称号 ジョリオ=キュリー賞
沖縄県自治功労者
沖縄県那覇市名誉市民、市政功労者
沖縄県豊見城市名誉市民
日本共産党50年党員
配偶者 妻・瀬長フミ

選挙区 沖縄県全県区
当選回数 7回
在任期間 1970年11月16日 - 1990年1月24日

当選回数 1回
在任期間 1957年1月 - 1957年11月

アメリカ施政下の沖縄の旗 琉球政府立法院議員
選挙区 第18区(第1回
第5区(第2回
第21区(第8回
当選回数 3回
在任期間 1952年 - 1954年
在任期間 1968年 - 1970年10月
テンプレートを表示

瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年明治40年)6月10日 [1]- 2001年平成13年)10月5日[2])は、日本政治家ジャーナリスト。沖縄の本土復帰前からの同地区非合法日本共産党員、同党公然組織である沖縄人民党幹部。復帰前に、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長をつとめた。また、1946年 - 1949年、米軍機関紙「うるま新報」(後の琉球新報)社長を務めた。

概要[編集]

太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治(施政権下)において、同地区において非合法であった日本共産党員として合法政党である沖縄人民党[3]を他の共産党員と共に組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。共産党籍を隠した上で返還前の沖縄において立法院議員や那覇市長を歴任、国政参加選挙において衆議院議員に当選した。沖縄返還後は沖縄人民党を日本共産党へ合流させたとして、同党所属として衆議院議員を通算7期務めるが、他の沖縄人民党設立幹部と同様、死去まで日本共産党員であった過去を一切認めなかった。沖縄県豊見城村(現:豊見城市)出身。

経歴[編集]

一部不屈館公式サイトによる[4]

1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現:豊見城市)我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現:沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現:順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現:鹿児島大学)に進んだ[5]が、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征する。

戦後名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現:琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営しながら、日本共産党奄美細胞と連携して組織活動を指導し、合法政党としての沖縄人民党書記長となる。1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、当選者の1割にも満たない得票数で落選。次回1952年第1回立法院議員総選挙では最高得票数で当選[6]を果たす。同選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否した。米国民政府は公に好ましからざる人物として対応する。

瀬長亀次郎(2列目の左端で本を持つ人物)

1954年10月、米国民政府は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕、懲役2年の刑の判決により再び投獄された。1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけるなど事実審理の形式に問題はあったが、当時の日本共産党関係の秘密文書の多くが開示された現在において事実関係の認定の誤りは特に見受けられない(沖縄人民党事件)。1956年4月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬、当選。

瀬長が公然と反米を掲げる人民党の幹部であることを危惧した米国民政府は、管理する琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置を行い市政運営の危機[7]に見舞われるが、多くの市民が、瀬長の市政を支えるために「自主的な」納税によって財源を確保しようとの瀬長側の呼びかけに応じ、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後の納税率は86%、最高で97%になった。これにより当座の市政運営ができるようになり瀬長は市政運営の危機を脱する[8]。これに対し米国民政府と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)1954年の投獄を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した[9]

市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米国民政府との攻防は、当時沖縄県民の強い支持を受け、現在でも同県内では祖国復帰運動に身を捧げた市民活動家であると信奉する者が多い[10]

瀬長の出所を祝う支援者

1967年12月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した[11]。1970年には日本共産党第11回党大会に「来賓」として出席[12]し、国政参加選挙への支援を訴えた。同年の沖縄初の国政参加選挙では、沖縄人民党公認で当選、1972年の第33回衆議院議員総選挙でも人民党公認で2期目の当選を果たす。1973年に人民党を日本共産党へ合流させたとして、以後は日本共産党公認として1986年の第38回衆議院議員総選挙まで通算7期連続して衆議院議員に当選した。その間、日本共産党副委員長であった。1990年、政治活動を引退する。2001年10月5日、肺炎で死去。享年94。

ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。

1998年には映画『カメジロー 沖縄の青春』が制作[13]され、2005年には小林よしのりが著書の沖縄論の中で「亀次郎の戦い」を掲載した。

不屈館

2013年3月、記念館「不屈館」が那覇市に開館。施設名は反米闘争を行った瀬長が生前好んで揮毫した“不屈”にちなむという[14]

人民党時代、瀬長は共産党員であることを一般には一切秘匿し反米市民活動家としての立場をとっていた。那覇市長時代も、瀬長及び人民党と日本共産党との関係は一切秘匿されていた。また、瀬長の活動を記録しているとしている記念館「不屈館」においても、米国統治下に非公然の日本共産党員であったとは一切認めていない。上述の映画やマンガにおいても、瀬長及び人民党による島ぐるみ闘争が日本共産党琉球地方委員会の指導下にあった闘争[15][16]であることを描いていない。[独自研究?]

著書[編集]

  • 『不屈 - 瀬長亀次郎日記』(琉球新報社、出版年不明)
  • 『沖縄からの報告』(岩波書店,1967年)
  • 『沖縄人民党 闘いの二十五年』(新日本出版社,1970年)
  • 『民族の怒り もえあがる沖縄』(新日本出版社,1971年)
  • 『民族の悲劇 沖縄県民の抵抗』(新日本出版社,1976年)
  • 『民族の未来 沖縄に平和と文化を』(新日本出版社,1978年)
  • 『瀬長亀次郎回想録』(新日本出版社,1991年)

脚注[編集]

  1. ^ 不屈館公式サイト・瀬長亀次郎について
  2. ^ 不屈館公式サイト・瀬長亀次郎について
  3. ^ 加藤哲郎「新たに発見された「沖縄・奄美非合法共産党文書」について(上)」、『大原社会問題研究所雑誌』第509号、法政大学大原社会問題研究所2001年4月、 32-46頁、 NAID 120000823665
  4. ^ 不屈館公式サイト・瀬長亀次郎について
  5. ^ 第七高等学校造士館編『第七高等学校造士館一覧 自昭和3年4月至昭和4年3月』第七高等学校造士館、1928年、p.157
  6. ^ 1952年3月22日付け琉球中央選挙管理委員会告示第6号(『琉球臨時政府公報』1952年第16号、1952年3月31日、p.13)
  7. ^ 『那覇市議会史』第1巻通史編「那覇市議会の歩み」189頁
  8. ^ 前掲書192頁
  9. ^ 前掲書197頁
  10. ^ 前掲書198頁
  11. ^ 1968年中央選挙管理委員会告示第13号(『公報』号外第113号、1968年11月21日、pp.3-4
  12. ^ 2017年の第27回党大会において、共産党は民進党などの代表を「来賓」として招待しているが、それを共産党は「初めて」と公式にコメントしている。
  13. ^ カメジロー 〜沖縄の青春〜 (岩波映像株式会社 販売作品のご案内)2015年2月11日閲覧
  14. ^ “瀬長亀次郎氏の遺品展示 「不屈館」反米や復帰闘争”. 共同通信. (2013年1月7日). http://www.47news.jp/CN/201301/CN2013010701001218.html 2013年1月7日閲覧。 
  15. ^ 加藤哲郎「新たに発見された「沖縄・奄美非合法共産党文書」について(下)」、『大原社会問題研究所雑誌』第510号、法政大学大原社会問題研究所、2001年5月、 31-56頁、 NAID 120000819774
  16. ^ 戦後沖縄解放運動資料集 不二出版

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]