洲崎神社
洲崎神社 | |
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所在地 | 千葉県館山市洲崎1344 |
位置 | 北緯34度58分5秒 東経139度45分29.60秒 / 北緯34.96806度 東経139.7582222度座標: 北緯34度58分5秒 東経139度45分29.60秒 / 北緯34.96806度 東経139.7582222度 |
主祭神 | 天比理乃咩命 |
社格等 |
式内社(大)論社 (伝)安房国一宮 旧県社 |
創建 | 神武天皇年間 |
本殿の様式 | 三間社流造銅板葺 |
例祭 | 8月20日 |
洲崎神社(すさきじんじゃ/すのさきじんじゃ)は、千葉県館山市洲崎にある神社。式内社(大社)論社で、江戸時代に安房国一宮とされた。旧社格は県社。
御手洗山中腹に鎮座する。
祭神[編集]
祭神は次の1柱。
祭神の表記[編集]
祭神の表記には、文献により以下のように異同がある。
- 天比理乃咩命
- 天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)
この相違が起こったのは、元来正史にある天比理刀咩命と記すべきものを神名帳が誤って「刀」を「乃」と記載した為だとする説がある[2]。
また『金丸家累代鑑』(慶長2年(1597年))に「安房郡洲宮村魚尾山に鎮座する洲宮后神社は、後に洲宮明神と称し、それを奥殿とし二ノ宮と曰う。また、洲崎村手洗山に洲崎明神あり、これを拝殿とし、一宮と曰う」とあることから、洲崎神社と洲宮神社は「洲の神」を祀る2社一体の神社で、洲崎神社が「洲の神」を祀る一宮、洲宮神社が「洲の神」を祀る二宮とされたとする説がある[3][2]。
歴史[編集]
創建[編集]
大同2年(807年)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓した。その後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したとされている。宝暦3年(1753年)に成立した洲崎神社の社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが洲崎神社の始まりであるという。
また、『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』には、天富命15代目の子孫である佐賀斯の第2子・色弗が初めて祖神天太玉命の后神を祀ったとの記述がある。『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』では色弗の兄の第4子・加奈万呂が安房神社第22代祠官として勝義と改名し、勝浦崎(洲崎)に仮宮を作って天比理刀咩命を祀ったとしている。このことから、色弗が初めて祀った斎場は大和国で、加奈万呂が勝浦崎(洲崎)に仮宮を作った養老4年(720年)7月が洲崎神社の創祀とする説もある[2]。
洲崎神社社伝によれば、養老元年(717年)大地変のため境内の鐘ヶ池が埋まり、地底の鐘を守っていた大蛇が災いしたので役小角が7日7夜の祈祷を行い、明神のご神託により大蛇を退治して災厄を除いたのだという。また、役小角が海上安全のため浜鳥居前の海岸と横須賀の安房口神社に御神石を1つずつ置いた[4]など、洲崎神社には修験道の開祖である役小角にまつわる伝承が多くある。これより、洲崎神社が古くから神仏習合思想や修験道の影響を強く受けていたことを物語っているとされる[2]。
概史[編集]
平安時代[編集]
「安房国 天比理刀咩神」は度々六国史に登場し、神階の陞叙を受けている(後述)。
延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では安房国安房郡に「后神天比理乃咩命神社 大 元名洲神」と記載され、天比理乃咩命神社は大社に列格された。洲崎神社はこの天比理乃咩命神社の論社の1つで、もう1つの論社である洲宮神社と、どちらが式内社であるか江戸時代から争うようになる。
永保元年(1081年)神階が最高位の正一位に達した。また、後の弘安4年(1281年)には元寇の役の功により勲二等に叙せられている。
治承4年(1180年)8月、源頼朝は石橋山の戦いに敗れ海路で安房国へ逃れた。『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月5日の条によれば、安房に逃れた源頼朝は上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り、洲崎神社へ参拝して使者が交渉を成功させて無事帰還した場合には神田を寄進するとの御願書を奉じている。この使者は無事に役目を果たし、同年9月12日の条では洲崎神社に神田が寄進された。また、寿永元年(1182年)8月11日の条では、頼朝の妻政子の安産祈願のため、安房国の豪族である安西景益が奉幣使として洲崎神社へ派遣されたことが記されている。以降も関東武家の崇敬を受けた。
また、『吾妻鏡』治承5年(養和元年、1181年)2月10日の条では、安房国洲崎神領で在庁官人らが煩いをなすことを停止させる下知書が洲宮神官宛に下されている。これが洲崎神社と洲宮神社の関わりを記した文書の初見とされる[2]。
江戸時代[編集]
文化9年(1812年)、房総沿岸を視察した筆頭老中松平定信が「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納した。江戸時代に一宮とされた根拠はこの扁額であるが、「安房一宮 洲崎大明神」となっており、断定できない。これをもって一宮としたのは、昭和13年(1938年)に来房した栃木県の郷土史研究家であり、どの書物にも正式に一宮と記載された歴史はない。『館山市史』では、洲崎神社を一宮としたのは西岬に一宮道があったことによる誤りではないかと述べている。
江戸時代までは別当養老寺が洲崎神社を支配し、これが明治元年(1868年)に神仏分離令が出されるまで続いた。
明治以後[編集]
明治5年(1872年)神祇を管轄する教部省は洲宮神社を式内社と定めたが、翌6年(1873年)にこの決定を覆して洲崎神社を式内社とした。ただし、決定の論拠はあまり明白で無いとされる[2]。また、明治6年(1873年)には近代社格制度で県社に列格した。
洲崎神社は海上交通の関所と言うべき位置にあり、昭和15年-16年(1940年-1941年)頃まで沖を通る船に奉賽を納めさせる風習があった。昭和47年(1972年)には御手洗山が「洲崎神社自然林」として千葉県指定天然記念物に指定された。現在は兼務社となり、神職は常駐していない。
神階[編集]
「天比理乃(刀)咩命神」の神階の推移。
- 承和9年(842年)10月2日、無位から従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「第一后神天比理刀咩命神」。
- 仁寿2年(852年)8月22日、従三位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「天比理乃咩命神」。
- 天安3年(859年)1月27日、従三位勲八等から正三位勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「天比々理刀咩命神」。
境内[編集]
本殿は三間社流造で銅板葺。社伝では延宝年間(1673年-1681年)の造営とするが、江戸時代中期以降に大規模な修理をしたことが見られる[5]。館山市の文化財に指定されている。
随身門は宝永年間の造営。随身門裏手から社殿へ上がる階段150段が続く。
また。浜鳥居外には「神石」と称される丸みを帯びた石がある。竜宮から洲崎大明神に奉納された2つの石とされ、もう1つは対岸の三浦半島にある安房口神社に祀られている。安房口神社の石は口を開いていることから「阿形」を、洲崎神社のものは裂け目の様子から「吽形」とされ、2石で東京湾の入り口を守っていると伝えられる[6]。
洲崎神社眼前の海は東京湾に出入りする大型船舶や漁船が行きかう海上交通の要衝であることから、洲崎神社では戦前まで航海安全を祈願して船頭が奉納した絵馬が多く見られたといわれる。
祭事[編集]
文化財[編集]
千葉県指定文化財[編集]
館山市指定文化財[編集]
- 有形文化財
- 有形民俗文化財
- 神体髪
- 祭神の天比理乃咩命の遺髪とされる。古くから船中に女性の髪を祀る風習があり、それとの関係が指摘されている。昭和45年8月26日指定[10]。
- 神体髪
分社[編集]
現地情報[編集]
所在地
交通アクセス
周辺
脚注[編集]
- ^ 祭神の名と読み仮名については洲崎神社で配布している『参拝の枝折』に従った。
- ^ a b c d e f 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』 (白水社、1984年12月)より。
- ^ 中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月 より。
- ^ 対を成すもう1つの御神石は、横須賀市吉井に鎮座する安房口神社の神体になっている。
- ^ 洲崎神社本殿(南房総データベース)。
- ^ 掲示板より。
- ^ 洲崎踊り(南房総データベース)。
- ^ 洲崎神社自然林(南房総データベース)。
- ^ 洲崎大明神縁起(南房総データベース)。
- ^ 洲崎神社神体髪(南房総データベース)。
参考文献[編集]
- 君塚文雄「洲崎神社・洲宮神社」(谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』 (白水社、1984年12月))
- 全国神社名鑑刊行会史学センター 編 『全国神社名鑑 上巻』 (全国神社名鑑刊行会史学センター、1977年7月)
- 千葉県神社庁房総の杜編纂委員会 『房総の杜』 (おうふう、2004年9月)
- 中世諸国一宮制研究会 編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 (岩田書院、2000年2月)
関連項目[編集]
- 安房神社 - 安房国一宮。
外部リンク[編集]
- 洲崎神社 - 館山市観光協会
- 洲崎神社 - 南房総データベース
- 后神天比理乃咩命神社 - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」
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