岡本明久
おかもと あきひさ 岡本 明久 | |
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生年月日 | 1937年8月7日(87歳) |
出生地 | 山口県大島郡周防大島町 |
国籍 | 日本 |
職業 | 映画監督 |
活動期間 | 1961年 - |
岡本 明久(おかもと あきひさ、1937年〈昭和12年〉8月7日 - )は、日本の映画監督[1]。山口県大島郡周防大島町(屋代島)出身[1][2][3]。
経歴
[編集]実家は海上運送業[1]。山口県立久賀高等学校を経て中央大学法学部法律学科を1961年卒業[1]。少年期から東映時代劇の大ファンだったこと、木下惠介監督の『日本の悲劇』や、今井正『米』などに感銘を受けたことから、映画を志し同年4月、東映東京撮影所(以下、東映東京)に助監督として入社[1]。関川秀雄監督の『モーガン警部と謎の男』以降、村山新治、鷹森立一、佐藤純彌、降旗康男、野田幸男ら、24人の監督70本以上の作品に助監督として就く[1]。特に佐藤純彌作品が多く、1975年の『新幹線大爆破』や1981年の『甦れ魔女』ではB班チームを務めた[1]。
1976年、菅原文太主演の『横浜暗黒街 マシンガンの竜』で監督に昇進し[1]、アクションの切れ味を見せた[1]。続く『暴力教室』では松田優作を、『男組 少年刑務所』では舘ひろしの売り出しに貢献した[1]。1970年代後半は日本の映画会社は大作一本立てとアニメーション映画を含む提携、買い取り映画をプログラムに乗せることが増え、撮影所制作の映画はめっきり減り、映画の監督をするチャンスも減った[1][4]。
東映東京の組合活動家の一人で[1][5][6]、映画の演出は途切れ、組合員による東映テレビ番組の演出や[1]、教育映画『室町時代の社会と文化』(1980年)、中央大学百年記念映画『母校よ永遠なれ・中央大学百年の歴史』(1985年)『草のみどり』(1986年)などを撮った[1]。東映東京労組役員専従は1986年まで務め[1]、1997年、東映を定年退職しフリーになった[3]。真面目に超が付く人柄で、撮り終わった後、「ところであのカットが...」とリテイクしたがるので有名だったという[7]。
1996年の『人間の翼 最後のキャッチボール』は、劇場公開後も良作と評判を呼び[3]、全国の学校や公共施設で、公開3年後までに全国350ヶ所以上で自主上映が続いた[3]。
監督作品
[編集]映画
[編集]- 横浜暗黒街 マシンガンの竜(1976年、東映東京)
- 暴力教室(1976年、東映東京) ※兼脚本
- 男組 少年刑務所(1976年、東映東京)
- 女バトルコップ(1990年、東映ビデオ)
- 人間の翼 最後のキャッチボール(1996年 、映画「人間の翼」をつくる会) ※兼脚本
- 徐福さん(2003年、「徐福さん」制作委員会) ※兼脚本
テレビ
[編集]- 特命刑事(日本テレビ、第8話、1980年)
- ドラマ・人間(テレビ朝日、第7話、1981年)
- 松本清張事件にせまる 「野望の設計図」(テレビ朝日、1984年5月17日)
- 東映不思議コメディーシリーズ(フジテレビ)
- ロボット8ちゃん(第10、11話他、1981年)
- バッテンロボ丸(フジテレビ、第22、23話他、1983年)
- どきんちょ!ネムリン(第3、4話、1984年)
- もりもりぼっくん(第33、34話、1986年)
- メタルヒーローシリーズ(テレビ朝日)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本映画テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年、77–78頁。
- ^ “新人国記85 山口県(12) 光と影を演出して”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 1. (1985年4月11日)
- ^ a b c d “特攻で散った実在投手の映画 『人間の翼』 静かなブーム、動員15万人”. 東京新聞夕刊 (中日新聞東京本社): p. 放送芸能右7頁. (1998年6月15日)
- ^ 澤井信一郎、鈴木一誌『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』ワイズ出版、2006年、130–134頁。ISBN 978-4-89830-202-6。
- ^ 岡本明久「東映東京撮影所の血と骨 泣く 笑う 握る」『映画論叢 vol.36』2014年7月号、国書刊行会、70頁。
- ^ 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第二十九回 東撮は燃えているか」『シナリオ』2014年10月号、日本シナリオ作家協会、66-71頁。
- ^ 布村建「極私的東映および教育映画部回想」『映画論叢 Vol.18』2014年7月号、国書刊行会、38頁。