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二条為子

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二条為子
日本国皇太子妃
Nijō Ishi.jpg
『名所和歌百人一首』(貞享3年(1686年)9月)より「後二条院権大納言典侍」
在位 徳治3年(1308年) - 応長元年(1311年)もしくは正和元年(1312年

身位 従三位
出生 不明
死去 応長元年8月12日1311年9月24日
もしくは正和元年8月12日1312年9月13日
配偶者 皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇
子女 尊良親王瓊子内親王、尊澄法親王(のちの宗良親王
家名 藤原北家御子左流二条家
父親 二条為世
役職 遊義門院(姈子内親王女房
後二条天皇典侍
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二条 為子(にじょう いし/ためこ)は、鎌倉時代後期、二条派の代表的歌人従三位為子(ぞうじゅさんみいし/ためこ)とも[注釈 1]。歌聖藤原定家の嫡系子孫で、歌壇の大御所二条為世の娘。皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)の妃。

はじめ遊義門院(姈子内親王)に仕え、さらに後二条天皇典侍を務めるなど重職を歴任した。これと前後して1300年代後半ごろから、為子と同じく和歌の名手である尊治親王と交際を始め、徳治3年(1308年)の後二条崩御に伴い尊治が皇太子となったことで、為子も皇太子妃となる。尊治とは仲睦まじく、第一皇子である一品中務卿尊良親王や、南朝最大の歌人である南朝征夷大将軍宗良親王天台座主尊澄法親王)らをもうけたが、尊治の即位前に早逝した。為子の死後に即位した後醍醐は、二条派の庇護者となって振興に努めた。結果、後醍醐を敬愛し武家歌人としても傑出していた室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏らを通じ、同派は中世近世近代の500年以上に渡り歌壇を主導した。

その歌風は「やさしき歌」と評され、『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に計71首が入集した。後世、観世信光紅葉狩』(室町時代中期)などに影響を与えた。羇旅歌(きりょか、旅情の歌)にも優れ、隅田川を題にした歌が『名所和歌百人一首』(貞享3年(1686年)9月)に撰出された。歌のほか、漢学の素養もあり、また書にも秀でるなど、万能の人であったことから、「名誉の女房」(「偉大なる女性」)と称えられた。

経歴[編集]

勅撰歌人に[編集]

鎌倉時代末期、権大納言二条為世の娘として生まれる[1]。父の為世は藤原北家御子左流二条家の当主であり、歌聖藤原定家の嫡流での曾孫に当たる。為世自身もまた、「道の宗匠として、あえて比肩の仁なし」(『花園天皇宸記』)とまで称えられた、当時の歌壇の大御所だった[1]。為世は、後宇多上皇(後醍醐父)のもと、全21ある勅撰和歌集のうち、第13である『新後撰和歌集』(嘉元元年(1303年)奏覧)と第15である『続千載和歌集』(元応2年(1320年)奏覧)の2つの勅撰集の撰者となっている。

為子ははじめ、後宇多上皇の寵姫である遊義門院(姈子内親王)に仕えていた[1][2]。嘉元元年(1303年)、後宇多による『嘉元百首』に和歌を詠進した(『玉葉和歌集』旅歌・1149等)[3]。同年奏覧された『新後撰和歌集』(嘉元元年(1303年))に和歌が撰ばれ、「遊義門院権大納言」として勅撰歌人となった[4]

尊治親王妃に[編集]

1300年代ごろ、為子は尊治親王(のちの後醍醐天皇)と交際を始める[1]。正確な馴れ初めは不明であるが、尊治(後醍醐)も無類の和歌好きで同時代を代表する大歌人であるから[5]、おそらく二人は和歌の趣味を介して出会ったと考えられている[1]。二人が付き合い始めた確実な時期も不明だが、日本史研究者の平田俊春は、長子である尊良親王徳治年間(1306年 - 1308年)の生まれと推測しており、森茂暁も同意する[6]

増鏡』「秋のみ山」には、「坊の御時、限りなく思(おぼ)されたり」云々とあり、尊治から為子への愛情は限りないほど深かった[7][8]。さらに、地位としても、為子は尊治の正室格の妃と見なされたようである(なお、尊治が後の中宮西園寺禧子と出会うのは為子の没後)。たとえば、『花園天皇宸記』では、二条為定(為世の孫)の一族は後醍醐天皇の「外家」(皇后あるいは皇妃の生家)とある[6]。また敗れてはしまったものの、後、尊良は次期皇太子位を巡る政争に父帝の推挙で出馬したこともある(「書状切」鶴見大学図書館所蔵)[9]。為子と尊治の二人のどちらにとっても長子である尊良の乳父には、尊治が属する皇統である大覚寺統譜代の重臣「後の三房」のひとり吉田定房が当てられ、手厚く養育された(『増鏡』「春の別れ」)[10]

嘉元4年(1306年)、後宇多上皇による三十首歌に詠進(『玉葉和歌集』秋歌上・458)[11]徳治2年(1307年)3月、後宇多による仙洞歌合に参加(『新千載和歌集』春歌上・75)[12]

長男の尊良の誕生と前後して、徳治2年7月24日1307年8月22日)に為子の主君である遊義門院が急病で崩御した。その後は、夫の尊治の兄である後二条天皇典侍後宮の運営を行う官僚で事実上の長官)[注釈 2]として仕え始めた[1][2]。『玉葉和歌集』(正和元年(1312年)奏覧)では「後二条院権大納言典侍」と称されている[13]。しかし、後二条もまた、遊義門院崩御の約1年後、徳治3年8月25日1308年9月10日)に崩御してしまった[14]。後二条の急死によって、尊治が皇太子となった[14]

長男の尊良の次に、為子は女三宮(尊治親王にとっての第三女)をもうけた(『増鏡』「秋のみ山」)[7]。森や『国史大辞典』(次田香澄担当)は、この女三宮を瓊子内親王(けいしないしんのう)のことであるとしている[1]

さらに、応長元年(1311年)に尊澄法親王、のちの宗良親王を出産した(『増鏡』「秋のみ山」・『東寺天台座主記』)[7][15]

しかし為子は、尊澄(宗良)を産んで間もない頃で、夫の尊治が文保2年(1318年)に天皇に即位する相当前の、ある時期に没した[8]。『為理集』によって為子の没日が8月12日なのは確かめられるが[8]、その正確な没年については揺れがある[8][1]。森は、1988年初版/2007年改版の著書では正和3年(1314年)としていたが[8][注釈 3]、その後、1991年初版/2013年改版の著書では応長元年(1311年)もしくは正和元年(1312年)としている[1]。『国史大辞典』(次田香澄担当)は、「応長元年(1311年)ごろ」としている[2]頓阿『草庵和歌集』1322に「民部卿于時宰相中将」とあり、二条為藤(為子の兄弟)が宰相中将だったのが延慶2年(1309年)3月から正和2年(1313年)8月7日までである(『公卿補任』)ことから、没年を1311年か1312年に絞ることが可能である[16]。いずれにしても、尊治と出会ってから5年ほど、尊澄(宗良)を出産してすぐに亡くなったことになる。

二条派を代表する歌人の一人にして未来の天皇妃の早逝という事実に、二条派一門には衝撃が走った[17]。数多くの有力歌人によって哀傷歌が詠まれ、『続千載和歌集』などの勅撰集に入集している[18]。特に、二条為世高弟「和歌四天王」の筆頭である頓阿は、家集『草庵和歌集』に、為子の死を悼んだ哀傷歌として、1首の独詠歌と、3組の贈答歌を残している[18]。当時は、二条派と対立する京極派が巻き返した時期であり、為世の好敵手である京極為兼が主導して、勅撰集『玉葉和歌集』の編集を着々と進めていたこともなお一層、一門の悲嘆に拍車を掛けた[19]

死後[編集]

尊治親王は文保2年(1318年)に後醍醐天皇として即位し、『続千載和歌集』の編纂が開始されると、この頃、為子を偲んで従三位追贈した(『増鏡』「秋のみ山」)[7][8]。以降、二条為子は、「贈従三位為子」とも呼ばれるようになった(『増鏡』「秋のみ山」等)[1][7]江戸時代後期の有職故実家である栗原信充によれば、天皇女御皇后中宮に次ぐ妃)が卒去後に従三位を追贈されるのは、平安時代初期の仁明天皇の女御だった藤原沢子以降ない訳ではないものの、皇太子時代の妃が従三位を追贈されるという例はきわめて珍しく、後醍醐の為子への格別な想いのほどが窺えるのではないか、という[20]

為子の死後、後醍醐は為子の二条派を守るために、あらゆる手段を尽くした。『増鏡』作者からは、後醍醐は和歌の強力なパトロンと見なされた(『増鏡』「秋のみ山」)[5]。当時、保守的な二条派は形式主義の傾向が強く、その好敵手であり、清新で写実的・感覚的な自然美を尊ぶ、新進気鋭の京極派に押されつつあった[21]。そこに、後醍醐は儒学の知見を加え、古歌・古義を知ることで和歌本来の意味を問い直すという、京極派とは逆の方向から、ルネサンス的な新しい気風を歌道に取り入れ、為世の子で為子の兄弟である二条為藤と共に研鑽した(『花園天皇宸記』元亨4年(1324年)7月26日条裏書)[5]。この気風は、為世の嫡孫の二条為定にも受け継がれたと推測される[5]

後醍醐と為定による勅撰集『続後拾遺和歌集』(正中2年(1325年)奏覧)によって発掘された若手歌人には、足利高氏という当時まだ無名の若武者もいた[22]。のち、尊治(後醍醐)の偏諱を受けて尊氏を名乗り、その後、室町幕府初代征夷大将軍となった足利尊氏は、武家歌人としても大成し[22]、二条為定を撰者として北朝で『新千載和歌集』(正平14年/延文4年(1359年))を執奏した[23]。再興した二条派は、二条家本体の没落後も、宗祇三条西実隆細川幽斎らによって受け継がれ、近世江戸時代に至っても大きな力を有した[24]。二条派の発展型まで含めれば、江戸時代後期の香川景樹による桂園派[25]、桂園派を発展させた高崎正風らの御歌所派によって、昭和21年(1946年)の御歌所廃止まで存続した[26]

また、為子の皇子である尊良・尊澄(宗良)ともに和歌に長じた[8]。皇女の瓊子もまた、『新千載和歌集』や『新葉和歌集』に入集した勅撰歌人である[27]。特に、南朝征夷大将軍の宗良親王は、流浪の転戦の経験から独自の境地を切り開き、南朝最大の歌人として准勅撰和歌集『新葉和歌集』の撰者となった[28]。前述した通り、宗良は、母の面影もほとんど覚えていないであろうほど幼いころ(満0歳から満1歳ごろ)に死に別れている。しかし、亡き母への思慕は晩年まで続き、『新葉和歌集』には歌才を通じて母と自分の繋がりに思いを馳せる和歌が撰ばれている[29]

    前大納言為定もとへ千首歌よみてつかはし侍りし時、贈従三位為子の事など思ひいでて申しつかはし侍りし
ちりはてし ははそのもりの なごりとも しらるばかりの 言の葉もがな(大意:ハハソ(ナラ)の巨木の森は、たとえ散り果ててしまったとしても、その跡がはっきりとわかるほどに多くの葉を残す。そのように、若くして散ってしまった偉大な歌人である亡き母よ。あなたの忘れ形見であると世の人に認められるほど、私の言の葉(和歌)も優れたものであったらと強く願うばかりだ)[29]
中務卿宗良親王、『新葉和歌集』雑歌中・1202

作風・評価[編集]

新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に計71首が入集[2]。『増鏡』作者(二条良基など諸説あり)は、「集にもやさしき歌多く侍るべし」(「『続千載和歌集』にも優美な歌が多く入集したようである」)と評している[7]。中世和歌研究者の次田香澄は、「二条派風の優婉な歌風」と評している[2]

昭慶門院御屏風押色紙和歌』の応安4年(1371年4月6日奥書著者は、「歌人云。文才云。能書云。名誉之女房也」(「歌人でもあり、文才(漢学の素養を持った人物)でもあり、能書でもある。まさに名誉の女房(偉大なる女性)である」)と評している[30]#七夕)。

江戸時代後期の有職故実家である栗原信充が著した人物列伝『先進繍像玉石雑誌』正編(天保14年(1843年))においては、楠木正成兼好法師といった同時代の錚々たる24人の有名人のうち、二条為子の列伝が最終巻を務める[31]。しかも正編全9巻(全10冊)のうち、巻第9(第10冊)は為子(とその一族)だけで占められるという好待遇になっている[32]。そして、為子を聖善慈訓の人であると理想の人間として称え、為子の皇子たちが文武両道の傑物に育ったのもそのおかげであるとし、為子への賞賛をもって正篇全9巻の締めくくりとしている[33]

代表歌[編集]

白菊[編集]

月ならで うつろふ色も みえぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊[注釈 4][34][35][36](大意:永遠に輝く月とは違って、すぐに色褪せて移ろいゆくものなのですね。古い歌では、白菊は真っ白すぎて、月明かりの下では色が溶け込んで見えなくなるとか、初霜に紛れて見分けが付かなくなる、などと飾って言うものです。でも、今、庭に咲く白菊を見てみたら、初霜が降る季節の前だというのに[注釈 5]、もう色褪せ始めて、月明かりの下でもはっきり見えるようになってしまいました――幾千世までも月のように輝き続けるあなたに見合うような、白菊の挿頭(かざし、につける飾り)を作ろうと思っていたのですが[注釈 6]
贈従三位為子、『続後拾遺和歌集』秋下・381

この歌は、室町時代中期の猿楽師(能楽師)である観世信光観阿弥の曾孫)による紅葉狩』の次第(曲目の主題となる導入歌)に、「人こそ見えぬ秋も来て、庭の白菊うつろふ色も、憂き身の類とあはれなり」として引用された[35]。なお、『紅葉狩』の引用では、前半部が、恵慶法師の「八重葎 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり」(『拾遺和歌集』秋)の後半部と融合している[35]

また、後醍醐天皇も、建武の新政を開いた後に行われた元弘3年(1333年)9月13日の歌会で、為子の歌を参考歌にしたと思われる和歌を詠んでいる(『新葉和歌集』秋下・386)。詳細は後醍醐天皇#白菊

すみだ河[編集]

    嘉元百首歌の中に、旅
ことゝへど こたへぬ月の すみだ河 都の友と 見るかひもなし[3](大意:せっかく東国の隅田川に来たので、あの在原業平の有名な歌の真似をしたいと思ったところ[注釈 7]、夜だから歌に言う「みやこ鳥」はいなかったので、都にいる私の想い人は無事かどうか、月に訊いてみました。けれども何も答えてくれず、ただ澄んだ月が川の上に輝くばかり。これでは都の友だちと一緒に見物しに来た甲斐もないのですが……)
後二条院権大納言典侍、『玉葉和歌集』旅歌・1149

江戸時代前期の歌学者である戸田茂睡は、あるとき、隅田川から9月13夜の名月を見て、「角田川 月も今宵の 名にし負はば いざこと問はん 古の秋」と詠んだ[37]。すると、親友の陶々斎が、それは為子の歌(と在原業平の「名にし負はば(略)」)の真似だろう、古人の糟を食らってまで生きるのかと馬鹿にした[37]。茂睡は怒って、今夜は名月だから、それを「名にし負ふ」という詞で表したんじゃないか、そんなこともわからないのか、と反論したという(以上、『紫の一本』巻2「川」)[37]

当時、この為子の歌は江戸っ子の間で有名で、江戸ではじめて作られた観光案内書『江戸雀』の11巻や[37]、『名所和歌百人一首』(貞享3年(1686年)9月)[38]斎藤月岑による江戸後期の代表的な地誌江戸名所図会』(天保7年(1836年))[39]などにも引用された。

七夕[編集]

    七夕
淵は瀬に かはらぬほども 天の川 としのわたりの 契りにぞしる[40](大意:あの急流の明日香川は、昨日の淵が今日の瀬に変わるほどといいますが[注釈 8]、ゆったりと変わらず流れるのが天の川。一年に渡って、川の水かさが変わらないように、離れ離れの恋人同士の想いも変わらない。それがはっきりとわかるのが、彦星織姫に逢うため、一年に一度同じ日に天の川を渡る「年の渡り」の契りです[注釈 9]
権大納言局、『昭慶門院御屏風和歌』(『新後拾遺和歌集』秋歌上・291に同一歌[41]

『昭慶門院御屏風押色紙和歌』(『群書類従』所収)の徳治元年(1306年11月3日奥書[注釈 10]の主張によれば、上記の和歌は亀山上皇(後醍醐の祖父)の皇女である昭慶門院(憙子内親王)の屏風の上に色紙を貼って、為子自身の筆で書かれたものであるという[30]。また、同和歌集には、為子の歌2首を含め、冷泉為相ら50首の和歌が収められているが、原本の屏風では50首全てについて為子が揮毫したという[42]。奥書著者は、これらの和歌は、嘉元元年(1303年)に後宇多上皇(後醍醐の父)が開催した『嘉元百首』に詠進されたものに含まれているのではないか、と推測している[30]

応安4年(1371年4月6日の奥書著者[注釈 11]は、上記の逸話を知って、「歌人云。文才云。能書云。名誉之女房也」(「歌人でもあり、文才(漢学の素養を持った人物)でもあり、能書でもある。まさに名誉の女房(偉大なる女性)である」)と為子を評している[30]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ なお、「贈」が付かない「従三位為子」は、「従二位為子」と同一人物、つまり同時代の京極派の代表的歌人である京極為子のことなので、混同しやすい。
  2. ^ 天皇皇后中宮女御が立てられなくなるにつれ、女官であるはずの典侍が天皇の事実上の側室になっていく傾向が見られるが、当時はまだ官僚としての典侍と側室としての典侍が存在した。
  3. ^ この為子の没年正和3年(1314年)説は、『為理集』が3部構成と考えられ、為子の一周忌に詠まれたとされる歌の部分が、正和4年(1315年)成立と推測されることからのようである。その議論は冷泉家時雨亭叢書 第74巻『中世私家集 10』 p. 44にあるようだが、要確認。
  4. ^ テキストは深津睦夫の校訂版[34]による(ただし句の切れ目に半角スペースを挿入した)。
  5. ^ 通常は、霜が降りた「後」に、花は色変わりする[34]
  6. ^ 従二位家隆「さえわたる 光を霜に まがへてや 月にうつろふ 白菊の花」(『千載和歌集』秋下)[34]
    凡河内躬恒「心あてに 折らばや折らむ 初霜のおきまどはせる 白菊の花」(『古今和歌集』秋下・277、『小倉百人一首』29)
    宇多天皇「行きて見ぬ 人のためにと 思はずば たれか折らまし 庭の白菊」(『続古今和歌集』秋下・496)
    藤原時光「うつろはで いく千世までも にほはなむ 君がかざしの 庭の白菊」(『延文百首』菊)
    按察使公通「月かげに かをるばかりを しるしにて いろはまがひぬ しらぎくの花」(『新勅撰和歌集』秋歌下・315)
    「初霜も 置きあへぬものを 白菊の 早くもうつる 色を見すらむ」(『兵部卿物語』)
  7. ^ 在原業平「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」(『伊勢物語』第9段(東下り)・『古今和歌集』羇旅歌・411)
  8. ^ 読人しらず「明日香河 淵は瀬になる 世なりとも 思ひそめてむ 人は忘れじ」(『古今和歌集』恋歌四・687)
  9. ^ 「玉かづら 絶えぬものから さらくは 年の渡りに ただ一夜のみ」(『万葉集』10・2078)
  10. ^ 「(本云)本書此和歌は。昭慶門院の御屏風に。為世卿女の筆にて。色紙にかきて押給しを写し侍なり。口一首は色紙のちらしのやう子にうつしぬ。奥はいそき写しなり。各先年の百首の内歟。徳治元年十一月三日」[30]
  11. ^ 「(又云)為世卿女于時権大納言局役。後入撰集贈従三位。為子。歌人云。文才云。能書云。名誉之女房也。応安四月六日〔元ノ〕判有」[30]

出典[編集]

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  5. ^ a b c d 森 2000, §5.2.1 和歌の好尚.
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  8. ^ a b c d e f g 森 2007, p. 228.
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  10. ^ 森 2007, p. 229.
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  14. ^ a b 森 2013, §1.1.3 「一代の主」.
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参考文献[編集]

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  • 小山弘志; 佐藤健一郎編 『謡曲集』 2巻 小学館〈新編日本古典文学全集 59〉、1998年。ISBN 978-4096580592 
  • 島内, 裕子『先進繍像玉石雑誌』の研究─兼好伝の位相を中心に─」『放送大学研究年報』第37巻、放送大学、2020年3月25日、 146(1)–133(14)。 閲覧は自由
  • 鈴木淳; 小高道子編 『近世随想集』 小学館〈新編日本古典文学全集 82〉、2000年。ISBN 978-4096580820 
  • 次田香澄 「藤原為子(二)」 『国史大辞典吉川弘文館、1997年。 
  • 深津睦夫編 『続後拾遺和歌集』 明治書院〈和歌文学大系 9〉、1997年。ISBN 978-4625513091 
  • 森茂暁 『皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身』 中央公論社〈中公新書 886〉、1988年。ISBN 978-4121008862 
    • 森茂暁 『皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身』 中央公論社〈中公文庫〉、2007年。ISBN 978-4122049307  - 上記の文庫化
  • 森茂暁 『太平記の群像 軍記物語の虚構と真実』 角川書店〈角川選書〉、1991年10月24日。ISBN 978-4047032217 
    • 森茂暁 『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』 KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、2013年12月25日。ISBN 978-4044092092  - 上記の文庫化。
  • 森茂暁 『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王中央公論社〈中公新書 1521〉、2000年。ISBN 978-4121015211 
  • 森茂暁 『足利尊氏』 KADOKAWA〈角川選書 583〉、2017年。ISBN 978-4047035935 

関連項目[編集]