いすゞ・ベレル

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いすゞ・ベレル
後期型(1967)
1967 Isuzu Bellel.jpg
販売期間 1962年 - 1967年
乗車定員 6 人
ボディタイプ 4ドアセダン
5ドアライトバン(エキスプレス)
エンジン 直4 OHV 1,500 cc / 2,000 cc
直4 2,000 cc ディーゼル
駆動方式 FR
全長 前期:4,485 mm / 後期:4,470 mm
全幅 1,690 mm
全高 前期:1,500 mm / 後期:1,515 mm
ホイールベース 2,530 mm
車両重量 前期:1,190kg / 後期:1,295kg
後継 いすゞ・フローリアン
-自動車のスペック表-

ベレルBELLEL)は、いすゞ自動車1962年から1967年まで製造していた乗用車である。

概要[編集]

イギリスルーツ・グループとの技術提携で国産化したいすゞ・ヒルマンミンクスの提携期限切れを前に、いすゞ初の自主開発乗用車として開発され、1961年10月16日に発表、さっそくその年の全日本自動車ショウに参考出品された。設計目標は「ヒルマンの長所を生かし独自設計を加味」することに置かれ、タクシー業界への販売を有利にする6人乗りとすることが絶対条件とされた。この結果、自家用向け主体だったヒルマンより一回り大きい、トヨタ・クラウン日産・セドリックプリンス・グロリアをライバルとする中型セダン(およびライトバン)となった。

また、日本初の量販ディーゼル乗用車(これ以前にもクラウンのディーゼル版が少量生産されていた)であり、1963年には日本機械学会賞を受賞している。形式名はPA10(ディーゼルモデルはPAD10)。

ヒルマン・ミンクスの後継モデルとして企画されたが、構造、生産、販売の各方面で根深い欠点・問題を抱えており、早くから不人気モデルに陥って、1世代で生産を終えた。

漫画こちら葛飾区亀有公園前派出所 第42巻に、大原部長の愛車としてベレルが登場する。

車名の由来[編集]

いすゞの社名の由来でもある五十鈴川。五十はローマ数字で「エル」、鈴の「ベル」にその「エル」を合成し、「ベレル」と命名したとされる。

歴史[編集]

ベレルの車型は、大別すると初期型と後期型に分けられるが、デザインの基調が明確でなかったこと、初期トラブルが頻発したこと、そして後発メーカーゆえの販売力の弱さもあいまって、自家用車としては先発のクラウン、セドリック、グロリアのような人気は得られなかった。オーナードライバー需要の方面では既に旧式化していたヒルマン・ミンクスが根強く売れ続け、1964年まで並行して継続生産されたほどであった。

初期トラブルは設計上の不備もさることながら、ベレル発表と同時に操業開始したいすゞ藤沢工場の生産立ち上げ失敗が原因であった。不慣れな試験工が新しい生産設備を扱ったため組立部品の精度が低く、生産立ち上げの1962年1月には遂に1台も完成しなかった。そのため急遽一部外注化したボディパネルからの雨漏り、Aピラーの亀裂、最終段階でラッカーからエナメル塗料に変更した塗装の発泡、スピードメーターダッシュボードクラッシュパッドの不具合、エンジンマウントの不良などが矢継ぎ早に発生、発表から半年も経った1962年4月の発売も全国一斉ではなく、東京名古屋大阪の三大都市圏に限らざるを得なくなった。ようやくこうした初期トラブルが解決したのは1963年1月で、同5月に月産1500台を達成した。

自家用需要が伸びない一方で、ディーゼルエンジン車の経済性が注目されたため、ベレルの販売はタクシーなど業務用営業車)に急速に集中されることとなった。1963-1964年頃にはベレルのタクシー需要に占めるシェアは20-30%に達し、販売台数のほとんどをディーゼルモデルが占めていた。

もっともトラック用ディーゼルエンジンの転用という出自から、振動や騒音の激しさは乗用車として到底無視できない水準で、現場のタクシー運転手たちからは「乗務したくない」と悪評を買い、タクシー会社ではやむなく「ベレル乗務手当」を出した例すらあったという。

折しもこの頃タクシー業界ではLPG自動車が急速に普及、ガソリンエンジン車との性能格差が小さく騒音振動面は同程度で済むLPガス仕様のクラウンやセドリックが出回るようになると、ディーゼルベレルの乗り心地の悪さが際立ってしまい、タクシー車としての需要も1965年以降は激減。その後のいすゞ車は(5ナンバーフルサイズ車のラインナップを失ったこともあって)タクシー需要の面でも販路を狭めることになってしまった。

前期型[編集]

前期型(1964) フロント
前期型(1964) リア

1962年4月発売のベレルは、ランチア・フラミニアの影響も感じられる直線基調のサイドラインを持つ、欧州車調のデザインをまとっていた。また、リアランプは三角形で、これは極めて個性的だった。しかし全体的には、フロントのドアとサイドウインドウがリアのそれと比較して極端に小さいなど、バランスが悪く鈍重な印象のデザインであった。

1962年後半にライバルのクラウンとグロリアが、当時の最新型アメリカ車の影響色濃い、4灯式ヘッドライトとフラットデッキスタイルで低さを強調したデザインの新型を登場させると、ベレルのスタイルは一気に旧世代のイメージとなった。

1962年11月にはツインキャブエンジンを搭載し最上級の「スペシャルデラックス」を追加、翌1963年1月に発売、4月にはスペシャルデラックスのディーゼルエンジン版も追加され、6月にはライトバン型の「エキスプレス」が追加された。

その後は不評のスタイリングを何とかライバルに見劣りしないように見せようと、1963年10月と1964年10月にフェイスリフトが行われ、フロントに「Isuzu」のバッジを追加し、リアはウインカーを独立させ低い位置へ移動。さらにガーニッシュを追加するなどの化粧直しが行われた。

後期型[編集]

1965年10月に大規模なフェイスリフトを受け、ベレルの個性であった三角形のリアランプを廃止し、一般的な横長のものに変更された。フロントマスクも縦型デュアルヘッドライトに変更となる。また、ギアボックスは3速フルシンクロに変更となった。しかし、これにより独特の個性を失う一方、元来のデザインのバランスの悪さは全く改善されなかった。

いすゞは宣伝コピーにおいて「さらに気高く、さらに豪華に」との意気込みを示したが、スタイルが没個性的になった上、ライバル各車が競って導入していたSOHC直列6気筒エンジンも、自動変速機も、パワーウィンドウすら用意されないベレルは、もはやクラウン、グロリア、そしてこの年ピニンファリーナのデザインでようやくフルモデルチェンジを果たしたセドリックの敵ではなく、販売増加にはつながらなかった。

惨憺たる不人気車となったベレルは、末期には在庫処分目的で(この当時の物価水準でも)とうてい2000cc級の新車とは思われない「3台で100万円の捨て値で売られていた」という風聞が伝えられるほどであった。1965年に東京芝浦電気(東芝)の経営再建のため同社社長に就任した土光敏夫は、この「叩き売りのベレル」を自ら公用に使うことで、社内での費用節減の垂範としたという。

フローリアンを後継車種として、1967年5月に生産が打ち切られた。エキスプレスライトバンモデルを含むベレルの総生産台数は37,206台であった。

機構[編集]

駆動方式は後輪駆動。エンジンは直列4気筒OHV・1,500cc72馬力と2,000cc85馬力のガソリンエンジンおよび、エルフのエンジンを用いた直列4気筒2,000cc55馬力のディーゼルエンジン。1962年11月発表の2,000ccガソリンエンジン車であるスペシャルデラックスでは、国産乗用車としては初のツインキャブエンジン(95馬力)を搭載した。中でもディーゼルエンジンは量産乗用車としては「日本初」の事例で、昭和37年度「機械学会賞」を受賞している。

サスペンションヒルマン・ミンクスを踏襲し、前輪ダブルウィッシュボーン、後輪半楕円リーフ式固定車軸であるが、前輪サスペンションは、ウィッシュボーンをクロスメンバーに取り付ける方式であったため、タクシーのような過酷な使用条件下では変形・亀裂が多発したという。ステアリングはボール式で、変速機構は1速目にシンクロメッシュ機構をもたない3速MTであった。

モータースポーツ[編集]

1963年開催の第1回日本グランプリで、ベレルはアメリカ人ドライバーによる豪快なドリフト走法で大健闘し、予想外の上位入賞を果たした。優勝はクラウンに譲ったが、在日米軍中佐のD・スウィッシャーが2位、後にF1チーム・シャドウのオーナーとなるドン・ニコルズが4位に入賞し、セドリックやグロリアを大きく上回る好成績であった。また、同年のマカオグランプリではスウィッシャーが、2台のロータス・コーティナボルボ・122ジャガー・3.4に次ぐ5位、Gクラスではボルボに次ぐクラス2位に入る健闘を示した。その後も1960年代に日本でも流行したストックカーレースに参戦している。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

いすゞ自動車50年史 1988年4月 いすゞ自動車株式会社 社史編集委員会

外部リンク[編集]