大衆車

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大衆車(たいしゅうしゃ)とは、一般的な大衆が購入・維持できるような、廉価な価格帯の乗用車のことである。同義、類義の呼称として、「国民車(こくみんしゃ)」や 「ファミリーカー」などがある。

大衆車市場の拡大はモータリゼーションの強力な牽引力となる。

概要[編集]

19世紀末に登場した乗用車は、当初は貴族大富豪など一部の上流階級のみが道楽として所有するものであり、大衆車/高級車という区分はされ得なかった。20世紀初頭、大量生産手法を導入したフォード・モデルTに始まる乗用車の普及・大衆化により初めて、一般所得層であっても所有できる乗用車が現実化し、以後各国で大衆がその日常生活において自家用車を求める需要に応じて、様々な企業から発売された。特に企業が自主的に設計・開発・生産を行って販売したものもあれば、企業が政府の依頼を受けて開発したものもある。

基本的な大衆車では、以下の点が重要視された。

  • その国の一般的な所得層でも十分に購入できる価格帯であること
  • その国の一般的な道路状況をみて日常利用が十分可能な走破能力があること
  • その国の一般的な所得層からみて、燃料、維持費などの所有コストに無理がないこと
  • 家族(夫婦と子供2人といった4名程度)が乗車できること

その後、大衆車の普及により、初期の大衆車にはない様々な価値が求められ、現在では多種多様な大衆車が存在する。

大衆車と国民車[編集]

大衆車が普及する以前に、自国において一般的な所得層でも所有が可能な乗用車を開発・販売し、その国のモータリゼーションのはしりとなる構想が各国で有った。こうした構想により開発された車を一般的には「国民の誰もが乗れる車」として国民車として呼称することがある。 また、結果的にその国のなかで高いシェアを獲得した車についても、「国民の誰もが乗っている車」として国民車として呼称することがある。

国民車では、大衆車にもとめられるよりも一層厳しい要件として、「ともかくその国の一般的な所得層でも十分に購入できる価格帯」と「家族全員が乗れる一定の室内」「未舗装の道路や坂道登攀などでの一定の走行性能」「壊れにくく修理しやすい」があった。実際にこの要件を全て満たす自動車の設計は特有の難しさがあり、広く国民車として認識された車種は、世界的にも非常に限られる。

日本の「国民車構想」[編集]

太平洋戦争終結から、日本の自動車工業を取り巻く環境の変化は次のようになる。

1947年昭和22年) 8月 自動車輸出の再開
1948年(昭和23年) 2月 GHQが貿易業者入国制限を解除
4月 トヨタ日産自動車、ヂーゼル自動車[1]新・三菱重工業高速機関工業の5社を会員とする「自動車工業会」が発足
1949年(昭和24年) 7月 軽自動車の規格が制定される
10月 GHQが日本の乗用車生産制限を解除
中華人民共和国成立
1950年(昭和25年) 6月 朝鮮戦争勃発(朝鮮特需
- 「自動車工業不要論」をめぐる論議
1951年(昭和26年) 6月 道路運送車両法」を公布
9月 サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約調印
1952年(昭和27年) 3月 「企業合理化促進法」の成立
4月 サンフランシスコ講和条約発効
10月 「乗用自動車関係提携および組立契約関する取扱方針」発表
1954年(昭和29年) 4月 日比谷公園で第一回「全日本自動車ショー」を開催
9月 「道路交通取締法」改正
1955年(昭和30年) 5月 「国民車育成要綱案(国民車構想)」をめぐる論議
1958年(昭和33年) 3月 スバル 360発売

1945年9月、GHQは日本のトラック生産許可に引き続き、1947年6月に台数限定つきで小型乗用車の生産を許可。とはいえ、戦後の急激なインフレーションを抑制するためにGHQが実施した金融引き締め政策(ドッジ・ライン)による不況に翻弄されていた当時の日本人には、乗用車の所有など、考えることすらできなかった。

ところが、1949年中華人民共和国の成立と1950年6月の「朝鮮戦争」の勃発で状況は一変する。GHQは早急な占領政策の終結に向け、平和条約の締結と、日本の経済的自立のため、国内産業育成の必要性に迫られた。

また朝鮮戦争の軍需物資調達のための、いわゆる朝鮮特需により、1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」という言葉に象徴される空前の好景気に日本は沸き、1960年の池田勇人内閣の「所得倍増計画」の発表など、日本の戦後復興は着実な歩みを進めていた。

そうした中、1954年9月、「道路交通取締法」が改正され、全長×全幅×全高(mm)=3,000×1,300×2,000、2ストローク4ストロークエンジンともに排気量360cc以下と統一され[2]、この新規格に沿って開発された日本初の本格的軽自動車として、1955年10月、鈴木自動車工業ドイツロイトを手本に、スズライトSFを発売している。

そして、1955年5月18日、通商産業省(現・経済産業省)の「国民車育成要綱案(国民車構想」が当時の新聞等で伝えられた[3]。同構想では一定の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するというものであった。要件は以下のとおりである。

  • 4名が搭乗した状態で時速100kmが出せる(ただし、定員のうち2名は、子供でもよい)
  • 時速60kmで走行した場合、1リッターのガソリンで30kmは走れる
  • 月産3,000台(構造が複雑ではなく、生産しやすいこと)
  • 工場原価15万円/販売価格25万円以下
  • 排気量350 - 500cc
  • 走行距離が10万km以上となっても、大きな修理を必要としないこと
  • 1958年秋には生産開始できること

この計画に、国内各自動車メーカーは「実現不可能」と消極的な反応が多かったが、1956年9月にはトヨタが、空冷4ストローク2気筒700cc、FF方式の「A1型[4]」計画を発表したり、小松製作所が国民車政策を発表するなどの動きはあった。

当時、自動車市場への新規参入を狙ったスバル・1500(P-1)の発売断念から、1955年から新規軽自動車規格に沿った新型軽自動車の開発に取り組んでいた富士重工業は、航空機製造で培った経験を取り入れ、1957年2月に試作第一号車を完成。1958年3月に「スバル・360」として発表、5月から発売した。

スバル360は、それまで各メーカーが「実現不可能」と冷遇していた通産省の「国民車構想」をほぼ満足させる内容で、たちまち軽乗用車市場を確立した。ただし、富士重工の首脳陣および百瀬晋六麾下の開発スタッフの念頭にあったものとしては、シトロエン・2CVのスペック等を参考とした以下の要求の実現を図ったものであり、「国民車構想」にそのまま沿って開発されたものではない。

これに続き、1959年9月、鈴木自動車工業スズライトをモデルチェンジした「スズライトTL」を発売。1960年には東洋工業マツダ・R360クーペを、1962年10月には、新・三菱重工業三菱・ミニカを、1966年にはダイハツが「フェロー」を発売。軽自動車市場は一気に活況を呈することになった。

また、小型車では1960年4月に発売された新・三菱重工業の「三菱500」、1961年4月のトヨタの「パブリカ」の発売に結実した。三菱500はパブリシティにおいても「国民車」を銘打っており、車体に「三菱500国民車」と書かれた発表時の写真が残されている[5]

結果的に「国民車構想」は、通産省が自ら企画したそれに沿って開発・発売された「大衆車」に対して補助を行うことはなかった。しかし、それまで自動車とは縁がなかった一般大衆に自動車を身近なものとして定着させ、欧米の自動車先進国に対し、著しく立ち遅れていた日本の自動車産業に画期的な技術革新を促したという意味では、同構想は非常に大きな貢献があったとされる。一方、日本の自家用車の普及は、政府の方針にとらわれることなく開発されたスバル360の功績であり、国民車構想の影響はほとんどないとする意見もある。

大衆車の例[編集]

初期の乗用車は上記要件を満たすため、その多くが小型のエンジンを搭載し、そのエンジンで駆動できるよう軽量化のために、やや小型のものが多い。またこの他にも国によって異なるニーズにより、一定の違いも見られる。特にこれらの多くが第二次世界大戦以降に開発されたのは、軍需産業の民生品への転換と、経済復興による大衆の購買力向上に関係する。

なお生産国の経済成長が大衆の所得を押し上げ、一般の労働者が持つ購買力が一定以上に達したため、これら一般大衆車の多くは「自動車の普及」という役割を終え、装備の充実した次の世代の大衆車に市場を譲ることとなった。

日本[編集]

日本では第二次世界大戦以降の1960年代より大衆車の開発と販売が進んだ。特に起伏に富んだ国土のため登坂性能は重要視され、夏場には高温になるため、高負荷でもオーバーヒートしにくいエンジンが求められた。また、1960年代までは未舗装路が多かったことから、丈夫な足回りが求められた。

スバル・360
愛称は「てんとう虫」
ネジ一本に至るまで吟味された日本製大衆車の元祖。後R-2(初代)レックスヴィヴィオプレオと受け継がれていき、最終的にR2(2代)ステラに至る。これら富士重工の軽自動車(商用のサンバーも含む)は、当初からコンパクトな車体で大人4人乗りに必要十分な車内スペースを確保し、さらに乗り心地を良好な物にするため4輪独立懸架を用い、最後までそれを貫いた事が特徴として挙げられる。文字通り歴史を作り上げたスバルは、トヨタ自動車の資本参加後登録車生産に特化することになり、2012年サンバーシリーズの生産終了をもって軽自動車生産の歴史の幕を閉じた。なおスバルブランドの大衆車としては、近年のWRCへの参加とその影響によるラリーベース仕様車の存在からイメージと離れるが、価格帯としてはインプレッサがそれにあたる。
KE10D型
初代カローラ
2ドアセダン1100デラックス
大衆向けでも家族3人以上で出かけることの多いニーズに向け、実用性と経済性に優れ乗り降りし易い3ボックスのノッチバックセダン型の小型乗用車として開発され、のちにクーペやステーションワゴン、ライトバン、ハッチバックなどの派生モデルも追加され[6]幅広いニーズに応えた。元来、トヨタ自動車が国民車構想に反応して作られたのはパブリカであったが、コスト削減から全般的に省略され過ぎていたため、生き残ったのはこのカローラであった。しかしパブリカの販売戦略における経験はカローラに活かされ、同社の低価格帯車両はスターレット[7]およびターセルコルサカローラIIを経てヴィッツ及びそのセダンであるプラッツベルタと、パッソアクアが受け継いでいった。カローラは高信頼かつ高品質なCセグメントクラスのファミリーカーへ確実に進化しているが、E140型以降は国内市場向けセダンは5ナンバーサイズの専用ボディが用意され海外市場モデルから完全に独立[8]し、販売の主力もアクシオ・フィールダー共にプリウス/プリウスα(7人乗り仕様を除く)に移りつつある。
B10型
初代サニー
2ドアセダン1000デラックス
カローラとサニーはメーカーこそ違えど、日本の大衆車として世界に通用した両雄である。上記のカローラ同様セダンがメインだったが、全盛期にはクーペ、ハッチバック、ステーションワゴン、バン、ピックアップトラックといったさまざまな派生モデルを追加し、ベストセラーカーとなったものの、1990年代からユーザーの高齢化などで徐々にラインナップを縮小していき、晩年には4ドアセダンのみの展開となったのち、大衆向け小型実用セダン市場の低迷に伴い、国内向けのサニーは2004年9月をもってブランドを終了した。現在ではハッチバックのティーダ(ただし国内向けおよび欧米向けモデルは1代限りでブランド終了)、およびノート(国内向け2代目モデルではティーダの後継車種として位置付け)、セダンのラティオ(北米ではヴァーサセダン、中国ではサニーとして販売)がそれぞれその歴史を引き継いでいる。
SS30V型
初代アルト
スズライトがその起源で、その後フロンテハッチ税金・任意保険料が安い商用車でありながら、車検は2年毎、という軽の利点をフルに生かして顧客を開拓し、軽ボンネットバンブームの草分け的な車種となった。また1980年代後半に入ると、1987年当時軽自動車としてはクラス初のDOHCインタークーラーターボエンジンフルタイム4WDシステムを搭載し、64馬力(ネット値)の高出力を誇ったホッテスト(高性能)バージョンの「アルトワークス」もラインアップに加わった。現在もブランドは存続しているが、パーソナルとしての地位を派生モデルのラパンに、スペシャルティとしての地位をセルボに、主力(大衆車)としての地位をワゴンRシリーズスペーシアに、そしてエコカーとしての地位を派生モデルにあたるアルトエコにそれぞれ譲っている。
L55V型
初代(L55)ミラ
フェロー バン」の後継として、発売当初は乗用の「クオーレ」の商用車仕様として登場した。「アルト」最大のライバルである。こちらも現在は、主力としての地位をムーヴシリーズタントシリーズに、エントリーおよびエコカーとしての地位をミライースにそれぞれ譲っている。


フランス[編集]

シトロエン・2CV 試作車

農業大国で不整地も多かった事から、悪路での走破性が求められる上、石畳での乗り心地も重要なため、他国の車に比べて、ホイールベースが長い、サスペンションストロークが大きい、シートは大柄でソフトなものが多い、などの特徴を持つ。使用速度域が高いことから、キャスターアクションも強く、直進性が非常に高い。このため、フランス車は安いクルマでも、椅子の出来がよく、木の根が盛り上がった並木道でも運転が楽といわれている。

  • シトロエン・2CV
1948年~1990年で累計生産台数385万台。2CVは発売当時の税制の分類によるコード名。基本コンセプトは「コウモリ傘に4つの車輪」。
当時まだ手押し車や馬車に頼っていた地方の農業従事者を主なターゲットとして開発され、生産物である生卵を商品として輸送する際に悪路でも割れることのないようなサスペンション(乗り心地)を設計の絶対要件とするなど独特の仕上がりとなっていた。悪路走破性と積載能力、そして経済性を最重点に置いて高級感は無視という設計思想であり、農村部の実地調査など徹底した市場調査により細部まで良く練られた設計であった。当時としても独特なデザインは「醜いアヒルの子」「乳母車」「缶詰」などと表現されたが、むしろこれらの評価は同車の見た目とは裏腹の使い易さに対する信頼や愛着の表現へと変化していった。工具を使うことなく屋根のキャンバスドアを外すことが可能で、その積載力はアップライトピアノが積めた。
フランスに限らず、ヨーロッパ中の大衆に高い支持を受け、イギリスをはじめ、各国で生産された。また、フランス的な美意識や合理性を体現した製品として愛され続けた。
後継車はディアーヌDyane)であったが、先代を越えることができず、先に生産を終えている。
1967年型ルノー・4
  • ルノー・4
1961年~1993年(フランスでは1986年に生産終了)。累計生産台数813万台。
「4」は車名。排気量の小さい「3」も当初併売されていた。フランス読みでは「カトル」だが、日本では「キャトル」とも愛称される。またフランス本国ではバリエーション「4L」の読み「カトレール」が愛称として定着している。
当時既に大ヒットとなっていたシトロエン2CVの対抗製品として開発され、ドライブトレインのレイアウトも2CVと同様だった。デザインはやや近代化されているが、やはり積載能力を最大限に重視し、荷役を考慮したテールゲートを装備していた。またリアサスペンションは荷室の広さを損なわないよう、横置きトーションバーを使ったフルトレーリングアームとされ、石畳でも運転に影響する振動が少ないうえ、安定性も優れていた。その積載性は、子牛も積めたと言う。
シトロエン・2CVと同様、実用に徹したコンセプトは消費者に受け入れられ、最終的にフォルクスワーゲン・ビートル、フォードT型に次ぐ単一モデルとして史上3位の台数を記録した。
直接の後継車はルノー・6

イギリス[編集]

都市部では狭い路地が極めて多いことから、小型の物が求められたが、欧州人の長身が収まる必要性から、広い室内も重要視され、当然ながら、石畳で故障しにくいサスペンションも求められた。

ただ第一次世界大戦前までは自動車と言えば高級品かつ贅沢品であった。米国では一般向け市場でも1900年代当初のオールズモービルやその後につづくフォードが先んじていたものの、階層社会も根強いこともあってか英国では、大衆車というよりも、単に小型車というカテゴリーに属する車両である場合も少なくない。その中で労働者階級でも手の届く大衆車は連綿と作られていた。この中で育まれた設計は後に世界各地で主要部品を輸入して現地で製品を製造するノックダウン生産が行われるなど、大衆車のみならず自動車産業の初期において英国が果たした役割も大きい。こういった中で、メーカー一社に収斂されない複雑なシリーズ車の系譜も見られる。

オースチン(メーカー)
第一次世界大戦後の不況期の1922年、オースチンがオースチン・セブンを販売し大成功し、これが世界の小型車、そして大衆車の最初の標準となった。ドイツではオースチン・セブンのノックダウン生産からBMWの自動車生産が始まった。フランスローザンギャールもノックダウン生産をした。日本ではダット自動車のダットソンがオースチン・セブンのコピーといわれており、オースチン社の歴史には日産もオースチン・セブンを作ったと記録されている。
第二次世界大戦後の同社は最低価格帯のモデルのみを生産していたわけではないが、A40サマーセット、A40ケンブリッジ、A50ケンブリッジなどが各車格における最低価格帯の車両として販売された。その後、英国自動車業界はオースチンだけでなく、国全体が停滞し、国策にもてあそばれることとなる。いわゆる「英国病」である。現在の英国では、低価格で低性能の代名詞としてオースティン・パワーズなどで使われているが、ことはそう単純ではない。
日産自動車がA40サマーセットを日産・オースチンとしてノックダウン生産したのは1952年昭和27年)であり、これは後にライセンス生産に切り替えられ、日本製乗用車の生産技術向上に貢献した。英国では最低価格帯のモデルであったが、当時の日本ではこれが最高級品となった。A40サマーセット、A50ケンブリッジは全て日本製の部品で置き換えられ、乗用車の国産化ともてはやされた。1952年の提携の背景には、日本の乗用車生産が産業として世界に対抗できるかどうかの議論が国会でなされ、輸入業者はこぞって反対したものの、これを契機に日本政府が日本国産乗用車育成を図り、日産、日野、いすゞなどの提携につながった。オースチンの技術は日産・オースチンの後継となるセドリックに生かされている。
  • ミニ(BMC ADO 15 シリーズ)
1976年ブリティッシュ・レイランド
ミニ クラブマン エステート
1959年~2000年10月。累計生産台数530万台。
BMC(British Motor Corporation)によって開発されたADO 15と呼ばれるこのシリーズは、初期は、「オースチン・セブン」「モーリス・ミニ・マイナー」という名で発売され、1962年に「オースチン・ミニ」と「モーリス・ミニ」に名を変えた。1961年にはバリエーションとしてサルーン型の「ライレー・エルフ」と「ウーズレー・ホーネット」が加わっており2種4ブランドのバッジエンジニアリングカーとなっていた。サルーンタイプは1969年で終了し、同時に「ミニ」自体がブランド名となった。
量産車としては革新的なイシゴニス式と呼ばれる、横置きエンジンと二階建てトランスミッションを採用し、ミニで採用されたFF実現のための機構は等速ジョイントはじめその後の小型車の標準となった。当時としても一際小さなボディに対して、最大限の客室容量と、優れた運動性能を実現していた。このため、「大衆車であるから」と卑下する必要のない乗用車として広い層に受け入れられた。また同車の堅牢な設計は、国際ラリーでも高く評価されてきた。
1994年にBMW傘下で生産が続けられていたが2000年に生産終了している。ミニのブランドはBMWに残り、新たに小型プレミアムカーMINI (BMW)として一新されている。
三輪自動車

イギリスでは欧州の他国と違い、三輪自動車に関して免許や税の優遇措置が存在していたため、税負担から四輪自動車を所持できない低所得労働者やオートバイ免許しか持っていない層を中心に根強い人気があり、リライアント社は2000年代まで製造を続けていた。

ドイツ[編集]

当初の国威発揚という趣旨から、エリートのみでなく、一般国民が自由に、また廉価に旅行できる手段として開発された。購入方法は毎月の積立金制度を利用する。特に長距離走行でも故障を起こさない事が求められ、また燃費の良さも重要視された。国民車開発と平行して世界的にも類を見ない長距離高速道路網アウトバーンの整備が1930年代より開始された。

1938年~2003年(ドイツ本国では1978年に生産終了、メキシコブラジルなどで生産継続されていた)。累計生産台数2100万台。
"Volkswagen" はドイツ語で「大衆の車」の意味がある。正式な車名は製造会社名と同じ「フォルクスヴァーゲン」(日本ではヤナセがフォルクスワーゲンと商標登録した)である。英語読みは「ヴォルクスワーゲン」。英語圏では「ビートル」と愛称されている。
その基本設計はアドルフ・ヒトラーが提唱した国民車計画による。国威発揚という目的をもった同車は、大衆車という位置づけにもかかわらず当時としては欲張った高性能であり、また多彩な気候下でも故障や性能低下がない、いわば万能車であったと言える。その要求性能をほぼ実現した量産車は、丸っこく愛らしいスタイルとあいまって広い人気を得た。ドイツのみならず世界各国で販売・現地生産され、累計2100万台という史上最多単一モデル生産記録を持つ。長く継承され続けた古風で独特のスタイルは幅広い愛好者層を持ち、庶民だけではなく秋篠宮文仁親王がかつて愛車としていたことでも有名で、生産開始から60年以上経った2000年代でも世界中に熱狂的な愛好者層が存在する。
直接的な後継車とは言いがたいが、1998年にはゴルフのフロアパンを利用、かつてのビートルの丸っこいイメージをまとった新型車「フォルクスワーゲン・ニュービートル」が発売された。
通称「トラビ」。非常に前時代的な設計でボディーはパルプによる繊維強化プラスチックという特徴をもつ同車だが、かつては割り当て制のために、これすら購入できない大衆が多かった。しかし少なくとも大衆が購入できる乗用車は、これ以外にはなかった。その設計は当時としては非常に独創的で理にかなったものであったが、長い間あまり改良されずに生産が続けられ、東西ドイツ統合により市場価値を失って一度姿を消した。
2007年に生産開始50年を記念してドイツ大手模型メーカーのヘルパ社により、ビートルやMINI、フィアット500と同様の手法で復活する事が計画された。現在電気自動車「トラバントnT」として2012年の発売を目指している。

イタリア[編集]

狭く入り組んだ路地が多く、また第二次世界大戦の敗戦から経済的に立ち直っていなかった時代には、とにかく小型・安価な物が求められた。

1957年~1977年。累計生産台数400万台。
「500」は排気量で、1936~1955年にかけて生産された同名の車があり、この車はそれに対して「フィアット・ヌオーバ(新)500」としてデビューしたが、後に単に「フィアット・500」とされ、「チンクチェント(イタリア語で「500」)と愛称された。昔のモデルは「トッポリーノ(ハツカネズミ)」の愛称で知られており、どちらもフィアット社を代表する大衆車であった。
第二次世界大戦の後、イタリアで安価な移動手段としてスクーターやキャビンスクーターが広く普及していた。フィアット500はそれらからの乗り換えを狙って開発され、初期にはそれらを下取りする戦略を取った。そのコンセプトのため、同時期の車の中でもミニを下回る極めてコンパクトな車体であり、かつ低コストで意外とよく走るため、主に若者や低所得者層向けのシティコミューターとして、ヨーロッパ全域に受け入れられた。特に日本では、アニメ『ルパン三世』主人公の愛車(の1つ)として有名である。
同ポジションの後継車としては「フィアット126」があり、また1991年には700/900ccの小型車「チンクチェント(「500」でなくアルファベット綴り「Cinquecento」)が発売された。いずれも現在は生産中止。
さらに2007年から同車をモチーフにした「新・500」が発表された。商標名は同車のスタイルイメージにちなんだもので排気量は1200~1400cc。クラスとしては先代同様やはり大衆車のポジションになっている。

アメリカ[編集]

当初は未開地が多く存在していたため、悪路での走破性や修繕のしやすさが求められる一方、都市間の長距離走行という相反する要求を両立させるため、大きめのボディサイズ、大排気量のエンジン、柔らかめのサスペンションという組み合わせが基本となった。昔からガソリンが安いため、燃費はあまり重視されていない。

1908年~1927年。累計生産台数1500万7033台。
世界で最初の大衆車としてアメリカのみならず世界中に大きな影響を与えた車。日本では「T型フォード」とも呼ばれる。途中で流れ作業方式を導入して大量生産が行われ、低価格化が進行していった。また、その運転方法は他の自動車とは相当に異なっていたが、当時の自動車としては運転のしやすいものであった。
ピックアップトラック
かつては農場で使われていたが、自動車税が州によって無税か割安になることから、所得の少ない若者達が乗り始めたのが人気の始まりである。現在ではSUVも人気車種である。

中国[編集]

経済的に成長過程にある中国では、国内経済発展とともに、自動車利用が大衆にも広まり市場も巨大化したため、自国メーカーの生産数も拡大、海外メーカーも現地生産で価格を抑えた中間層向けの大衆車を発表している。

イラン[編集]

寒暖の差が激しい砂漠気候の環境における耐久性が重視された。反面、産油国であるために燃費は余り重要視されなかった。

燃費は悪く8km/リットルだが、イラン国内の8割が同車だったという。イギリス・ルーツ・グループからの技術供与で生産されていた。

インド[編集]

英国車のモーリスオックスフォードをベースに開発された。
バイクからの乗り換えを見込んで新規設計された小型の格安乗用車。

日本製大衆車の席巻[編集]

日本の大衆車は米国に輸出され、1980年代には日米貿易摩擦からきたジャパンバッシングといった感情的な米国内自動車産業界の反発を招くほどに市場を席巻したが、その進出の歴史は最初から順風満帆というわけでもなく、日本国内の自動車産業が大衆車の開発・発展に伴い円熟する1970年代の頃まで待たねばならなかった。

日本車のアメリカへの本格輸出は、大衆車が生まれる以前の1960年頃から始まり、トヨタはクラウンランドクルーザー、日産はダットサン・トラック220型、セダン210型スポーツS210型を輸出している。

トラック並のシャシと3900ccの排気量を持つランドクルーザーは評判が良かったが、クラウンは当時トヨタの最高級車でありながら、カリフォルニア・ハイウェイパトロール(CHiPs')のテストでは、高速操安が危険とされるレベルであり、オーバーヒート焼きつきも頻発、早々に輸出が中止されるという状況であった。T20系コロナもクラウンにあやかった「ティアラ」の車名で北米進出を果たしたが、良い評価は得られないまま輸出を中止している。トヨタ初の大衆車であるパブリカは極少数しか輸出されなかった。

トヨタは、クラウンやコロナのための販売会社とショールームをロサンゼルスに設けたが、肝心の商品が全くない状態となってしまい、カローラによる攻勢が始まるまでは、ランドクルーザーの販売のみで北米会社を支える日々が続いた。

ダットサン各車は、もともと丈夫なオースチンのコピーであったためスピードが足りない以外では大きなトラブルは無かったが、貧相で小さすぎるため、売れ行きは芳しくなかった。しかし、後に北米日産の社長となる片山豊が、自らのドライブで現地ディーラーへの飛び込み営業を続けた結果、次第に品質が認められ、フェアでフレンドリーな片山の人柄もあって着実に販売網を増やし続け、1970年代の大躍進につながった。

トヨタや日産が本格的な乗用車の輸出を試みて苦戦していたこの時期、一方でスバルやホンダといった軽自動車中心のメーカーは、360ccのエンジンを400 - 600ccのものに換装し、北米や欧州に輸出して、それなりの実績を上げていた。これらは本格的な乗用車ではなく、粗末なバブルカーの代替となるシティコミューターとして受け入れられたのである。戦後日本車の輸出での強みが小型軽快であることは、この時点で確定していた。

カローラやサニーの輸出は1967年モデルからと日本車の米国進出ではやや後発の部類に入る。

大衆車と社会[編集]

市場経済の成長期に登場したこれら大衆車は、最初の内こそ人々の生活向上心を煽り、盛んに販売・消費されるが、次第に経済的成長傾向が鈍化すると、飽和状態に陥って、消費者の関心が細分化する傾向があることから、これら画一的な大衆車への関心が薄れる傾向が見られる。

このため大衆車の勃興は、一種の経済的指標と見なすことが可能である。日欧や北米といった経済的にも豊かな社会にあっては、これら大衆車の多くは生産を終了しているか、一定の高級感を出すことでファミリーカーへの転換が図られている。

先進国におけるダウンサイジング[編集]

21世紀に入ってからの先進国では、自動車市場の成熟化が進み、乗用車の動力性能が過剰性能になっていることから、大衆車が再び小型化する傾向(ダウンサイジング)を見せ、日本では税制面で優遇されている軽自動車が売上を伸ばしている。欧州各国でも、常態化している都市部の交通渋滞や環境対策として基準を満たしたAセグメントに税制面での優遇措置が実施されたことで、ダウンサイジングが進んでいる。

2010年代にはトヨタ・アイゴ(約7000英ポンド)、ヒュンダイ・i10(約8000英ポンド)、日産・ピクソ(約6900英ポンド)、フォルクスワーゲン・up!(約10000ユーロ)など、装備を極力簡素化して価格を抑えた小型車が各社から相次いで販売されている。これらはシティコミューターとして利用だけでなく、欧州メーカーにとっては高級ラインへの偏重で取り込めなかった低所得者層もターゲットに含めることができる。

新興国向け[編集]

2010年代から各メーカーは東南アジアやインドなど経済発展が著しいアジア市場へ投入する「アジア戦略車」を発表している。これらの市場では収入に見合った価格(新車でも100万円以下)と燃費の良さに加え、未舗装路が残る道路事情や冠水が頻発する気候に対応への対策を施した小型車が好まれる。トヨタ・アギアブリオ・サティヤ(ホンダ)のように現地生産する新規開発車もあるが、コスト削減のため先進国向けを現地仕様にした車種も多い。メーカーにとっては飽和状態で各種規制が厳しい先進国よりも、大量の販売が見込めるため新たな世界戦略車としての側面も持つ。

注釈[編集]

  1. ^ いすゞ自動車日野自動車の前身。
  2. ^ それ以前は、4サイクルが360cc以下、2サイクルが240cc以下と定められ、2サイクルエンジンでの成立は不可能だった。当時は、同じ排気量であれば、4サイクルエンジンより2サイクルエンジンのほうがより高出力を得やすいと考えられていたことによる
  3. ^ 一般的には通産省が発表したと思われているが、あくまで日本経済新聞、日刊工業新聞によるスクープ記事で通産省は発表していない
  4. ^ のちに空冷水平対向2気筒エンジン、700ccの「トヨタ・パブリカ」に結実した
  5. ^ 『60年代 街角で見たクルマたち 日本車・珍車編』p. 122 。同書によれば「国民車」を銘打ったのは三菱500が初という
  6. ^ 当初は2ドアセダンのみで販売を開始したが、翌年に4ドアセダンとバンがそれぞれ追加され、のちにクーペ(初代のみカローラスプリンターという車名で登場。5代目以降はカローラレビンシリーズとして正式に独立する)やハッチバック(例:カローラFXカローラランクス等。今日でいうオーリス)、ステーションワゴン(今日でいうカローラフィールダー)などの派生モデルが追加される。それ以降は4ドアセダンが長年に渡りカローラシリーズの基本形となる。
  7. ^ スターレットは初代が「パブリカ・スターレット」と呼称されたほか形式名における車両識別記号も同じ"P"であるように、直接のパブリカ派生(事実上の後継)車種である。
  8. ^ ちなみに現行モデルとなる2代目(通算11代目・E160型)カローラアクシオは2013年2月より香港、およびマカオへ輸出が開始されたため、事実上、国内専用車扱いでなくなった。

関連項目[編集]