鷹司信房
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄8年10月25日(1565年11月17日) |
死没 | 明暦3年12月15日(1658年1月18日) |
別名 | 後法音院太閤 |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 | 正親町天皇→後陽成天皇 |
氏族 | 二条家→鷹司家 |
父母 |
父:二条晴良 母:位子女王(貞敦親王王女) |
兄弟 | 九条兼孝、二条昭実、義演、信房 |
妻 |
継室:佐々輝子 白川顕成王娘 |
子 | 信尚、孝子、松平信平、貞淑院如瑞 |
特記 事項 | 五摂家の一つ鷹司家を再興 |
鷹司 信房(たかつかさ のぶふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿。関白・二条晴良の子。官位は従一位・関白、左大臣。
経歴
天正7年(1579年)、当時京を中心とした中央政治を支配していた織田信長の勧めにより、鷹司忠冬の死により断絶していた鷹司家の名跡を継いで、これを再興させた[1]。諱の「信」の字は信長から偏諱を受けたものと考えられている。二条家は元々武家と距離が近く、先の足利将軍家や後の徳川将軍家とも密接であり、信房の次兄の二条昭実は天正3年(1575年)に信長の養女を娶っている。この縁もあり、信房を擁して鷹司家を再興する流れになったと考えられる。生家を継いだ昭実に加え、長兄の九条兼孝が九条家を継いだため、五摂家のうち3家の当主を兄弟で占めることになった。
天正17年(1589年)1月6日、従一位に叙された。内大臣(1606年)、左大臣(1606年 - 1608年)、関白(1606年 - 1608年)などを歴任した。
系譜
継室・佐々輝子との間には計7人の子を儲けた。
脚注