霞 (朝潮型駆逐艦)
艦歴 | |
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計画 | マル2計画 |
起工 | 1936年12月1日 |
進水 | 1937年11月18日 |
就役 | 1939年6月28日 |
その後 | 1945年4月7日戦没 |
除籍 | 1945年5月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:約2,000t、公試:2,400t |
全長 | 118.00m |
全幅 | 10.386m |
吃水 | 3.71m(平均) |
機関 | 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸 ロ号艦本式重油専焼缶3基 51,000hp |
最大速力 | 34.85kt |
航続距離 | 18ktで5,190浬 |
燃料 | 重油580t |
乗員 | 230名 |
武装(新造時) | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 Ⅱ×2 (または13mm機銃 Ⅱ×2) 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九〇式魚雷16本) 九一式爆雷×36 |
霞(かすみ)は、日本海軍の駆逐艦。朝潮型の9番艦である。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。
艦歴
浦賀船渠で1936年(昭和11年)12月に起工、1939年(昭和14年)6月に竣工し、同時に第18駆逐隊に編入され、11月15日、第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。
太平洋戦争開戦時には、同型艦「霰」、陽炎型の「陽炎」、「不知火」と共に第18駆逐隊に属し、機動部隊の警戒隊として行動した。1941年(昭和16年)11月26日、ハワイ攻撃機動部隊の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加。
1942年(昭和17年)1月8日、呉を出港し、機動部隊とラバウル攻撃に従事、以後、2月には第2航空戦隊のポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加し、4月23日、呉に入港し入渠整備を行った。5月にサイパンに進出、6月のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した。6月28日、横須賀から水上機母艦「千代田」、「あるぜんちな丸」の護衛としてキスカに向かった。7月5日、キスカ島沖で濃霧のため仮泊中に、米潜水艦「グロウラー」(USS Growler, SS-215)の魚雷1本を受け艦体前部が切断し、3名が戦死した。8月13日から翌年6月末まで舞鶴海軍工廠で修理を実施した。8月15日、第18駆逐隊は解隊し、9月1日、呉鎮守府予備艦となる。
1943年(昭和18年)9月1日、第5艦隊第1水雷戦隊に編入され、北千島方面で船団護衛に従事し、12月3日からマーシャル諸島ルオット島へ物資輸送を行った。
1944年(昭和19年)2月から6月末まで再び北千島方面で北方作戦に従事し、さらに硫黄島、父島への輸送に当たった。10月25日、レイテ沖海戦において志摩艦隊に属しスリガオ海峡に突入したが、マニラに帰投した。11月、オルモック輸送に3回従事。第2次、第4次多号作戦では第1水雷戦隊(司令官木村昌福少将)の旗艦となりオルモックに突入。さらに木村昌福少将が第2水雷戦隊司令官となり指揮した、ミンドロ島攻撃(礼号作戦)においても旗艦となった。
1945年(昭和20年)2月、北号作戦に参加し戦艦「伊勢」「日向」を護衛して呉に帰投した。4月、戦艦「大和」とともに天一号作戦に参加し、坊ノ岬沖海戦において米艦載機の空襲を受け大破し航行不能となり、「冬月」の砲雷撃により撃沈処分された。17名が戦死し、5月10日に除籍された。
歴代艦長
艤装員長
- 白浜政七 中佐:1938年12月15日 -
艦長
- 白浜政七 中佐:1939年6月28日 -
- 磯久研磨 中佐:1939年11月15日 -
- 戸村清 中佐:1940年11月15日 -
- 山名寛雄 少佐:1942年12月20日 -
- 松本正平 少佐:1945年3月1日 -
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。