遊佐長教

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遊佐長教
時代 戦国時代
生誕 延徳3年(1491年[要出典]
死没 天文20年5月5日1551年6月8日
官位 河内守
幕府 室町幕府 河内守護代
主君 畠山尚順(尚長)稙長長経弥九郎、稙長、政国
氏族 遊佐氏
父母 遊佐順盛[1]
兄弟 長教、某(根来寺杉之坊所属)
日野内光[2]十河一存[要出典]
信教三好長慶継室
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遊佐 長教(ゆさ ながのり)は、戦国時代武将尾州畠山氏の家臣。河内国守護代。同国若江城主。

出自

遊佐氏出羽国国人領主の家柄で、11世紀末から12世紀にかけての間には出羽に遊佐荘を立荘していたことが判明している。遊佐荘を藤原基衡に寄進し在地領主となった。遊佐氏自身は藤原秀郷の末流と称するが定かではない。藤原忠衡を遊佐氏初代とする史料もあるが確証はない。ただ、出羽の名族であったことは確かであるといえる。

鎌倉時代末期から南北朝時代に一族が畠山氏に仕えたとされる。長教の系統の遊佐氏は、畠山基国の時代に長教の曽祖父にあたる遊佐国長(長護)が河内守護代となって以来、代々河内守護代を務めた家柄。別流には能登国守護代の遊佐氏や越中国守護代の遊佐氏もあり、河内守護代でも畠山氏尾州家[注釈 1]に仕えた長教とは異なり、総州家(畠山義就)に仕えた遊佐氏もいた。出羽で先祖伝来の地を守った一族も存在する。

生涯

幼名は伝わっていない。若江城で誕生したとされる。ただしその根拠は長教が生まれて間もない明応2年(1491年)の時点で父・遊佐順盛が若江城主であったことの確認が取れることであり、妻子を他所においていた可能性がないわけではない。

誕生後、長教は父と共に転々とすることになる。理由は、長教の誕生の翌々年に明応の政変の結果、河内渋川郡正覚寺で父の主君である畠山政長が自決し、その子・尚順が密かに紀伊国に逃れるという事態に至ったからである。この時、前線で畠山基家(畠山義就の子)を誉田城に包囲していた父も慌しく退却することとなる。その後父は紀伊の地にあり、この間長教の所在は定かではないが、若江城陥落の際に家臣に背負われて紀伊の父の下に辿り着いたとする史料がある。[要出典]

明応6年(1497年)になって畠山尚順や順盛は河内を奪還すると、若江城に復帰した順盛と共に長教もいたと思われる。しかしそれも束の間、明応8年(1499年)末には細川政元に追われたため、長教の元服した場所も定かではない。永正元年(1504年)に再度若江城に復帰したが、永正3年(1506年)に再度追われた。その後すぐに政元が永正の錯乱で暗殺されると、畠山氏は細川氏の混乱に乗じて河内の支配権を回復し、順盛も若江城に復帰する。その安定は比較的長く永正8年(1511年)まで続いた。

なお、船岡山合戦で討死した「遊佐河内守」は畠山義英方の守護代の遊佐就盛(印叟宗盛)である[3]。遊佐順盛は船岡山合戦後も大永7年(1527年)まで活動が見え、長教(遊佐新次郎)の活動が確実な資料で見え出すのは天文年間に入ってからである。

長教が補佐したと思われる、尚長の子・稙長享禄・天文の乱に際して石山本願寺細川晴国が主導していた細川高国の残党と結託して細川晴元と対立する反体制派であった。優勢な晴元方と妥協を図る長教にとって障害となったため、天文3年(1534年)に紀伊へ追放させた稙長の弟長経を一旦は擁立した。翌天文4年(1535年)に、その長経も追放(あるいは殺害)し、もう一人の弟晴熙を家督に擁立。やがて天文7年(1538年)に晴元や総州家の木沢長政と協議し、尾州家畠山弥九郎と総州家当主畠山在氏をそれぞれ河内半国守護として並立させ、長教と長政の2人が河内の半国守護代として実権を握った。

しかし、3年後の天文10年(1541年)に晴元に反乱を起こした長政と断絶、並立守護体制の象徴である弥九郎と在氏を追放、稙長と急遽和解して再び守護として迎え入れた。そうして孤立させた長政を、翌天文11年(1542年)に晴元の家臣三好長慶らと連合して河内高安郡太平寺で撃破し(太平寺の戦い)、長政を討ち取った。稙長復帰により河内守護家の権力は回復し、長教は稙長の意を奉じて文書を発給する立場に戻っている。 また、稙長の下で河内守に任官され、日野内光と畠山尚順女との間に生まれた娘と婚姻している[2]

しかし紀州没落時から細川氏綱を支援して依然高国系の復権、晴元派打倒を図っていた稙長は、天文12年(1543年)に氏綱が挙兵した際も密かに支援していた。だが天文14年(1545年)に稙長が急死。この時、稙長の後継者が分家の能登守護・畠山義総の子[注釈 2]に定められることになったが、直後の義総の死や稙長の舎弟の反対などで混乱が起こり流れることになる[4]。結局、後継者は弟の政国に定められる。その後天文15年(1546年)になると反晴元方として挙兵して氏綱と共に晴元の領国摂津国を転戦したが、翌天文16年(1547年)に三好長慶の反撃で摂津を奪い返され、舎利寺の戦いで長慶に敗れ河内高屋城を長期間包囲されたが、天文17年(1548年)に和睦して娘を長慶に嫁がせ勢力を保った。

やがて晴元や同族の三好政長と対立が際立った長慶からの要請で同盟を結ぶ長教に対し、主君の畠山政国は反発し、義晴・晴元を支持して紀州に遁世した[5]。『続応仁後記』によれば、長慶の父元長が無念の横死を遂げた一向一揆の蜂起に、政長が強く関与し策動したことを長教から伝えられた為に、長慶は政長討伐を決意したとされる[6]今谷明は「長教は謀略を好む人」と評価・断定した上で、「彼ならばいかにもやりそうなこと」「そのことを長慶に伝えた場合、そこから生じるであろう混乱に便乗して立身出世を図ったのではないか」と指摘している(ただし、後世に制作された軍記に依拠した論ではある)[7]

天文18年(1549年)の江口の戦いで政長を討って晴元陣営を崩壊させ、長慶の台頭により細川氏綱の名目の旗頭とした陣営の一翼として活動することとなるが、天文20年(1551年)、刺客に暗殺される。暗殺された場所は若江城とも高屋城とも言われている[8]。長教は酒を片手に、帰依していた昵懇の間柄であった僧侶珠阿弥(時宗の僧侶)[9]と歓談しており、酩酊して横になったところを、実は「敵方に買収され」[9]、長教暗殺の命を帯びていた刺客の珠阿弥によって滅多刺しにされて殺害されたという[8]。 事件当時は暗殺の黒幕は当時長慶と敵対関係にあった13代将軍足利義輝と推測されることもあったが[10]、一年後の記述では河内の有力者だった萱振賢継の野心のための謀反と見られており、義輝の関与は推測されていない。萱振氏は安見宗房に粛清され、また根来寺に入っていた長教の弟も三好氏に殺害されている[11]。「天文日記」によれば、遊佐家家中の混乱を収める為、長教の死は100日間秘匿された[9]。その後、娘婿であった長慶は、混乱する遊佐家に介入し、安見氏と萱振氏の婚姻を取りまとめるなど仲裁を行った[9][注釈 3]

長教亡き後、河内は一族の遊佐太藤が少年期の信教に代わって名代となって遊佐氏を纏めていく。

年表

  • 延徳3年(1491年)、遊佐長教、若江城にて誕生。父は河内守護代遊佐河内守順盛[要出典]
  • 明応2年(1493年)閏4月、畠山政長が明応の政変の結果自決し、畠山尚順は紀州に逃亡。父順盛もこれに従う。長教も従ったとされる。[要出典]
  • 明応2年(1493年)10月、畠山基家(畠山義就の子)が紀州に侵入。畠山尚順に味方する根来寺衆と畠山尚順、遊佐順盛らが撃退する。
  • 明応5年(1496年)10月、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家(義豊)と和泉国で戦う。
  • 明応6年(1497年)10月1日、畠山尚順方の筒井順盛が畠山基家方の古市澄胤と撃破。
  • 明応6年(1497年)10月7日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を高屋城で撃破。基家は京へ逃亡。
  • 明応6年(1497年)11月14日、畠山尚順方の筒井順盛が畠山義豊方の古市澄胤と撃破。
  • 明応7年(1498年)8月3日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山義豊の子の畠山義英を木津に撃破。
  • 明応8年(1499年)1月30日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山義豊を河内十七箇所に撃破し、義豊を自害させる。
  • 明応8年(1499年)9月5日、畠山尚順・遊佐順盛が足利義材の求めに応じて、細川政元の勢力圏である摂津国東成郡に侵攻。
  • 明応8年(1499年)10月、細川政元の策略により河内国で土一揆が起こる。
  • 明応8年(1499年)11月22日、越中から越前を越えて、近江に入った足利義材が六角高頼に攻められ敗走し、河内の畠山尚順の下に向う。
  • 明応8年(1499年)12月18日、細川政元の部将、赤沢朝経が大和に侵入し、筒井順盛を撃破。
  • 明応8年(1499年)12月20日、摂津国天王寺において細川政元と畠山尚順・遊佐順盛が激突。細川政元が勝利。畠山尚順・遊佐順盛は敗走。若江城および高屋城へ。その後、紀州へ。
  • 明応9年(1500年)9月2日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の和泉半国守護の細川元有岸和田城を攻略。
  • 明応9年(1500年)9月16日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の畠山義英(畠山基家の子)の高屋城を包囲するも、細川政元が派遣した赤沢朝経・薬師寺国経らに敗れる。
  • 明応10年(1501年)2月28日、遊佐順盛・筒井順盛らの策謀で、大和国で反細川・反赤沢の興福寺の抗議活動が起こる。
  • 文亀元年(1501年)6月5日、幕命にて細川政元方の赤沢朝経が大和より撤退する。
  • 文亀2年(1502年)頃、元服。主君畠山尚順がこのころ改名し畠山尚長と名乗っていたため、偏諱を受けて「長教」と名乗った。[要出典]
  • 永正元年(1504年)12月18日、畠山尚順と畠山義英が和睦。畠山尚順が高屋城に入城し、畠山義英が誉田城に入城。遊佐順盛は若江城に入城し、細川政元に備えた。
  • 永正2年(1505年)2月4日、前年の畠山尚順と畠山義英の和睦があって、遊佐順盛の働きかけにより大和国人衆が春日大社で盟約を交わし、反細川政元の血盟をする。
  • 永正2年(1505年)11月、細川政元が畠山義英討伐を企図し、本願寺実如に河内門徒の動員を要請し、誉田城を攻撃。若江城の遊佐順盛、高屋城の畠山尚順が誉田城の畠山義英を救援し、細川政元方は敗退。
  • 永正3年(1506年)1月26日、細川政元の部将赤沢朝経が高屋・誉田の両城を陥落させる。
  • 永正4年(1507年)6月23日、細川政元が暗殺される(永正の錯乱の始まり)。
  • 永正4年(1507年)8月、足利義稙・細川高国方の畠山尚順が大和で国人を集結させ、反細川澄之の挙兵。
  • 永正4年(1507年)10月下旬、赤沢長経が大和に侵入。筒井順賢らが河内に逃亡。
  • 永正4年(1507年)11月中旬、筒井順賢が大和国高田城奈良県大和高田市)に入城。
  • 永正4年(1507年)12月4日、畠山尚順と畠山義英の和睦が破棄される。
  • 永正4年(1507年)12月10日、畠山尚順と細川澄元が和睦。
  • 永正5年(1508年)4月27日、足利義尹(義材)が上洛すべく、周防国長門国などの守護大内義興らに擁されてに到着、畠山尚順が堺に出迎える。
  • 永正5年(1508年)6月14日、畠山尚順が兵1万を率いて上洛し、細川高国と共に将軍足利義稙(義尹)を警護。
  • 永正5年(1508年)7月28日、畠山尚順が赤沢長経を捕らえ、斬殺。
  • 永正8年(1511年)8月24日、船岡山合戦で父順盛(印叟)が捕らえられ自決させられる。遊佐長教が家督相続し、守護代となる。[要出典]
  • 永正10年(1513年)8月24日、畠山尚順が畠山義英を河内に撃破、義英、堺に逃亡。
  • 永正17年(1520年)3月17日、細川高国方の畠山稙長の高屋城(羽曳野市古市)が細川澄元方の畠山義英によって攻略される。
  • 永正17年(1520年)5月10日、畠山稙長が畠山義英の高屋城を奪還する。
  • 永正18年(1521年)3月7日、畠山尚順が細川高国と対立した将軍足利義稙を迎える。
  • 大永元年(1521年)10月23日、畠山尚順が足利義稙を擁することで畠山義英との和睦に成功する。
  • 大永2年(1522年)7月17日、畠山尚順が薨去。畠山稙長が家督相続。
  • 大永4年(1524年)12月6日、遊佐長教、守護畠山稙長を奉じて、畠山義英を仁王山河内長野市日野町)で打ち破る。
  • 享禄元年(1528年)11月11日、守護畠山稙長が柳本賢治畠山義堯(畠山義英の子)の連合軍に高屋城を攻められ、遊佐長教救援の軍勢は派す。和睦が成り、高屋城に畠山義堯が入城。畠山稙長は金胎寺城に退却。
  • 天文3年(1534年)、遊佐長教、木沢長政らが畠山長経を守護に擁立し、畠山稙長を紀伊に追放。
  • 天文4年(1535年)、長経を廃し畠山晴熙(播磨守)を擁立するも、幕府の承認を受けられず。
  • 天文6年(1537年)、畠山弥九郎を守護とし、総州家畠山在氏と共に河内半国守護として擁立。実権は長教と木沢長政の手に。
  • 天文11年(1542年)初頭、木沢長政と対立した長教が稙長を擁立、弥九郎と在氏を追放し稙長が河内守護に復帰。
  • 天文11年(1542年)3月9日、遊佐長教、木沢長政派の斎藤山城守親子を暗殺。
  • 天文11年(1542年)3月17日、木沢長政が高屋城を攻撃し、三好長慶、遊佐長教が救援し、太平寺で木沢長政の軍勢と激突。畠山・三好・遊佐の連合軍が木沢の軍勢を撃破。木沢長政は討ち死に(太平寺の戦い)。
  • 天文14年(1545年)5月15日、主君、畠山稙長が薨去。後継は畠山四郎か。後に畠山政国が惣領名代として継承。
  • 天文15年(1546年)8月16日、足利義晴と遊佐長教が連絡をとり、細川晴元に替えて細川氏綱を細川家の家督につける画策を行っていることを察知した細川晴元は細川氏綱を攻撃すべく三好長慶に命じて細川氏綱らを討つために三好長慶の軍勢が堺に入る。
  • 天文15年(1546年)8月20日、遊佐長教、細川氏綱の軍勢が堺を攻囲し、堺の会合衆が三好長慶を阿波国に帰国させることで和睦が成立する。
  • 天文15年(1546年)10月22日、遊佐長教、三好長慶の援軍として堺に到着した三好実休の軍勢を撃退する。
  • 天文15年(1546年)12月20日、遊佐長教、畠山政国の名代として将軍足利義輝(当時は義藤)の将軍宣下の儀式に参列。細川氏綱の意向を受けて義晴父子との関係構築を図ったとする見方がある[12]
  • 天文17年(1548年)3月末、三好長慶の軍勢が細川晴元の命を受け、細川氏綱に加担する畠山政国を討伐すべく、河内高屋城に畠山政国を攻める。救援派遣の要請が遊佐長教の下に届く。
  • 天文17年(1548年)4月初旬、高屋城に篭城する河内守護畠山政国を救援すべく遊佐長教が若江城から救援軍5,000余を率いて出陣する。
  • 天文17年(1548年)4月24日、高屋城を攻撃中の三好長慶と畠山政国、遊佐長教が講和し、同盟関係となる。
  • 天文17年(1548年)10月28日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波勢3,000余は細川高国の遺児である細川氏綱を擁立して細川晴元方の三好政長の子の政勝の軍勢2,000余が籠もる榎並城大阪市城東区野江附近)を包囲するも長期化する。
  • 天文18年(1548年)6月11日、細川晴元方の三好政長が要害の地である淀川下流のデルタ地帯である江口に陣を構える。
  • 天文18年(1549年)6月24日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波・摂津勢など5,000余は、細川晴元方の援軍として細川晴元の舅である近江守護六角定頼が7,000余の軍勢を子息の六角義賢に与えて出陣させたことを知り、細川晴元方の三好政長の軍勢7,000余が陣をはった中島江口(大阪市東淀川区東中島附近・JR新大阪駅近隣)を強襲し、800余を討ち取る大戦果を収め、六角勢の到着以前に江口を占領した。晴元は近江坂本に逃亡し、細川政権は崩壊した(江口の戦い)。
  • 天文20年(1551年)3月14日、長慶が伊勢貞孝の屋敷で将軍足利義輝が派した進士賢光により斬りつけられる暗殺未遂事件があった。
  • 天文20年(1551年)5月5日、長教が若江城内で帰依していた時宗珠阿弥に暗殺され世を去る。

系譜

代々主君畠山家からの偏諱を受けている。( )は偏諱を与えた主君名。

畠山基国期
  1. 遊佐長(法名:長護) <(畠山基
  2. 遊佐盛 <(畠山基
尾州家に仕えた遊佐氏
  1. 遊佐 <(畠山政
  2. 遊佐盛(国助の子)[13] <(畠山尚
  3. 遊佐教 <(畠山稙
  4. 遊佐信教
  5. 遊佐尊教

cf.畠山総州家に仕えた遊佐氏

  1. 遊佐助 <(畠山持
  2. 遊佐家 <(畠山義
  3. 遊佐盛 <(畠山義
  4. 遊佐盛 <(畠山基

主な家臣

遊佐氏には譜代の家臣団があったと思われるが、走井盛秀などしか史料に見えない。しかし、発給文書や諸家の文書などから、畠山氏の家臣団の多くが守護である畠山氏当主を擁する遊佐長教の命を受けて活動しており、実質的に畠山氏の家臣団の一部を吸収して河内支配を行っていたことがわかる。しかし、同じ畠山氏家臣団でも紀伊や和泉国[注釈 4]などの国人系の家臣は遊佐長教に従っていない。なお、厳密に遊佐長教の直属した家臣を下記に記す。その勢力圏は、河内国の北部から中部にかけての地域であったことがわかる。現在の市域では、枚方市交野市寝屋川市四條畷市大東市東大阪市八尾市柏原市松原市藤井寺市の一部にあたる。勢力下の主な城は、飯盛山城三箇城、岡山城、砂城、若江城往生院城八尾城恩智城丹下城など。

  • 池田教正 - 摂津池田氏の一族。八尾城主で後に若江城主。若江三人衆とよばれる。「教」の字は長教より偏諱を受けたものであろう。
  • 萱振賢継 - 八尾城主ともいう。八尾市萱振附近の武士。長教の暗殺に関与したとして、安見宗房に攻められ族滅。
  • 三箇頼照 - 三箇城主。現在の大阪府大東市三箇附近の武士。
  • 丹下盛賢 - 丹下城主。現在の大阪府松原市附近の武士。ただし、弓倉氏・小谷氏の指摘では丹下氏は守護家の意を奉じて行動し、家中での地位は遊佐氏に継ぐものであり、遊佐氏の風下に属す存在ではない。
  • 走井盛秀 - 遊佐氏譜代の家臣。遊佐長教が畠山氏の実権を握ると、河内支配の実務担当者となった。
  • 水走忠元 - 祖は平岡氏。古代豪族の末裔で、枚岡神社の神官を兼任した武将。水走氏館城主。
  • 安見宗房 - 長教の死後に権勢を振るう。

脚注

注釈

  1. ^ 畠山政長の系統。
  2. ^ 天文14年3月13日に畠山四郎が一字拝領と家督御礼を幕府に送っており(「天文十四年日記」(『ビブリア』76号、1981年))、この人物が当初の後継者ではないかと思われる。
  3. ^ が、前述の安見による萱振粛清の通りこれは破綻している。
  4. ^ 守護は細川氏だが、実質的には畠山氏勢力下。

出典

  1. ^ 天文日記、天文5年7月23日
  2. ^ a b 天文日記」天文13年8月25日条
  3. ^ 「不問物語」
  4. ^ 「兼右卿記」天文14年8月19日条
  5. ^ 『戦国遺文 三好氏編』参考18号、足利義晴御内書
  6. ^ 今谷 2007, p. 141.
  7. ^ 今谷 2007, pp. 141–142.
  8. ^ a b 今谷 2007, p. 164.
  9. ^ a b c d 天野 2014, p. 61.
  10. ^ 「興福寺大般若経奥書」天文20年5月11日条
  11. ^ 「興福寺大般若経奥書」天文22年2月15日条
  12. ^ 木下 2017, pp. 285–287.
  13. ^ 遊佐順盛』 - コトバンク

出典

  • 長江正一『三好長慶』吉川弘文館人物叢書〉、1968年。 /新装版、1989年。ISBN 9784642051545
  • 須藤儀門『室町武士遊佐氏の研究』叢文社、1993年。ISBN 479470206X 
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名洋泉社、2007年。ISBN 978-4-86248-135-1 
  • 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。ISBN 4-7924-0616-1 
  • 小谷利明『畿内戦国期守護と地域社会』清文堂出版、2003年。ISBN 4-7924-0534-3 
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。ISBN 978-4-642-06321-0 
  • 天野忠幸『三好長慶』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。ISBN 978-4-623-07072-5 
  • 木下昌規 著「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」、木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』戎光祥出版、2017年。ISBN 978-4-86403-253-7 /初出:『日本歴史』第793号、2014年。 

関連項目