萩山教嚴
萩山 教嚴 はぎやま きょうごん | |
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生年月日 | 1932年3月20日 |
出生地 | 富山県氷見市 |
没年月日 | 2015年10月13日(83歳没) |
出身校 | 立命館大学 |
前職 | 富山県議会議員 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
勲二等旭日重光章 銀杯一組 |
親族 | 長男・萩山峰人 |
選挙区 |
(旧富山2区→) 比例北陸信越ブロック |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1990年2月19日 - 2009年7月21日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1971年 - 1979年 |
萩山 教嚴(はぎやま きょうごん、1932年3月20日 - 2015年10月13日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(6期)。伊吹派所属。
長男の萩山峰人は氷見市議会議員(2003年の富山県議選に立候補し落選)。
略歴
- 1953年 石川県立羽咋高等学校卒業
- 1957年 立命館大学法学部卒業、衆議院議員・正力松太郎の議員秘書( - 1969年)
- 1971年 富山県議会議員(2期、- 1979年)
- 1979年 第35回衆議院議員総選挙で落選
- 1980年 第36回衆議院議員総選挙で落選
- 1983年 第37回衆議院議員総選挙で落選
- 1986年 第38回衆議院議員総選挙で落選
- 1990年 第39回衆議院議員総選挙に片岡清一の後継者として出馬し、初当選。
- 1994年 大蔵政務次官( - 1995年)
- 1997年 自民党副幹事長( - 1999年、2001年1月 - 4月、2002年-)
- 2000年 大蔵委員会委員長( - 2001年)
- 2001年 第1次小泉内閣にて防衛庁副長官( - 2002年)
- 2002年 司法制度調査会副会長、外交調査会副会長
- 2003年 勲二等旭日重光章受章
- 2005年 第44回衆議院議員総選挙で自身初の小選挙区(富山3区)候補を経験、綿貫民輔国民新党党首に敗北し比例復活で再選、6期目。
- 2006年 党人事委員会委員長に就任。
- 2009年 第45回衆議院議員総選挙に出馬せず、政界を引退。
- 2010年 銀杯一組(第3号)を賜る[1]。
- 2015年 10月13日、虚血性心不全のため死去。83歳没[2]。叙従三位。[3]
議会活動
「産む機械」発言への対応
- 2007年2月1日、衆議院予算委員会にて厚生労働大臣柳澤伯夫に対する質問の際、萩山は柳澤の「産む機械」発言に関し、柳澤の家族は女性ばかりであることを指摘するとともに、発言の文脈の一部だけ取り出して批判されることに同情している旨を発言している。また、質問の冒頭では、内閣総理大臣安倍晋三の父安倍晋太郎と若き日の萩山との思い出が語られ、議場の笑いを誘った[4]。
所属していた団体・議員連盟
その他
- 日中国会議員書画展へ書画を提供している。[5]
脚注
- ^ 『官報』平成22年4月30日付 号外第93号、45頁
- ^ “元衆院議員・萩山教厳さん死去。”. 朝日新聞 (2015年10月14日). 2015年10月14日閲覧。
- ^ 平成27年11月11日官報
- ^ 衆議院インターネット審議中継
- ^ [1]NPO法人日中国会議員書画展実行委員会
外部リンク
- はぎ山みねと オフィシャルサイト
- 旧萩山教嚴ホームページ。現在は同一ドメインで息子の峰人のホームページが作成されており、萩山の議員時代の過去ログなども残されていない。
議会 | ||
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先代 金子一義 |
衆議院大蔵委員長 2000年 |
次代 廃止 |
公職 | ||
先代 石破茂 |
防衛庁副長官 2001年 - 2002年 |
次代 赤城徳彦 |