菅原泰夫
菅原泰夫 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮城県[1] |
生年月日 | 1946年4月1日(78歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | JRA |
所属厩舎 |
東京・茂木為二郎(1964 - 1976) 東京・森末之助(1976) 東京・本郷一彦(1976 - 1992) |
初免許年 | 1964年3月1日 |
免許区分 | 平地(初期のみ障害免許も所持) |
騎手引退日 | 1992年2月29日 |
重賞勝利 | 36勝 |
G1級勝利 | 7勝 |
通算勝利 | 6431戦769勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1992年(1993年開業) |
経歴 | |
所属 | 美浦T.C. |
菅原 泰夫(すがわら やすお、1946年4月1日 - )は日本中央競馬会の元騎手。同会調教師。
人物
いわゆる中央場所ではあまり日の当たることはなく地味な存在であったが、 1975年春の4歳(現3歳)クラシックにてカブラヤオー、テスコガビーに騎乗して4鞍すべてを独占、「空前絶後」と評される。このときカブラヤオーの強引な逃げで「無謀」と非難されたが、他馬を怖がる弱点については同馬が引退するまで口にしなかった。
その後1981年、1982年での菊花賞連覇など、思い切りの良い騎乗で「勝負師」と呼ばれた。通称「泰さん」。1992年に増沢末夫騎手らと共に現役を引退した。現在は美浦所属の調教師である。
来歴
- 1946年 宮城県のアラブ馬などを生産している牧場の五男として生まれる[2]。
- 1960年 東京へ単身引越し、茂木為二郎のもとで生活を送る[2]。
- 1961年 馬事公苑の騎手養成所に長期講習生として入る[2]。
- 1964年 茂木為二郎厩舎所属騎手としてデビュー。同期に嶋田功、松田博資など。
- 1965年 ダイヤモンドステークスをミハルカスで制し重賞初制覇。この年ミハルカスは、年末の有馬記念で加賀武見を鞍上にシンザンと名勝負を演じている。
- 1972年 中央競馬(以下同様)通算100勝達成。
- 1975年 カブラヤオーで皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、テスコガビーで桜花賞、優駿牝馬(オークス)を逃げ切り勝ち。
- 1976年 調教師の茂木の死去により森末之助に転厩。その後、年末に本郷一彦厩舎に転厩。
- 1977年 調教中の落馬により左股関節脱臼骨折[2]。
- 1980年 通算300勝。
- 1981年 14番人気のミナガワマンナで菊花賞を4馬身差で勝利し、三冠ジョッキーとなる。
- 1982年 ホリスキーで菊花賞をレコードタイムで制し同レース連覇。なお、菊花賞を連覇した騎手は菅原を最後に現在まで現れていない。
- 1985年 ダイシンフブキで朝日杯3歳ステークスに勝利。通算500勝。
- 1990年 通算700勝。
- 1992年 騎手を引退。騎手としての最後の重賞勝利は同年の東京新聞杯でのナルシスノワール。
- 2010年 調教師として初の平地重賞制覇(第84回中山記念:トーセンクラウン)。
騎手成績
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連対率 |
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平地 | 769 | 657 | 672 | 4331 | 6429 | .120 | .222 |
障害 | 0 | 1 | 0 | 1 | 2 | .000 | .500 |
計 | 769 | 658 | 672 | 4332 | 6431 | .120 | .222 |
日付 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初騎乗 | 1964年3月7日 | - | プレザンローズ | - | - | 7着 |
初勝利 | 1964年6月7日 | - | クインウッド | - | - | 1着 |
重賞初騎乗・初勝利 | 1965年4月4日 | ダイヤモンドS | ミハルカス | 13頭 | 3 | 1着 |
GI級初騎乗 | 1968年4月14日 | 桜花賞 | ルピナス | 24頭 | 7 | 5着 |
GI級初勝利 | 1975年4月6日 | 桜花賞 | テスコガビー | 22頭 | 1 | 1着 |
主な騎乗馬
- テスコガビー(1975年 桜花賞・優駿牝馬など)
- カブラヤオー(1975年 皐月賞・東京優駿など)
- ミナガワマンナ(1981年 菊花賞、1982年アルゼンチン共和国杯)
- ホリスキー(1982年 菊花賞)
- ダイシンフブキ(1985年 朝日杯3歳ステークス)
- ランニングフリー(1989年 アメリカジョッキークラブカップ・日経賞)
調教師成績
日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初出走 | 1993年3月14日 | 2回中山6日3R | 4歳未勝利 | セントテキサス | 13頭 | 12 | 8着 |
初勝利 | 1993年5月15日 | 2回東京7日1R | 4歳未勝利 | エメラルドアイ | 16頭 | 10 | 1着 |
重賞初出走 | 1996年11月17日 | 4回新潟8日11R | 福島記念 | ヨイチオー | 14頭 | 10 | 13着 |
重賞初勝利 | 2003年10月18日 | 3回東京3日9R | 東京オータムJ | テンビーエース | 11頭 | 9 | 1着 |
GI初出走 | 2002年4月7日 | 2回阪神6日11R | 桜花賞 | オースミバーディー | 18頭 | 14 | 9着 |
主な管理馬
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
- 五十嵐雄祐(2002年-2006年 騎手)
エピソード
- 菊花賞をミナガワマンナで勝ったときに、菅原は当時関西テレビで競馬実況をしていた杉本清アナウンサーと談笑し「なぜ杉本さんが『淀の坂はゆっくりと下らなければいけない』と強調していたのか、初めてわかった気がする」と語っている。翌年のホリスキー騎乗での菊花賞連覇や1988年の天皇賞・春でのランニングフリー騎乗でタマモクロスの2着にもってきたのも、このときの経験が生きたとも言える。
- 一方、1983年の菊花賞ではアテイスポートに騎乗し、第3コーナー手前の坂の上りで、横にいたミスターシービー騎乗の吉永正人に「マーちゃん(吉永の愛称)、そろそろ行ったほうがいいよ」とアドバイスしたと言われる[3]。このアドバイスが、競馬史に残るミスターシービーの破天荒なまくりを生んだともいえる。
- 菅原が主戦騎手であった同い年のテスコガビーとカブラヤオーの直接対決が一度あった(東京4歳ステークス)が、この時は両馬の調教師に騎乗馬を一任。その結果、「一度断ると乗れなくなる可能性がある」という理由で自らの所属厩舎の管理馬ではないテスコガビーに騎乗した(所属厩舎のカブラヤオーには弟弟子・菅野澄男騎手が騎乗)。なお、この時菅原はカブラヤオーの他馬に近寄られることを恐れる弱点を隠すためには、テスコガビーに騎乗してカブラヤオーの直後につけ、他馬からガードすることでカブラヤオーを気分よく走らせるという難しい騎乗が必要となるのでテスコガビーを選んだという説もある(テスコガビーの項目参照)。
- 娘の菅原恵美は優馬のトラックマンになっている。
脚注
関連項目
外部リンク
- 伝説のジョッキー 第4回 遅咲きの勝負師 菅原泰夫 - JRAホームページ