穴吹智

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穴吹智
1944年12月、明野飛校助教陸軍曹長)時代の穴吹。同校の一式戦「隼」二型(キ43-II)とともに
渾名 「白色電光戦闘穴吹」
「運の穴吹」
「ビルマの桃太郎」
「豆タン黒」
生誕 1921年12月5日
香川県綾歌郡山田村
死没 2005年6月??
所属組織 大日本帝国陸軍
警察予備隊
保安隊
陸上自衛隊
軍歴 1941 - 1945年(陸軍)
1950 - 1971年(陸自)
最終階級 陸軍曹長(陸軍)
2等陸佐(陸自)
指揮 東北方面ヘリコプター飛行隊(陸自)
戦闘 太平洋戦争
*フィリピン攻略戦
*ビルマ戦線
*中国戦線
*フィリピン防衛戦ルソン島の戦い
*日本本土防空戦
除隊後 日本航空社員
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穴吹 智(あなぶき さとる[1]1921年(大正10年)12月5日 - 2005年(平成17年)6月)は、大日本帝国陸軍軍人陸上自衛隊自衛官戦闘機操縦者ヘリコプター操縦者。最終階級は帝国陸軍では陸軍曹長、陸自では2等陸佐香川県出身。

太平洋戦争大東亜戦争)時、主に一式戦闘機「隼」を操り戦った帝国陸軍有数のエース・パイロット。通り名・異名・あだ名は「白色電光戦闘穴吹」「運の穴吹」「ビルマ桃太郎」「豆タン黒」など。このうち「白色電光戦闘穴吹」は本人が好んで用いていた自称であり、原隊である飛行第50戦隊軍隊符号:50FR)の部隊マーク電光」、第3中隊の中隊色白色」、飛行分科戦闘」に因む。撃墜マークは「太丸に星」ないし「太丸に点」であり、これは愛機の垂直尾翼に自身が考案した機体愛称(「吹雪」号・「君風」号)とともに描いていた。

「飛行第50戦隊三羽烏(「腕の佐々木」:第1中隊附佐々木勇軍曹、「度胸の下川」:第2中隊附下川幸雄軍曹)、「運の穴吹」:第3中隊附穴吹智軍曹」の一人。

経歴

1921年(大正10年)12月5日、香川県綾歌郡山田村(現・綾川町)大字山田上甲千四百七十三番地に、父・穴吹保太郎と母・ヤナの12番目の子、八男として生まれる[2]

1938年(昭和13年)、穴吹は少年飛行兵を目指し東京陸軍航空学校へ入校。1939年(昭和14年)4月には陸軍少年飛行兵第6期生として熊谷陸軍飛行学校に進み、更に1940年(昭和15年)10月に太刀洗陸軍飛行学校へ入校し1941年(昭和16年)3月に同校を卒業し、陸軍航空部隊の戦闘機操縦者として飛行第50戦隊第3中隊に配属され、同年10月に陸軍伍長に任官。太平洋戦争開戦時には九七式戦闘機乙(キ27乙)を操り南方作戦におけるフィリピン攻略戦に従軍、同年12月22日にはリンガエン上空でアメリカ陸軍航空軍P-40 トマホーク戦闘機を撃墜し初戦果とする。

1942年(昭和17年)4月、50FRは日本に帰国し一式戦一型(キ43-I)に機種改編。穴吹は愛機に自身のから1文字取り「吹雪」号と名づける(50FRでは戦隊長以下、操縦者は各々の愛機に「隼」とはまた別の独自の愛称をつける伝統がありまた一種のノーズアートとして愛機に愛称を書いていた。なお部隊マークに代表されるように、帝国陸軍ではそのようなユーモアを理解し公式的に認める柔軟な空気があった)。50FRはビルマ戦線に従軍し主にイギリス空軍と交戦、以後、ビルマ・東インド・西南中国を転戦し戦果を上げる。

同年12月には陸軍軍曹に任官。同月24日、主脚の格納を忘れた状態で空戦に突入したものの、ハリケーン戦闘機2機を撃墜している。主脚の出しっぱなしに気づいたのは空戦後に地上に映った自機の影を見てであった。

1943年(昭和18年)5月29日、チッタゴン上空でハリケーン戦闘機とスピットファイア戦闘機各1機を撃墜。愛機「吹雪」号は飛行時間が240時間と寿命を迎えたため航空廠に送られ、代わって受領した「隼」に、穴吹は自身の妻の名前(君子)から1文字取り「君風」号と名づける。

1943年10月8日には「君風」号をもってビルマのバイセン上空でP-38 ライトニング戦闘機2機を撃墜、さらにB-24 リベレーター爆撃機1機に体当たりしこれを撃墜。10日に第3航空軍司令官より個人感状を授与される[3]

1944年(昭和19年)2月、明野陸軍飛行学校助教の辞令を受け原隊であった50FRを離れ日本に帰国し、ビルマ留学生等の操縦教育を担当する。また、ルソン島の戦い中に同地へ四式戦闘機「疾風」を空輸する危険任務につき、フェリー中に台湾高雄上空において「疾風」にてアメリカ海軍F6F ヘルキャット艦上戦闘機4機の撃墜を報告。同年12月、陸軍曹長に任官。第二次世界大戦敗戦までは明野教導飛行師団(旧・明野陸軍飛行学校)教導飛行隊にて五式戦闘機一型(キ100-I)に搭乗し本土防空戦に従軍、B-29 スーパーフォートレス爆撃機1機の撃墜を報告する。

戦争全般を通じての総撃墜報告数は51機(ないし53機)。研究家による戦後の調査では30機と推測されている[4]

戦後の1950年(昭和25年)には警察予備隊に入隊。保安隊を経て、陸上自衛隊東北方面ヘリコプター飛行隊長などを歴任し、1971年(昭和46年)に2等陸佐で退官した。その後、日本航空に入社し、1984年(昭和59年)に退社。

2005年(平成17年)6月死去。享年83歳[5]

著作

  • 『蒼空の河 穴吹軍曹「隼」空戦記録』(光人社NF文庫、1996年) ISBN 4-7698-2111-5
  • 『続・蒼空の河 穴吹軍曹「隼」空戦記録〈完結篇〉』(光人社NF文庫、2000年) ISBN 4-7698-2292-8
手記
  • 「対爆撃機戦闘にわが背面突進成功せり」
    • 丸別冊 戦争と人物12 名機たちの群像 傑作機のメカニズムと名搭乗員の戦歴』(潮書房、1994年12月) p48~p53

脚注

  1. ^ 国立国会図書館NDLopac書誌情報 http://opac.ndl.go.jp/recordid/000009406180/jpn
  2. ^ 『蒼空の河』 第一章 わが母なる空戦 p53
  3. ^ 「対爆撃機戦闘にわが背面突進成功せり」 p51~p53
  4. ^ ヘンリー・サカイダ 著/梅本弘 訳『日本陸軍航空隊のエース 1937-1945』(大日本絵画、2000年) ISBN 4-499-22730-5 p47
  5. ^ 野原茂『陸海軍航空隊蒼天録 大東亜を翔けた荒鷲たちの軌跡』(イカロス出版、2008年) ISBN 978-4-86320-109-5 p54

参考文献

  • 梅本弘著 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年

関連項目