コンテンツにスキップ

福島安正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。111.233.163.181 (会話) による 2011年10月22日 (土) 02:08個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

福島 安正

福島 安正(ふくしま やすまさ、1852年10月27日嘉永5年9月15日) - 1919年(大正8年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将男爵萩野末吉に続く情報将校

経歴

信濃国松本城下(現・長野県松本市)に松本藩士・福島安広の長男として生まれる。江戸へ上京し、幕府講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に参戦。明治には開成学校へ進み外国語などを学ぶ。1873年(明治6年)4月、明治政府に仕官し、司法省から文官として1874年(明治7年)9月に陸軍省へ移る。1876年(明治9年)7月から10月までアメリカ合衆国に出張。1877年(明治10年)の西南戦争では福岡で征討総督府の書記官を務める。翌年5月、陸軍士官登用試験に合格し、陸軍中尉となる。1878年(明治11年)12月、参謀本部長伝令使に就任。

1879年(明治12年)3月、陸軍教導団歩兵大隊付となり、同年12月、参謀本部管西局員に異動。中国朝鮮などを実地調査し、1883年(明治16年)2月、陸軍大尉に昇進。同年6月、清国公使館付となる。1884年(明治17年)11月、参謀本部管西局員兼伝令使に就任。1885年(明治18年)2月から4月まで、天津条約の交渉に随員として陪席する。陸軍大学校ではドイツから来日したクレメンス・メッケルから学ぶ。1886年(明治19年)にはインドビルマ方面を視察の上、翌1887年(明治20年)にはドイツのベルリン公使館に駐在、公使西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアシベリア鉄道敷設の情報などを報告する。1892年(明治25年)の少佐時代には、帰国に際し、冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルクエカテリンブルクから外蒙古イルクーツクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長川上操六らに報告する。

1893年(明治26年)2月、陸軍中佐に進級。1894年(明治27年)6月、京城公使館付となる。同年8月、第一軍参謀として日清戦争に出征。1895年(明治28年)3月、陸軍大佐に昇進。同年9月、参謀本部編纂課長となり、欧州・アジア旅行、参謀本部第3部長、同第2部長を歴任。1900年(明治33年)4月、陸軍少将に進級し西部都督部参謀長を兼務。

義和団事件では義和団鎮圧の為、1900年6月、臨時派遣隊司令官として派遣された。同年9月から翌年6月まで、北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、英、独、仏、露、北京官語を駆使して調停役となる。1902年(明治35年)5月から11月までイギリスに出張。1904年(明治37年)2月、大本営参謀に就任し、同年6月から日露戦争では満州軍総司令部参謀として、それまでの経験を活かして諜報部において手腕を振るう。特に、満州馬賊を率いて戦った「遼西特別任務班」、「満州義軍」の総指揮を行ったことは、一般にあまり知られていない。

戦後の1906年(明治39年)4月、参謀本部次長に就任し、同年7月、陸軍中将に進級。1907年(明治40年)9月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。1908年(明治41年)12月、参謀次長(名称変更)に発令され、1912年(明治45年)4月に関東都督に就任。1914年(大正3年)9月、陸軍大将に進級と同時に後備役となり、同年11月、帝国在郷軍人会副会長に就任。最晩年には「剛健主義」を掲げ全国騎馬旅行などをして過ごす。1919年(大正8年)、東京市高田村(現、豊島区雑司が谷附近)の自宅で死去。67歳。

墓所は東京都港区青山墓地

親族

  • 妻 福島貞子 高野貞潔(幕臣)の娘
  • 嗣子 福島四郎(陸軍中佐)
  • 二男 福島正一(陸軍少佐)
  • 三男 福島次郎(陸軍中尉、戦死)

伝記

  • 太田阿山編『福島将軍遺績』東亜協会、1941年。
  • 島貫重節『福島安正と単騎シベリヤ横断』上下、原書房、1979年。
  • 坂井藤雄『シベリア横断 - 福島安正大将伝』葦書房、1992年。
  • 浅野晃『こころの文庫 - 福島安正』全日本家庭教育研究会。月刊ポピーの副読冊子(32p)。振り仮名付きで子ども向け。

参考文献