コンテンツにスキップ

真崎甚三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Yamatochem (会話 | 投稿記録) による 2012年5月14日 (月) 22:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:国立国会図書館憲政資料室所蔵文書を除去 (HotCat使用))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

真崎 甚三郎
1876年11月27日 - 1956年8月31日
[[ファイル:|200px]]
陸軍大将 真崎甚三郎
生誕 佐賀県
軍歴 1898年 - 1936年
最終階級 陸軍大将
指揮 第8師団
第1師団
台湾軍司令官
参謀次長
教育総監
戦闘 日露戦争
テンプレートを表示

眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、明治9年(1876年11月27日 - 昭和31年(1956年8月31日)は、日本の陸軍軍人陸軍大将皇道派の中心人物とされる。 佐賀県出身。弟に海軍少将衆議院議員眞崎勝次。長男に外務省宮内庁の官僚の真崎秀樹[1]

来歴・人物

出生から第8師団長時代まで

佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)から1895年12月、士官候補生を経て、1896年9月、陸軍士官学校へ。陸士第9期卒後日露戦争に従軍。真崎は「もし生き残って帰ったら、出家して坊さんになろうと思ったくらいで、世に戦争ほど悲惨なものはなし」と書いている[要出典]陸軍大学校第19期卒業。首席卒業の荒木貞夫の他、阿部信行松木直亮本庄繁小松慶也と同期。

久留米俘虜収容所長[2]、陸軍大佐、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、陸軍少将、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、陸軍中将第8師団長を歴任。その時期の逸話には以下のようなものがある。

久留米俘虜収容所長時代、収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内での音楽などを許可した。衛戍司令官柴五郎中将からなじられると、「ドイツ人にとっての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なものであります」と答えて、了解を求めた。しかしながら、真崎は所長在任中の1915年11月15日、第一次世界大戦のドイツ人捕虜であったベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉殴打事件を起こし、捕虜側は捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に真崎所長の行為に激しく抗議し、米国大使館員の派遣を要求している。

軍事課長時代、陸軍機密費の不正蓄積についての感触を得、持ち前の正義感から、機密費の適正な使用と管理について意見を具申したが、直ちに近衛歩兵第1連隊に転出することになった。この当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長松木直亮[3]陸軍省高級副官の四人であった。

陸軍士官学校校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三磯部浅一らを輩出。生徒のなかには、新カント派の哲学に影響されて、学校の規則のような他律の拘束には服する必要がないと主張する者がいて、その一人で、後に二・二六事件に連座して処刑されることになる渋川善助を退学処分にした。また、軍人の一般教養の低下を憂慮し、軍事偏重であった士官学校の課程を改正した。

単身赴任していた弘前の第8師団長時代、思想問題を研究し、北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣で、それを基にした国家改造は国体に反する、とし、大川周明の思想は国家社会主義であって、共産主義と紙一重の差である、と結論づけた。そして軍人が参加して革新運動をやると、軍隊を破壊するだけでなく、日本の国を危うくすると認識し、そういう思想の持ち主を注意人物とし、軍人が彼らに近づくことを警戒していた。

第1師団長時代から参謀次長時代まで

1929年7月1日からは第1師団長に任命された。第1師団長時代の1931年に起こった三月事件では、師団参謀長磯谷廉介からクーデターの計画を聞くと、軍事課長の永田鉄山に警告した。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告して、計画を阻止した。

1931年8月、本来なら真崎が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が関東軍司令官に任命され、真崎は台湾軍司令官に任命された。

1932年1月、犬養内閣陸軍大臣であった荒木貞夫の計らいで参謀次長に就任。肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長であった閑院宮載仁親王の下で事実上の参謀総長として参謀本部を動かした。このころ荒木とともに国家革新を図る皇道派を形成。勢力伸張を図り、中堅将校たちの信望を担ったが、党派的な行動が反発を買い、統制派を生むことになる。

満州事変の原因を、国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が、理想の国家を満州に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために引き起こされたものと見なしていた真崎は、事変不拡大・満州事変は満州国内でおさめることを基本方針として収拾にあたった。上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえた。有利な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえたとして、拡大派や国家革新推進派から非難された。

1933年6月、大将・軍事参議官となる。

教育総監時代

1934年1月教育総監に就任、天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し率先して天皇機関説を攻撃。天皇機関説を葬り、国体を明徴にせよという運動が次第に強くなり、右翼、在郷軍人、ついには現役軍人に及んでくるようになると、三長官(大臣、参謀総長、教育総監)協議の上、現役軍隊だけなら教育総監の訓示でも可なりと決定され[4]、教育総監の真崎が国体明徴の訓示を行った。

齋藤内閣でも引き続き陸相を務めていた荒木の後任候補として真崎の名が挙がったが、荒木らの勢力を危惧し陸軍の改革を断行しようとした勢力に擁立された林銑十郎が陸相となり、岡田内閣でも引き続き陸相となった林とその懐刀である軍務局長永田鉄山少将は、1935年7月、三長官の一つである教育総監を、教育総監の意志を無視して二長官だけの決議で罷免し、後任に渡辺錠太郎を据えた 。これは陸軍将官の人事決定は三長官の合意の上でなければやらないという天皇の裁可を得た内規を破るものであった。教育総監部を去る真崎に対して、部員から「菅公配所の図」の掛軸が送られたという[要出典]

1934年に起きた陸軍士官学校事件や、この人事について統帥権干犯だと反発した皇道派の相沢三郎陸軍中佐は同年8月に永田鉄山を殺害した(相沢事件)。

真崎自身の判断によると、軍中央から遠ざけられた三月事件十月事件の関係者は真崎らを恨み、政界、財界、重臣方面に真崎らを誹謗していたという。そして、真崎追放を決心し、特に湯浅倉平が天皇に真崎中傷を行い、閑院宮と梨本宮の両殿下も動かされ、教育総監更迭に至ったという。

本庄繁侍従武官長から天皇に上奏書類を非公式にご覧に入れて、天皇も「真崎の言うことも一理ある」とおおせられたが、湯浅の中傷、木戸幸一が真崎の直訴を阻止したために、天皇の考えを変えさせるに至らなかったという[5]

二・二六事件

更に陸軍の改革に反発した皇道派の若手将校により二・二六事件が起きると、真崎は軍事参議官として、軍の長老として、強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾しようと行動する。事件の収束後、真崎は陸相官邸における行動、伏見官邸における工作、軍事参議官会議における維新断行のための大詔渙発、戒厳令施行の促進などが決起部隊に対する利敵行為とみなされ、1936年7月に拘留され、憲兵隊本部の取調べを受けた後、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、事件関与を否認。論告求刑は反乱者を利す罪で禁錮13年であったが、1937年9月25日の判決で無罪となる。しかし、この結果皇道派の力が衰え、統制派の力が増すことになる。この時の逸話として、以下のようなものがある。

陸軍大臣の寺内寿一大将は二・二六事件のとき参内して、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏していたため、なんとしても真崎を有罪にするか、官位を拝辞させなければ、天皇を騙したことになるため、大将拝辞を条件に不起訴にすることを真崎の家族に伝えたが、家族は頑として断ったという。さらに寺内は真崎を取り調べる軍法会議の議長となり、起訴後は裁判長となったため、真崎銃殺の意図をもって裁判を進めていたが、支那事変が起って最高司令官として北支へ転任となり、磯村年大将を真崎裁判の判士長にする際には、「何でもかまわぬから、真崎は有罪にしろ」といったとされる。磯村は戦後、「ああ、あれは随分綿密に調査したが、真崎には一点の疑う余地がなかった」と証言している。なお、荒木貞夫は判決文について、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は"無罪"。あんなおかしな判決文はない」と述べている[6]

終戦後

太平洋戦争終戦後の1945年11月19日に、真崎はA級戦犯として逮捕命令を受け、巣鴨プリズンに入所させられた。他の被告人は、単に被疑者として呼ばれてもみな弁護士を頼んだが、真崎は弁護士をつけなかったという。

真崎への第一回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12月2日に第一ホテルで行われた。以降は、3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた東條英機等統制派軍人や木戸幸一に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、親米主義[7]の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、陸軍を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と野口恒等から酷評されている[要出典]

極東国際軍事裁判で不起訴処分を受け、梨本宮守正王を除いて軍人では一番先に釈放された。同裁判の真崎担当係であったロビンソン検事は満洲事変、二・二六事件などとの関わりを詳細に調査し、「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない」「二・二六事件では真崎は被害者であり、無関係」という結論を下し、そのメモランダムには、「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」とある。

真崎の自動車運転手を務めていた石黒幸平(陸軍自動車学校職工)は、真崎大将は情に厚く部下思いであると、陸軍部内はもちろん、自動車運転手間にも信望があった、と証言をしている[8]

1956年(昭和31年)8月31日、死去。 葬儀は9月3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。昭和天皇からは祭祀料が届けられた。

遺言書では、第一に「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」としている[9]。また巣鴨在監日記の12月23日1945年)には、「今日は皇太子殿下の誕生日である。将来の天長節である。万歳を祈ると共に、殿下が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設せられんことを祈る」と記している[10]

== 年譜 ==[11]

脚注

  1. ^ 延べ25年という異例の長期間昭和天皇の通訳を務めた[要出典]
  2. ^ 2006年公開の映画「バルトの楽園」で板東英二が演じた久留米俘虜収容所長は真崎がモデルとみられる[要出典]
  3. ^ のちの二・二六事件で真崎が軍法会議に訴追されたとき、判士に任命され、真崎有罪論を主張したという。
  4. ^ 従来は陸軍大臣が訓示するのが当然であったが、大臣訓示は閣議を経なければならず時間がかかることと、政府はすでに二回も声明を出していることを理由とした[要出典]
  5. ^ 伊藤隆「真崎大将遺書」『This is 読売』1992年3月
  6. ^ 『二・二六事件』p.203
  7. ^ 戦略とは補給のつかないところに兵を出すなという一言に尽きる、と真崎は言っており、補給が続かないのでアメリカとは戦争すべきでないと考えていた。また、佐賀中学校で真崎の英語の先生だったジェームズ・A・B・シャーラーが1932年に再来日した際、真崎は外務省情報部長の白鳥敏夫に頼んで日米間の諒解のために働いてもらい、シャーラーは世界に広まっていた日本批判に対して弁護する本を書いたという[要出典]
  8. ^ 須崎慎一『二・二六事件 ― 青年将校の意識と心理』(吉川弘文館、2003年)
  9. ^ 伊藤隆「真崎大将遺書」『This is 読売』1992年3月号
  10. ^ 広瀬順晧校訂「巣鴨在監日記抄」『This is 読売』1992年3月号
  11. ^ 国立国会図書館 リサーチ・ナビ 『真崎甚三郎関係文書』
  12. ^ アジア歴史資料センター レファレンスコード A03023464200 『特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ 参謀次長陸軍中将 真崎甚三郎』

参考文献

  • 田崎末松『評伝 真崎甚三郎』(芙蓉書房、1977年)
  • 山口富永『昭和史の証言―真崎甚三郎・人その思想』(政界公論社、1970年)
  • 山口富永『二・二六事件の偽史を撃つ』(国民新聞社、1990年)
  • 田々宮英太郎『昭和維新 - 二・二六事件と真崎大將』(サイマル出版会、 1969年)
  • 高橋正衛『二・二六事件 「昭和維新」の思想と行動』(中公新書、1981年)

外部リンク