白鳥由栄

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白鳥由栄
脱獄再現シーン(博物館網走監獄

白鳥 由栄(しらとり よしえ、1907年明治40年)7月31日 - 1979年昭和54年)2月24日)は、日本の元受刑者

収容先の刑務所で次々と脱獄事件を起こし、今日では「昭和の脱獄王」の異名で知られる。当時の看守の間で「一世を風靡した男」と評された。26年間もの服役中に4回の脱獄を決行、累計逃亡年数は3年にも及んだ。

概要

青森県出身。幼少期に豆腐屋の養子となるが、徐々に素行が悪化。遂に1933年に仲間と強盗殺人を犯し、その2年後に警察官からの拷問尋問により自白を余儀なくされ投獄される。白鳥自身は「殺したのは仲間で、自分は殺す気もなければ本当に殺していない」と無実を主張していたという。その際に収容された先の刑務所待遇が劣悪だったことから抗議したところ、過酷な懲罰を受けたことが契機となり、その後、次々と脱獄と収監を繰り返す人生を歩むこととなった。

網走刑務所を脱獄した時には、放浪先で傷害致死事件を犯し、収監の期間はさらに延長される。この網走の脱獄の際、特製の手錠と監視口に味噌汁を吹きかけ続け、味噌汁に含まれる塩分で鉄を錆びさせて脱獄した作戦は後年によく紹介されるエピソードである。

その後終戦まで身を潜めるが、終戦後、畑泥棒と間違えられ農家に袋だたきにされ、逆に相手を殺害。白鳥は正当防衛を主張するも札幌地裁から死刑判決が出たために脱獄を決意。看守6人1組で厳重に監視される中、白鳥は脱獄に成功する。最後に捕まった際は警官から当時貴重品だった煙草を与えられたことがきっかけとなり、あっさり自分が脱獄囚だと明かし自首。移送された刑務所で不良囚として扱われ、およそ人間的な対応をされなかった白鳥は、煙草をくれるという親切な扱いをされたことで心が動いたと話している。札幌高裁で審議が再開し、一部、白鳥の主張が認められ懲役20年となる。また、府中刑務所では白鳥を一般の受刑者と同様に扱ったため、白鳥は模範囚として刑に服した。1961年仮釈放。出所後は建設作業員として就労。1979年心筋梗塞で世を去った。71歳没。白鳥は無縁仏として供養されそうになるが、白鳥が仮出所した際に近所に住んでおり仲良くしていた当時子供だった女性が引き取り、埋葬された。

収監中、当時の看守達は白鳥の脱獄を阻止するため厳重に警備を重ね、あらゆる手立てを行ったがいずれも振り切られた。このことから、脱獄者を出すと職務怠慢で懲戒処分になる当時の看守の間では「脱獄するなら、自分が当直以外のときであって欲しい」と評されたエピソードがある。2017年放送のバラエティ番組『激レアさんを連れてきた。』にて、実際に処分を受けた元看守の男性が出演し、白鳥が脱獄したのは自分が交代した後だったが、新人だったということもあり信じてもらえず、始末書を書かされ1か月の減俸処分になったというエピソードを明かしている[1]

能力

  • 身体の関節を簡単に外すことができる特異体質を持っていたとされ、頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させて、容易に抜け出したという。
  • 健脚であり、1日に120kmもの距離を走ることができた。
  • 網走刑務所では手錠の鎖を引きちぎるという怪力ぶりも見せており、その結果再収監後は重さ20kgもの特製の手錠を後ろ手に掛けられることとなった。また、地中深く突き立てられた煙突の支柱を素手で引き抜き、40歳を過ぎてなお、米俵を両手に持って手を水平にすることができるなど、その怪力ぶりは群を抜いていたとされる。

脱獄歴

モデル

関連書

  • 『破獄』吉村昭、岩波書店、1983年11月

テレビドラマ

関連項目

脚注

外部リンク