沢風 (駆逐艦)

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対潜実験艦時の沢風(1945年)
艦歴
計画 1917年度(八四艦隊案
起工 1918年1月7日
進水 1919年1月7日
竣工 1920年3月16日
除籍 1945年9月15日
その後 福島県小名浜港防波堤
要目
排水量 基準:1,215トン
公試:1,345トン
全長 102.6メートル
全幅 8.92メートル
吃水 2.79メートル
機関 ロ号艦本式缶4基
パーソンズタービン2基2軸
38,500馬力
速力 39ノット
航続距離 14ノットで3,600カイリ
燃料 重油:395トン
乗員 154名
兵装 45口径12cm単装砲4門
6.5mm単装機銃2挺
53.3cm連装魚雷発射管3基
(魚雷8本)
一号機雷16個

沢風(旧字体:澤風、さわかぜ/さはかぜ)は、日本海軍駆逐艦峯風型駆逐艦の2番艦。艦名は沢に吹く風に由来する。

艦歴

三菱造船(株)長崎造船所で建造。一等駆逐艦に類別。

1920年(大正9年)3月にネームシップの「峯風」よりも早く竣工し予行運転が行われた。

しかし、前型の江風型駆逐艦より採用されたばかりのパーソンズ (企業)社製のギアードタービンを三菱重工業ライセンス生産してから間もないこともあり、故障や事故が頻発した。

沢風においては、この予行運転でタービン動翼の欠損、タービン軸の屈曲という重大な故障に見舞われる。

1920年(大正9年)12月、同型艦「峯風」「矢風」「沖風」と共に第2駆逐隊を編成し、第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。

1930年(昭和5年)11月、第2駆逐隊は第1航空戦隊に編入し、空母「赤城」直衛として不時着機の救助を行う、いわゆる「トンボ釣り」に従事した。

1932年(昭和7年)、上海事変において、長江水域での諸作戦に参加。1935年(昭和10年)4月、館山海軍航空隊の練習艦となり、1938年(昭和13年)12月に予備艦となった際にも同航空隊練習艦として各種飛行訓練に協力。

1939年(昭和14年)11月、横須賀鎮守府練習駆逐艦となる。1941年(昭和16年)9月、再び館山航空隊付属として各種飛行訓練に協力した。

1942年(昭和17年)3月から、館山を拠点に東京湾口で対潜掃討に従事。4月17日、御蔵島沖でソ連船セルゲイ・キロフを拿捕し、伊東へ連行[1]。11月8日、横須賀に入港し訓令工事を行う。12月には室蘭までの船団護衛や東京湾口での対潜掃討に当った。

1943年(昭和18年)3月30日、横須賀工廠に入渠し5月29日まで修理を実施。6月には横須賀 - 神戸間の船団護衛を行い、7月は横須賀から室蘭まで船団護衛を実施。12月16日から翌年1月13日まで横須賀工廠で修理工事を行った。

1944年(昭和19年)1月14日、横須賀を出港し東京湾口で船団護衛を実施。2月から尾鷲を基地として紀伊半島方面での対潜掃討、船団護衛に従事。12月18日、横須賀港に戻り、海軍対潜学校練習艦となった。

1945年(昭和20年)2月4日、 横浜に入港し、3月18日まで対潜実験艦への改造工事を実施。5月5日、第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦となり、横須賀において無傷で終戦を迎えた。9月15日に除籍され、船体は福島県小名浜港で防波堤に転用された[2]

対潜実験艦改造工事

1945年2月4日から実施された対潜実験艦への改造工事は、以下のように実施された。

  • 主砲は4番主砲を残して撤去
  • 1番砲跡に15cm9連装対潜噴進砲(対潜迫撃砲)を装備
  • 魚雷兵装は全て撤去
  • 25mm連装機銃4基、同単装機銃4挺を増設
  • 前檣を三脚檣に変更
  • 艦橋に22号電探を装備
  • 爆雷36個を搭載

沈船防波堤時代

終戦後、国としての方針は食料増産であり、その一貫として漁獲高を上げることにも力が注がれることとなる。

当時の小名浜港は防波堤がなかったため、小規模な防波堤を作ることが急務とされた。 しかし、終戦後はコンクリート石材などの資材が不足しており、廃艦を沈めればそれだけで数100m近くの防波堤ができるため、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの強い方針もあり、日本各地で、軍艦防波堤(響灘沈艦護岸)を初めとした、旧大日本帝国海軍の艦艇を利用した防波堤工事が実施されることとなる。

沢風は、1948年(昭和23年)に浦賀船渠にて解体・改装される。マスト艦橋など船体上部構造をすべて取り除かれ、海に浮かぶ、を下ろすことができるなど必要最低限の状態となり、その後栗橋 [3]曳航されながら、小名浜港へ到着する。

その後、同年の4月2日に沈船作業が実施された。作業内容は以下である。

  • 05:30 - 作業員18名での土砂流入による沈設作業が開始
  • 13:15 - 船体内部に注水作業を開始。
  • 14:45 - 船底着座が確認されたことにより、防波堤として完成。

上記作業を経て、沢風は日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤として完成し、28年間の駆逐艦としての生涯を終えたのである。

その後、同年8月25日に、汐風も近くの一号埠頭付近に沈設された。

また、沢風と汐風の防波堤は、沈設の際から「軍艦の船底には数トンものが大量にある」とまことしやかに囁かれており、事実、駆逐艦は船体の重心を下げ、復原性を高めるために当時は鉛を大量に使用していた。

そのため、防波堤の完成時から鉛や鉄材を狙う多くの解体業者に目をつけられることとなる。

なお、沢風は当時の連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの厳命もあり、蒸気タービンを取り外さずに沈設したために金目の物が多く、ハンマーをはじめプラズマ切断機(酸素切断機)などが用いられ、鉄板は剥がされ、船内の配線は引き抜かれ荒されるなどの盗掘被害を被った。

複数回に渡り、大掛かりで規模が小さいとは言えない盗掘に発展したことで船内にコンクリートが流し込まれるなどの対応がなされた。

幸いな事に、機関部などに関しては海面よりも下に埋設されていたため、盗掘者も手が出せなかったようであり、荒らされるなどの被害はなかった。

防波堤の解体とその後

小名浜港の魚市場前に沢風を用いた防波堤が完成してから、1年後の1949年(昭和24年)2月頃に魚市場の拡張に伴い、市場拡張の妨げとなる沢風防波堤を撤去する計画が立案され、1965年(昭和40年)10月に防波堤の解体・撤去作業を開始した。

その際に沢風からは、250トンもの鉄材スクラップが出ることが分かり、福島県は沢風の鉄材スクラップを競争入札にし、錨、三崎公園に保管・展示されている蒸気タービンなども含め、当時は売却が検討された[4]

この当時、沢風の乗組員が多く存命しており、記念として、一部を残したいという声が出たため、いわき市側で、申し出るように要請。

この話を聞いた、旧海軍軍人および軍属で結成されている海桜会が沢風の艦先をそのまま残すことを検討したが、大きすぎるため断念。 代案としてスクリューを残すことを申し出た情報はあるものの、長年埋没していた影響もあり、取り出せるかは不明とされていた。

この他にも県に対し、旧海軍出身の方々の陳情が提出されたため、いわき市名義でスクラップが払い下げられ、展示などの活用は地元の海友会に一任されることとなった。

解体後、沢風のスクラップはいわき市小名浜市民会館前の広場に活用が決定するまで、一時保管されることとなる。

しかし、その後は約10年近くに渡り、公民館前に風雨をその身に受けながら放置されることとなり、地元民にすらその存在を忘れられた。

屋外にスクラップが設置されてから時は流れ、社団法人海洋学校調査部が、防波堤となった沢風および、汐風を調査していた。 その過程で公民館前に沢風のスクラップが放置されていることを知り、地元の海友会を通じ永久保管に乗り出す。

また、市民が集う公民館の前に廃材スクラップが長年放置されていることについて、市民からの批判・反対の声が寄せられていた時期と重なっており、市が古物商へ約15万円程度で売却する寸前であった。

そこへ海友会などの元軍人たちが駆けつけ、当時の大和田弥一市長に記念碑設立の趣旨を説明、協力を要請することで売却は一時中断。

一行の説明を聞いた大和田市長が、海友会に無償でスクラップ払い下げ、記念碑を設立する予定の三崎公園の市有地を提供することを快諾したことで、ようやく沢風のスクラップを用いた記念碑が建立することが決定される。

1973年(昭和48年)11月3日に当時の県海友会会長が吉田真治であり、元教官であるという縁から、高松宮宣仁親王を招き、艦魂碑除幕式が執り行われた。

また、野外展示されている沢風の蒸気タービンの土台部分のプレートに記載されている「艦魂」の文字は、高松宮宣仁親王が筆を取られたものである。

なお、現在の記念碑は沢風の蒸気タービンのみが展示されており、その他に残存していたはずの錨など沢風のスクラップが、その後どのように活用されたかなどの用途は不明のままである。

余談ではあるが沢風の防波堤であった際の埋設地点は、現在の魚市場前の防波堤よりも、半分ほど魚市場側に近い距離であり、現在の防波堤地点ではない。

記念碑の説明板

歴代艦長

※『艦長たちの軍艦史』219-221頁による。階級は就任時のもの。

艤装員長

  • 神本国太郎 少佐:1918年12月1日 - 1919年4月1日[5]
  • (心得)神本国太郎 少佐:1919年4月1日[5] - 1919年7月18日[6]
  • (兼・心得)神本国太郎 少佐:1919年7月18日[6] -

艦長

脚注

  1. ^ 柴田武彦、原勝洋、『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』、アリアドネ企画、2003年、ISBN 4-384-03180-7、182ページ
  2. ^ 沈船防波堤「汐風」「澤風」
  3. ^ 海上保安大学校 公式サイト 初代練習船「栗橋」 PL100(PL04)
  4. ^ いわき民報 昭和40年10月7日(木曜日)第6151号、5面記事
  5. ^ a b 『官報』第1997号、大正8年4月2日。
  6. ^ a b c 『官報』第2087号、大正8年7月19日。
  7. ^ 『官報』第3347号、大正12年10月18日。
  8. ^ 『官報』第3348号、大正12年10月19日。
  9. ^ 『官報』第266号、昭和2年11月16日。
  10. ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
  11. ^ 『官報』第1465号、昭和6年11月16日。
  12. ^ a b 『官報』第2344号、昭和9年10月23日。
  13. ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
  14. ^ 『官報』第2472号、昭和10年4月2日。
  15. ^ 海軍辞令公報 号外 第91号 昭和12年11月15日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  16. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第219号 昭和13年8月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200 
  17. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第268号 昭和13年12月3日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700 
  18. ^ 海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 

参考文献

  • 『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦Ⅱ、潮書房、1981年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。