日本帝国主義
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日本帝国主義(にほんていこくしゅぎ、英語: Japanese imperialism)とは日本における帝国主義、またはそのイデオロギーを指す用語。
狭義には明治から第二次世界大戦終結までの、いわゆる「大日本帝国」における帝国主義を指すが、本来は「帝国」や「帝国主義」は、帝政の政体のみの用語では無いため、広義には第二次世界大戦終結後も含めた軍国主義、植民地主義、覇権主義などの傾向を指す場合もある。
主な特徴
日本帝国主義の主な特徴は、中華文明的な儒教道徳を用いた天皇制による国内支配体制、西欧的な帝国主義にのっとる植民地獲得政策、および軍国主義的な国内政策である。また東アジア・東南アジアに独自の勢力圏を設定して、その範囲内での覇権主義を唱えた。これは同時期のアメリカ合衆国におけるモンロー主義と類比される。
日本帝国主義の進出の対象となった地域は(断絶はあるにしろ歴史的に)古来日本と貿易上の深いつながりがある地域であり、このことは日本帝国主義の対外政策が単なる資源ナショナリズムの欲求や欧米的帝国主義の単純な模倣から行われたのでないことを示している。同時に、現代においても日本帝国主義がなお政治問題として俎上にのぼるのは、相手国との関係性の深さがあることも大きい。
さまざまな「日本帝国主義」の性格付け
資本主義段階論としての「日本帝国主義」
マルクス・レーニン主義的な立場による帝国主義の定義は高度な資本主義的発展によって国内市場において飽和状態に達した資本が市場としての植民地を必要とし、その獲得を巡って世界分割を意図するというものである。具体的には20世紀前半にとくに顕著となった欧米列強による世界分割を経済原理から性格付けたもので、帝国主義諸国とは当時の列強と呼ばれた国々に他ならない。このような帝国主義の国々の内部ではおもに金融資本を中心として高度な寡占的もしくは独占的な資本形成がなされており、資本形成の遅れた諸地域を資本的に従属させることで国内的な資本の飽和状態を脱しようとする試みが軍事的行動による植民地の獲得につながるとされた。実際20世紀前半の日本国内にはこの寡占資本と思われる財閥が存在し、政府と密接な関係を持っていたことは事実である。しかしながら日本国内の資本が海外領土を積極的に獲得せねばならないほど飽和した状態にあったかということについてはこれを疑問視する見方もある。レーニンに先立ち、幸徳秋水によって提示された『廿世紀之怪物帝国主義』は国内資本ではなく、明治政府の政治イデオロギーが帝国主義的膨張政策の根源であると主張している。ただこの著作の歴史的意義については、著作内で道徳主義が強調されていることもあり、帝国主義分析にどの程度有効であるかについては議論が分かれている。また近年では上記のような資本主義と帝国主義の関連性自体を疑問視する見方もある。シュンペーターは帝国主義は前近代的な国民意識、絶対主義的な残滓から発する「無限の膨張」それ自体を目的とする非合理的な傾向であると述べている。彼によれば国際的分業と交換を前提とする資本主義は本来的には「平和的」で、中世的過去を持たないアメリカがもっとも帝国主義的でないことがその証拠だという。彼以外にも、資本主義が典型的に発達した場合、自由競争や自由貿易をおこなったほうが有利となるので帝国主義的な政策はむしろ健全な資本主義の発達からは害悪でしかないという見方もあり、資本主義経済と帝国主義政策の関連性は必ずしも自明とはいえない。実際、第一次世界大戦の素因は経済的なものではなかった。欧州大戦の交戦国同士は貿易上の主要な取引相手であり、外征には軍事的、政治的問題の解決以上の意義はない。また資本主義的発達はサービスなど社会のあらゆることを商品とすることができるため、対外植民地を獲得するより国内市場を充実させるほうがリスクも少なくコストパフォーマンスにも優れているという。
世界システム論としての「日本帝国主義」
帝国主義論とは異なる意味で、資本主義と世界経済および個々の国家の国内政策を特徴づける理論にウォーラーステインの「世界システム論」がある。この視点にたてば、厳密には日本「帝国主義」とするのは誤りで(ウォーラーステインは異民族支配の意味合いを含む「帝国」という言葉を近代においては否定している)、世界システム内の位置づけを論じることになる。ウォーラーステインによれば、世界は経済的に「周辺」「半周辺」「中心」に分かれ、「中心」は前二者から、「半周辺」は「周辺」から経済的に搾取する構造が国際経済の全時代に成り立っている。これが世界システムである。1970年代以前の日本はこの「半周辺」に位置づけられており、「周辺」地域から搾取をおこなっていた。このこと自体は世界システムの必然で善悪を超えたものである。近代の世界システムの特徴は、このような搾取を決定づける「インターステート・システム」への参与が絶対の条件とされており、これにより国際資本主義経済と一国家の政策は連動し、ほぼ同義的なものとなる。このことが従来の帝国主義論の基調であったある一国の列強と植民地の結びつきというものを否定する。搾取のシステムは一つの列強とその植民地だけを個別に線的に結ぶのではなく、全世界的にはりめぐらされた収奪の網が富を「中心」と「半周辺」にふさわしいだけ必然的に分配するのである。ウォーラーステインは近代のインターステート・システムが近世の北イタリアの諸都市を淵源とし、直接的にはヴェストファーレン条約で成立したと述べているが、ウエストファリア条約は主権国家の性格規定においても重要な画期と考えられているため、少なくともインターステート・システムが主権国家の国際関係を包摂していることは疑いえないが、それが国内システムをも規定するという論点は必ずしも明確ではない(ウエストファリア条約は各国の国内政策を全面的に強制したものではないため、国内システムへの影響は明確でない)。このような世界システムが資本主義と不可分に結びつき、基本的には全人類史的に存在していたということは弱肉強食の国際社会観や資本主義を必然のものとして肯定する考え方であり、たとえ現代社会がそのような性質を持っているにせよ果たしてそれが真実であるかどうかは明らかにできない問題である。またこの世界システム論で捉える限り、一国の政策を特徴づけて語ることは最終的には捨象されてしまうのであり、「日本」帝国主義というようなシステムあるいはイデオロギーは枝葉か幻想に過ぎず、本質は世界システムの性格ということになる。
欧米帝国主義からの自衛としての「日本帝国主義」
黄禍論に代表されるように、当時の欧米の国際政策の恣意性と濃厚な人種差別意識の中で、日本を含めアジア、アフリカの諸国は侵略や植民地化の危険につねにさらされており、そのような現実的な危険に対処するために膨張政策を採らざるを得なかったとする論がある。明治維新からの近代化以降、間近に差し迫る欧米帝国主義列強からの自衛的意味合いとして、先行する列強に追いつこうとする日本の政策が帝国主義的膨張政策の根源との見方である。マリア・ルース号事件(相手国はペルー、日本の主張が認められた)と家屋税事件(相手国はイギリス・フランス・ドイツ、三国に有利な判決)の結果の相違に見られるように、当時の国際法の裁定も公平なものとは言い難く、むしろ強い国・影響力のある国に有利な判定が行われていたように思われる[誰?]。実際当時の日本国内ではこのような国際法への不信から軍事力増強による実効力を高めることが国際的優位にたつ道であるとする考え方が存在した。また戦前の日本は国内資源の不足から自由貿易政策を基調としていたことも事実で、金輸出禁止政策やブロック経済政策などに代表されるような、植民地を持つ列強の閉鎖貿易政策によってしばしば苦汁をなめさせられたため、そのような列強の政策への対抗(あるいは模倣)から植民地獲得を志向することは十分考えられる[誰?]。このような国際的国内的風潮の中で日本は必然的に東アジアへ生存圏獲得に動いたのだとする主張である。ただし当時の日本国内の対外強硬論が社会進化論に基づいた弱肉強食的な国際社会観や脱亜論といった黄禍論と似たような恣意的な差別意識に影響を受けていたことを見逃してはいけない。日本の恣意的な対外政策がアジア諸国に列強と同じか、あるいはそれ以上の過酷をしいた面もあり、道徳的な観点から考えれば、安易に当時の国際状況からやむなき積極政策であったとする議論は一面的である。前掲の幸徳も、自国の防衛のために緩衝地帯や植民地、生存圏のような支配地域を求めるのは根拠がないといっており、当時自衛のための侵略が全面的に肯定されていたわけではなく、否定的な見方も当然存在した。
世界国家主義としての「日本帝国主義」
一方でローマ帝国や中華帝国の延長として世界国家としての「日本帝国主義」を主張する見方もある。アジア諸国に先立って近代的な国家を確立した日本が、前近代的な周辺民族を統合し、彼らの資本主義への移行を理念づけたというものである。とくに李朝の朝鮮などは末期的な衰退状態にあったとされ、自立が不可能であったこれらの地域の民衆意識にのっとった形で膨張主義政策が展開されたとする。前述したように日本国内の資本主義的段階が欧米に比べると未熟であり、国内資本が飽和状態にあったために膨張主義政策をとったという見方を疑問視する声は強い。また植民地経営が投資に対して十分な利益を還元していなかったことから外地を経済的な収奪を意図して植民地としたという声に対する疑問は残されている。当時の日本人の間でアジア民族との共存を重視する活動があり、現地の人々がこのような活動に参加している例もある。また現地に作られた日本の教育機関がこれらの地域の啓蒙に大きく貢献している例があるのも事実である(東亜同文書院、建国大学など[1])。このような世界国家としては、東アジアから東南アジアに独自の文化圏あるいは共同体を想定し、そこでの日本の優越的・指導的地位を主張することもおこなわれた(大東亜共栄圏)。
日本の植民地政策が、その地域にもたらしたものは地域によって様々である。占領統治を受けた地域のうち、インドネシアのように日本の植民地政策を「国家として」肯定的にとらえる国がある一方、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国(いわゆる特定アジア)は、これらの活動を「国家として」非常に否定的にとらえている。戦後日本から謝罪と補償を受け、国家として公式に個人レベルの賠償請求権を放棄したにもかかわらず、それを隠蔽してでも日本の戦争犯罪・戦争責任および支配・占領地域における文化的・社会的・人道的抑圧を追及し、謝罪と補償を求める姿勢をいまなお崩していない。いわゆる反日運動である。帝国主義による植民地政策の基本が変わらない以上、現在において、植民地にされた側にとって日本の植民地政策が「アイデンティティ確立(独立)の契機」だったのか「堪え難い屈辱」だったのかは、歴史や地域性、民族性、解放後の政治力学に依るところが大きい。
天皇制イデオロギーとしての「日本帝国主義」
日本帝国主義を不安定な国内体制との関連性において論じる見方もある。これによれば戦前の日本の国内体制、具体的には天皇制が必然的に侵略主義をともなうものであったとするものである。この見方によれば、明治維新の結果成立した日本の国家基盤は前近代的なもの(たとえば儒教的精神など)と近代的なもの(資本主義、自由主義など)の矛盾に満ちており、天皇制はこのような国内矛盾を調和させるための便宜的な装置であったとする。天皇制は中華的な皇帝理念と西洋的な立憲君主観、国家理性としての側面、そして日本古来の自然的王権という互いに矛盾する性格を包含したものであったとしている。実際の国内政策においてこれらの要素それぞれが決定的な矛盾に晒されないよう、対外政策をつねに積極的にすすめる必要があったとする見方である。たしかに自由民権運動や大正デモクラシー、また国体論争を通じて天皇の政治的地位に関する学者の見解は一貫性に乏しく、矛盾に満ちている。この不安定な天皇の立場は対外的には世界帝国的な皇帝概念を伴い、国家理性として日本のあらゆる外交行動の主体であり、また万世一系という時間的永久性が自然的存在としてほかのあらゆる王権に対して優越性を主張できるとされた。この天皇概念を維持するためには現実的に他国に実効支配をおよぼして他の列強に対して優越性を維持しなければならず、天皇の政治的地位が基本的に矛盾に満ちたものであったために、この立場を徹底することは天皇制の死活問題であったとする見方である。
軍国主義としての「日本帝国主義」
軍国主義的な抑圧体制がそのはけ口としてつねに膨張主義をとらざるをえなかったとする見方もある。日本の軍隊は諸外国に比して国力に対する割合が過剰で、それが社会や経済に抑圧的に作用していたとし、この抑圧を正当化するために軍事的な成功が必然的に要求されたとする見方である。この抑圧は連鎖的でしかも軍事力は常に過剰であったとされる。つまり日本列島のみを領有していた段階ですでに国力に相当する以上の軍事力を有していたが、防衛上で完全な安全を確保するには不十分であると考えられたとされる。当時の欧米列強は軍拡競争に明け暮れており、しかも列強の関係は軍事力を基準にしていたから、絶対的な安全なるものは軍事力なしに確保されない。しかし軍事力による優位は技術革新や他国の兵器生産によってつねに相対的かつ流動的で不安定であったため、余剰の軍事力がつねに必要とされた。しかもその余剰の軍事力は他国を侵略するには十分であったから、軍事力維持のために侵略行動で軍事力を行使する必要性があった。なぜなら使われない軍事力は無意味であるから。こうして侵略戦争によって新たな領土を得るわけであるが、この防衛にはまた新たな軍事力を必要とする。このような連鎖的な軍事力思考が当時の日本で支配的であり、戦前の日本における最大の抑圧はこの軍国主義であったとする見方である。この見方については当時の日本国内で自由主義的な思想家や政界人を中心として、軍縮に積極的な勢力が存在しており、軍拡競争を肯定するような風潮が日本国内でそれほど主導的であったかということには疑問が残される[誰?]。ただし当時の日本が一般的な生産技術に劣りがちで輸出産業はあまり競争力がなかったにも関わらず、軍事に関係する航空・造船技術などは偏重といえるほど技術的に進んでいたのは事実である。
ヴェルサイユ体制の結果としての「日本帝国主義」
ヴェルサイユ条約の標榜する国際連盟と国際労働条約が、自由貿易を主体とする日本の国家経済を抑圧し、日本を国際協調を外れた侵略主義に駆り立てる結果となったという見方もある。大正期の法学者末弘厳太郎は、「ある商品の国際競争力の本質は組織・労働・原料であるが、組織の効率性はおくとして、労働と原料のコスト競争力に優れた国(企業)が国際競争を勝ち抜くことができる」と述べ、したがって日本のような原料に乏しい国はいきおい労働コストを抑えざるを得ず、国際労働条約の定める労働条件の向上を果たすことは難しいとした。そのうえでこれを無理に改善しようとすれば、安価な原材料を求めて領土獲得に走らざるを得ないと述べた。彼はこのことから原料貿易の自由と移民の自由を国際社会に実現するために、日本政府は努力していかなければならないと述べているが、実際にはその後のブロック経済の進展、米国での移民割当法(「排日移民法」とも呼ばれ、条文には記されていないものの、日系移民排除を目的としていたとされる)成立など国際社会は全く逆方向に進んだ。このような第一次世界大戦後の世界状況の変化が日本を侵略主義に走らせた、あるいは日本の侵略主義を加速させたという意見もある。ただしこれについては日本の政府当局者が必ずしも問題の所在を知らずに外交を展開したために、このような国際状況を打開することができなかったのではないかという疑問も残されている。さらに第一次世界大戦中に行われた対華21ヶ条要求に明らかなように、日本の侵略政策が第一次世界大戦後の政治状況だけで論じられることは正しくない。
通貨圏構想としての「日本帝国主義」
近代の東アジアは完全な銀本位制によって成り立っていたが、列強の金融政策の移行によって国際経済は徐々に金本位制に移りつつあった。開国時の通貨における金銀為替レートで莫大な損益を経験した日本は、円の対外的な通貨価値の確立と国内的な金融システムの構築およびインフレ対策に立ち向かう必要性に迫られた。とくに関係の深い東アジア圏を中心として銀本位をとるか欧米に倣って金本位に移行するかは単に外交・内治の政策上の問題にとどまらず、各国の金銀保有率や貿易相手国との決済上の問題も抱えており、これが日本経済の発展を大きく左右することは容易に予想された。そのため明治政府は建前上金本位をとりつつ部分的に複本位をとり、それが金本位政策を推進する日本銀行と銀本位政策を推進する横浜正金銀行の二元化を生むこととなった。このような金融政策上の不安が東アジアや東南アジアなど関係の深い貿易相手地域に日本の通貨を貿易通貨とさせる「円圏」構想につながったと考えられている。当時の東南アジアでは日本の発行した貿易銀、いわゆる「円銀」がもっとも銀貨として流通しており、また第一次世界大戦後に対外債権国となった日本は正貨である金銀を大量に備蓄し、日本の植民地となった朝鮮は金本位制に結びつけられた。満州はいまだ銀本位であったが、日本銀行は満州を足がかりとして東アジア圏全域を「金圏」にする政策を進め、これに対して正金銀行は満州を「銀圏」にとどめることを主張した。両者はしかし、東アジア圏を日本の円通貨圏としようという点では完全に一致しており、第一次大戦中に寺内内閣は中国東北部に省立銀行を建てさせ、金本位の幣制を中国全土に広めようと画策した[2]。結果的に言えば、第一次大戦後の不況の到来で日本の国際経済力は弱体化し、それに伴って円価値も不安定化したため通貨圏構想はほとんど破綻する結果となった。このころ各国の国際金融政策が純粋な金本位制ではなく、金為替本位制に移行したことも、日本に不利に働いた。円圏を支える紙幣発行元である朝鮮銀行や台湾銀行が相次いで経営危機に陥り、金融恐慌を引き起こす結果となった。結局日本の国際金融政策上の破綻は、安価な労働力の獲得と資源獲得という、より実際的な経済政策への移行を促し、それが第二次世界大戦前夜の積極的な海外領土獲得に日本を突き動かしたと考えられている。この考え方にたてば、開国以来世界恐慌に至るまでの日本帝国主義の特徴は「円圏」の拡大を目指した国際金融政策(つまり植民地の獲得は円通貨の拠点流通圏の確保という意味合いもあったとし、そのファクターは小さいものでなかったと主張される)に集約し、世界恐慌以後国際金融政策の破綻によって積極的な対外政策を取らざるを得なくなったとするものである。もちろん日本帝国主義の問題をこのような国際経済政策に矮小化してしまうことは適切ではないし、国際金融政策を重視していた頃の日本が対外的に「協調的」であったかといえば、これも十分に検討されているとは言い難い。ただし円通貨圏構想は現代日本でもときどき俎上にのぼる問題であり、日本帝国主義が現代日本に投射する問題の中では今なお継続している政策上の問題である。この問題だけは過去の政策の問題ではなく、現在なお検討されているという意味でも意義を有していることは疑い得ない。
日本帝国主義と周辺地域
中国大陸
日本の保守派の間で一般的な認識
当時の日本の対中国政策は基本的に中国を客体として扱い、中国国内の各勢力に対する援助や条約締結も恣意的で、当時の中国に主権あるいは国益というものがあったとすれば、それを著しく侵害していたことは否定できない。
日本の対中国政策は列強との関係および日本の国益を重視するあまり、多分に機会主義的かつ一貫性に欠け、当時の中国国内のさまざまな運動に謀略的に関与することで混乱を助長してしまった感があることも否めない。当時の中国国内での武力紛争にいわゆる大陸浪人や日本の予備役軍人が多数関与しており、政府としては公的な関与を否定しつつも、外務省あるいは陸軍・海軍、それぞれの現地機関などが独自に関わっている例が指摘されている。
またこれは当時の列強と同様の立場であるが、日本は中国大陸で回避不能なほど大規模な政治的対立があった場合は、そのような勢力ごとの中国分割も視野に入れていた。
しかし中国大陸の人々の利益を代表するような主権国家、国益主体としての民族国家が中国国内で当時存在していたかということもまた検討されねばならない。
また前述したように、中国大陸は日本の国際金融政策の直接の舞台であり、蒋介石の中国政府と日本政府の幣制を巡る競合を指摘する論もある。この論にたてば日本は中国大陸を円通貨圏の影響下におく必要性をもって対中政策を推進したことになる。
日本のリベラル派の間で一般的な認識
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朝鮮半島
日本の保守派の間で一般的な認識
朝鮮半島が李朝の支配のもとで近代国家として自立できたかということについては否定的な見方が強い。外交政策でいえば、清との宗属関係は朝鮮側の熱意のもとにつづけられていたが、このころの朝貢貿易が前近代のような朝貢の返礼の贈り物による属国の利潤を期待して行われたものでないことは研究から明らかにされつつある。清との宗属関係が李朝の国民に多大な犠牲を払っていたことが指摘されている。また李朝の鎖国政策が宗主国清の軍事力に頼りきったものであり、それを逆に利用されて日本とロシアの矛先を交わすため、清の対欧米開国要求がなされたらしいことも指摘されている。このことは李朝が主体的に外交政策を選択するのに困難な状況におかれていたことを示している(米朝修好通商条約、中朝商民水陸貿易章程、神貞大王大妃弔勅使問題など)。実際当時も国内勢力のみでの自立を困難だと感じた各国内勢力の誘導により、日本・清国・ロシアなどの対外勢力を国内政治に利用することがおこなわれている(朝露秘密協定問題など)。これらの列強による朝鮮半島の分割統治なども検討されていることから、朝鮮戦争によって生じた朝鮮半島の南北分立を日本の植民地支配の結果とするのはあまり妥当ではない。
とはいえ、このような宗属関係の廃棄を日本が日清戦争の名目として利用したことは結果から見ると非難されてもしかたがない。なぜなら当時の国際法の観点からもあまり正当とはいえない内政干渉を日清戦争中に日本が認めさせているからである(日朝暫定合同条款)[3]。このことから日清戦争が清の不当な搾取を受けていた朝鮮の自主独立を目的とした戦争であったという主張は非常に疑わしい。
また朝鮮民族の利益主体として日本の植民地支配がそれに合致するものであったかどうかについては検討されなければならない。
日本のリベラル派の間で一般的な認識
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日本帝国主義の諸相
南進論と北進論
日本帝国主義の膨張主義的政策としては大きくわけて、東南アジア方面に進出することを主張する南進論と、東北アジア方面(ソビエト連邦・満州[4])に進出することを主張する北進論があった。
南進論
主な南進論者あるいは南進論政策の推進者
北進論
主な北進論者あるいは北進論政策の推進者
日本が支配(領有及び占領)した領域
明治時代以前
大正時代以後
- 中国 - 日中戦争での占領地帯
- ベトナム、ラオス(仏領インドシナ)-
- ニューギニア - 太平洋戦争での占領
- フィリピン(米国植民地) - 太平洋戦争での占領
- 英領マラヤ(英国植民地) - 太平洋戦争での占領
- サイパン
- オランダ領東インド(オランダ植民地)
脚注
- ^ これらの大学は京城帝国大学、台北帝国大学などの植民地におかれた他の国策大学と比べると、明らかに自由な学風と高尚な理念を持っていた。ただしこれらの学校はのちに自由な学風を国家主義によって制限・抑圧されている。
- ^ 一方で中国は蒋介石が銀両を廃止してドルと連動した幣制改革をおこなっており、第二次世界大戦の終了に至るまで東アジアの通貨をめぐって日本と中国の「通貨戦争」が存在したと考える向きもある。
- ^ ウエストファリア条約以来当時の国際法は建前上内政不干渉を前提としていた。(主権国家の法的平等および法的自由の原則)これにはもちろん例外(日本が日米修好通商条約で関税自主権を喪失し、治外法権を認めさせられたことなど)もあり、植民地獲得は正当化されていたのであるが、日朝暫定合同条款は日本が内政改革を(独立国である)朝鮮に勧告するものとなっていた。開化系官僚を中心とする独立派が発行した新聞『独立新聞』は1896年5月16日の論説で日清戦争後の朝鮮は日本の属国のようになっていると述べている。ただし同論説はそれに続けて、朝鮮人が自らこのような状態に陥ったのだと述べている。その後の6月20日の論説では日清戦争のおかげで朝鮮が独立したことへの賛美の言葉が述べられている。このように当時の国際法も朝鮮民族自身の独立意識、対日感情も流動的であったことは注目されて良いが、日清戦争の名目に反する行為を一時的であるにせよ日本がとっていたという事実は見逃してはならない。
- ^ 現在の中国東北部
参考文献
- 本村凌二ら編『岩波講座 世界歴史5 帝国と支配』岩波書店、1998年
- 波多野勝著『満蒙独立運動』PHP新書、2001年
- 安彦良和著『虹色のトロツキー』全8巻、中公文庫、2000年