日中双方の新聞記者交換に関するメモ

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日中記者交換協定(にっちゅうきしゃこうかんきょうてい)は、日中国交正常化以前に日本中華人民共和国の間で取り交わされた、日中双方の記者を相互に常駐させる取り決めのこと。日中記者協定とも呼ばれる。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。これは日中共同声明後の「日中常駐記者交換に関する覚書」に引き継がれ、協定違反者は中国から国外退去処分を受けるなどの事件にもつながっている。

概要

1952年(昭和27年)、日本は台湾国民政府中華民国、首都は台北)との間で「日本国と中華民国との間の平和条約」(日華平和条約)を締結した。これにより、ともに中国における正統な政府であることを主張する台湾国民政府と、1949年(昭和24年)に建国を宣言した中国共産党政府(中華人民共和国、首都は北京)のうち、日本は台湾国民政府を正統な政府と認めて国交を結んだ。

その後、紆余曲折を経て、1962年(昭和37年)には、日本と中華人民共和国との間で「日中総合貿易に関する覚書」が交わされ、経済交流(いわゆるLT貿易)が行われるようになった。1964年(昭和39年)9月には、このLT貿易の枠組みの中で記者交換協定が結ばれ、読売新聞朝日新聞毎日新聞産経新聞日本経済新聞西日本新聞共同通信日本放送協会(NHK)・TBS(現:TBSテレビ、当時の東京放送)の9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐できることになった。

1968年(昭和43年)3月、LT貿易は計画の期限を迎えてあらたに覚書「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が交わされ、覚書貿易(MT貿易)へ移行した。このとき、記者枠を5人に減らすとともに、双方が「遵守されるべき原則」として「政治三原則」が明記された。「政治三原則」とは、周恩来・中華人民共和国首相をはじめとする中華人民共和国政府が、従来から主張してきた日中交渉において前提とする要求で、以下の三項目からなる

  1. 日本政府は中国を敵視してはならないこと[1]
  2. 米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しないこと。
  3. 中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げないこと。

この三項目のうち、2の項目は、台湾国民政府を正統の政府と認めないという意味で、最も大きな問題となった。中華人民共和国政府の外務省報道局は、各社の報道内容をチェックして、「政治三原則」に抵触すると判断した場合には抗議を行い、さらには記者追放の処置もとった。記者交換協定の改定に先立つ1967年(昭和42年)には、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の3社の記者が追放され、読売新聞と東京放送の記者は常駐資格を取り消されている。

なお、この1968年(昭和43年)の記者交換協定の改定は、北京で改定交渉に当たった田川誠一・衆議院議員らと中華人民共和国政府との間で「結論は一般には公表しない」ことが決められ、その内容も報道されなかった。この不明朗な措置は、後に「一部の評論家などから、日中記者交換協定が、中国への敵視政策をとらないという政治三原則に組み込まれ、報道の自由を失っているとの批判を招く」一因になったとされる[2]。また協定の存在自体により、中国に対する正しい報道がなされず、中国共産党に都合の良いプロパガンダしか報道されていないという批判もある。

1972年(昭和47年)の日中国交正常化により、記者交換協定は実務的な政府間協定へと移行した。さらに、2006年(平成18年)の改定により、記者枠も撤廃された。

1964年の協定

1964年(昭和39年)4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。会談の代表者は、松村謙三衆議院議員廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎岡崎嘉平太古井喜実大久保任晴が参加し、中国側から孫平化王暁雲が参加した。

記者交換に関する取り決めの内容は次の通り。

一 廖承志氏と松村謙三氏との会談の結果にもとづき、日中双方は新聞記者の交換を決定した。
二 記者交換に関する具体的な事務は、入国手続きを含めて廖承志事務所と高碕事務所を窓口として連絡し、処理する。
三 交換する新聞記者の人数は、それぞれ八人以内とし、一新聞社または通信社、放送局、テレビ局につき、一人の記者を派遣することを原則とする。必要な場合、双方は、各自の状況にもとづき、八人の枠の中で適切な訂正を加えることができる。
四 第一回の新聞記者の派遣は、一九六四年六月末に実現することをめどとする。
五 双方は、同時に新聞記者を交換する。
六 双方の新聞記者の相手国における一回の滞在期間は、一年以内とする。
七 双方は、相手方新聞記者の安全を保護するものとする。
八 双方は、相手側新聞記者の取材活動に便宜を与えるものとする。
九 双方の記者は駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を遵守するとともに、駐在国が外国新聞記者に与えるのと同じ待遇を受けるものとする。
十 双方は、相手側新聞記者の通信の自由を保障する。
十一 双方が本取り決めを実施する中で問題に出あった場合、廖承志事務所と高碕事務所が話し合いによって解決する。
十二 本会談メモは、中国文と日本文によって作成され、両国文は同等の効力をもつものとする。廖承志事務所と高碕事務所は、それぞれ中国文と日本文の本会談メモを一部ずつ保有する。
附属文書
 かねて周首相と松村氏との間に意見一致をみた両国友好親善に関する基本五原則、すなわち両国は政治の体制を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重して、相侵さないという原則を松村・廖承志会談において確認し、この原則のもとに記者交換を行なうものである。

1968年の修正

1968年(昭和43年)3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。この会談は、同年2月8日から3月6日までの間、松村謙三が派遣した日本日中覚書貿易事務所代表の古井喜実、岡崎嘉平太、田川誠一と中国中日備忘録貿易弁事処代表の劉希文、王暁雲、孫平化により、北京で行われた。

コミュニケの内容は、次の通り。

 双方は、日中両国は近隣であり、両国国民の間には伝統的な友情があると考え、日中両国国民の友好関係を増進し、両国関係の正常化を促進することは、日中両国国民の共通の願望にかなっているばかりでなく、アジアと世界の平和を守ることにも有益であると認めた。
 中国側は、われわれの間の関係を含む中日関係に存在する障害は、アメリカ帝国主義と日本当局の推し進めている中国敵視政策によってもたらされたものであると指摘した。
 日本側は、中国側の立場に対して深い理解を示し、今後このような障害を排除し、日中関係の正常化を促進するために更に努力をはらうことを表明した。
 中国側は、中日関係における政治三原則と政治経済不可分の原則を堅持することを重ねて強調した。日本側は、これに同意した。双方は、政治経済不可分の原則とは、政治と経済は切りはなすことが出来ず、互いに関連し、促進しあうものであり、政治関係の改善こそ経済関係の発展に役立つものであるとの考えであることを認めた。
 双方は、政治三原則と政治経済不可分の原則は、日中関係において遵守されるべき原則であり、われわれの間の関係における政治的基礎であると一致して確認し、上記の原則を遵守し、この政治的基礎を確保するためにひとつづき努力をはらう旨の決意を表明した。
 双方は、一九六八年度覚書貿易事項について取りきめを行なった。

また、同日、先に交わされた記者交換に関する取り決めの修正も合意された。修正内容は次の通り。

 一 双方は、記者交換に関するメモにもとづいて行われた新聞記者の相互交換は双方が一九六八年三月六日に発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し、日中両国民の相互理解と友好関係の増進に役立つべきものであると一致して確認した。
 二 双方は、記者交換に関する第三項に規定されている新聞記者交換の人数をそれぞれ八名以内からそれぞれ五名以内に改めることに一致して同意した。
 三 この取りきめ事項は記者交換に関するメモに対する補足と修正条項となるものとし、同等の効力を有する。
 四 この取りきめ事項は日本文、中国文によって作成され、両国文同等の効力を有する。日本日中覚書貿易事務所と中国中日備忘録貿易弁事処はそれぞれ日本文、中国文の本取りきめ事項を一部ずつ保有する。

この修正内容のうち、「会談コミュニケに示された原則」とは、会談コミュニケの中の「政治三原則と政治経済不可分の原則」を指す。「政治三原則」とは、1958年8月に訪中した社会党佐多忠隆参議院議員に対し、廖承志(当時、全国人民代表大会常務委員会委員)が周恩来・総理、陳毅・外交部長の代理として示した公式見解以来、中国側がたびたび主張してきた日中間の外交原則である。1960年8月27日に発表された「周恩来中国首相の対日貿易3原則に関する談話」によれば、「政治三原則」とは次のような内容である。

(前略)これまでわれわれがのべてきた政治三原則を堅持するもので三原則は決して日本政府に対する過酷な要求ではなく、非常に公正なものである。すなわち、第一に、日本政府は中国を敵視してはならないことである。なぜなら、中国政府は決して日本を敵視していないし、さらに、日本の存在を認めており、日本人民の発展をみてよろこんでいるからである。もし双方が話し合いをすすめるとすれば、当然日本政府を相手方とするものである。だが、日本政府は中国に対しこのような態度では臨んでいない。かれらは新中国の存在を認めず、これとは逆に、新中国を敵視し、台湾を承認し、台湾が中国を代表するとのべている。また日本政府は新中国政府を会談の相手方にしようとはしていない。第二は米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しないことである。米国で今後大統領が民主党から当選するにせよ、また共和党から当選するにせよ、すべて「二つの中国」をつくることをたくらむであろう。香港にある台湾系の新聞の報道によると、共和党の「二つの中国」をつくるたくらみは消極的で、待つて見ていようとするものであり、一方、民主党が政権をとれば、「二つの中国」をつくるたくらみが積極的であり、主動的であろうとのべている。これはある程度道理にかなっていると思う。米国がこのように行ない、日本がこれに追随すれば、われわれはもちろん反対である。第三は中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げないことである。(後略)

すなわち、

  1. 日本政府は中国を敵視してはならない
  2. 米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しない
  3. 中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない

の3点の遵守が取り決められた。

この政治三原則と政経不可分の原則に基づいて日中記者交換を維持しようとするもので[3][4]、当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも関わらず、対中関係を改善しようとする政府・自民党によって頭ごしに決められたという側面がある。[要出典]日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり[3][4]、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞読売新聞毎日新聞NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。[要出典]以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。[要出典]

この協定に関連する動きとして、文化大革命期に産経新聞を除く新聞各社は、中国当局からの台湾支局閉鎖の要求を呑んで中国に支局を開局したという経緯がある。[要出典]なお同社はこの協定そのものに反発しており、傘下のフジテレビ以下FNS各局、ニッポン放送を含めて中国からの要求に対し度々北京支局の閉鎖・特派員の引き上げという措置を断行している。[要出典] しかし「台湾支局閉鎖の要求を呑んで中国に支局を開局した」との上記の内容に反し、台湾には日本の報道各社の住所が現在も確認できる。[5]

日中両国政府間の記者交換に関する交換公文

1972年(昭和47年)9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。以後、日中関係は大きく進展する。1974年(昭和49年)1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、従来取り決められた記者交換覚書は1973年(昭和48年)末で失効することになった。このため、同協定が締結されたのと同じ日に、あらためて橋本在中国日本大使館参事官と王珍中国外文部新聞局副局長との間で「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」が交わされた[6]

国外退去処分

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂は、中国の壁新聞(街頭に張ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた[7] 。この時期は他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

1968年(昭和43年)6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に渡って拘留される(鮫島事件)。

1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した[8]」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。

2002年5月に発生した瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件(ハンミちゃん事件)のビデオ映像を、共同通信外信部が世界に対して報道。この事件後6ヶ月間、共同通信記者に対して中国から取材・報道ビザの発行が認められなくなった[9]。一般観光客として入国は出来たものの、入国記者はジャーナリスト身分の保障がない状態が続いた。

影響

日中記者交換協定は、しばしば日本のマスメディアの報道に影響を残していると指摘されることがある。指摘されるのは、報道における中国政府におもねり、偏向、つまり偏向報道である。事例としては南京大虐殺に関する朝日新聞の親中・反日的な性格などが問題視されることがこれまでにあった[10]

2009年ウイグル騒乱に関する日本の報道において「暴動」と表記されたことについて世界ウイグル会議日本ウイグル協会代表のイリハム・マハムティ[11]は「“暴動”というのは明らかに中国政府側に立った表現」だとし、「もし暴動という呼び方をするのであれば、日本のマスコミは現地に記者を派遣して徹底的に取材し、デモに参加したウイグル人たちが最初に暴力事件を起こしたという証拠を提示したうえでそう呼ぶべきでしょう。しかし実際には、現地でそんな詳細な調査・取材を行っている日本のマスコミは、テレビでも新聞でも一社もありません。にもかかわらずマスコミは、中国政府に都合の良い報道を毎日のように繰り返している」として痛烈に批判したうえで[12]、そのような日本のマスコミの態度の原因を1964年に中国政府と日本の大手マスコミとの間で締結された日中記者交換協定にあるのではないかとし、同協定のなかには「(日本人の記者は)中国政府に不利な言動を行わない・台湾独立を肯定しない」という取り決めが含まれていると指摘している[13]

また、元外交官佐藤優も「暴動」表記は中国共産党・政府側の立場に基づく表現と指摘し、中立的な観点から「騒擾」や「事件」と表記すべきとしている[14]。そのうえで、多くの新聞が当初「暴動」と報じた点を問題視しており、当初から「騒乱」と表記した『朝日新聞』に対しては「民族紛争に関する報道では、こういう細部への配慮が重要」[14]と評価している。一方で、「暴動」と表記し続ける『産経新聞』に対して「なぜ中国当局と同じ『暴動』という表現を用いるのか?」[14]と疑問を呈している。

脚注

  1. ^ 「周恩来总理关于促进中日关系的政治三原则和贸易三原则的谈话」 1960年8月27日 日中関係資料(中国語)
    "第一,日本政府不能敌视中国" (第一、日本政府は中国を敵視してはならない)で記述が始まっている。
  2. ^ 2010年2月1日付『朝日新聞』、「【検証・昭和報道】文革と日中復交 記者交換と政治三原則」。
  3. ^ a b 日中覚書貿易会談コミュニケ 1968年3月6日
    「中国側は,中日関係における政治三原則と政治経済不可分の原則を堅持することを重ねて強調した。日本側は,これに同意した。」
  4. ^ a b 記者交換に関するメモ修正取決 1968年3月6日
    「記者交換に関するメモにもとづいて行われた新聞記者の相互交換は双方が一九六八年三月六日に発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し」「記者交換に関するメモに対する補足と修正条項となるものとし,同等の効力を有する。」
  5. ^ 「台湾にある日本の新聞・メディア所在地」、2010年 台湾情報より。
  6. ^ 「昭和49年版わが外交の近況」(お)記者交換取極、外務省、1974年(昭和49年)。
  7. ^ 唸声日本/産経新聞・斎藤勉編集局長、大いに語る iZa 2007年9月24日
  8. ^ 読売新聞北京駐在記者に退去命令 China Online Magazines
  9. ^ 「NHKの正体」 p.137 青木直人筆 オークラ出版 ISBN 978-4775513873
  10. ^ 例えば片岡正巳「朝日新聞の中国へのおもねりが「南京大虐殺」を独り歩きさせた」SAPIO、小学館、1998年12月13日号他。
  11. ^ イリハム・マハムティ 『7.5ウイグル虐殺の真実 ウルムチで起こったことは、日本でも起こる』 宝島社〈宝島社新書 304〉、2010年1月
  12. ^ イリハム・マハムティ 『7.5ウイグル虐殺の真実 ウルムチで起こったことは、日本でも起こる』 宝島社〈宝島社新書 304〉、2010年1月,10-11頁
  13. ^ イリハム・マハムティ 『7.5ウイグル虐殺の真実 ウルムチで起こったことは、日本でも起こる』 宝島社〈宝島社新書 304〉、2010年1月,12-15頁
  14. ^ a b c 佐藤優「新聞の通信簿――虚報! 愚報! 誤報!――新疆ウイグル騒擾」『週刊現代』51巻29号、講談社2009年8月1日、145頁。

関連項目

外部リンク