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後楽園競輪場

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後楽園競輪場

航空写真に見る在りし日の後楽園競輪場。1974年撮影(写真中央付近、芝生の施設)。右隣の施設は、後楽園球場。競輪場は現在の東京ドームがあるところになる。左隣の緑地は小石川後楽園
基本情報
所在地 東京都文京区後楽1-3
開設 1949年(昭和24年)11月2日
閉場 1972年(昭和47年)10月29日(休止扱い)
所有者 株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム
施行者 東京都
走路 400m
特別競輪
競技名 日本選手権競輪
開催月 11月
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後楽園競輪場(こうらくえんけいりんじょう)は東京都文京区にかつてあった競輪場である。

概要

戦後福岡県小倉市(現北九州市)でスタートした競輪を戦後復興の一助にしようということで1949年東京都が主催して後楽園球場に隣接する場所に都内初の競輪場を開設。同年11月からレースを開催し、一般の競輪レース(9車立て)より3人多い12車立てで開催するユニークな経営方針を取り入れたことで人気を集めた。

1958年1月の開催では、一開催の入場者数が約27万人を記録するなど、全国一の売り上げを誇った。また、コースの内側にはグラウンドが設置されており、オリンピック予選を始めとするサッカー日本代表の試合が開催されたり、ボクシングプロレスの興行、1958年には全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)が開かれたこともあった(同イベントは翌1959年~1987年まで晴海東京国際見本市会場で開催)。

しかし1967年に東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにし、それに則って1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている。ちなみに京王閣競輪場は都営が廃止された今日も競輪の開催を調布市など周辺市に主催を移譲して開催している)。

競輪場としての使命を終えた同施設は後楽園球場を経営する後楽園スタジアム(現在の東京ドーム)によって「後楽園ジャンボプール」として改装され、場内にはスタンドを利用したゴルフ練習場も併設された。

その後、当地には1988年日本初の屋根付き野球場である東京ドームが建設されており、これまでに球場を舞台として競輪のレースを復活させようとする動きが再三出ている。しかし、競輪の復活に対する文京区や周辺住民の強い反対があり、現在のところ実現できる見通しは立っていない。

なお、東京ドームには建設当初より競輪の開催に対応させていて、組み立て式トラック(バンク)も設置されており、年に1回ほど自転車競技のイベントなどの際に設営される。このことから2016年東京オリンピックが開催される場合、自転車競技のトラックレース部門はこのバンクが使用される予定であったが、開催時期などの関係から大井ふ頭中央海浜公園内に仮設の自転車競技場を設営する計画に変更された。(結果は招致失敗となった)

エピソード

  • 2000年SPEEDチャンネルで放送された、『名選手列伝・吉田実』によると、1960年11月3日の全国争覇競輪(現在の日本選手権競輪)決勝日には、推定7〜8万人の入場者があったため、スタンド内に押し込まれて身動きが取れなくなった約1500名のファンが、途中から金網を上ってバンク内へと入り込み、決勝戦は、観客をバンク内に入れたまま行うという異常事態の中で行われた。この事例により、主催者だった東京都は、翌1961年の全国争覇競輪の開催が既に決定していたにもかかわらず、警備が困難という理由から開催を返上。加えて代替地に名乗りを挙げる施行者も現れなかったことから、同大会は1963年3月に一宮競輪場で行われるまで開催できなかった。

関連項目

  • 続・若い季節 - オープニング、この場所で「若いきせつ」と、人文字でタイトルが構成された。