市川中学校・高等学校
市川中学校・高等学校 | |
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過去の名称 | 市川中学校(旧制) |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人市川学園 |
理念 |
個性の尊重 自主自立 独自無双の人間観 よく見れば精神 第三教育 |
設立年月日 | 1937年 |
創立記念日 | 4月15日 |
創立者 | 古賀米吉 |
共学・別学 | 男女共学 |
中高一貫教育 | 併設型 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 3学期制 |
高校コード | 12506H |
所在地 | 〒272-0816 |
外部リンク | 公式サイト |
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市川中学校・高等学校(いちかわちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、千葉県市川市本北方二丁目にある、学校法人市川学園が経営する男女共学の私立中高一貫校である。2009年度文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受けた。
概要
1937年(昭和12年)、教育者で東京府立四中教諭・主任であった古賀米吉が市川市八幡字新田(現:東菅野四丁目)に旧制中学校として市川中学校を開校させたことに始まる。戦後、旧制中学校が新制の高等学校に移行するとともに中学校が併設された。
創立以来およそ70年間男子校であったが、2003年(平成15年)本北方への高校・中学校舎の移転に伴い、中学の共学化を開始、その第一期生が高校に進学する2006年(平成18年)年からは高校の共学化も実施された。略称が公立校と勘違いもされるが、「市川」、「市学」などである。なお、学校法人としては、市川高等学校・中学校の他に3ヶ所の幼稚園を経営している。
沿革
- 1937年(昭和12年) 学校法人市川学園設立。市川中学校(旧制中学)を開校(なお、初代校長として七博士建白事件で知られる中村進午を招聘している(~1938年))開校時の新入生はわずか32名であった。
- 1941年-1946年 臼井町の明倫中学廃校に伴う、同校生徒の救済の為の八幡中学校を併設。
- 1948年(昭和23年) 学制改革により、市川高等学校に移行され、同時に中学校(新制中学)が併設される。
- 2003年(平成15年) 校舎移転に伴い中学が共学となる。
- 2004年(平成16年) 日本で初めて中学入試が幕張メッセで行われる。
- 2006年(平成18年) 高校が共学化される。
- 2009年(平成21年) 文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受ける。
教育方針・校風
市川学園の教育方針は「個性の尊重」と「自主自立」である。
これを実現するために
- 「独自無双の人間観」
- 「よく見れば精神」
- 「第三教育」
という三本柱を立てている。
ちなみに「第三教育」とは、自分で自身を教育するということである。また、こういった教育方針は自由主義的な校風を念頭に置いたものである。
年度始めには全員にシラバス(授業計画)が配布され、生徒が学習の流れをつかみやすいように工夫されている。
創設者 古賀米吉
1891年(明治24年)福岡県三井郡三国村に生まれる。9歳で父を失い、貧乏な母子家庭に育つ。旧制中学では野球部主将、剣道部大将など文武の道に励んだ。1915年(大正4年)福岡師範学校卒業。その後、経済的理由で上級学校に進めず、小学校教師として教える傍ら、学資を貯めて苦学する生活が続いた。
27歳で上京し、1922年(大正11年)東京外国語学校英語科卒業。その後、府立四中(現・都立戸山高校)の英語教師・主任として多くの生徒を旧制第一高等学校などの旧制高校へ送り込んだ。当時の府立四中は「天下の一中」と言われていた府立一中に肉迫あるいは凌駕する進学実績を挙げ、全盛期ともいえる時期だった。その間、自身も苦学し、1930年(昭和5年)東京帝国大学文学部社会学科卒業。卒業後、2年間ロンドン大学に留学。
イギリスで見たパブリックスクールの紳士教育を理想として1937年(昭和12年)に旧制市川中学校を創設した。以後、長く校長を務め、県下有数の進学校へと大きく発展させた。私学の振興・発展に対する永きにわたる功労が認められ、藍綬褒章、勲四等瑞宝章、従五位勲四等旭日小綬章。1983年(昭和58年)死去。享年92。
現在の理事長である古賀正一は1936年、東京生まれ。市川中・高を経て東京大学工学部卒業。1959年、東芝に入社。米国駐在、部長、常務、専務などを経て、1996年に代表取締役副社長に就任。副社長在任中には、東芝パソコン訴訟事件、東芝クレーマー事件などにも対処してきた。2001年、取締役を退任し、現在に至る。
制服
男子の制服は黒の詰襟で、黒ボタンが特徴である。黒ボタンは旧制中学時代からの伝統で、市川学園の校章である耳章がかたどられている。黒地に黒ボタンの制服は見た目が真っ黒で離れたところから見てもかなり目立つ。なお開成中学校・高校も黒地に黒ボタンの詰襟であるが、これは全くの偶然である。
ちなみに旧制第一高等学校の制服も黒ボタンであったため、両校ともそれを模した可能性もある。
入試・進路
県内有数の進学校として知られる。千葉県内の高校が次々と共学化していくところが多い中、男子校を貫き通したが、新校舎に移転、共学化に移行した結果、偏差値は再上昇した。東大などの合格者数の増加に力を入れている。しかし、現役進学率は毎年増加しているものの、東大の合格者については目立った効果は今のところ見られない。
進路実績
大学名 | 2007年 | 2008年 | 2009年 | 2010年 | 2011年 |
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東京大学 | 3名 | 5名 | 2名 | 4名 | 3名 |
京都大学 | 0名 | 3名 | 0名 | 1名 | 1名 |
一橋大学 | 2名 | 2名 | 1名 | 1名 | 2名 |
東京工業大学 | 2名 | 5名 | 4名 | 3名 | 6名 |
東北大学 | 1名 | 3名 | 2名 | 0名 | 0名 |
千葉大学 | 9名 | 7名 | 18名 | 22名 | 20名 |
筑波大学 | 5名 | 5名 | 7名 | 9名 | 5名 |
慶應義塾大学 | 32名 | 34名 | 27名 | 44名 | 45名 |
早稲田大学 | 62名 | 79名 | 74名 | 96名 | 129名 |
上智大学 | 23名 | 22名 | 32名 | 29名 | 49名 |
東京理科大学 | 75名 | 44名 | 70名 | 87名 | 87名 |
明治大学 | 76名 | 72名 | 74名 | 99名 | 121名 |
(学校側の資料による)
出身者
- 高橋英樹(俳優)
- 鹿内孝(俳優)
- 周防郁雄(バーニングプロダクション社長)
- 川村龍夫(ケイダッシュ会長)
- 横塚孝弘(東映プロデューサー)
- えびはら武司(漫画家)
- 平渡淳一(インターブレインズ社長)
- 皆川ゆか(作家)
- 綱本将也(漫画家)
- 村越祐民(衆議院議員・民主党)
- 百瀬博教(作家)
- 三遊亭楽麻呂(落語家)
- 岩佐吉章(元陸上競技選手。県大会(1981年)、1500m・5000m・1500m障害の3種目優勝。南関東大会(1981年)、1500m・5000m・1500m障害の3種目優勝により市川高校、団体優勝。横浜インターハイ(1981年)、1500m優勝、5000m優勝により瀬古利彦以来のインターハイ中長距離三冠挑戦者となるも最後の1500m障害で6着。瀬古利彦同様、惜しくも三冠を逃す。順天堂大学の選手として箱根駅伝区間賞2回(1985年3区、1986年3区)
- 三遊亭遊雀(落語家)
- 後藤忠治(セントラルスポーツ社長)
- 佐戸井けん太(俳優)
- 臼井正一(元千葉県県議会議員)
- 臼井正人 (千葉県議会議員)
- 高橋義夫(直木賞作家)
- 古賀正一(市川学園理事長・元東芝副社長)
- 吉越浩一郎(トリンプ・インターナショナル・ジャパン前社長)
- 土屋孝博 (熊本朝日放送アナウンサー)
- 千家和也(作詞家、作家)
- 大野ケイスケ(放送作家)
- 長富祐一郎(元大蔵省関税局長、大平総理首席補佐官 / 転入、高校は日比谷高へ)
- 中野隆良(元中央競馬調教師)
- 吉井祥博(テレビ神奈川アナウンサー)
- 星野順一郎(現我孫子市長)
- 大西啓介(ナビタイムジャパン社長兼CEO)
- 駒崎弘樹(社会起業家、NPO法人フローレンス代表理事)