コンテンツにスキップ

大西瀧治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。RedBot (会話 | 投稿記録) による 2012年4月17日 (火) 19:20個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.2) (ロボットによる 追加: it:Takijirō Ōnishi)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

大西 瀧治郎
1891年6月2日 - 1945年8月16日
[[ファイル:
|200px]]
海軍中将 大西瀧治郎
生誕 兵庫県氷上郡芦田村
死没 東京
軍歴 1912 - 1945
最終階級 海軍中将
指揮 第十一航空艦隊参謀長
第一航空艦隊司令長官
軍令部次長
戦闘 太平洋戦争
テンプレートを表示

大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、1891年6月2日 - 1945年8月16日)は旧日本海軍軍人。最終階級は海軍中将兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)出身。海軍兵学校第40期生。「特攻生みの親」と言われるが議論の余地がある。

生涯

幼い頃より、日露戦争軍神広瀬武夫に憧れて海軍を志し、旧制柏原中学校を卒業後、海軍兵学校へ入学した。海兵40期[注 1]を150人中20位の成績で卒業。兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、砲術学校、水雷学校を経て1916年横須賀航空隊付きで航空へ進む。1918年(大正7年)にはイギリスへ留学、帰国後の1921年(大正10年)、海兵40期同期の千田貞敏吉良俊一らと共に選抜され、センピル教育団の講習に参加した。その後は海軍航空隊の養成に尽力した。

大西は当時流行した戦闘機無用論を支持したが、検証にも努めた。1937年4月佐世保鎮守府で96式陸攻と96式艦戦の防空演習を行い、攻撃機側が勝利する結果となった。[1]大西が横須賀航空隊副長兼教頭の時、柴田武雄に「僕に戦闘機はいらない、援護戦闘機こそ要らない」と語っている。[2]

1937年8月21日、海軍航空本部参謀大佐として日中戦争中の最前線に赴き、九六式陸上攻撃機6機による中国軍飛行場夜間爆撃に参加[3]。ところが中国軍戦闘機に迎撃されてしまい、陸攻4機が撃墜された。大西は指揮官機に搭乗しており、かろうじて生還した[4]。現場では偵察のミスや不用意な行動で敵に発見され警戒をとらせ、中型攻撃機奇襲も敵監視網を通り白昼強襲を繰り返したため戦闘機無用論の思想もあったが、軍令部教育部長大西は中攻で戦闘機を狩るというのが間違いで本末転倒と意見するが戸塚にはねつけられる。[5]

太平洋戦争

1941年1月14日ごろ連合艦隊司令長官山本五十六から第十一航空艦隊参謀長の大西へ手紙を受け取り、1月26日、27日ごろ大西は長門の山本を訪ねる。[6] 山本から大西が受け取った手紙の要旨は「日米開戦は国際情勢いかんであり、そのときは思い切った戦法とらねば勝ちを制しえない。海戦劈頭にハワイ方面の米艦隊主力に全航空攻撃をし当分西太平洋進行を不可能にする。目標の米艦隊群への攻撃は片道の雷撃攻撃とし自ら指揮し全力でやるつもりなので研究を求む。」といったものであった。[7]

真珠湾航空攻撃案を求められた大西は鹿屋司令部に戻り前田孝成に詳細を伏せて真珠湾での艦隊雷撃の可能性を聞くが真珠湾は浅いため技術的に不可能だと言われる。[8] 2月初旬源田実を呼びつけ中旬に訪れた源田に大西は山本からの手紙を見せ同様の質問をする.源田から「雷撃は専門ではないから分かりかねるが研究あれば困難でも不可能ではない、できなくても致命傷を与えることを考えるべき。空母に絞れば急降下爆撃で十分。問題は接近行動にある。」という回答がある。[9]また大西は機密保持を第一にしたいとし攻撃は成果が確認できる昼がいいと考えを述べる。[10] 大西は源田に作戦計画案を早急に作るよう依頼し源田は2週間ほどで仕上げ提出しそれに大西が手を加え作案し3月初旬ごろ山本に提出する。[11]

源田案は往復攻撃とし出発基地を父島か厚岸にし、空母を200里まで近づけ攻撃といったものであった。[12] 二案あり1つは雷撃可能な時艦攻を全力雷撃、艦爆で共同攻撃。もう1つは雷撃不可能であれば艦攻全て降ろし全て艦爆にする。戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し使用母艦は第一航空戦隊、第2航空戦隊の全力と第4航空戦隊を使う。航路は北方から進攻する。[13]急降下爆撃としており主目標を空母、戦艦を副目標とした。[14]源田によれば素案の素案程度のものでどの程度参考にしたかは知らないという。[15] 大西は戦艦に艦攻の水平爆撃で当たると代え出発を単冠湾として案をまとめて山本に提出。[16] 9月ごろ源田が大西から参考のため手渡されたものは雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず小爆弾を多数搭載し補助艦艇に攻撃を加え戦艦に致命傷なくても行動できなくするようにするとなっていたという。[17]

しかし1941年9月24日軍令部において大西は草鹿龍之介の真珠湾攻撃への悲観論に同調しており、10月初旬には二人で山本にフィリピン作戦に支援すべきと具申するが大西は黒島亀人に説かれる。[18] 吉岡忠一によれば大西は「日本では武力でアメリカを屈服させる事が出来ないので早期戦争終結を考え長期を避け真珠湾攻撃のような刺激する作戦は避けるべき」と言っていたという。[19]山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲は断行する。無理もあるが積極的に考えて準備するように。投機的と言わずに君たちにも一理あるが僕のも研究してくれ。」と説得した。[20]

提出案で真珠湾攻撃の際は湾内の深度が浅すぎて魚雷攻撃が困難なため雷撃を断念し、爆撃のみによる攻撃を行うものであったがこれに対して山本は不満を示したといわれる。そこで、雷撃を併用する案に改めた上で大西は海軍兵学校同期であった軍令部第一部(作戦部)部長福留繁少将にその案を示し、作戦の実行を依頼した。その後、諸問題の解決や軍令部への説得により作戦が実行され、成功を収めた。

1945年5月、大西は海軍軍令部次長に起用された。 大西は軍令部着任後は機帆船での逆上陸構想を推進していた。富岡によれば軍令部では大西だけが熱心であったという。[21] 大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という二千万特攻論を唱えて豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を訴えた。

8月9日大西は最高戦争指導会議に現れ、後日米内光政海軍省大臣に「招かれもせぬのに不謹慎な態度で入ってくるのはみっともない、意見なら大臣に申し出ろ」と言われる。大西は涙を流し首をうなだれていた。[22]

自決

1945年8月16日大西は遺書を残し自刃した。「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して割腹自決。遺書には自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭している。[23]

自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受けることすら拒み、特攻隊員にわびるために夜半から未明にかけて半日以上苦しんで死んだという。享年54。

辞世の句として友人増谷麟へ「すがすがし 暴風のあと 月清し」と読み[24]、また「これでよし 百万年の 仮寝かな」という辞世の句もある。

終戦時の割腹自決の後、特攻隊員の犠牲者の名簿にも、大西の名が刻まれた。

終戦時の連合艦隊司令長官であった小沢治三郎は、大西の自決行為に関し、最後の特攻機に搭乗して戦死した宇垣纏と共に名前を挙げ、「皆がそうやっていたら、一体誰がこの戦争の責任を取るんだ」と批判的な発言をしている(詳しくは、小沢治三郎の項目を参照のこと)

特攻

大西瀧治郎は神風特別攻撃隊の提唱者である。[25]しかしそれ以外の特攻は既にこれ以前に別の動きとして計画されている。[26]

上記の事情より特攻の生みの親という表現に疑問の声がある。

杉山利一は大西から特攻の決意を聞き大西自ら真っ先に体当たりするだろうと直感したという。[27]源田実は大西の立場に立たされば、山本五十六山口多聞も同じことをやったろうし彼ら自身が特攻機に乗って出撃しただろうそれが海軍軍人であるとしている。[28]吉松正博は第一航空艦隊長官のこの人選は場合によっては特攻もやむを得ないとする中央が航空関係者から人望のある大西が適任と考えたのだろうとしている。[29]猪口力平によれば大西は特攻を送り出しているとき「これは統率の外道だよ」と言っていたという。[30] また美濃部正(夜間攻撃部隊論者)には特攻を命令せず夜襲を容認していた。[31]

大西は厳しい戦況であるため何もできずに死んでいくよりは戦果を確信して死ねる特攻は大愛、大慈悲であると言っていたという。[32] 大西は特攻が始まる当時よく「青年の純、神風を起こす」と筆を揮っていた。[33]門司に「棺を覆うて定まらず百年の後知己を得ないかもしれない。」と漏らしていたという。[34]


角田和男が上官より聞かされたという大西が神風特別攻撃隊に踏み切った理由は「軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っておりもう戦争を終わらせるべきだと考え講和を結ぶ必要を思う。しかし戦況も悪く資材もない現状一刻も早くなければならないため一撃レイテで反撃し講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。またこの犠牲の歴史が日本を再興するだろう。」といったものであったという。[35] 戦後は大西が特攻を行うには上層部の承認や指揮官の協力があったはずなのに全て責任が大西に押し付けられていると言うものもいる。[36]

神風特別攻撃隊

神風特別攻撃隊城英一郎が考案した特殊航空隊編成の構想からきているとされる。1943年6月29日に城から大西に上申されるも「意見は了解したがまだその時期ではない」と答えている。[37]

しかし大西が軍需局総務局長であるときにダバオ誤報事件ゼブ事件などで第一航空艦隊の航空機が数十機と落ち込むと「なんとか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない」と軍需局で周囲に語っていたという。[38]この他岡村基春からも特攻専用機の開発要請などの声も大西に寄せられていた。[39]

第一航空艦隊司令長官に内定した大西は出発前に海軍省米内光政大臣にフィリピンで特攻を行う決意を伝える。[40]また1944年10月8日及川古志郎軍令部総長に対し特攻を行う決意を述べ了承を取り付ける。及川は命令ではないように念を押す。寺井義守によればこの時大西は中央からは決して指示しないように念を押したという。[41] また杉山利一源田実豊田副武多田武雄などにも特攻の決意や必要性を話す。豊田に対し「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語る。[42]

大西が出発前に既に源田実や人事局主務者などに発表方法と部隊名を打ち合わせていたと思われる電文が存在する。[注 2][43] また1944年10月18日に前任者である寺岡謹平にも特攻戦術、発表方法、募集方法などの構想について相談している。[44] 一方で大西の副官であった門司親徳によれば少なくとも台湾沖航空戦以前では被害や戦果の影響が出るため編成や攻撃目標などまで決定していたということはありえないという。[45]

寺岡から一任され1944年10月19日マニラ艦隊司令部にクラーク基地761空司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐とマバラカット基地第201空司令山本栄大佐及び飛行長中島正少佐を呼び特攻の意向を伝えることにするが、前田、庄司は到着したが山本、中島は入れ違いとなった。[46] 19日夜マバラカット基地に到着した大西は玉井浅一猪口力平などに神風特別攻撃隊の構想を語る。敵空母の甲板を一週間ほど使用不能にすることが特攻の目的だった。[47]玉井は猶予を請い飛行隊長指宿正信と意見を交わし編成に関しては航空隊側に一切委ねてくれるよう要望し、大西が許可する。[48]

1944年10月20日神風特別攻撃隊の隊名を付し、編成なども発表され大西による訓示が行われる。[49]10月21日大西は特攻で空母の甲板撃破の時間的余裕を得るため三川軍一に協議しに行くが25日で行動予定を組んでいるため変更は困難と断られる。22日福留繁に第二航空艦隊も特攻を採用するよう説得するが失敗する。第一航空艦隊特攻戦果が出た25日に第二航空艦隊も特攻を採用する。[50] 特攻成功後大西は福留を説得し第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成され福留が指揮官、大西が参謀長を務める。[51]10月27日には大西によって神風特別攻撃隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、航空本部など中央に通達される。[52]

特攻を見送った1944年10月27日大西は猪口に「城が言っていたが現場で決心がついた。こんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ。」[53] 大西は特攻隊員の心構えを厳粛にするため特別待遇を禁じ、他の勝手な特攻も禁じた。猪口力平によれば強引な大西への批判に「今後俺の作戦指導に対し批判は許さん」としたという。[54]

1944年11月16日福留繁が特攻の必要と増援の意見具申電(1GFGB機密第16145番電)を発する。大川内中将も同旨だとして大西を上京して説明すると打電。11月18日大西は猪口力平を伴い日吉司令部で豊田副武に状況報告をし軍令部で及川古志郎軍令部総長に改めて趣旨を説明し「増勢しつつ現兵力でレイテ作戦の対機動部隊作戦を続行し、別の新攻略作戦に充当兵力がほしい。練習航空隊から200機は抽出できるはずで敵来攻時に北部台湾備え待機させる。ここ1~2週間が重大な時期。」と増援を要望する。軍令部と海軍省の協議で180機抽出可能だが犠牲に見合う戦果があるのか疑問があり練習航空隊は影響をより小さく抑え練成中の桜花隊の進出を待った方がいいという結果になり練習航空隊から零戦150機の抽出が決定されている。[55]

航空主兵

大西は開戦以前から山本五十六に次ぐ日本航空の大立物であった。[56] 大西は1935年戦艦大和、武蔵の製造に関し一方を廃止し五万トン以下にすれば空母が三つ作れると主張し、1937年には「航空軍備に関する研究」も提出している。[57] また福留繁に大和1つの建造費で千機の戦闘機ができると主張し今すぐ建造を中止するように要望している。[58]

人物

大西は腹の据わった押しの強い闘志満々の士と評判であり、常に陣頭に立ち下から慕われ、また大西も可愛がっていた。[59] 智勇に優れた山本五十六と似た気風を持っていた。机上の空論や口先だけの人か実力あり腹据わり信頼置けるかが好き嫌いの基準であったという。[60]

海軍兵学校の同期には宇垣纏・山口多聞がいる。運動神経に優れまた非常にけんかが強かった。棒倒し競技の際には山口と組んで大暴れしたという。山口とは後々まで仲が良かったが、こと作戦に関しては譲らず、意見を戦わせた。

酒好きでもあり、飲酒による武勇伝もある。その一つに、酒のために海軍大学校の入試を不合格になったというものもある。学科試験をパスし口頭試問に臨んだが、当日になって「大西は出頭するに及ばず」と受験できなかった。理由は「素行不良」であった。大西はその数日前に料亭で飲んだ際に暴れ、芸者を殴っていた。いわゆる軍港芸者であれば飲んで暴れる海軍士官の扱いに慣れているのだが、このときの芸者は横須賀に来て間もないこともあって、あしらうことができなかった。彼女はこの件を憲兵隊に訴え、さらに主人が「海軍士官の暴力事件」として地元の新聞に記事にさせた。そのため入試候補の取り消しとなった。海軍大学校の受験は三回までに制限されており、大西はこのときが三回目であった。

大西は36歳のときに少佐で結婚しているが、晩婚の理由を伝記刊行会編の「大西瀧治郎伝」では「兵学校同期の航空学生15名のうち1/3が平時の飛行で殉職し、残りも二度三度の事故に遭遇している。そのため嫁を探しても無駄だと独身を通そうと考える者が多かった。大西などは結婚適齢期をそのような事情のために、いわばやむなく空白で過ごしたわけである」としている。

夫人である松見嘉子とは見合い結婚であった。引き合わせたのは佐世保海軍工廠人事部長・井上四郎中佐(のちに少将)。嘉子夫人の姉久栄が笹井賢二造兵大尉に嫁ぎ、佐世保の官舎に住んでおり、懇意にしていた井上の妻に妹の縁談相手の紹介を頼んだのがきっかけである。松見家は一橋家の御典医の家系で、父文平は一橋大学の創立者にして府会議員であり、教育界や政界にも知られる名家であった。見合いは海軍士官にも贔屓にされる佐世保の一流料亭、万松楼で行われたが、まだ結婚したくなかった大西は、席をめちゃくちゃにして相手に嫌われ、破談にしてやろうと考えた。当日、大酒を飲んで泥酔した上に褌姿で芸者を連れて見合いの席に現れた大西は、踊ったり卑猥な言葉を浴びせたりと暴れ、目の上の負傷を嘉子に「軍務上のお怪我ですか?」と尋ねられた際、「先夜、上のほうから拳骨らしきものが降ってきましてなあ」と答えたりもした。しかし、その姿をじっと見ていた嘉子の母親が、思惑とは逆に大西の傍若無人で飾り気のない人柄を非常に気に入り、「海軍軍人としてあっぱれな振舞い、このような豪傑に娘を嫁がせたい」と嘉子に強く結婚を促し、信頼をもって嫁がせたというエピソードが残っている。

終戦も近い頃、内閣書記官長迫水久常が書記官室で執務をしていた時、不意に大西が来訪してきた。当時の大西は和平反対論者として様々な妨害工作を行っていた。迫水も自分を脅迫しに来たのだろうと構えていたが、大西は席に座るなり訥々(とつとつ)としゃべりだし、「我々は今回の戦いにおいて劣勢を覆すべく、様々な努力をしてきた。しかし、やることなすこと全て誤算と敵に裏をかかれる失態をさらすだけの結果となり…挙句そのつけを若い人達、国民に強いている。……我々は甘かった。本当に甘かった…。」と苦悶の表情を浮べながら話、最後に「……何か良い考えはないですか……。」と静かに半ば憔悴(しょうすい)しきった顔になって部屋を出て行った。それから2ヶ月後、割腹自決を遂げた。

親族には甥である「ラバウルのリヒトホーフェン」と呼ばれた笹井醇一がいる。

2000年(平成12年)、鶴見総持寺の大西中将の墓所に、「遺書の碑」が建てられた。発起人であり、副官でもあった門司親徳(もじ ちかのり)の念願により、命日である8月16日に除幕式が催された。

演じた人物

注釈

  1. ^ 海兵同期に、多田武雄宇垣纏山口多聞
  2. ^ 大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信担当中澤佑、起案担当源田実、「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見添え書き

脚注

  1. ^ 碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』光人社2000年103頁
  2. ^ 碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』光人社2000年157頁
  3. ^ 中山雅洋『中国的天空 (上)』203頁
  4. ^ 中山雅洋『中国的天空 (上)』208頁
  5. ^ 森史郎『零戦の誕生』光人社91-92頁
  6. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101-103頁
  7. ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年11-13頁
  8. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101-103頁
  9. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101-103頁、源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年17-18頁
  10. ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年17-18頁
  11. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101-103頁
  12. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁
  13. ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁
  14. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁、源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁
  15. ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁
  16. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁
  17. ^ 源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁
  18. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫107-108頁
  19. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦109頁
  20. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦110頁
  21. ^ 戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 296-297頁
  22. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 472-473頁
  23. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 475頁
  24. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社174頁
  25. ^ 戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 705頁
  26. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁
  27. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁
  28. ^ 源田実『海軍航空隊始末記戦闘編』p253
  29. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 109頁
  30. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人NF文庫p179-180
  31. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社172頁
  32. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社173頁、源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年103頁
  33. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社170頁
  34. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社172頁
  35. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコp197-199
  36. ^ 別冊宝島編集部『特攻、特別攻撃隊』宝島社16-18頁
  37. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322-324頁
  38. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』26-27頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁
  39. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p78
  40. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p224
  41. ^ 戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 705頁
  42. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-503頁
  43. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁
  44. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p503-504
  45. ^ 神立尚紀『特攻の真意』p126-127
  46. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 110頁
  47. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社41頁
  48. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 111頁
  49. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 114頁
  50. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p504
  51. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p155-159
  52. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p161-163
  53. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社93-94頁
  54. ^ 戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 706頁
  55. ^ 戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 90-91頁
  56. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社41頁
  57. ^ 中田整一『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社84-85頁
  58. ^ 森史郎『零戦の誕生』光人社53頁
  59. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社169頁
  60. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社170頁

参考資料

外部リンク