久島海啓太

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久島海 啓太(年寄名:田子ノ浦 啓人)
基礎情報
四股名 久島海 啓太
本名 久嶋 啓太
生年月日 (1965-08-06) 1965年8月6日
没年月日 (2012-02-13) 2012年2月13日(46歳没)
出身 和歌山県新宮市
身長 187cm
体重 201kg
BMI 57.48
所属部屋 出羽海部屋田子ノ浦部屋
得意技 右四つ、寄り、極め出し小手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位前頭筆頭
生涯戦歴 462勝442敗15休(65場所)
幕内戦歴 237勝273敗15休(35場所)
優勝 十両優勝3回
敢闘賞2回
データ
初土俵 1988年1月場所
入幕 1989年7月場所
引退 1998年9月場所
引退後 年寄
備考
金星2個(北勝海1個、旭富士1個)
2008年12月27日現在

久島海 啓太(くしまうみ けいた、本名:久嶋 啓太〈くしま けいた〉、1965年8月6日 - 2012年2月13日)は、和歌山県新宮市出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士。最高位は東前頭筆頭。身長187cm、体重201kg。得意手は右四つ、寄り、極め出し小手投げ、血液型はAB型。

来歴

相撲好きの父親の影響で4歳の頃から相撲を始める。新宮高校に進学した時には既に身長186cm、体重160kgという堂々たる体格で、3年連続で高校横綱、しかも3年生の時には高校生では史上初となるアマチュア横綱まで獲得し、怪物の名をほしいままにした。高卒後、角界入りに期待がかかったが、かねてから教師志望であったこともあり日本大学に進学。日大入学後も3年連続で学生横綱を獲得するなど史上最多の28個のタイトルを獲得した。当初は「プロへは行かない」と明言しており、教育職に就くかも悩み抜いた末、後に鳴り物入りで出羽海部屋に入門。1988年1月場所、『久嶋』の四股名幕下60枚目格付出初土俵を踏んだ。

幕下でややもたついたものの負け越しなしで1989年3月場所に十両に昇進。このとき四股名も『久島海』に改名した。同年7月場所には新入幕。アマチュア時代の実績から将来を嘱望された存在だったが、立合い、出足共に鋭さを欠き、腰高でかつ脇が甘く受け身になり易いなど、200kgを超える巨躯を活かした前に出る相撲に開花することはついになかった。そのため強引に相手を引っ張り込んで、小手に振る相撲でしか勝ちパターンを確立できず、プロ入り当時「末は横綱大関間違いなし」と期待されたものの、それどころか三役関脇小結)にすらも昇進を果たさずに終わることになる。特に前頭2枚目の地位で迎えた1993年3月場所では旭道山張り手を喰らって膝を痛め途中休場の負け越し(7勝7敗1休)、三役へ昇進する大きな機会を逃してしまった。

晩年は十両に陥落していたが、それでも1998年3月場所には3回目の十両優勝を果たすなど意地を見せつけたが、特に十両陥落後、上位筆頭~3枚目前後に在位していた1995年以降は、東筆頭で勝ち越しながら、入幕できない場所があるなど幕内下位力士の陥落者が希少であったことから、なかなか幕内に返り咲けなかった。また、現役最終場所の1998年9月場所では4勝11敗と大きく負け越すも、西十両5枚目で通常であれば陥落を免れるはずが、幕下上位が軒並み好成績でかつ十両下位の負け越し力士が居なかったため、翌場所の番付発表で東幕下筆頭に陥落(平成に入り十両6枚目以上で、4勝以上の成績を残しながら幕下に陥落した力士は久島海だけ)して現役引退を決意するなど、番付運に恵まれなかった面もある。厳しい力士人生であったがその中でもガチンコ相撲を貫いたと言われており、八百長疑惑や八百長騒動とは徹頭徹尾無縁の人であった。

1998年11月場所前に引退し、準年寄・久島海を経て年寄・田子ノ浦を襲名。2000年1月場所後に出羽海部屋から分家独立して田子ノ浦部屋を設立し、後進の指導に当たった。2006年から死去まで勝負審判を務めた。その他、弟子を連れて各地の小学校や幼稚園への地道な訪問を続けて、相撲の普及にも努めていた。[1]

2003年、急性心筋梗塞で倒れ緊急入院。この時は生命に別状はなく、退院後すぐに復帰となる。しかし、これをきっかけに健康管理を徹底して行い、80kg以上も大減量している。この大病などもあり、健康管理の必要性も感じたことから親方自身、料理に興味を持つようになり、講談社の雑誌『おとなの週末』にて料理コーナーの連載を持ったり、レシピ本を出版するなど多彩な一面も持っていた。

しかしそれから9年後の2012年2月13日午後、東京都江東区田子ノ浦部屋で家族と居た時に突然昏倒し、意識不明の重体となる。心肺停止の状態で病院へ救急搬送され、懸命の蘇生処置が行われたが、同日16時37分に死去した[2]。46歳没。当初死因が特定されなかったが、その後虚血性心不全と発表され、血を吐いたとされる原因は倒れた際に唇を切った事による出血であったという[3]。なお晩年は年寄会の副会長を務めていたが、その生真面目な性格ゆえに、年寄名跡問題に揺れる角界の中でかなりの心労があったのではないか、という見方は親方衆の中にも多く存在している。[1]
戒名は誠徳院啓優太善居士。

エピソード

  • 1992年11月場所初日、西前頭2枚目の地位だった久島海は、前9月場所西小結で14勝1敗と幕内2度目の優勝を果たし、西関脇で新大関を目指した貴花田(のち横綱貴乃花)と対戦。当時11月場所の貴花田は、場所直前で宮沢りえとの婚約騒動の渦中に巻き込まれた影響もあってか、久島海の強引な小手投げに呆気なく土俵上に叩き付けられた。殊勲の星を挙げた久島海は取組後、興奮冷めやらぬ状況の中で記者陣に対して「オレだって婚約中なんだよ!」と声を荒げながらコメントしていた[4]。結局同場所の貴花田は初日からの4連敗が響いて10勝5敗に終わり、大関昇進はならなかった(翌1993年1月場所後新大関となるが、同時に宮沢りえとの婚約は解消となる)。一方の久島海は8勝7敗と勝ち越し新三役昇進が期待されたが、番付運に恵まれず翌1993年1月場所は1枚上がっただけの西前頭筆頭の地位に留まった。
  • 没後、田子ノ浦部屋所属の力士は春日野部屋、出羽海部屋に転籍となった。直後の2012年3月場所では、師匠の急死に愛弟子達は奮起し、8人中7人が勝ち越しを決め、幕下・海龍(出羽海部屋)、序二段・碧己真(春日野部屋)がそれぞれ全勝優勝、三段目・碧の正(出羽海部屋)も全勝し優勝決定戦に進むなど亡き師匠への弔いを果たしている。

主な成績

  • 通算成績:462勝442敗15休 勝率.511
  • 幕内成績:237勝273敗15休 勝率.465
  • 幕内在位:35場所
  • 三賞:敢闘賞2回(1990年3月場所、1993年9月場所)
  • 金星:2個(北勝海1個、旭富士1個)
  • 各段優勝:十両3回(1989年3月場所、1989年5月場所、1998年3月場所)

場所別成績

久島海 啓太
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1988年
(昭和63年)
幕下付出60枚目
5–2 
東幕下38枚目
5–2 
東幕下24枚目
6–1 
東幕下9枚目
5–2 
東幕下4枚目
4–3 
西幕下2枚目
4–3 
1989年
(平成元年)
東幕下筆頭
4–3 
西十両12枚目
優勝
12–3
東十両3枚目
優勝
10–5
西前頭13枚目
8–7 
西前頭11枚目
9–6 
東前頭5枚目
6–9 
1990年
(平成2年)
東前頭9枚目
6–9 
東前頭14枚目
10–5
東前頭4枚目
6–9 
西前頭8枚目
5–8–2 
東十両筆頭
10–5 
東前頭12枚目
9–6 
1991年
(平成3年)
東前頭6枚目
8–7 
東前頭筆頭
5–10 
東前頭6枚目
6–9 
東前頭10枚目
10–5 
東前頭3枚目
8–7
東前頭3枚目
6–9 
1992年
(平成4年)
西前頭6枚目
8–7 
西前頭3枚目
7–8
西前頭4枚目
8–7 
東前頭3枚目
6–9 
西前頭6枚目
8–7 
西前頭2枚目
8–7 
1993年
(平成5年)
西前頭筆頭
7–8 
西前頭2枚目
7–7–1 
東前頭4枚目
6–9 
西前頭7枚目
5–10 
東前頭13枚目
12–3
西前頭筆頭
5–10 
1994年
(平成6年)
西前頭7枚目
1–2–12 
東十両4枚目
9–6 
東十両2枚目
8–7 
西前頭15枚目
8–7 
東前頭15枚目
8–7 
東前頭9枚目
8–7 
1995年
(平成7年)
西前頭4枚目
3–12 
東前頭12枚目
4–11 
東十両5枚目
7–8 
西十両6枚目
9–6 
西十両2枚目
9–6 
東十両筆頭
8–7 
1996年
(平成8年)
東十両筆頭
7–8 
東十両2枚目
10–5 
東十両筆頭
8–7 
西前頭15枚目
6–9 
西十両2枚目
6–9 
東十両7枚目
6–9 
1997年
(平成9年)
西十両9枚目
11–4 
東十両4枚目
8–7 
西十両2枚目
9–6 
西十両筆頭
9–6 
西前頭13枚目
7–8 
西前頭15枚目
3–12 
1998年
(平成10年)
西十両6枚目
7–8 
東十両9枚目
優勝
12–3
西十両2枚目
7–8 
東十両4枚目
7–8 
西十両5枚目
4–11 
東幕下筆頭
引退
0–0–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

年寄変遷

  • 久島海 啓太(くしまうみ けいた)1998年10月 - 1999年8月
  • 田子ノ浦 啓人(たごのうら けいひと)1999年8月 - 2012年2月

脚注

  1. ^ a b 田子ノ浦親方、輝かしい実績もプロで不遇 サンケイスポーツ 2012年2月13日
  2. ^ 田子ノ浦親方が吐血、死去…まだ46歳 日刊スポーツ 2012年2月13日
  3. ^ 死因は虚血性心不全=急死の田子ノ浦親方-大相撲 時事ドットコム 2012年2月14日
  4. ^ “スポーツ紙が書かなかった急逝元久島海の貴乃花にまつわる一言”. 『ニュースのフリマ!!』. (2012年2月14日). http://www.tokyo-sports.co.jp/writer.php?itemid=18236 2012年2月14日閲覧。 

関連項目

外部リンク