ラブ・バトラー
サフラン・ウェルデンのバトラー男爵リチャード・オースティン・バトラー(英語: Richard Austen Butler, Baron Butler of Saffron Walden, KG, CH, PC、1902年12月9日 - 1982年3月8日)は、イギリスの政治家、一代貴族。
保守党内のリベラル派の領袖であり、20世紀中期の保守党政権下で閣僚職を歴任し、何度も首相候補として取りざたされたが、ついに首相になることはなかった。リチャード・オースティン・バトラー(Richard Austen Butler)の頭文字をとってラブ(Rab)の愛称で呼ばれた[1]。
経歴
1902年12月9日、植民地インド行政官モンタギュー・シェラード・ドーズ・バトラーとその妻アン(旧姓スミス)の息子として英領インド・アトックに生まれる[2]。
ケンブリッジ大学を卒業[3]。1929年5月から1965年1月までサフラン・ウェルデン選挙区から選出されて庶民院議員を務める[4]。保守党に所属した[3]。
1932年から1937年にかけてインド担当省政務次官、1937年から1938年にかけて労働省政務次官、1938年から1941年にかけて外務政務次官を務めた。1939年に枢密顧問官(PC)に列する[2]。
戦時中の第1次チャーチル内閣の1941年から1945年にかけて教育庁長官、ついで1945年5月から8月まで労働大臣を務めた[5]。教育庁長官在職中の1944年には中等教育の義務教育化を定めた教育法制定を主導した[3]。これにより戦後に中等教育が広まった(11歳の時に「イレブンプラス」と呼ばれる選抜試験を受けてその成績によってグラマー・スクール、セカンダリー・テクニカル・スクール、セカンダリー・モダン・スクールのいずれかの無償中学校に進む制度)[6][7]。
1945年から1951年の労働党政権アトリー内閣の野党期には保守党調査部で実権をふるい、政策立案を担った[8][9]。そしてアトリー政権が推し進めていた福祉国家の概念と折り合いをつけた[8]。
1951年10月に保守党政権第2次チャーチル内閣が成立するとその財務大臣に就任した[10]。就任時の最初の問題は朝鮮戦争の資金調達であり、政府総支出の30%を軍事費に注ぎ込んで賄った。朝鮮戦争終結後も軍事費は下がらなかったが、1955年までの5年間に国民所得が40%増えたため、その負担にも耐えやすくなった。さらに所得税の減税の可能となった[11]。
また保守党政権は前労働党政権に対する反発からその左翼政策を取り消すのではと予想されていたが、その予想に反して労働党政権が行った完全雇用政策や福祉政策は保守党政権でも維持され、また労働党政権で国有化された分野の中でバトラーが民営に戻したのは鉄鋼と道路輸送だけだった。そのためバトラーの経済政策は前労働党政権の財務大臣ヒュー・ゲイツケルの経済政策と大きな差がないとして『エコノミスト』誌はその連続性を「バツケリズム」(バトラーとゲイツケル)と表現した[11][12][13]。
首相がイーデンに変わった直後の1955年春の予算案では所得税減税や家族手当増額を盛り込み、それによって国民人気を獲得し、5月の総選挙の保守党の勝利に貢献した[14]。しかしこの選挙目当ての減税は景気悪化もあって急速に財政を悪化させた。その対策として7月には金融引き締めを実施し、市中銀行への貸出制限、分割払い購入のデポジット引き上げなどデフレーション政策を行った。さらに10月には高率の物品税を課す補正予算を組んだ。しかしこれによってバトラー批判が高まった。イーデンは12月に内閣改造を行い、バトラーを財務大臣から外した[15]。
代わって王璽尚書と庶民院院内総務に就任した。スエズ戦争をめぐっては開戦前には懐疑派だったが、開戦後はその疑念をひっこめ、スエズ問題を巡る党内意見の一致に努めた[16]。
1957年1月のイーデン辞職時には後任の首相に取りざたされたが、彼のリベラルな政治姿勢はチャーチルら保守党長老政治家から嫌厭された[3][17]。結局スエズ戦争を翼賛し続けていたマクミランが長老政治家たちの支持を受けて後任に選ばれた[17]。バトラーは1957年1月から1962年7月までその内閣の内務大臣、ついで1962年7月から1963年10月まで副首相を務めることになった[18][19]。
1963年10月にマクミランが辞職した際にも首相候補として取りざたされたが、マクミランは外務大臣の第14代ヒューム伯アレック・ダグラス=ヒュームを後継者に指名し、エリザベス女王もヒューム伯に組閣の大命を与えた。そのためバトラーはまたしても首相になり損ね、1963年10月から1964年10月までヒューム内閣の外務大臣に甘んじた[20][21][19]。
保守党が野党となったのちの1965年2月に一代貴族サフラン・ウェルデンのバトラー男爵に叙されて貴族院議員となった。またケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学寮長 となり、その役職に集中するため、政界を引退した[3][22]。
人物
たびたび首相候補に名前が挙がりながらリベラルな政治姿勢のために保守党内で嫌われて、ついに首相になれなかった不遇の政治家として知られる[1]。
バトラー自身は自分の最大の政治上の功績を「バトラー法」と通称される1944年教育法と考えていた。戦前はイギリス国民の5人のうち4人までもが小学校教育しか受けていなかったが、戦後バトラー法によって中等教育が義務化されて全ての者に中等教育が行き渡ったためである[22]。
栄典
爵位
1965年2月19日に以下の一代貴族爵位を与えられた[2]。
- エセックス州におけるハルステッドのサフラン・ウェルデンのバトラー男爵 (Baron Butler of Saffron Walden, of Halstead in the County of Essex)
- (勅許状による連合王国一代貴族爵位)
勲章
- 1954年、コンパニオン・オブ・オナー勲章コンパニオン(CH)[2]
- 1971年、ガーター勲章ナイト(KG)[2]
家族
1926年4月に実業家・絵画収集家サミュエル・コートールドの娘シドニー・コートールドと結婚し、彼女との間に3男1女を儲けた[2]。うち次男のアダム・バトラーは庶民院議員を務めた[23]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 梅川正美, 力久昌幸 & 阪野智一 2010, p. 68.
- ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “Richard Austen Butler, Baron Butler of Saffron Walden” (英語). thepeerage.com. 2016年2月12日閲覧。
- ^ a b c d e 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 109.
- ^ UK Parliament. “Mr R.A. Butler” (英語). HANSARD 1803–2005. 2016年2月12日閲覧。
- ^ 秦郁彦 2001, p. 514.
- ^ クラーク 2004, p. 275-276.
- ^ 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 343.
- ^ a b クラーク 2004, p. 232.
- ^ 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 363.
- ^ 秦郁彦 2001, p. 516.
- ^ a b クラーク 2004, p. 233.
- ^ 梅川正美, 力久昌幸 & 阪野智一 2010, p. 47.
- ^ 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 366-367.
- ^ 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 371-372.
- ^ 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 373.
- ^ クラーク 2004, p. 252.
- ^ a b 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 376.
- ^ クラーク 2004, p. 253.
- ^ a b 秦郁彦 2001, p. 515.
- ^ クラーク 2004, p. 273.
- ^ 梅川正美, 力久昌幸 & 阪野智一 2010, p. 79.
- ^ a b クラーク 2004, p. 275.
- ^ Lundy, Darryl. “Rt. Hon. Sir Adam Courtauld Butler” (英語). thepeerage.com. 2016年2月12日閲覧。
参考文献
- 梅川正美、力久昌幸、阪野智一『イギリス現代政治史』ミネルヴァ書房、2010年(平成22年)。ISBN 978-4623056477。
- クラーク, ピーター 著、市橋秀夫, 椿建也, 長谷川淳一 訳『イギリス現代史 1900-2000』名古屋大学出版会、2004年(平成16年)。ISBN 978-4815804916。
- 村岡健次、木畑洋一『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。
- 秦郁彦『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、ラブ・バトラーに関するカテゴリがあります。
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先代 ? |
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先代 クランボーン子爵 |
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先代 ハーワルド・ラムザボザム |
教育庁長官 1941年–1945年 |
次代 リチャード・ロー |
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先代 パトリック・ゴードン・ウォーカー |
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