ラーマ4世
ラーマ4世 รัชกาลที่ ๔ | |
---|---|
シャム国王 | |
ラーマ4世(スコットランド国立図書館蔵) | |
在位 | 1851年4月2日 - 1868年10月1日 |
戴冠 | 1851年5月15日、於大宮殿 |
全名 | พระบาทสมเด็จพระปรเมนทรรามาธิบดีศรีสินทรมหามงกุฎ พระจอมเกล้าเจ้าอยู่หัว พระสยามเทวมหามกุฏวิทยมหาราช |
別名 |
มงกุฎ モンクット |
王朝 | チャクリー王朝 |
副王 | ピンクラオ |
出生 |
1804年10月18日 シャム、バンコク |
死亡 |
1868年10月1日(63歳没) シャム、バンコク |
埋葬 |
タイ、バンコク、大宮殿 |
父 | ラーマ2世 |
母 | シースリエントラー |
配偶者 |
ソームマナッサワッタナーワディー (1851年) テブシリン (1851年-1861年) パンナライ (1861年-1869年) |
子女 |
ラーマ5世 スナンダ・クマリラタナ サワーン・ワッタナー サオワパー・ポーンシー |
居所 | 大宮殿 |
宗教 | 上座部仏教 |
親署 | |
ウィキメディア・コモンズには、ラーマ4世に関連するマルチメディアおよびカテゴリがあります。 |
称号:国王 | |
---|---|
敬称 |
陛下 His Majesty the King พระบาทสมเด็จพระเจ้าอยู่หัว |
ラーマ4世(ラーマ4せい、タイ語: รัชกาลที่ ๔)は、チャクリー王朝の第4代のシャム国王。タマユットニカーイの創設者。チョームクラオや、モンクット(タイ語: มงกุฎ, ラテン文字転写: Mongkut)の名でも呼ばれる。ただし、ラーマ6世の名にもモンクットの語が登場するため注意を要する。『清史稿』は鄭明と呼ばれる。
かつて発行されていた50バーツ紙幣に肖像が使用されていた。
生涯
[編集]父はラーマ2世、母はシースリエントラー(Sri Suriyendra)である。
元々は兄のラーマ3世よりも彼の方に王位継承権があったが、学業専念のために兄に王位を譲り、学問を続けた。即位までの27年間は出家して寺院に属し、経文の言語であるパーリ語、サンスクリット語をマスターした。その中でタイの仏教のあり方に疑問を感じていた。
その後、キリスト教宣教師の手を借りて、英語・ラテン語を学び、ルネサンスを通じて教義が合理化されたキリスト教に触れ、新時代の宗教は合理化されたものでなければならないと感じ、俗信を排除した仏教を建てた。このとき建てられた革新派の仏教集団をタマユットニカーイと言う。ラームカムヘーン大王碑文を発見した人物でもある。
即位後は、西洋との関係を重視し、イギリスからアンナ・レオノーウェンズ(Mrs. Anna Leonowens)を家庭教師に招き入れ、子弟に西洋の教育をさせた。このときのことは小説『アンナとシャム王』に書かれているが、アンナに虚言癖があったため、全面的な信用はしない方がよいと言われる。この話は後に『アンナとシャム王』で初めて映画化されて、『王様と私』で劇作化と映画化、『アンナと王様』で3度目の映画化がされたが、いずれもタイでは上映が禁止されている。
1854年には清への朝貢を止め、トンブリー王朝以来つづいていた冊封体制から脱した。1855年にイギリスと通商貿易に関するボウリング条約(不平等条約) を締結。西洋と自由貿易を開始し、米を輸出するようになった。このためタイの中央平原部に運河が多く建設され、米の増産がはかられた。現在においても米はタイの大きな輸出品目である。外国人の便宜を図るため、「ニューロード」(ジャルンクルン通り)を建設したりもした。また、62人の子を残したとされる。
ラーマ4世(モンクット王)は独学で学んだ天文学によって日食の場所・時刻を発見し、1868年8月18日にプラチュワップキーリーカンを訪れ、予測通り観測できたといわれる。しかし、観測場所に選んだサームローイヨート付近はマラリアのはびこる地帯であったため、ラーマ4世もこれに伝染し、2週間後崩御したという。