バンザイ突撃

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バンザイ突撃(バンザイとつげき)は、太平洋戦争中に実行された、玉砕前提の突撃のことである。

概要

戦術的な意味よりも、「捕虜になる位なら誇り高く潔く死ぬ」という思想のあらわれ[1]とも言われ、敵軍優勢の中、補給や増援を望めず撤退も不可能な状況の日本兵が、自決する際のように「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」などの雄叫びを上げて突撃する事を指す。「万歳」の喊声とともに敢行されることから、連合軍兵士から「バンザイ・アタック」(Banzai attack)または「バンザイ・チャージ」(Banzai charge)と呼ばれ、バンザイ突撃とはこれが和訳されたものとされる。英語から再輸入された日本語由来の言葉であるので、漢字で「万歳突撃」と書かれることもある。なお日本陸軍の『歩兵操典』など教範では、突撃に際して「突っ込め」の号令にて喊声を発すると記しているが、喊声の具体的な文句については規定されず、夜間の突撃では喊声を発しないとされていた。

無降伏主義

日本軍でも当初は無降伏主義では無く、降伏したり捕虜となった者は日清戦争時には清軍に耳や鼻を削がれるなどの虐待を受ける者もいて、残虐さを問題として「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令とし、日露戦争時に捕虜となった兵士が敵軍に自軍の情報を容易く話したため、これが問題となり、以降「捕虜になっても敵軍の尋問に答える義務はない」ということが徹底された。

海軍刑法において「尽くすべき所を尽くさずして降伏」した指揮官には死刑、「尽くすべき所を尽くして降伏」した指揮官には禁錮六ヶ月の罰則を定めていた他、1939年ノモンハン事件では、捕虜となった将兵が身柄送還後に自決を強要されたり、懲罰的な戦死に追い込まれたりする例があった。1941年(昭和16年)に制定した戦陣訓において「生きて虜囚の辱めを受けず」とされ、太平洋戦争中でも個々の兵士部隊での降伏や投降は極端に少なくなった。これらの理由として、陸海軍刑法で事実上降伏が違法とされた事や、戦陣訓での戦術の記述が降伏をためらわせる一因になった上に、捕虜経験者とその家族に対する社会的差別や、連合軍兵士が投降兵を殺害する事例が珍しくなかったことが挙げられる。また、日本軍将兵が捕虜となった際の尋問応対法などは想定されず、教育もされなかったため、情報漏洩や利敵行為の原因になった。さらに、捕虜となった兵士の家族が社会的差別を受けたため、連合軍が捕虜を尋問する際に「捕虜になったことを日本側に通告する」との恫喝に利用された。

この様な「無降伏主義」は日本軍のみに見られた事では無く、他でも見られた。ドイツ国防軍では、第二次大戦の初期においては捕虜となった将兵やその家族が不利益を被ることは少なかったとされるが、スターリングラード攻防戦において、フリードリヒ・パウルス元帥指揮下の第6軍は、絶望的な状況でも撤退も降伏の許可も与えられず、壊滅の憂き目に遭っている。イギリス軍でもシンガポールの戦いにおいてアーサー・パーシバル将軍指揮下の守備軍はチャーチル首相の死守命令によって降伏を禁ぜられるなど、無降伏主義と無縁ではなかった(ただし、前二者の事例では指揮官が死守命令にそむいて降伏しており、同時代の日本軍では通例であった玉砕にまでは至っていない)。ソビエト連邦ソ連国防人民委員令第227号)や中華民国(軍刑法である戦時軍律第六條は敵に降参するものは死刑に処すと定めていた)などは日本と同様な無降伏主義をとっており、投降兵が自軍に復帰した場合に処刑したり、投降兵の家族に対しては食糧配給差し止め、国外追放強制収容所送致などの報復措置が行われていた。

戦術的意義

島嶼部での戦いでは、長期の包囲により備蓄した食糧弾薬が不足し、輸送船も沈められ補給が望めない日本軍によって行われたが、自動火器火砲の充実したアメリカ軍に対し、武器弾薬の欠乏した日本軍が突撃によって勝利した事例は無い。これに対し、アッツ島の戦いタラワの戦いビアク島の戦いペリリューの戦い硫黄島の戦い沖縄戦ソ連対日参戦などではこうした自殺的突撃が戒められ、防御線を敷いた持久型の縦深防御戦術が採られた。ペリリュー島で戦った海兵隊員ユージーン・スレッジは自著[2]に、バンザイ突撃が始まり、これを撃退すれば早々に決着がつくので、むしろ行われるのを待ち望んでいた[3]と記している。一方、バンザイ突撃とは異なる、夜間に行われる白兵突撃は海兵隊にとっても脅威となっていた。

米陸軍第442連隊戦闘団における「バンザイ突撃」

第二次世界大戦欧州戦線において、日系人のみで編成されたアメリカ陸軍の「第442連隊戦闘団」は、日本語の「バンザイ」を含む各種の雄叫びを上げての突撃を実行した。ただし、「進退窮まった部隊が最後の戦術として行う自殺的な突撃」を意味する「バンザイ突撃」とは別物で、戦術としての、鬨の声を上げての白兵突撃である。用いられた言葉も「バンザイ」だけではなく、ピジン英語で「死ね」という意味の「マケ」、日本語の「バカヤロー」など、個々の兵士の叫び声がこだまし、その絶叫は近隣の村にまで響く程であったという。

一説には1943年11月3日ナポリ南方、ボルツレノ川渡河作戦で、ドイツ軍狙撃兵に対しスコップ武器として突撃をかけたのが最初とされる。この時は個人による突撃に続いた小隊規模のものであったが、後に戦闘の決着をつける、着剣しての白兵突撃が中隊単位でも行われるようになった。もっとも、日系部隊に限らず最後の突撃は一般的に見られたが、特にブリュイエール(ブリエラ)の解放を巡る戦いでこの戦法が多用され、戦場となったは記録者により「バンザイヒルズ」と命名され、アメリカ国務省に報告されたという。

脚注

  1. ^ 大波篤司 ミリダスJ p582
  2. ^ ユージン・スレッジ著「ペリリュー・沖縄戦記」
  3. ^ 他の資料にも「自殺的な万歳突撃は、士気喪失した敵を粉砕し意志の力だけで優越する火力に打ち勝つことを意図したものであったが、終わりを早めることに役立ち、実際攻略部隊を喜ばせただけだった。」(ゴードン・L・ロトマン著「太平洋戦争の日本軍防御陣地 1941-1955」 P61 大日本絵画)

参考文献

関連項目