アポロ菅原

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アポロ菅原
プロフィール
リングネーム アポロ菅原
キム・コリア
菅原 伸義
本名 菅原 伸義
身長 182cm
体重 111kg
誕生日 (1954-02-10) 1954年2月10日(70歳)
出身地 秋田県男鹿市
スポーツ歴 レスリング
デビュー 1979年9月17日
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YouTube
チャンネル
活動期間 2021年4月30日 -
ジャンル バラエティ
登録者数 3050人
総再生回数 229,118回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2022年7月30日時点。
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アポロ菅原(アポロすがわら、1954年2月10日 - )は、日本プロレスラー。本名:菅原 伸義(すがわら のぶよし)。

来歴

高校時代は秋田工高に属してレスリングを始める。落合博満と同級。1971年の第26回黒潮国体和歌山県)でレスリング少年の部優勝[1]フリースタイル81kg級)。またインターハイでは75kg以上級において4位の成績を残した。

高校卒業後は三井造船千葉造船所で勤務していたが、通っていたジムのオーナーである遠藤光男の推薦もあり1979年5月に勤務していた三井造船を退社の上国際プロレス入門。同年9月17日の福岡大会でのvs高杉正彦戦にてデビュー。国際では高杉正彦・冬木弘道(後のサムソン冬木)とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。

国際プロレスの倒産により1981年全日本プロレス所属となる。全日本に移籍後は、1983年にルー・テーズ杯争奪リーグ戦に出場して三沢光晴川田利明越中詩郎とも対戦した。1984年9月にはキム・コリアKim Korea)のリングネームで西ドイツハノーバーに遠征、オットー・ワンツミレ・ツルノスティーブ・ライトシーン・リーガンボブ・ダラセーラエド・ウィスコスキーなどと対戦した[2]

帰国後の同年12月より「国際血盟軍」のメンバーとなり、リングネームも本名から「アポロ菅原」に改名。しかし、翌1985年1月からのジャパンプロレス勢の参戦により全日本プロレスの日本人選手が飽和状態となり、「エキサイティング・ウォーズ'86」のシリーズ中である1986年3月2日の岩手県陸前高田大会をもってカルガリーハリケーンズスーパー・ストロング・マシンヒロ斎藤高野俊二)と入れ替わるように、人員整理により剛竜馬や高杉正彦と共に4年半在籍していた全日本を解雇された。Gスピリッツ誌で掲載された鶴見五郎の話によると解雇の原因は、馬場と菅原・剛が食事した際、菅原が馬場が掲げるプロレススタイルを否定する発言を行ったため、馬場の逆鱗に触れてしまったからだと言われる[3]。ただし、菅原本人は「馬場さんと食事したことは一回もない」「口答えすることは100%あり得ない」と否定している[4]

全日本最後の試合は鶴見と組み、国際の1年後輩である冬木とタッグマッチで対戦した(冬木のパートナーはマイティ井上)。解雇通告は、陸前高田大会翌日に、原軍治リングアナウンサーが全日本の事務所に3人を呼びだし、馬場が直接解雇通告を行ったという。菅原は解雇通告を受けたと同時に号泣し、入れ替わりに馬場に呼ばれた高杉にも解雇を伝えたという[5]。以降は剛・高杉とは異なり、全日本のリングに上がることはなかった。

全日本を解雇後、たけしプロレス軍団の企画が持ち上がった際にコーチとして招かれ、脇田洋人(現:スペル・デルフィン)秋吉昭二(現:邪道)高山圭司(現:外道)らを指導している。

たけしプロレス軍団が自然消滅した後、1988年に剛竜馬・高杉正彦と共にパイオニア戦志の旗揚げメンバーに名を連ねるが、旗揚げ戦のみで離脱。その後、新日本プロレスに所属し北尾光司のトレーニングパートナーを務める。1990年SWSに移籍し、どの道場にも属さずフリーで活躍。鈴木みのるとのシングルマッチを行う。UWF系スタイルの鈴木と元来のプロレススタイルの菅原の試合は全く成立する気配がなく、ただお互いが距離をとって相手の様子を見続けるという状況が延々と続き、業を煮やした菅原の顔面掌底攻撃にレフリーが注意をした直後に菅原自ら試合放棄する様な素振りでリングの外に出た。その行為に対してレフリーの合図により試合終了のゴングが鳴らされた後、客の大ブーイングが起こりレフリーと菅原の口論が始まり、場内は騒然となる。その客の反応に対して鈴木は感情を剥き出しにして叫び返し怒りや悔しさを爆発させる。異様な雰囲気の中、ゴングを鳴らされた事に納得が行かない菅原はレフリーに向かって「おい、プロレスでは外に出たら20カウントなんだ、わかってんのかコラ! 数えてねぇじゃねぇかこの野郎!」などとマイクアピールした。

その後、SWSが崩壊したため、当時の『道場・檄』『パライストラ』のメンバーと共に1992年に旗揚げされたNOW所属となるが、NOWの活動停止に伴い、1993年にフリーランスになる。

1994年に活動を再開した新生NOWの所属となるが、新生NOWが再び活動を停止したことに伴い、同年中に東京プロレス所属となる。

その後、東京プロレスが活動を停止したことにより、1996年に再びフリーランスになり、インディー団体を中心に活動していたが2002年に引退 [6]。アジアンプロレスの北海道月形町大会が最後の試合となった[6]。以後は千葉の工事現場で働いた。

2020年6月19日に知人女性と入籍することをラジオ番組の「真夜中のハーリー&レイス」で明かし、妻の出身地である熊本県熊本市へ移住した。

2021年5月、YouTubeにて「アポロ菅原チャンネル」を開始。翌2022年3月22日、スポーツバー『apolloキッチン』を開業した[6]

得意技

脚注

  1. ^ 国民体育大会 【第1回(1946)~第65回(2010)】国民体育大会記録集
  2. ^ The matches Apollo Sugawara fought at Germany in the year 1984”. Wrestlingdata.com. 2016年9月11日閲覧。
  3. ^ 『実録・国際プロレス』P208-P209(2017年、辰巳出版ISBN 9784777819775
  4. ^ 『実録・国際プロレス第34回 アポロ菅原』(『G SPIRITS Vol.56』 2020年、辰巳出版ISBN 9784777826070 p58)
  5. ^ 『実録・国際プロレス』P357(2017年、辰巳出版ISBN 9784777819775
  6. ^ a b c かつての国際血盟軍・アポロ菅原の今 熊本でスポーツバーの店主になっていた”. Encount (2022年4月22日). 2022年4月22日閲覧。

外部リンク