コンテンツにスキップ

「火薬陰謀事件」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: 取り消し
m 仮リンク修正
(3人の利用者による、間の6版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox event
{{出典の明記|date=2019-04-06}}
|image = GunpowderPlot.jpg
'''火薬陰謀事件'''(かやくいんぼうじけん、{{lang-en-short|Gunpowder Plot}})は、[[1605年]]に[[イングランド王国|イングランド]]で発覚した政府転覆未遂事件である。[[イングランド国教会]]優遇政策の下で弾圧されていた[[カトリック教会|カトリック教徒]]のうちの過激派によって計画されたものであるとされてきた。首謀者は[[ロバート・ケイツビー]]、実行責任者は[[ガイ・フォークス]]。[[貴族院 (イギリス)|上院]]議場の地下に仕掛けた大量の[[火薬]](gunpowder) を用いて、1605年11月5日の開院式に出席する国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]らを爆殺する[[陰謀]](plot)を企てたが、実行直前に露見して失敗に終わった。これにちなんだ祭事が毎年イギリス各地で開催されている。
|alt = Three illustrations in a horizontal alignment. The leftmost shows a woman praying, in a room. The rightmost shows a similar scene. The centre image shows a horizon filled with buildings, from across a river. The caption reads "Westminster". At the top of the image, "The Gunpowder Plot" begins a short description of the document's contents.
[[File:GunpowderPlot.jpg|thumb|250px|17世紀後半または18世紀初頭の火薬陰謀事件の報告書]]
|caption = 17世紀後半から18世紀初頭に書かれたレポート
なお、ここでいう「1605年11月5日」とは、[[ユリウス暦]]に基づく日付である。事件当時のイングランドでは、いまだ[[グレゴリオ暦]]は採用されていなかった。グレゴリオ暦での日付は、1605年[[11月15日]]である。以下の記述も、特別の記載がない限りユリウス暦での日付(グレゴリオ暦より10日早い日付)である。
|participants = {{unordered list
| [[ロバート・ケイツビー]]
| [[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|ジョン・ライト]]
| [[ウィンター兄弟|トマス・ウィンター]]
| [[ガイ・フォークス]]
| [[トマス・パーシー]]
| [[ロバート・キーズ]]
| [[トマス・ベイツ]]
| [[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|クリストファー・ライト]]
| [[ウィンター兄弟|ロバート・ウィンター]]
| [[ジョン・グラント]]
| [[アンブローズ・ルックウッド]]
| [[エバラード・ディグビー]]
| [[フランシス・トレシャム]] }}
|location = [[イングランド王国|イングランド]]、[[ロンドン]]
|date = 1605年11月5日
|outcome = 計画の露見による失敗、大逆罪で処刑
}}
'''火薬陰謀事件'''(かやくいんぼうじけん、Gunpowder Plot)とは、1605年の[[イングランド王国|イングランド]]において、[[ロバート・ケイツビー]]を首謀者とする[[イングランドとウェールズのカトリック|同国のカトリック教徒たち]]が、[[イングランド国王|国王]][[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の暗殺を企てたが失敗に終わった政府転覆未遂事件。[[イングランド国教会]]の成立に伴う半世紀以上にわたるカトリック教徒への迫害を止めさせ、カトリック教徒の君主に挿げ替える企てであった。当時は「'''火薬反逆陰謀事件'''(Gunpowder Treason Plot)」や「'''イエズス会反逆事件'''(Jesuit Treason)」と呼ばれていた。


このテロ計画は、1605年11月5日に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]([[ウェストミンスター宮殿]])で行われる予定であった議会開会式を狙い、大量の[[火薬]]をもって議場ごと爆破し、国王ジェームズ1世以下その側近らをまとめて暗殺した上で、同時に{{仮リンク|ミッドランド・ディストリクト|label=ミッドランズ地方|en|The Midlands}}で民衆叛乱を起こし、ジェームズの9歳になる王女[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]をカトリックの傀儡君主として王位に就けるというものであった。ケイツビーが陰謀を企てたのは、新王ジェームズの宗教政策が期待していたほど寛容ではなく、イングランドのカトリック教徒たちが失望したためだと考えられている。ケイツビーの仲間には、[[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|ジョン・ライト]]、[[ウィンター兄弟|トマス・ウィンター]]、[[ガイ・フォークス]]、[[トマス・パーシー]]の主要5名のほか、[[ロバート・キーズ]]、[[トマス・ベイツ]]、さらに彼らの縁者やカトリックの友人である[[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|クリストファー・ライト]]、[[ウィンター兄弟|ロバート・ウィンター]]、[[ジョン・グラント]]、[[アンブローズ・ルックウッド]]、[[エバラード・ディグビー|サー・エバラード・ディグビー]]、[[フランシス・トレシャム]]などがいた。この中でフォークスは、オランダ独立戦争([[八十年戦争]])で、反乱軍(独立軍)の鎮圧に失敗したスペイン軍側に10年従軍した経歴を持ち、計画の要となる爆発物の責任者となった。
== 容疑者 ==
[[画像:Gunpow1.jpg|thumb|260px|right|事件の容疑者を描いた{{仮リンク|クリスペイン・デ・パッセ|en|Crispijn van de Passe}}の銅版画。右から2人目が首謀者ロバート・ケイツビー、その左が実行役ガイ・フォークス。]]
右の絵は、事件の容疑者を描いた[[オランダ]]の[[銅版画]]である。左から順に、
* {{ill2|トーマス・ベイツ|en|Thomas Bates}} (Thomas Bates)
* ロバート・ウィンター (Robert Wintour (Winter))({{ill2|ロバート&トーマス・ウィンター|en|Robert and Thomas Wintour}})
* クリストファー・ライト (Christopher Wright)
* ジョン・ライト (John Wright)({{ill2|ジョン&クリストファー・ライト|en|John and Christopher Wright}})
* {{ill2|トーマス・パーシー|en|Thomas Percy (Gunpowder Plot)}} (Thomas Percy)
* ギド(ガイ)・フォークス (Guido (Guy) Fawkes)
* [[ロバート・ケイツビー]] (Robert Catesby)
* トマス・ウィンター (Thomas Wintour (Winter){{ill2|ロバート&トーマス・ウィンター|en|Robert and Thomas Wintour}})
となっている。なお、この絵は「'''7人'''の英国'''貴族'''」と題されており、主犯ケイツビーの使用人であったベイツは、「不運にも事件に巻き込まれた存在」と位置付けられている。


1605年10月26日、[[ウィリアム・パーカー (第4代モンティーグル男爵)|第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカー]]に送られた匿名の手紙によって、この計画は当局に察知された。11月4日深夜、貴族院の探索が行われた結果、議場を瓦礫に変えるのに十分な量の火薬樽36本を隠し持つフォークスが見つかり、逮捕された。計画が露見したことを知った犯人らのほとんどはロンドンから逃亡するが、最後の抵抗として計画通りにミッドランズでの反乱を起こそうとした。しかし、もはやケイツビーらを支援したり協力しようとする者はおらず、[[スタッフォードシャー]]の{{仮リンク|ホルベッチ・ハウス|en|Holbeche House}}に滞在していたところを、州長官率いる200人規模の追跡隊に襲撃された。この戦闘でケイツビーら主だった者が何名か射殺され、生き残った者は逮捕された。他の場所へ逃げていた者もまもなく逮捕され、平民のベイツを除いて全員が[[ロンドン塔]]に投獄された。1606年1月27日に行われた裁判において、フォークスを含む生きたまま捕縛された8人が[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で有罪となり、[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]が言い渡された。刑は同月30、31日に執行された。また、ケイツビーら既に死亡していた者も遺体を掘り起こされて斬首され、晒し首にされた。
この他、{{ill2|ロバート・キーズ|en|Robert Keyes}} (Robert Keyes)、{{ill2|エヴァラード・ディグビー|en|Everard Digby}} (Everard Digby)、{{ill2|フランシス・トレシャム (火薬陰謀事件)|en|Francis Tresham|label=フランシス・トレシャム}} (Francis Tresham) 、{{ill2|ジョン・グラント|en|John Grant (Gunpowder Plot)}}、{{ill2|アンブローズ・ルックウッド|en|Ambrose Rookwood}}などが協力者として名を連ねていた。また、主犯格の審問中に陰謀に関連があるとされ、{{仮リンク|ヘンリー・ガーネット|en|Henry Garnet}}、{{ill2|エドワード・オールドコーン|en|Edward Oldcorne}}、{{ill2|オズワルド・テシモンド|en|Oswald Tesimond}}ら3人の[[イエズス会]]神父が容疑者とされ、彼らの潜伏を幇助した容疑としてガーネットの使用人の[[ニコラス・オーウェン (イエズス会士)|ニコラス・オーウェン]]も逮捕された。


当時の裁判では陰謀の首謀者はケイツビーらではなく、[[イエズス会]]が黒幕ということにされた。計画の詳細については、当時のイングランドにおけるイエズス会の要人であった[[ヘンリー・ガーネット]]神父が知っていたとされる。彼は最終的に大逆罪で死刑宣告され、1606年5月3日に処刑されたが、実際にどれほど把握していたかについては議論の余地がある。彼は[[告解]]によって計画を打ち明けられたがために、告解室の絶対的な守秘義務によって当局に知らせることができなかった。
== 背景 ==
[[Image:JamesIEngland.jpg|thumb|イングランド王ジェームズ1世。彼の宗教政策はケイツビーらの反発を招いた。]]
離婚問題のこじれという個人的な理由で[[ローマ教皇庁]]と対立したイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]は、[[1534年]]に[[国王至上法]]を発布して、教皇庁と袂を分かった。彼はローマ教皇に代わって自らがイギリス教会の首長であることを宣言した。これが[[イングランド国教会]]の起こりである。ヘンリー8世は自分に従わない聖職者を処罰・処刑したり、修道院の所有していた土地や資産を没収するなどの政策を推し進めた。『[[ユートピア (本)|ユートピア]]』の著者[[トマス・モア]]もヘンリー8世の離婚問題で疑義を呈したことから刑死に追い込まれた。ヘンリー8世の死後、熱心なカトリック信徒であった[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]はイングランドをカトリック教会に戻すべく[[プロテスタント]]に対する弾圧を行い、「血塗れのメアリー (Bloody Mary) 」の異名をとった。


陰謀が発覚した直後より、イングランド政府は新たな反カトリック法を制定するなど、カトリック弾圧を強める姿勢を見せたが、実際には限定的なものであり、ジェームズ1世の治世下では多くの重要かつ忠実なカトリック教徒が政府高官として活躍した。また事件を起こしたのは、カトリック教徒の中でも一部の過激派であると見なし、外交政策でもスペインなどのカトリック国家との融和に努めた。また、事件は神によって未然に防がれたという認識も登場し、ジェームズは[[王権神授説]]の思想を強め、陰謀発覚の翌5日には失敗を記念する焚き火がロンドン市内で焚かれた。これはその後「{{仮リンク|1605年の11月5日遵守法|label=11月5日の遵守法|en|Observance of 5th November Act 1605}}」として正式な祝祭日となり、以降、この日には、特別な説教や教会の鐘を鳴らすといった公的な式典も行われるようになった。これが現在でも11月5日のイギリスで行われている'''[[ガイ・フォークス・ナイト]]'''に発展した。
続く[[エリザベス1世]]は、完全なカトリックへの復帰も、過激なプロテスタンティズムへの傾斜もとらないという「{{ill2|中道政策|en|Via media}} (Via Media) 」 によって国教会の位置付けを明確にし、彼女を排除する計画に関わった[[スコットランド王国|スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]を捕らえた。エリザベス自身は処刑に消極的であったが、最終的には死刑執行書への署名を決断、[[1587年]]に刑が執行された。この事件はカトリック教会の守護者を自認していた[[スペイン]]にイングランド攻撃の口実を与え、[[1588年]]の[[アルマダの海戦|アルマダ海戦]]へと繋がっていく。イギリスのカトリック・シンパの間ではメアリー・ステュアートは「殉教者」として称えられることになった。


== 背景・前史 ==
そのメアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、[[1603年]]にイングランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]として即位した。母親と同じカトリックの信仰を持つジェームズの即位は、カトリック教徒にとって暗闇に差し込む光になると思われた。その一方でカトリック信徒と同じく不遇をかこっていた[[ピューリタン]](清教徒)は[[1603年]]4月、戴冠のため[[エディンバラ]]から[[ロンドン]]に向かうジェームズに対し、「千人請願」と呼ばれる書状を提出し、清教徒に対し寛容な政策を採るよう訴えた。これを受けて翌[[1604年]]1月、[[ハンプトン・コート宮殿|ハンプトン・コート]]に各宗派の代表が集い、{{ill2|ハンプトン・コート会議|en|Hampton Court Conference}}(Hampton Court Conference) が開催された。ところが、この会議で国王は「[[主教]]なくして国王なし (No bishop, no King)」との言葉に象徴される、国教会優遇政策堅持の宣言を行った。この結果は、清教徒のみならず、カトリック信者にとっても極めて不利なものであった。
=== イングランドにおける宗教政策 ===
{{Main|{{仮リンク|イギリス宗教改革|en|English Reformation}}}}
[[File:Elizabeth I George Gower.jpg|thumb|alt=A three-quarter portrait of a middle-aged woman wearing a tiara, bodice, puffed-out sleeves, and a lace ruff. The outfit is heavily decorated with patterns and jewels. Her face is pale, her hair light brown. The backdrop is mostly black.|イングランド女王[[エリザベス1世]]]]


1533年から1540年にかけて、[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]は[[ローマ教皇庁]]より、国内における宗教の実権を奪うべく行動を起こし、数十年にわたる宗教的緊張が始まった。[[イングランドとウェールズのカトリック|イングランドのカトリック教徒たち]]は、旧教より分離し、新たに設立された[[プロテスタント]]の[[イングランド国教会]]が支配する社会での生活を強いられた。ヘンリーの娘である[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]の時代に少し揺り戻しが起こるものの、1558年に同じくヘンリーの娘でメアリーの妹である女王[[エリザベス1世]]の時代になると、彼女は公職や教会の役職に就いた者は、教会と国家の長である君主に忠誠を誓うことを義務付ける「{{仮リンク|エリザベス朝の宗教的解決|en|Elizabethan Religious Settlement}}」を導入し、宗教対立の激化に対応した。この宣誓([[至上権承認の宣誓]])を拒否した場合の罰則は厳しく、宣誓を守らなかった場合は罰金を科せられ、再犯者には投獄や処刑の危険があった。カトリックは迫害され、司祭たちは拷問や処刑の脅威に晒されながらも、秘密裡に信仰を続けた{{sfn|Haynes|2005|p=12}}。
== 発案 ==
この閉塞状況を打破するための方策として、首謀者ロバート・ケイツビーが導いた結論こそが、[[ウェストミンスター宮殿]]内にある議事堂の爆破という前代未聞の陰謀だったのである。「国王を殺害するのみならず、国会議員の多数を占める国教徒、そして清教徒をも同時に殲滅して国会の機能を麻痺せしめ、代わって政権を掌握したカトリック教徒がイングランドに至福の王国を建設する」。この遠大な目標を達成すべく、ケイツビーは[[1603年]]の[[四旬節]]に、トマス・ウィンター(ケイツビーのいとこ)、及びジョン・ライトに対し、議事堂爆破の計画を打ち明けた。


=== 王位継承権問題 ===
これを聞かされたウィンターらは当初、この途方もない計画を果たして本当に遂行できるのかと疑問に思い、難色を示した。だが、彼らは結局ケイツビーの説得に応じ、計画に参加することを承諾した。[[1604年]]4月、ウィンターはケイツビーの密命を帯びて、[[フランドル]]へ渡った。彼は、イギリスとの和平交渉のためスペインから同地に赴いていた{{ill2|フリアス公ファン・デ・ベラスコ|en|Juan Fernández de Velasco y Tovar, 5th Duke of Frías}} (Juan de Velasco) に協力を仰いだが、実のある返答は得られなかった。
未婚で子供のいなかったエリザベス女王はその生前において後継者を指名することを断固として拒否した。多くのカトリック教徒らは、彼女のいとこでスコットランド女王の[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]こそが正当な王位継承者であると考えていたが、彼女は1587年に反逆罪で処刑された。継承問題に際しては、エリザベスの晩年に{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]が、メアリーの息子で後継者であるスコットランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]と秘密裏に交渉していた。その結果、1603年3月24日のエリザベスの死の数か月前には、ジェームズの王位継承が密かに内諾されていた{{sfn|Willson|1963|p=154}}。


イングランド国外に亡命したカトリック教徒の中にはスペイン国王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の娘[[イサベル・クララ・エウヘニア|イサベル]]がエリザベスの後継者に相応しいと考える者もいた。また、穏健派カトリック教徒の中には、ジェームズとエリザベスの従姉妹にあたる[[アラベラ・ステュアート]]に期待している者もいた{{sfn|Haynes|2005|p=15}}
ウィンターはまた、イングランドから同地に渡っていたガイ・フォークスのもとにも向かった。フォークスは熱烈なカトリック教徒として育った人物であり、かつ[[ネーデルラント]]での従軍経験から火薬類の取り扱いに長けていた。ケイツビーに実績を買われたフォークスは、後に計画の実行役として動くこととなる。
エリザベスの健康状態が悪化すると、政府は「主要な教皇派」と思われる者たちを拘束し{{sfn|Fraser|2005|pp=xxv–xxvi}}、さらに[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]は心配のあまり、アラベラが教皇派に誘拐されるのを防ぐために彼女を[[ロンドン]]近郊に移動させた(これは決して杞憂ではなく、実際にアラベラを王位につけようとした後述する[[メイン陰謀事件]]が存在した。)<ref name="Fraserpxxv">{{Harvnb|Fraser|2005|p=xxv}}</ref>。


このように後継者候補には異論もあったが、上記の準備によって1603年3月24日のエリザベスの死に際して、王位継承の作業は円滑に行われた。同日、セシルはジェームズ6世への継承を布告し、のち7月25日にイングランド王及びスコットランド王ジェームズ1世として戴冠した。これは一般に祝福された。教皇派の有力者たちもまた、予想されていたような事件を起こすどころか、新君主への熱烈な支持を表明した。イングランド国内で発見されれば死刑に処される[[イエズス会]]の司祭たちすら、「自然の摂理」を体現していると広く信じられていたジェームズへの支持を表明した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=xxvii–xxix}}</ref>。
4月末にイングランドへ帰還したウィンターとフォークスは、ケイツビー、ジョン・ライト、及び新たに加わったトマス・パーシーと面会し、互いに秘密を厳守するとの誓いを立てた。


約半世紀にわたってイングランド人たちは、王位継承者を指名しない君主の下で暮らしていたが、ジェームズには明確な継承権者を持つ家族がいた。彼の妻である[[アン・オブ・デンマーク]]は王の娘であった。彼らの嫡男である9歳の[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー]]はハンサムで自信に満ちた少年だと思われており、またその妹と弟である[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]と[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ]]も含めて、ジェームズがプロテスタントの君主を続けるための王位継承者を用意できていることを示していた{{sfn|Fraser|2005|pp=70–74}}。
のちに、ロバート・キーズ、ケイツビーの使用人トマス・ベイツらが陰謀に加担した。


=== ジェームズ1世の初期の治世 ===
== 進行 ==
ジェームズのカトリック教徒に対する態度は、前王よりも穏健であり、おそらく寛容であった。「静かで、見かけでも法に従う者は迫害しない」と誓い<ref>{{Harvnb|Brice|1994|p=88}}</ref>、また「頭と身体が共にこの島から離れて{{efn|斬首刑や四つ裂き刑にされず五体満足のままを意味している。}}、海の向こうへと運ばれてくれれば私は嬉しく思う」と述べたように、死刑よりも国外追放の方が良い解決策だと考えていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=46}}</ref>。
彼らの計画は、[[ウェストミンスター宮殿|王宮]]近くに活動拠点を置くことから始まった。
カトリック教徒の中には、ジェームズの母であるスコットランド女王メアリーの殉教が、ジェームズにカトリックへの改宗を促すのではないかと考える者がおり、こうした希望的観測はヨーロッパのカトリック修道院にもあった可能性がある<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=xxx–xxxi}}</ref>。
また、エリザベス女王時代から続く[[英西戦争 (1585年-1604年)|英西戦争]]は、プロテスタントの新興国であるイングランドと、カトリックの列強である[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン]]という側面を持っていたが、国王に即位したジェームズは停戦を命じ、これを受けて[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]もまた両国は厳密にはまだ戦争状態にあったにもかかわらず、特使の{{仮リンク|ドン・ファン・デ・タシス|en|Juan de Tassis, 2nd Count of Villamediana}}を派遣してその即位を祝福した<ref name="Fraserp91">{{Harvnb|Fraser|2005|p=91}}</ref><!-- James and Tassis first met 8 November, Fraser p94 -->。また、戦争の一環としてイングランドは[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]独立を求める[[八十年戦争]]に際してプロテスタントの反乱軍を支援していたが、これについてもジェームズはオランダに残ったカトリック領の支配者である[[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ (1559-1621)|アルブレヒト7世]]の使節を受けるなど融和的な態度を見せた<ref name=" Fraserp91"/>。この戦争に参加していたカトリック教徒にとって、イングランドに力ずくでカトリックの王政を取り戻せるかもしれない可能性は魅力的なことであったが、1588年のスペインによるイングランド侵攻の失敗([[アルマダの海戦]])を受けて、[[ローマ教皇庁]]はイングランド王位にカトリック君主が復帰することには、長期的な展望を持つようになっていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=7}}</ref>。結果としてジェームズはスペインとの和解に成功し、翌1604年には両国は[[ロンドン条約 (1604年) |ロンドン条約]]を調印して戦争は終結した。


16世紀後半、カトリック教徒たちはエリザベス1世の毒殺計画を始めとして、ヨーロッパやイングランドのプロテスタントの為政者に対する暗殺計画をたびたび起こした。イエズス会の{{仮リンク|フアン・デ・マリアナ|en|Juan de Mariana}}が1598年に刊行した『王と王の教育について』では、1589年にカトリックの狂信者に刺殺されたフランス王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]の暗殺を明白に正当化し、1620年代まではイングランドのカトリックの間でも暴君をその座から排除するためには王殺しも正当化されうると考えていた<ref name=MarshallP227>{{Harvnb|Marshall|2006|p=227}}</ref>。
トマス・パーシーは第9代[[ノーサンバランド伯]]{{ill2|ヘンリー・パーシー (第9代)|en|Henry Percy, 9th Earl of Northumberland|label =ヘンリー・パーシー}}の遠縁であり、比較的宮廷に近い位置にいた。王宮周辺に最も顔の利くパーシーの働きによって、彼らは上院に隣接した家を見つけ、5月24日に年12ポンドで賃貸契約を締結することに成功した。この借家から上院直下の地下室に至るトンネルを掘り進め、その地下室に火薬を仕掛けることを試みたのである。
「かなり神経質になっていた」<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=32–33}}</ref>ジェームズの政治的な記録物の多くは、「カトリック教徒による暗殺の脅威と『信仰を異端者らと共に歩む必要はない』という(カトリック教徒の)主張への反論に関係していた」<ref name=MarshallP228>{{Harvnb|Marshall|2006|p=228}}</ref>。


=== 初期の陰謀計画 ===
借家の鍵はガイ・フォークスに渡された。以後、フォークスはパーシーの使用人を装い、ジョン・ジョンソン (John Johnson) という偽名を名乗って地下活動に従事することとなった。
ジェームズが戴冠した1603年7月前後に、2件の大きな陰謀事件が発覚した。ジェームズがカトリック教徒への迫害をやめる兆しが見えない中で、数人の聖職者(反イエズス会の2人の神父を含む)が、自分たち手で決着をつけることを企てた。後に[[バイ陰謀事件]]{{efn|後述のメイン陰謀事件に対比して「バイ(副)」と呼称される。}}と知られるこの計画は、{{仮リンク|ウィリアム・ワトソン|en|William Watson (priest)}}と{{仮リンク|ウィリアム・クラーク (司祭)|label=ウィリアム・クラーク|en|William Clark (priest)}}の2人の神父がジェームズを誘拐して[[ロンドン塔]]に監禁し、カトリックへの寛容政策を迫るというものであった。
セシルは、{{仮リンク|ジョージ・ブラックウェル|en|George Blackwell}}{{仮リンク|主席司祭|en|Archpriest}}ほか複数の関係者からこの計画の情報を知らされ、またブラックウェルは司祭たちに一切関与しないよう命令した。
一方ではほぼ同時期に、{{仮リンク|ヘンリー・ブルック (第11代コバム男爵)|label=コバム男爵ヘンリー・ブルック|en|Henry Brooke, 11th Baron Cobham}}、{{仮リンク|トマス・グレイ (第11代グレイ・ド・ウィルトン男爵)|label=グレイ・ド・ウィルトン男爵トマス・グレイ|en|Thomas Grey, 15th Baron Grey de Wilton}}、{{仮リンク|グリフィン・マーカム|en|Griffin Markham}}、[[ウォルター・ローリー]]の4人が、ジェームズとその家族を排除して、[[アラベラ・ステュアート]]を王位に迎えるといういわゆる[[メイン陰謀事件]]が画策されていた{{efn|前述のバイ陰謀事件に対比して「メイン(主)」と呼称される。}}。彼らはスペインの[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]に資金援助を求めていたが、失敗に終わった。
両方の計画は未遂のまま露見して関係者らは逮捕され、同年秋には裁判が始まった。ブルックの弟{{仮リンク|ジョージ・ブルック|label=ジョージ|en|George Brooke (conspirator)}}は処刑されたが、治世の開始を血生臭いものにしたくないジェームズの計らいによって、ブルック、グレイ、マーカムの3人は処刑台に立たされた上で恩赦を受けた。彼らの処刑を見せつけられた数日後に処刑されることになっていたローリーもまた、赦免された。アラベラは陰謀のことは知らなかったと否定した。また、バイ陰謀事件の主犯であった2人の神父は断罪され、「非常に血生臭い」罰を受けた後、処刑された<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=32–39}}</ref>。


こうした陰謀事件のニュースはカトリック社会に衝撃を与え、更なる迫害の危機を想起させた。しかし、実際には陰謀の露見によって迫害の手は緩められることになった。
火薬の保管場所として使用するためにランベス区でも家を借り、ロバート・キーズが担当として置かれた。一味は一旦解散して、{{ill2|ミカエル祭|en|Michaelmas}}の時に再び会うことにした。再会した彼らは、掘削を始めるべき時が到来したとの見解を互いに確認した。
ジェームズは訴えられていた国教忌避者たちに恩赦を与え、罰金の支払いにも1年の猶予を与えた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=76–78}}</ref>。


=== 反カトリック政策の再開 ===
掘削作業は12月11日から開始した。家への出入りを頻繁に行うと周囲に怪しまれるので、彼らはあらかじめ大量の食料を用意し、泊り込みで立ち塞がる土や岩盤と格闘した。慣れない肉体労働に苦しみながらも、彼らは絶えず働いた。この時期に、クリストファー・ライト、ロバート・ウィンターが計画に加わった。
1604年2月19日、ジェームズは、妻のアン王妃が、彼のスパイの一人{{仮リンク|アンソニー・スタンデン|label=アンソニー・スタンデン卿|en|Anthony Standen (spy)}}を通してローマ教皇からロザリオを送られたことを知り{{efn|アンがいつ、どのような形でカトリックに改宗したかについては歴史家の間でも意見が分かれている。
「1590年代のある時にアンはローマ・カトリック教徒となった」<ref>{{Harvnb|Willson|1963|p=95}}</ref>
「1600年以降、ただし1603年3月よりはかなり前に、アン王妃は王宮の隠し部屋にてカトリック教会に信仰を認められた」<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=15}}</ref>
「(前略)ジョン・リンゼイ卿は、1604年11月にローマに赴いて教皇に謁見した際、王妃がすでにカトリック教徒であることを明かした」<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=36}}</ref>
「このような状況を歓迎していたはずのカトリック教国の大使たちは、王妃が自分たちの手の届かないところにいることを確信していた。「彼女はルター派である」と、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の特使ニコロ・モリンは1606年に結論づけている」<ref>{{Harvnb|Stewart|2003|p=182}}</ref>
「1602年に出された報告書では、アンが(中略)数年前にカトリックに改宗したとあった。著者のスコットランドのイエズス会士{{仮リンク|ロバート・アバクロンビ|en|Robert Abercromby (missionary)}}は、ジェームズが妻の放棄(desertion)を平然と受け止めていたと証言し、「さて妻よ、そうではないと生きられぬというのであれば、できるだけ目立たぬように最善を尽くせ」と述べたとしている。実際、アンは自分の宗教的信念をできるだけ静かに保ち、残りの人生、さらに死後も、その内心は晦渋なままであった」<ref>{{Harvnb|Hogge|2005|pp=303–304}}</ref>}}、即座にカトリック教会を糾弾した。その3日後には、イエズス会をはじめとするすべてのカトリック司祭に国外退去を命じ、国教忌避者に対する罰金の徴収を再開した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=41–42}}</ref> 。
また、ジェームズはイングランド国内のカトリック教徒たちへの懸念から、イングランドとスコットランドの連合に注力した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=100–103}}</ref>。
例えば財務大臣や枢密院顧問を歴任することになる{{仮リンク|ジョージ・ホーム (初代ダンバー伯)|label=ジョージ・ホーム|en|George Home, 1st Earl of Dunbar}}といった[[スコットランド貴族]]を政権に招き入れたが、これは[[イングランド議会]]の不興を招いた。議員の中には「北方からの人々の流入」を歓迎しないことを表明し、「不毛の地から肥沃な地へと移された植物」に例える者もいた。また、スコットランド貴族に国教忌避の罰金徴収を許可したことは更なる不満を募らせた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=103–106}}</ref>。
1605年に5,560人が国教忌避で有罪判決を受け、そのうち112人が土地所有者であった<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=8}}</ref>。
少数派である富裕層のカトリック教徒が、教区の礼拝に出席することを拒んだ場合、月に20ポンドの罰金が科せられた。さらに裕福な場合には、年間収入の3分の2が罰金として科せられた。中産層の国教忌避者の罰金は、週に1シリングであったが、これらの徴収は「無計画でいい加減」だった<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=34}}</ref>。
ジェームズが権力を握ったとき、これらの罰金の総額は年間約5,000ポンド(2020年の価値に換算して約1,200万ポンド{{efn|1605年と2008年の5000ポンドの貨幣価値の比より計算。}})であった<ref name=MeasuringWorth>{{citation |last=Officer |first=Lawrence H. |title=Purchasing Power of British Pounds from 1264 to Present |publisher=MeasuringWorth |url=http://www.measuringworth.com/ppoweruk/index.php |year=2009 |accessdate=3 December 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091124192556/http://www.measuringworth.com/ppoweruk/index.php |archivedate=24 November 2009 }}</ref><ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=33}}</ref>。
3月19日、ジェームズは初のイングランド議会での開会演説を行い、自分は平和を願うが、それには「本当の宗教を公表すること」によってのみ可能であると述べた。
彼はまたキリスト教連合について語り、宗教的迫害は避けたいと繰り返した。カトリック教徒にとってこの演説は「自分たちの信仰が再びできるよう希望している」にも関わらず、「この王国において数と力を増やしてはならぬ」と明確にされたものであった。[[ジョン・ジェラード (イエズス会)|ジョン・ジェラード]]神父は、この言葉がイエズス会への迫害を強める原因になったのは間違いないとし、[[オズワルド・テシモンド]]神父は教皇派が抱いていた初期のジェームズへの期待に対する答えだと把握した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=106–107}}</ref>。
この演説の1週間後、{{仮リンク|エドモンド・シェフィールド (初代マルグレイヴ伯)|label=シェフィールド卿|en|Edmund Sheffield, 1st Earl of Mulgrave}}はノーマンビーの巡回裁判所に連れてこられた900人を超える国教忌避者について国王に報告し、4月24日には、イングランドのカトリック教会の信者たちを違法化すると見なせる余地のある法案が議会に提出された<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=108}}</ref>。


== 火薬陰謀事件 ==
その後、彼らは夜の闇に乗じて、ランベスから小舟で運んだ火薬をパーシーが借りた家に搬入した。1605年の[[イースター]]の頃、作業中であった一味の真上で轟音が鳴った。彼らは計画が発覚したのかと思い、不安に駆られた。しかし調べた結果、王宮の地下貯蔵庫に置かれていた[[石炭]]を除去する音であったことが判明。トンネルを掘削するという当初の計画を放棄して、彼らはこの地下貯蔵庫を年4ポンドで借りることを決めた。
{{location map+ |UK England |alt=イングランド |float=rghit|width=250 |caption=火薬陰謀事件におけるイングランドの地理
|places=
{{location map~ |UK England |lat=51.3028 |long= 0.0741 |label=<span style="font-size:70%">[[ロンドン]]</span>|position=top}}
{{location map~ |UK England |lat=52.1200 |long=-2.1300 |label=<span style="font-size:70%">[[ウスター]]</span>|position=bottom}}
{{location map~ |UK England |lat=52.3368 |long=-1.2896 |label=<span style="font-size:70%">[[ダンチャーチ]]</span>|position=right}}
{{location map~ |UK England |lat=52.2438 |long=-1.2514 |label=<span style="font-size:70%">[[クーム・アビー]]</span>|position=right|marksize=7|mark=Blue 000080 pog.svg}}
{{location map~ |UK England |lat=52.3043 |long=-2.1713 |label=<span style="font-size:70%">[[ホルベッチ・ハウス]]</span>|position=top|marksize=7|mark=Blue 000080 pog.svg}}
}}
ジェームズ1世の宗教政策に不満を覚えた過激派カトリック教徒の[[ロバート・ケイツビー]]は、国王が出席する[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]([[ウェストミンスター宮殿]])で行われる議会開会式を狙って、大量の[[火薬]]をもって議場ごと彼を爆殺することを企図した。これは国王ジェームズ以外にも式に参席する彼の近親者や[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]議員なども重要なターゲットであり、他にも貴族院議員として出席する上級裁判官やプロテスタント貴族、[[イングランド国教会]]の[[主教]]、また{{仮リンク|庶民院 (イングランド)|label=庶民院|en|House of Commons of England}}議員も標的であった<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=46}}</ref>。また、もう1つ重要なことは、これと同時に{{仮リンク|ミッドランド・ディストリクト|label=ミッドランズ地方|en|The Midlands}}で民衆叛乱を起こし、ジェームズの9歳になる王女[[エリザベス・ステュアート]]をカトリックの傀儡君主として王位に就けるというものであった。エリザベスは[[コヴェントリー]]近郊の[[クーム・アビー]]で暮らしており、これは[[ウォリック (イングランド)|ウォリック]]の北10マイルのところにあり、彼女を確保するにあたってはミッドランズに住んでいた計画者たちには都合がよかった。
エリザベスの兄弟である[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー]]と[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ]]の両王子の運命は成り行き任せであり、彼らが開会式に出席するかどうかは不明であった。また、計画者たちは[[ヘンリー・パーシー (第9代ノーサンバランド伯)|第9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー]]をエリザベスの[[摂政]]とすることを計画していたとされるが、おそらく伯爵にはそのことを伝えていなかったと思われる<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=140–142}}</ref>。
{{-}}


=== スペイン反逆事件と計画の始動 ===
早速火薬の入った樽が次々に運び込まれた。爆発の威力を増加させるため、中に鉄片や石を混ぜ込むという念の入れようであった。同年5月、上院直下の地下室は、うずたかく積まれた燃料用の薪束の下に隠された36樽もの火薬で満たされた。
{| class="wikitable" style="font-size: small; float:right"
|+ 火薬陰謀事件の主要メンバー
! 名前!!参加時期!!最期!!関係
|-
| ロバート・ケイツビー ||首謀者||戦闘で死亡||
|-
| ジョン・ライト ||初期5人の一人||戦闘で死亡||
|-
| トマス・ウィンター ||初期5人の一人||大逆罪で処刑||
|-
| トマス・パーシー ||初期5人の一人||戦闘で死亡||
|-
| ガイ・フォークス ||初期5人の一人||大逆罪で処刑||
|-
| ロバート・キーズ ||1604年10月||大逆罪で処刑||
|-
| トマス・ベイツ ||1604年12月||大逆罪で処刑||ケイツビーの使用人
|-
| ロバート・ウィンター ||1605年3月||大逆罪で処刑||トマスの兄
|-
| クリストファー・ライト ||1605年3月||戦闘で死亡||ジョンの弟
|-
| ジョン・グラント ||1605年3月||大逆罪で処刑||ウィンター兄弟の義弟
|-
| アンブローズ・ルックウッド ||1605年9月頃||大逆罪で処刑||キーズの従姉妹の夫
|-
| エバラード・ディグビー ||1605年9月頃||大逆罪で処刑||
|-
| フランシス・トレシャム ||1605年9月頃||獄死||ケイツビーの従兄弟
|}
[[File:The Gunpowder Plot Conspirators, 1605 from NPG.jpg|right|thumb|300px|alt=Engraving|{{仮リンク|ヴァン・ド・パス家|label=クリスピン・ド・パス|en|Van de Passe family}}による13人の犯人たちのうち、8人を描いた当時の銅版画。描かれていないのはディグビー、キーズ、ルックウッド、グラント、トレシャム。]]


火薬陰謀事件の首謀者である[[ロバート・ケイツビー]]は、「古くからの由緒ある名門」の出身であった。彼は当時の人々から「身長約6フィートの美男子で、運動神経が良く、優れた剣士」と評されていた。エリザベス女王の時代から信仰のためには武力も辞さないと考えていた敬虔なカトリック教徒であり、宗教政策の変更を期待して多くのカトリック教徒も関与した1601年の{{仮リンク|エセックス伯の反乱|en|Essex's Rebellion}}にも参加していた。この時は負傷して捕縛され、エリザベス女王より4,000[[マルク|マーク]](2008年現在の価値に換算して600万ポンド以上に相当{{efn|1601年と2008年の3000ポンドの貨幣価値の比より計算。}})の罰金を科す代わりに助命されて、支払いのため{{仮リンク|チャスルトン|en|Chastleton}}の地所を売却することとなった<ref name=MeasuringWorth /><ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=47}}</ref><ref name="NorthcotePP44-46" />。1603年にジェームズが即位してスペインとの融和関係が作られ始めると、スペインによる武力侵攻でカトリック解放を期待していたケイツビーは、他のカトリックの友人らと共にスペインの新王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]にイングランドへの侵攻を促す嘆願を行うことにし、後述の[[トマス・ウィンター]]が交渉者として派遣された。しかし、スペイン王はイングランドのカトリック教徒の窮状に同情してはいたが、それよりもジェームズとの和平を望んでおり、結局翌1604年には{{仮リンク|ロンドン条約 (1604年)|label=ロンドン条約|en|Treaty of London (1604)}}が締結され講和した<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=45–46}}</ref> 。ウィンターは、この講和条約の特使としてイングランドにやってきた{{仮リンク|ドン・ファン・デ・タシス|en|Juan de Tassis, 2nd Count of Villamediana}}とも会談する機会を持ち、その際には「3,000人のカトリック教徒」がスペインによる侵攻に呼応する準備があると説得しようとしたが、相手にされなかった<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=93}}</ref>。時の教皇[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]は、イングランドのカトリック勢力回復のために軍事力を用いることは、結果として残存するカトリック教徒を滅ぼすことになると懸念を表明していた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=90}}</ref>。このスペイン政府にイングランド侵攻を嘆願する使節団は、後の火薬陰謀事件の裁判において「'''スペイン反逆事件'''(Spanish Treason)」として糾弾されることとなった。
ガイ・フォークスは、他者が偶然あるいは故意に家に入った場合に疑いを持たれぬよう、地下室を整理した。フォークスはその後、かねてより助力を仰いでいた{{ill2|ウィリアム・スタンリー(Elizabethan)|en|William Stanley (Elizabethan)|label =ウィリアム・スタンリー}} (William Stanley) 及びヒュー・オーウェン (Hugh Owen) に経過を通知するためにフランドルに入り、8月に戻った。一方ケイツビーはパーシーに対し、人手や資金が不足しているため、信頼できる者を引き入れねばならないと提案した。彼は、{{ill2|エヴァラード・ディグビー|en|Everard Digby}}、{{ill2|フランシス・トレシャム (火薬陰謀事件)|en|Francis Tresham|label=フランシス・トレシャム}}、{{ill2|アンブロー・ルークウッド|en|Ambrose Rookwood}}、及び{{ill2|ジョン・グラント|en|John Grant (Gunpowder Plot)}}に計画を伝えた。ディグビーは1,500ポンドの寄付を、またトレシャムは2,000ポンドの寄付を申し出た。パーシーは、10頭の駿馬を調達することを約束した。


ケイツビーが貴族院を爆破する計画をいつから企てたのか正確な日時は不明だが、ジェームズが即位して間もない1603年6月頃、彼はアシュビー・セント・レジャーズの自宅においてカトリック教徒の友人である[[トマス・パーシー]]の訪問を受けた{{efn|トマス・パーシーの娘はケイツビーの8歳になる息子と婚約しており、2人の間に親族的な関係が築かれていた可能性がある。また、後述のケイツビーの友人であるジョン・ライトとは義兄弟の関係にあった{{sfn|Fraser|2005|p=120}}。}}<ref>{{Harvnb|De Fonblanque|1887|p=254}}</ref>。パーシーは[[ノーサンバランド伯|ノーサンバランド伯爵家]]一族の出身で([[ヘンリー・パーシー (第4代ノーサンバランド伯)|第4代ノーサンバランド伯]]の曾孫にあたる)、宮中の著名人でもある現当主[[ヘンリー・パーシー (第9代ノーサンバランド伯)|第9代ノーサンバランド伯爵ヘンリー・パーシー]]に仕えている人物であった。パーシーは伯爵に重用されており、1596年から同家の北部領地の代官に任命され、1600年から1601年にかけては伯爵と共にに低地地方([[ネーデルラント]])にも従軍していた。伯爵は同地にて指揮を執っていた頃、エリザベス女王の健康が思わしくないことを踏まえて、次期王位継承の有力候補であったスコットランド王時代のジェームズと密かに関係強化を図ろうとし、その密使役にもパーシーを選んだ<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=47–48}}</ref>。パーシーはカトリックに改宗した「真面目な」人物と言われており、カトリック側の資料によれば、青年時代は「剣と個人の勇気」に頼る傾向があったという<ref name="Fraserp49">{{Harvnb|Fraser|2005|p=49}}</ref><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=50}}</ref>。彼はこの機会を利用して次期国王にカトリックへの寛容政策の約束を取り付けたいと考え、またエリザベス女王の寵愛を受けていた妻マーサ・ライトとの別居に伴う家の不名誉も軽くしたいと考えていた。ノーサンバランド伯自身はカトリック教徒ではなかったが、イングランド国内のカトリック教徒の展望を良くしたいという意思は持っており、当時のジェームズとの書簡ではあからさまに活動しなければ処罰しないというような返信をもらい、伯爵は個人宅でミサを行うくらいは認められるようになるだろうと予想していた<!-- At the same time James was making similar noises to the Puritans p51 --><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=51–52}}</ref><ref>{{Harvnb|Nicholls|1991|p=98}}</ref>。さらにパーシーは、自分の評判を高めたいために、(自分の交渉によって)将来の王がイングランドのカトリック教徒の安全を約束してくれた、とカトリックの仲間内に吹聴していた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=50–52}}</ref>。そうした経緯がある中で、イングランド王となったジェームズはパーシーが期待していたほどの宗教政策の変更を行う気配を見せず、これに裏切られたと感じた彼は不満を鳴らし、暗殺も辞さない態度を見せた。ケイツビーは彼の短慮を宥める一方で、「俺はもっと確実な方法を考えているから、すぐに君に知らせる」と回答した<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=49–50}}</ref>。
== 密告 ==
全ては周到に進められているかに見えた。しかし、カトリック議員までも殺害することになるこの計画に対しては、疑問の声もあった。この意見の相違が原因となったのか、計画は1通の書簡によって狂わされた。


当時の記録によれば{{efn|これら記録は拷問や脅迫の元での証言や、政府の干渉を受けたと思われるものもあるため、信憑性には一定の疑いがある。}}、ケイツビーが最初に具体的な計画について言及したのは1604年2月のことである。ケイツビーは[[ランベス]]の自宅にトマス・ウィンターを招き、貴族院での議会開会式において議場を爆破し、イングランドのカトリックを再興するという彼の計画を明かしたという<ref name="NorthcotePP44-46" />。
開院式を目前に控えた10月26日の晩、{{ill2|第4代モンティーグル男爵・ウィリアム・パーカー|en|William Parker, 4th Baron Monteagle}}のもとに、匿名の書簡が届けられた。書簡には、開院式への出席を取りやめるよう警告する文章が書かれていた。モンティーグル卿は、この書簡を直ちに第5期初代[[ソールズベリー侯|ソールズベリー伯]][[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]に見せた。
ウィンターは有能な学者として知られており、数ヵ国語を話せ、またオランダではイングランド軍兵士として従軍した経験もあった<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=50}}</ref>。
彼の叔父{{仮リンク|フランシス・イングルビー|en|Francis Ingleby}}は、カトリックの司祭であったために1586年に処刑され、その後カトリックに改宗したという経緯があった<ref name="Fraserpp5961"/>。
また、この密談には、敬虔なカトリック教徒で、当時最高の剣士の一人と評され、エセックス伯の反乱にもケイツビーと共に参加した[[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|ジョン・ライト]]もいた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=58}}</ref>。
ウィンターは試みが失敗した場合の影響を懸念したが、「謀(はかりごと)を企て失敗したところでそれ以上のことはできない」というケイツビーの巧言に説得され、計画への加担を決めた<ref name="NorthcotePP44-46">{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=44–46}}</ref>。ただ、ウィンターもケイツビーも、まだ外国からの支援を完全には諦めていなかったため、「我々は平和な静かな方法を試さないわけにはいかない」としてウィンターは支援を求めて再び大陸に向かった<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=117–118}}</ref><ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=44–46}}</ref>。


[[フランドル]]地方を訪れたウィンターはスペインの要人{{仮リンク|ファン・フェルナンデス・デ・ベラスコ (第5代フリアス公爵)|label=フリアス公|en|Juan Fernández de Velasco y Tovar, 5th Duke of Frías}}{{efn|後のポルトガル王[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ジョアン4世]]の母方の祖父にあたり、コンスタブル・オブ・カスティーリャ(Constable of Castile)の名誉称号も持つ。}}と会談したが結果は芳しく無く{{sfn|Haynes|2005|p=42}}、次に元イングランドの司令官でスペインに寝返った{{仮リンク|ウィリアム・スタンリー (エリザベス朝)|label=ウィリアム・スタンリー|en|William Stanley (Elizabethan)}}とウェールズ出身の亡命スパイであるヒュー・オーウェン(Hugh Owen)と会合を持った{{sfn|Fraser|2005|p=87}}。2人はスペインが支援してくれる望みは薄いと答えたが、その代わりにオーウェンは前もってケイツビーが「忠実な同志になるだろう紳士」と見当をつけていた[[ガイ・フォークス]]を紹介してくれた。フォークスはイングランド出身の敬虔なカトリック教徒であり、オランダ独立戦争においてスタンリーの指揮する部隊に所属し、彼の寝返りを受けて自らもスペイン軍の兵士となり、1603年には大尉に推薦されていた男だった<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=84–89}}</ref>。彼はまた1603年のスペイン宮廷にイングランド侵攻を嘆願する使節団にも参加していた。ウィンターはフォークスに「スペインによる戦争が我らの癒しにならないのであれば、イングランドで事を起こすことを決めている」<ref name="ODNB Fawkes">{{citation |last=Nicholls |first=Mark |contribution=Fawkes, Guy (bap. 1570, d. 1606) |title=Oxford Dictionary of National Biography |publisher=Oxford University Press |year=2004 |edition=online |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/9230 |doi=10.1093/ref:odnb/9230}} {{ODNBsub}}</ref>と、計画を伝え、1604年4月に2人はイングランドに戻った{{sfn|Fraser|2005|pp=117–119}}。この数週間後にパーシーにも計画が伝えられた<ref name="ODNB Thomas Wintour"/><ref name="NorthcotePP46-47">{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=46–47}}</ref>。
書簡の差出人は遂に判明しなかったが、モンティーグル卿の義弟であったトレシャムとの説が有力である。


計画者たち5人の最初の会合は1604年5月20日に行われ、場所はおそらくトマス・ウィンターがロンドンに滞在する際の常宿であった{{仮リンク|ストランド (ロンドン)|label=ストランド|en|Strand, London}}のすぐ近くにある宿屋ダック・アンド・ドレイクだったと思われる<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=48}}</ref>。外部から隔離された個室において、5人は祈祷書に秘密の誓いを立てた。偶然だが、ケイツビーの友人で、陰謀を知らない[[ジョン・ジェラード (イエズス会)|ジョン・ジェラード]]神父が別室で[[聖餐]]([[ミサ]])を行っており、その後、5人は[[聖体]]を拝領した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=120}}</ref><!-- p121, this coincidence would later be used against the Jesuits -->。
ケイツビーらは、書簡がモンティーグル卿の手に渡り、しかもトマス・ウィンターが逮捕後の11月23日に行った告白の中で展開されているように、ソールズベリー伯が所有しているということを知っていた。にも拘らず、彼らは予定通り決行することを決めたのである。地下室を検査したフォークスの報告から、火薬が他者に触れられた形跡のないことが判明したことにより、計画の成功を確信したためとみられる。


=== 拠点構築と新たな仲間たち ===
こうしてガイ・フォークスは、火薬の見張りと点火を行うため、地下室に残された。他の陰謀者は[[ウォリックシャー]]のダンチャーチに逃れ、固唾を呑んで報せを待った。
[[File:House of lords and princes chamber.jpg|right|thumb|250px|alt=A monochrome illustration of several short buildings clustered in a small space. A yard in the foreground is filled with detritus.|プリンス・チェンバーの東端(左端)と貴族院の東壁(中央)が描かれている19世紀初頭のイラスト]]


誓いを立てた後、計画者たちはロンドンを離れて各々の自宅に戻った。今議会は閉会に近づいており、翌1605年2月の開会を前提に計画を進められると考えたが、この時点で何か具体的な案があるわけではなかった。
== 破局 ==
転機は6月9日に、パーシーがノーサンバランド伯から50人からなる国王の近衛隊{{仮リンク|ジェントルマン・アット・アームス|en|Honourable Corps of Gentlemen at Arms}}(Honourable Corps of Gentlemen at Arms)に任命されたことであった。このことはパーシーがロンドンに拠点を持つこと、すなわち怪しまれずに一味のアジトを作れる理由となり、プリンス・チェンバー(Prince's Chamber)に近い、ジョン・ホワイニアード(John Whynniard)の借地人ヘンリー・フェラーズ(Henry Ferrers)が所有するウェストミンスターの小さな物件が選ばれた。
しかし、議場が爆音に包まれる日は来なかった。地下室は、まさに開院式当日、11月5日の未明に[[治安判事]]{{ill2|トマス・ナイヴェット|en|Thomas Knyvet, 1st Baron Knyvet}} (Thomas Knyvet) によって襲撃されたのである。ナイヴェットは上院直下の地下室にてガイ・フォークスを発見し、一帯の捜索を命じた。当局は火薬の入った樽を発見し、フォークスを逮捕した。
パーシーはノーサンバランドの代理人である{{仮リンク|ダドリー・カールトン (初代ドーチェスター子爵)|label=ダドリー・カールトン|en|Dudley Carleton, 1st Viscount Dorchester}}と{{仮リンク|ジョン・ヒッピスリー|en|John Hippisley (Parliamentarian)}}を通してこの家の使用人を手配した。さらにフォークスがパーシーの使用人「ジョン・ジョンソン(John Johnson)」として、このアジトに配置されることとなった<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=52}}</ref>。
この建物には、イングランドとスコットランドの統一(合同)計画の検討を行うスコットランドの委員たちも滞在していたため、仲間たちはテムズ川の対岸にあるランベスのケイツビーの宿舎を借り、そこから保管していた火薬やその他の物資を毎晩、船で運び込めるようにした<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=54–55}}</ref>。
一方、この期間中にジェームズは、カトリック対策を進めており、議会は7月7日の休会までに反カトリック法案を押し通していた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=122–124}}</ref>。


[[File:John rocque house of lords gunpowder plot cropped.jpg|right|thumb|250px|alt=The medieval House of Lords was part of a complex of buildings alongside the north bank of the River Thames, in London. The building which the plotters planned to destroy was at the southern end of the complex of Parliamentary buildings, alongside a minor alley that led to a staircase known as Parliament Stairs.|1746年にジョン・ロックが作成したロンドン地図から、ウェストミンスター宮殿(旧宮殿)内の貴族院の位置を赤で示したもの。]]
[[画像:Fawkes_arrest2.jpg|thumb|250px|right|逮捕されるフォークス。]]
[[画像:Guy fawkes torture signatures.jpg|thumb|200px|right|ガイ・フォークスによる署名(上は「Guido」、下は「Guido Fawkes」)。拷問による衰弱が筆跡に表れている。]]
ジェームズ1世の寝室に連行されたフォークスは、当初は完全黙秘を決め込んだ。しかし、投獄された[[ロンドン塔]]にて、王の許可のもとで行われた凄まじい拷問の末、事件の全容を白状した。


1604年10月、ロンドンに戻ってきた一味は、「破滅して借金を抱えた絶望的な男」[[ロバート・キーズ]]を仲間に加えた<ref name=NorthcoteParkinsonP96>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=96}}</ref>。彼は背が高く赤ひげを生やし、信頼できる人物でフォークスと同様に自分のことは自分でできるとみなされており、火薬などを保管してあるランベスのアジトの管理を任された。また、キーズの家族関係には著名人との関わり合いがあり、彼の妻の雇用主は著名なカトリック貴族の{{仮リンク|ヘンリー・モーダント (第4代モーダント男爵)|label=モーダント男爵|en|Henry Mordaunt, 4th Baron Mordaunt}}であった。
[[スタフォードシャー]]にあるケイツビーの隠れ家にも、[[11月8日]]に捜査の手が入った。トマス・ウィンターは、肩に銃撃を受けた。続いてクリストファー・ライトとジョン・ライトが殺害され、ルークウッドが負傷した。ケイツビーはなおも抵抗を試みたが、パーシーと共に殺害された。残った生存者は全員投降した。
12月{{efn|ベイツ本人の告白による。}}、ケイツビーは、自身の使用人[[トマス・ベイツ]]が計画に気づいたことを悟り、彼も引き入れることを決めた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=130–132}}</ref><ref name=NorthcoteParkinsonP96 />。ベイツは主要メンバーの中では唯一の平民となった。


12月24日、議会の開会が延期されることが発表された。疫病(ペスト)への懸念から、一味が予定していた2月の開会ではなく、10月3日まで開かれないことになった。
審理の過程でイギリスに潜入しているイエズス会の事件への関与が疑われるようになり、1606年1月にガーネット、オールドコーン、テシモンド神父の手配書が各地に貼りだされた{{sfn|香内|2004|pp=441-458}}。ガーネットとオールドコーンは潜伏の後に1月27日に逮捕されたが、テシモンドは船でカレーに脱出した。テシモンドは事件の数少ない生き残りとなり、のちにカトリック側から見た事件の回想録を残した。
後の裁判での検察側の説明によれば、この延期期間中、一味はアジトからウェストミンスター宮殿の地下に続くトンネルを掘っていたという。
それによればアジトのある建物に滞在していたスコットランドの委員たちが仕事を終えて12月6日に引き払ったことで、一味はトンネルを掘り始めた。しかし、作業中に地上から物音がしたため中断したという(この音の発生源は家主の未亡人によるものであった)。その代わり彼らは最終的に火薬樽を設置することになった貴族院の真下にあたる地下室の片付けを行った<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=55–59}}</ref>。
ただ、このトンネルの話は政府の捏造であった可能性がある。検察側はトンネルの存在を示す証拠を提示することはなく、また痕跡も発見されなかったためである。
トンネルについての記録は、トマス・ウィンターの自白から直接得られたものだが<ref name="ODNB Thomas Wintour"/>、ガイ・フォークスは5回目の尋問まで、このような計画があったことを認めていなかった。
現実論として、トンネルを掘ることは非常に困難であり、また一味にトンネル堀の経験がある者もいなかった<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=133–134}}</ref>。


旧暦(ユリウス暦)の新年にあたる{{仮リンク|レディ・デー|en|Lady Day}}の3月25日、一味が再結集した時、[[ウィンター兄弟|ロバート・ウィンター]]、[[ジョン・グラント]]、[[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|クリストファー・ライト]]の3人が新たに加わっていた。ウィンターとライトの参加は当然とも言えた。ロバート・ウィンターは、トマス・ウィンターの実兄で、敬虔なカトリック教徒であり、かつ寛大で人望のある人物だったと言われる。わずかな財産と共に[[ウスター]]近郊の{{仮リンク|ハディントン・コート|en|Huddington Court}}を相続したが、この邸宅は神父の避難所として知られるなど、潜伏中の司祭らを匿っていた。また、彼の妻はウスターシャーの有名な国教忌避者である{{仮リンク|グラフトンのジョン・タルボット|en|John Talbot of Grafton}}の娘ガートルード(Gertrude)であった<ref name="Fraserpp5961">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=59–61}}</ref>。クリストファー・ライトは、ジョン・ライトの実弟で、兄やケイツビーと同じくエセックス伯の反乱にも参加し、当時は司祭の天国として知られていた、[[リンカンシャー]]のトウィグモア(Twigmore)に家族ごと移住していた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=56–57}}</ref><ref>{{citation|last=Nelthorpe |first=Sutton |title=Twigmore and the Gunpowder Plot |journal=Lincolnshire Magazine |volume=2|issue=8 |date=November–December 1935 |page=229}}</ref>。また、1603年のスペイン使節団にもアンソニー・ダットン(Anthony Dutton)という偽名で参加していたとされる(ただし、異論もある)<ref name="ODNB John Wright">{{Cite ODNB | last = Nicholls | first = Mark | contribution = Wright, John (bap. 1568, d. 1605) | title = Oxford Dictionary of National Biography | orig-year = 2004 | year = 2008 | url = http://www.oxforddnb.com/view/article/30036 | access-date = 25 October 2010 | doi = 10.1093/ref:odnb/30036}} {{subscription}}</ref>。
逮捕された容疑者は全て、ウェストミンスター・ホールで裁判にかけられた。[[1606年]]1月30日、ディグビー、ロバート・ウィンター、グラント、およびベイツはセント・ポール教会の西端にて処刑、また翌日にはトマス・ウィンター、ルークウッド、キーズ及びフォークスが処刑された。最後に残ったガーネットも、やはり審理の結果、死刑が確定した。彼は、事件への積極的な関与の否定を叫びながら、5月3日に処刑された。
ジョン・グラントはウィンター兄弟の妹ドロシーと結婚していた彼らの義弟であり、[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン]]近郊のノーブルック荘園の地主であった。知的で思慮深いと評され、{{仮リンク|スニッターフィールド|en|Snitterfield}}の自宅にカトリック教徒たちを匿い、彼もまたエセックス伯の反乱に参加していた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=136–137}}</ref><ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=57}}</ref>。[[ウォリック (イングランド)|ウォリック]]やストラトフォードに近いノーブルックは、ミッドランズでの蜂起において理想的な場所であり、グラントの役割は1605年の夏の間に同地で武器や弾薬といった物資を管理し<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=170}}</ref>、また近くの[[ウォリック城]]から希少な軍馬を調達することも担っていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=139}}</ref><ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=75}}</ref>。


=== 地下室(アンダークロフト)とガーネット神父の説得 ===
なお、上で述べた「上院地下に通じるトンネルの掘削」は事実ではなく、容疑者らの取調べの際、事件の猟奇性を高めるために捏造されたものであるとされる。
[[File:Capon map of parliament.jpg|right|thumb|250px|alt=The medieval complex of Parliamentary buildings was mapped by William Capon around the turn of the 18th century. This image shows a plan view of the ground floor levels, where each building is clearly described in text. Reference is made in the House of Lords undercroft, to Guy Fawkes.|ウィリアム・カポン(William Capon)が作成した議会の構内図では「ガイ・ヴォークス(Guy Vaux)」が火薬を保管するために使用した地下室(アンダークラフト)に、明示的な印を付けている。]]


[[File:Gunpowder plot parliament cellar.jpg|right|thumb|250px|alt=A monochrome illustration of a stone and brick-walled room. An open doorway is to the right. The left wall contains equally spaced arches. The right wall is dominated by a large brick arch. Three arches form the third wall, in the distance. The floor and ceiling is interrupted by regularly spaced hexagonal wooden posts. The ceiling is spaced by wooden beams.|1799年に描かれた貴族院の真下に位置する地下室。当時は長さ77フィート、幅24フィート4インチ、高さ10フィートだったとされている<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=59}}</ref>。]]
事件を契機に、1606年に{{ill2|宗教刑罰法|en|Penal Laws}}(Penal Laws) が強化され、カトリック教徒への弾圧はさらに苛烈なものとなった。


新たな仲間が加わった3月25日には、ウェストミンスター宮殿のジョン・ホワイニアードが所有する地下室({{仮リンク|アンダークラフト|en|Undercroft}})の使用権利を契約した日でもあった。
現代の物理学者の試算によると、「仮に計画が実行されていた場合、[[ウェストミンスター宮殿]]の大半は破壊され、半径1km圏内の窓ガラスが割れていたであろう」とのことである(なお、窓ガラスが一般に普及するのはごく最近のことであり、「窓ガラス」という表現を用いたのは爆発の威力を説明するために過ぎない)。
17世紀初頭のウェストミンスター宮殿は、中世に建てられた旧王宮の会議室や礼拝堂、ホールを中心に建物が密集しており、議場や様々な王立裁判所が設置されていた。旧王宮には簡単に行き来きすることができ、商人や弁護士、様々な人々が、宮殿内の宿泊施設や商店、酒場などで働いたり寝泊りしていた。
ホワイニアードの建物は、貴族院と直角に並び、パーラメント・プレイス(議会広場)と呼ばれる通路を挟んで、議会階段とテムズ川につながっていた。
当時、地下室は一般的な設備であり、食料や薪などさまざまなものが保管されていた。
ホワイニアードの地下室は、宮殿1階の貴族院の真下に位置し、かつての旧王宮の厨房の一部だと考えられている。当時は使用されておらず不衛生な場所であったが、一味の計画には最適であった<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=144–145}}</ref>。
フォークスによれば、最初に20樽の火薬を運び込み、続いて7月20日に16樽を持ち込んだという。火薬の売買は政府の専権事項であったが、違法な販売ルートから容易に入手することができた<ref name="Fraserpp146147">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=146–147}}</ref>{{efn|
当時、火薬は兵士や民兵、商船、火薬工場などからブラックマーケットを通して購入することができた<ref name="Fraserpp146147"/>。}}。


火薬陰謀事件に巻き込まれることとなった[[イエズス会]]の[[ヘンリー・ガーネット]]神父が、ケイツビーと会話したのは6月の第2週のことであった。後にガーネットが説明したところによれば、何気ない会話の中で、ケイツビーから「罪ある者となき者をまとめて殺す」ことの道徳性について尋ねられ、ガーネットは、カトリックの神学に基づいて、戦争中には罪のない人々が敵と一緒に殺されることがよくあると答えたという(歴史家兼作家の[[アントニア・フレーザー]]は、ガーネットはフランドル地方での話だと誤解したと推測している)。次に2人は7月に[[エセックス]]のフレムランドで再会し、この時はガーネットは反乱を禁じる教皇の書簡を見せてケイツビーを戒めたと述べている。
== その後 ==
この直後に、ガーネットはイエズス会の[[オズワルド・テシモンド]]神父からケイツビーから陰謀の告白を受けたことを報告された{{efn|Haynes (2005)は、テシモンドが告白を受けたのはトマス・ベイツとしている{{sfn|Haynes|2005|p=62}}。}}。ここで問題になったのは、ガーネットはケイツビーの告白は[[告解]]([[ゆるしの秘跡]])にあたると判断したことであり、告解であるならば守秘義務が発生することであった。よって、ガーネットはテシモンドから聞いた内容を当局に通報することはおろか、当事者のケイツビーにすら直接問いただすことができなかった<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=62–65}}</ref>。
事件以後、「11月5日」という日はイギリスにおいて、特別な意味をもって記憶されることとなった。1606年1月、議会は11月5日を「命を救い給うたことを神に感謝する日」として、法定の祝日と定めた。この制度は[[1859年]]に廃止されるまで、2世紀半にわたって続いた。
7月24日、ガーネットとケイツビーは{{仮リンク|エンフィールド・チェイス|en|Enfield Chase}}にある裕福なカトリック教徒[[アン・ヴォークス]]の家で3回目の話し合いを行うこととなった{{efn|[[アン・ヴォークス]]は本事件の犯人たちのほとんどと親戚関係にあった。また、自宅においてヘンリー・ガーネットを始めとしてカトリックの司祭(神父)たちを匿っていた{{sfn|Haynes|2005|pp=65-66}}。}}。この時、ガーネットは自分が陰謀の実態を知らない前提で、彼にそれを思い留まらせようとしたが、無駄に終わった<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=65–67}}</ref>。
ガーネットはイエズス会総長である{{仮リンク|クラウディオ・アックアヴィーヴァ|en|Claudio Acquaviva}}に手紙を書き、イングランドで反乱が起こることの懸念を伝えた。また、彼を通して「個人が反逆罪を犯したり、君主に対して武力を行使する危険性」としてローマ教皇に武力行使を禁止する声明を出すことも求めた。ただ、自分が計画を知っていることを隠そうとして、その対象をウェールズの反逆者向けだと示唆させることを提案してしまった<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=158-160}}</ref>。


7月28日、ペストの脅威は去らず、開会は11月5日火曜日まで再度延期された。フォークスは一時的に国を離れた。一方、国王は夏の間、都市部から離れて狩りに興じていた。都合の良い場所に滞在し、時には著名なカトリック教徒の邸宅に泊まることもあったという。ガーネット神父は陰謀の危機は去ったと確信し、巡礼の旅へと出た<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=159–162}}</ref>。
また[[名誉革命]]([[1688年]])の際には、カトリック信仰を奉ずる[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]を廃してイングランドの新国王となるべく決起した[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]]ウィレム3世(のちの[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]])は、イングランドのトーベイへの上陸日を11月5日に設定した。


=== 最後の詰め ===
この事件は新旧両教派間の深刻な対立構造を改めて示したが、これがのちの[[北アイルランド紛争]]を惹起する原因の一つとなったといわれる。事件を契機に、毎年国会の開院式前には、赤い制服を身にまとった{{ill2|王衛兵|en|Yeomen of the Guard}} (Yeomen of the Guard)が議場をはじめ王宮一帯をくまなく点検する儀式が行われているが、紛争とそれに伴い頻発した[[アイルランド共和軍|IRA]]のテロ事件を背景として、現在では単なる行事の域を遥かに超えた大規模なものとなっている。
[[File:Eliz bohemia 2.jpg|thumb|right|upright|alt=Painting|陰謀者たちが傀儡君主に仕立てようとしたジェームズ1世の娘[[エリザベス・ステュアート]]の肖像画({{仮リンク|ロバート・ピーク・ザ・エルダー|en|Robert Peake the Elder}}作、{{仮リンク|国立海洋博物館|en|National Maritime Museum}}所蔵)。]]


フォークスがいつイングランドに戻ったかは不明だが、8月下旬にはロンドンにおり、トマス・ウィンターと一緒に地下室の火薬が腐っていることを発見した。このため、薪に隠してさらに火薬を運び込んだ<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=170}}</ref>。一味に最後の3人が加わったのは1605年も9月過ぎのことであった。
[[1970年]]にガーネットの使用人で、逮捕後拷問によって死亡したニコラス・オーウェンはカトリック教会により[[列聖]]された{{sfn|香内|2004|pp=441-458}}。


{{仮リンク|聖ミカエル祭|en|Michaelmas}}(9月29日{{efn|旧暦であれば10月11日。}})にケイツビーは確固たる信仰心を持つカトリック教徒の[[アンブローズ・ルックウッド]]を説得し、ストラトフォード=アポン=エイヴォン近くの{{仮リンク|クロプトン・ハウス|en|Clopton House}}を借りさせた。ルックウッドは国教忌避者たちと繋がりを持つ青年であり、[[サフォーク]]は{{仮リンク|スタニングフィールド|en|Stanningfield}}にある[[コールドハム・ホール]]の馬屋の経営者であったことは、蜂起の際の軍馬が必要な一味にとって仲間に引き入れる決定打となった。彼の両親ロバート・ルックウッド(Robert Rookwood)とドロテア・ドーリー(Dorothea Drury)は裕福な地主で、息子を[[カレー (フランス)|カレー]]近郊のイエズス会の学校で教育した。
== ガイ・フォークス・ナイト ==
2人目の[[エベラード・ディグビー]]は人望のある青年で、[[バッキンガムシャー]]の{{仮リンク|ゲイハースト・ハウス|en|Gayhurst House, Buckinghamshire}}に住んでいた。1603年4月には国王よりナイトの称号を授与される一方で、ジョン・ジェラード神父によってカトリックに改宗していた。
イギリスでは、[[11月5日]](ただしグレゴリオ暦)は「[[ガイ・フォークスの日|ガイ・フォークス・ナイト]]」と呼ばれている。毎年この日には、「ガイ (guy) 」と呼ばれるフォークスを表す人形を市中に曳き回したのちに篝火で焼く行事が各地で行われた。現在では、もっぱら打ち上げ花火を楽しむ祭りとなっている。
ディグビーは妻のメアリー・マルショウ(Mary Mulshaw)と共に、神父の巡礼に同行したことがあり、ディグビーとジェラードは親しい友人であったといわれている。ディグビーはケイツビーに頼まれて、{{仮リンク|アルセスター|en|Alcester}}近郊の{{仮リンク|コートン・コート|en|Coughton Court}}を借りた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=159–162, 168–169}}</ref><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=175–176}}</ref>。また、パーシーが滞納していたウェストミンスターの物件の家賃1500ポンドを肩代わりした<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=80}}</ref>。


最後に仲間となった[[フランシス・トレシャム]]は、10月14日にケイツビーに声を掛けられた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=171–173}}</ref>。
== 異説 ==
トレシャムは裕福なカトリック教徒の{{仮リンク|トマス・トレシャム|en|Thomas Tresham II}}の息子で、ケイツビーとは従兄弟同士であり、一緒に育った上に共にエセックス伯の反乱にも関与していた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=110}}</ref>。父トマスが亡くなったばかりで、その莫大な遺産を相続したばかりであったが、国教忌避者に対する罰金や高額の嗜好品による放蕩、エセックス伯の反乱の関与で財産を減らしていた{{efn|トマス・トレシャムはエセックス伯の反乱に加担した息子フランシスとケイツビーの罰金の一部を肩代わりした。}}<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=79–80, 110}}</ref>。ケイツビーとトレシャムは、トレシャムの義兄であり従兄弟でもある{{仮リンク|エドワード・ストートン (第10代ストートン男爵)|label=ストートン卿|en|Edward Stourton, 10th Baron Stourton}}の家で会った。
Scholastic社刊の ''"The Slimy Stuarts"'' (ISBN 9780590134828) によれば、これはそもそも[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ国王]]がしくんだ偽の事件であるという説がある。箇条書きで簡単に書かれているが、これが事実であるという書き方になっている。翻訳すると次のようになる。
後のトレシャムの告白では、ケイツビーに「この計画は彼らの魂を呪うことにならないか」と尋ねたところ、ケイツビーは「そんなことはない」と答え、イングランドのカトリック教徒の窮状を考えるとこれは必要なことだと言っていた、と主張している。また、ケイツビーは2,000ポンドの援助と[[ノーサンプトンシャー]]の{{仮リンク|ラシュトン・ホール|en|Rushton Hall}}の使用を求めてきたというが、トレシャムは両方共に断ったという(ただし、トマス・ウィンターには100ポンドを渡している)。また、尋問官に対し、計画の前に家族をラシュトンからロンドンに移したと話した(もし計画に賛同していたならば、そんなことはしないだろうと弁明した)<!-- guilty of concealment but not an active participant --><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=173–175}}</ref>


計画の残りの詳細部分は10月にロンドンと{{仮リンク|ダヴェントリー|en|Daventry}}の酒場で決まった{{efn|この時の集まりには劇作家で詩人の[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]も同席していたというが陰謀発覚後は、犯人たちとの交友を無かったとするに労力を要した。{{sfn|Fraser|2005|p=179}}。}}。
ジェームズはイングランドに到着当初あまり人気がなく、人気取りのためにこの事件をしくんだ。やり方は、まず敵を作る(カトリックが望ましい)、次にその中に紛れ込ませた手下に「国王と大臣全てを吹き飛ばす」計画を吹き込み、計画実行直前に逮捕する。
フォークスは貴族院地下室の火薬樽に結んだ導火線に火を付けた後、テムズ川を渡って現場を離れる。時を同じくしてミッドランズ地方で反乱を起こし、ディグビー率いる「狩猟隊(hunting party)」がエリザベス王女を確実に確保する。その後、フォークスはヨーロッパのカトリック勢力にイングランドの状況を説明するため、大陸に向かうというものであった<ref name="Fraser 1999 178–179">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=178–179}}</ref>。


=== モンティーグルの手紙 ===
なお、この本を含む "Horrible Histories" シリーズは、歴史の副読本のような作りになっており、小学校もしくは中学校で実際に使われることを想定して書いたと思われる。Scholastic社には、教師用のウェブページもある。
[[File:Monteagle letter.jpeg|right|thumb|300px|alt=A damaged and aged piece of paper, or parchment, with multiple lines of handwritten English text.|陰謀が露見するきっかけとなった[[ウィリアム・パーカー (第4代モンティーグル男爵)|第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカー]]に送られた差出人不明の手紙。歴史的にはフランシス・トレシャムが書いたとされているが、確定しているわけではない。モンティーグル自身の自作自演説<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=182–185}}</ref>や、セシル説<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=85–86}}</ref>などもある。]]


ガーネットの友人で自宅によく神父を匿い、カトリック教徒の知人も多かった[[アン・ヴォークス]]など、メンバーらの妻や友人などの親しい関係にある者の中には、彼らの行動を疑い出す者も現れ始めていた<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=78–79}}</ref>。また、メンバー内でも爆破の決行日に開会式に出席する予定のカトリック教徒の知人らの安否を心配する声が出てきた<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=62–63}}</ref>。
== 脚注 ==
パーシーは自分の主君であるノーサンバランド伯を心配し、若き[[トマス・ハワード (第21代アランデル伯)|アランデル伯]]の名前を挙げた。ケイツビーは、軽傷を負えば当日は出席できないのではないかと提案した。また、ヴォークス卿や{{仮リンク|アンソニー=マリア・ブラウン (第2代モンタギュー子爵)|label=モンタギュー|en|Anthony-Maria Browne, 2nd Viscount Montagu}}、トレシャムの義兄弟にあたる[[ウィリアム・パーカー (第4代モンティーグル男爵)|モンティーグル男爵]]やストートン卿といった各貴族の名前も挙がった。キーズは妻の雇い主であるモーダント卿を心配し、彼に警告を与えることを提案したが、ケイツビーはありえないとこれを嘲笑した<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=82}}</ref>。
{{Reflist}}


10月26日土曜日、仲間内の打ち合わせでも名前が出たトレシャムの義兄にあたるモンティーグル男爵は、ホクストンの長らく使われていなかった家屋で食事を手配した。突然、召使いが現れ、道で見知らぬ人からモンティーグル卿への手紙を手渡されたと述べた。卿は、その手紙を皆の前で読み上げるように命じた。H・トレバー=ローパー(H Trevor-Roper)が「フランシス・トレシャムは事前に行ったこの策謀によって、陰謀を阻止するのと同時に、友人たちに警告を与えようとしたのである」と述べた手紙の内容は以下の通りである。
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author = [[香内三郎]] |title = 「読者」の誕生:活字文化はどのようにして定着したか |date = 2004 |publisher = 晶文社 |isbn = 4794966407 |ref = harv }}


{{Quotation|
== 関連項目 ==
閣下、私はあなたの友人たちへの親愛から、あなたを守りたいと思っております。
* [[ガイ・フォークス]]
それゆえに、もしご自身のお命を大事に思っておられるのであれば、今回の議会出席を見送るための何らかの口実を設けるべきことを、私はご助言いたします。なぜなら、神と人は今回の邪悪な行為を罰することに同意しているからです。
* [[ガイ・フォークスの日|ガイ・フォークス・ナイト]]
そして、この告知を少しも気にせず、自分のご領地に籠られ、安全に今後の出来事を予測できるようにしてください。
* [[コールドハム・ホール]] - 事件に関与した{{ill2|アンブローズ・ルックウッド|en|Ambrose Rookwood}}の邸宅
まだ騒動が起きているようには見えませんが、私は今議会において彼らが酷い打撃(blow)を受けると思っています。しかし、彼らは自分たちを害する者を見ることはできないのです。この助言はあなたに役立ちこそすれ、害を与えるものではないので、非難されるいわれはありません。なぜなら、あなたがこの手紙を燃やした時点で、危険は去っているからです。
*[[トーマス・ハリオット]] - 容疑者とされた一人
私はあなたがこの助言を有効に活用するよう神が恵みを与えてくださることを願っています。神の聖なる保護があなたに委ねられんことを<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=179–180}}</ref>。
*{{ill2|大衆文化における火薬陰謀事件|en|Gunpowder Plot in popular culture}}
}}
*[[パウルス5世 (ローマ教皇)]] - 当時の[[ローマ教皇]]
*[[イギリスの宗教]] - イギリスで信仰されてきた宗教
*[[カトリック解放]] - 事件が解放に繋がった事柄の一つとされる
*[[ジャコビアン時代]] - 事件があった時代
*[[ロンドン・ダンジョン]] - 容疑者達を取り調べた様子等を再現した施設


手紙の意味が分からないまま、モンティーグルはすぐに[[ホワイトホール宮殿|ホワイトホール]]に向かい、{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]](当時はソールズベリー伯)にこれを渡した<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=89}}</ref>。
== 関連書籍 ==
セシルは、国教忌避者に同情的だと思われていた[[エドワード・サマセット (第4代ウスター伯)|ウスター伯エドワード・サマセット]]と、カトリック教徒疑惑のあった[[ヘンリー・ハワード (初代ノーサンプトン伯)|ノーサンプトン伯ヘンリー・ハワード]]にはこの事を伝えたが、ケンブリッジシャーでの狩猟に忙しく、数日は戻ってこないであろう国王には連絡をしなかった。
* [[アントニア・フレーザー|アントニア・フレイザー]]、加藤弘和訳『信仰と[[テロリズム]]―[[1605年]]火薬陰謀事件』 [[慶應義塾大学出版会]]、2003年、ISBN 4766409671
一方、モンティーグルの使用人トマス・ワードは、ライト兄弟と家族ぐるみの付き合いがあり、ケイツビーに裏切りがあったことを伝えた。国王と一緒に狩りに行く予定であったケイツビーは、トレシャムを疑い、トマス・ウィンターと共に彼を詰問した。ケイツビーは「吊るしてやる」と脅したが、彼は密告の手紙は自分ではないと2人を説得し、翌日には手紙で計画を諦めるように促した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=180–182}}</ref>。

セシルは手紙を受け取る前に策謀の臭いを嗅ぎ取っていたが、計画の全貌や誰が関与しているかは不明であった。このため、陰謀がどう展開していくか見定めるために、様子を見ることにしていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=187–189}}</ref>。

=== 決行前夜の露見 ===
[[File:Guy fawkes henry perronet briggs.jpg|thumb|right|alt=In a stone-walled room, several armed men physically restrain another man, who is drawing his sword.|火薬陰謀事件の露見とガイ・フォークスの逮捕({{仮リンク|ヘンリー・ペロネ・ブリッグス|en|Henry Perronet Briggs}}作、1823年)]]

[[File:Guyfawkeslantern.jpg|thumb|right|現場で押収されたガイ・フォークスのランタン。]]

11月1日金曜日、ロンドンに帰ってきたジェームズにモンティーグルの手紙が渡された。読んだジェームズは「blow」という言葉に着目し、父[[ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)|ダーンリー卿]]が{{仮リンク|ダーンリー卿暗殺|label=1567年に爆殺された|en|Murder of Lord Darnley}}のと同じ規模の「火や火薬を使った何らかの策謀」を暗示しているのではないかと察した<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=70}}</ref><ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=90}}</ref>。
<!--Keen not to seem too intriguing, and wanting to allow the King to take the credit for unveiling the conspiracy, Salisbury feigned ignorance.<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=193–194}}</ref>-->
翌日、枢密院のメンバーがホワイトホール宮殿で国王に謁見し、1週間前にセシルが伝えた情報に基づいて、月曜日に{{仮リンク|宮内長官 (イギリス)|label=宮内長官|en|Lord Chamberlain}}[[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|サフォーク伯トマス・ハワード]]が議会の「天井も床下も」捜索を行うことを伝えた。
11月3日日曜日、パーシー、ケイツビー、ウィンターの3人は最後の打ち合わせを行い、パーシーは仲間たちに「極限の試練に耐えろ(abide the uttermost triall)」と言い、テムズ川に停泊中の仲間の船のことを思い出させた<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=92}}</ref>。
翌4日にはディグビーは{{仮リンク|ダンチャーチ|en|Dunchurch}}に「狩猟隊」を配置し、エリザベスを誘拐する手はずを整えていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=196–197}}</ref>。
同日、パーシーは陰謀には関与していないノーサンバランド伯を訪ね、モンティーグル卿の手紙に関する情報が得られないか確かめた。
そしてパーシーはロンドンに向かうと、ウィンター、ジョン・ライト、キーズの3人に心配することはないと安心させ、グレイズ・イン・ロードの自分の宿舎に戻った。同夜、ケイツビーはジョン・ライトとベイツを伴ってミッドランズに向けて出発したと思われる。キーズを訪ねたフォークスは、彼から導火線の時間を計るためにパーシーが残した[[懐中時計]]を渡され、また1時間後にはルックウッドが地元の刃物屋([[カトラリー|カトラリー屋]])から刻印が入った剣を数本受け取っていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=199–201}}</ref>。
探索の回数とタイミングについては2つの説があり、王によれば最初に議会周辺の建物の探索が行われたのは、ちょうど計画者たちが最終準備に追われていた11月4日の月曜日であり、探索者はサフォーク、モンティーグル、ジョン・ホワイニアードの3人であった。彼らは貴族院の地下室で山と積まれた大量の薪を発見し、そこにいた、おそらくフォークスだと思われる使用人を連行して聴取したところ、彼は薪は主人のトマス・パーシーのものだと答えたという。2人が調査結果を報告するために立ち去ると、フォークスも建物を後にした。すでにカトリックの活動家として当局に知られていたパーシーの名前が出てきたために、王のさらなる疑念を引き起こし、より徹底した探索を行うことが命令された。その日の夜遅く、{{仮リンク|トマス・ニヴィット (初代ニヴィット男爵)|label=トマス・ニヴィット|en|Thomas Knyvet, 1st Baron Knyvet}}率いる探索隊が問題の地下室を訪れた。そこでマントと帽子を身にまとい、拍車のついたブーツを履いたフォークスを再発見した。逮捕された時、彼は「ジョン・ジョンソン」と名乗った。所持品を調べたところ、ランタンのほか、懐中時計、[[火縄|スローマッチ]]数本、火つけ木が見つかった(ランタンは[[オックスフォード]]の[[アシュモレアン博物館]]に所蔵品として現存している<ref>{{citation |url=http://britisharchaeology.ashmus.ox.ac.uk/highlights/guy-fawkes-lantern.html |last=MacGregor |first=Arthur |date=January 2012 |title=Guy Fawkes's Lantern |work=British Archaeology at the Ashmolean Museum |publisher=britisharchaeology.ashmus.ox.ac.uk |location=Tradescant Gallery, Gallery 27, First Floor, Ashmolean Museum, Oxford, England |accessdate=19 October 2014 |archive-url=https://web.archive.org/web/20141107194310/http://britisharchaeology.ashmus.ox.ac.uk/highlights/guy-fawkes-lantern.html |archive-date=7 November 2014 |url-status=dead }}</ref>)<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=201–203}}</ref>。
そして積み上げられた薪や石炭の下から36本もの火薬樽が発見された<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=73}}</ref>。
フォークスは11月5日の未明に王のもとに連行された<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=94–95}}</ref>。

=== 一味の逃亡とフォークスへの尋問 ===
{{Quote box
| quote = 11月5日、私たちは議会を開会した。この議会には国王が直接出席するはずであったが、その日の朝に発覚されたある企てによって出席を見送られた。
この計画は玉座に座られた国王を、王が従えた、その子供たち、貴族、平民、さらに司教、判事、博士を巻き込み、一瞬にして爆破するというものであった。
刹那の爆発によってイングランドの国家と王国全体を破滅させる気だった。
そして、これを実現するため玉座の真下にあたる議場の地下に約30バレルの火薬と、大量の木材、ファゴット、鉄片、鉄の棒が置かれていた。
| source = エドワード・ホビー卿({{仮リンク|御寝所係官|en|Gentleman of the Bedchamber}})からブラッセル(Brussells{{sic}})大使のトマス・エドワーズ卿への手紙の抜粋 <ref>{{Harvnb|Nichols|1828|p=584}}</ref>
| align = right
| width = 33%
}}

「ジョン・ジョンソン」逮捕のニュースがロンドンに残っていた仲間たちに広がると、彼らのほとんどは即座に{{仮リンク|ワトリング・ストリート|en|Watling Street}}に沿って北西(ミッドランズ方面)に逃げた。
まず、このニュースはストランド地区の豪邸(グレートハウス)を中心に広まった際に、クリストファー・ライトが事態に気づき、宿屋「ダック・アンド・ドレイク」に泊まっていたトマス・ウィンターの元へ駆けつけた。ウィンターは彼にニュースの真偽を確認するように命じ、政府が(ジョン・ジョンソンの雇い主であった)トマス・パーシーを探していることを確認すると、次にパーシーに警告に向かうように命じた。こうしてクリストファーとパーシーはひと足早くロンドンを脱し、キーズもニュースを知ると即座に脱した。出るのが一足遅かったルックウッドは1頭の馬で30マイルを2時間で走り抜け、ハイゲート付近で先行していたキーズを追い抜き、さらに{{仮リンク|リトル・ブリックヒル|en|Little Brickhill}}でクリストファーとパーシーも追い抜いた。そしていち早くケイツビー一行(残りはジョン・ライト、ベイツ)と合流し、ロンドンの事態を報告した。間もなくパーシーらも合流し、一行はディグビーが用意した馬で{{仮リンク|ダンチャーチ|en|Dunchurch}}に向かった。キーズは別行動をとることを決め、{{仮リンク|ドレイトン (ノーサンプトンシャー)|en|Drayton, Northamptonshire|label=ドレイトン}}のモーダント卿の家に向かった。一方でトマス・ウィンターはロンドンに残り、様子を探るため、ウェストミンスターにも行った。暗殺計画が暴かれたことを確信すると馬で{{仮リンク|ノーブルック|en|Norbrook}}にある妹の家に向かった後、ウスター近郊の{{仮リンク|ハディントン・コート|en|Huddington Court}}に向かったという{{efn|{{仮リンク|ハディントン・コート|en|Huddington Court}}はトマス・ウィンターの兄ロバートが相続した物件であり、神父たちの避難所としてしばしば密かなミサも行われていた<ref name="Fraserpp5961"/>。}}<ref name="Fraserpp203206">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=203–206}}</ref>。

ケイツビーら6人は午後6時頃に{{仮リンク|アシュビー・セント・レジャーズ|en|Ashby St Ledgers}}に立ち寄り、そこでロバート・ウィンターに会って状況報告を行った。その後、ダンチャーチに到着し、ディグビー、グラントと合流した。計画の失敗にめげず、ケイツビーは武力抗争の余地はまだあると周りを説得した。ディグビーの「狩猟隊」には国王とセシルは死んだと嘘をつき、逃亡者たちは西のワーウィックへと移動した<ref name="Fraserpp203206"/>。

ロンドンで陰謀のニュースが広まると、当局は城門([[ロンドン・ウォール]])に警備を増やし、港を閉鎖し、怒れる暴徒に囲まれたスペイン大使の屋敷の警護にあたった。トマス・パーシーには逮捕状が発行され、彼の庇護者であるノーサンバランド伯は自宅軟禁となった<ref name="Fraserp226">{{Harvnb|Fraser|2005|p=226}}</ref>。
"ジョン・ジョンソン"は最初の尋問で母親の名前とヨークシャー出身であること以外は何も明かさなかった。ガイ・フォークスの名がある自分宛ての手紙を所持していたが、偽名の一つだと誤魔化した。"ジョンソン"は容疑を否定して無実を訴えるどころか、国王と議会を破壊することが目的だったと主張した{{efn|ジェームズの言葉を借りれば、フォークスは「私だけではなく、あるいは私の妻や子孫だけではなく、国家そのもの」の破壊を企図していた、ということになる{{sfn|Stewart|2003|p=219}}。}}。しかし、彼は落ち着いており、自分ひとりだけの犯行だと主張した。王は彼の屈しない姿勢に感銘を受け、「ローマ人のような決断力」を持っていると評した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=207–209}}</ref>。

[[File:A Torture Rack.jpg|thumb|right|upright|alt=Photo|[[ロンドン塔]]の[[拷問台]]。]]

11月6日、カトリックに強い憎悪を抱いていた首席裁判官{{仮リンク|ジョン・ポパム|en|John Popham (judge)}}は、ルックウッドの使用人に対し聴取を行った。その日の夜までにポパムは陰謀に関わった何名かの名前、すなわちケイツビー、ルックウッド、キーズ、ウィンター{{efn|原文は「Wynter」。}}、ジョン・ライト、クリストファー・ライト、グラントを特定した。一方、「ジョンソン」は、自分の話に固執し、発見された火薬{{efn|この火薬は[[ロンドン塔]]に運ばれたが、「腐っていた」という<ref name="Fraserp226"/>。}}と共にロンドン塔に移送され、そこで王は彼への拷問を決定した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=211–212}}</ref>。
当時、拷問は国王大権や[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]、[[星室庁]]などの機関による許可がなければ禁じられていた<ref>{{Harvnb|Scott|1940|p=87}}</ref>。ジェームズは11月6日付の手紙で「まずは優しい拷問が行われるべきである, et sic per gradus ad ima tenditur [and thus by steps extended to the bottom depths], and so God speed your good work.」と述べていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=215}}</ref>。
「ジョンソン」は手鎖を受けて壁に吊るされていたと思われるが、彼はほぼ間違いなく[[拷問台]]の恐怖に晒されていた。
11月7日に自白の意思を固め、その日の遅くに情報を吐き、その後の2日間でさらに情報を吐きだした<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=216–217}}</ref><ref>{{Harvnb|Scott|1940|p=89}}</ref>。

=== 最後の抵抗、ケイツビーの死 ===
11月6日、まだフォークスが沈黙を守っている中、逃亡者たちは[[ウォリック城]]を襲撃して物資を調達し、さらにノーブルックに赴きグラントが用意していた武器を回収した。そこからハディントンへと向かい、その道中でケイツビーは{{仮リンク|コートン・コート|en|Coughton Court}}にいるガーネット神父や他の神父たちに、事の次第を伝え、カトリックの支持が強いとされるウェールズでの挙兵に協力することを要請する手紙を書いてベイツに届けさせた。手紙を読んだガーネットは、ケイツビーの思惑に反して、彼とその仲間たちに「邪悪な行為」を止め、教皇の説教に耳を傾けるよう懇願した。そして即座に逃亡生活に入り、これは結果としてガーネットらイエズス会の神父らが当局の捜査から数か月逃れられることに繋がった(何名かの神父は仲間の行く末を案じてウォリックに向かったが捕まり、ロンドンで投獄された)。午後2時頃、ハディントンに到着したケイツビーらをトマス・ウィンターが出迎えた。彼らの家族や友人らも含め、道行き出会った者たちは反逆罪に問われる恐怖から、彼らに実質的に何の支持も同情も与えなかった<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=218–222}}</ref>。

11月7日早朝、仲間たちはハディントンにて告解を行い、聖餐式に臨んだ。主要メンバーと支援者、そしてディグビー率いる狩猟隊を含めた一味の数は、この時点で36名にまで数を減らしていた{{sfn|Fraser|2005|pp=205–206}}。降り止まぬ雨の中で彼らは{{仮リンク|ヘウェル・グランジ|en|Hewell Grange}}にあるウィンザー卿の空き家で武器や弾薬、資金を手に入れた。未だ彼らが期待していた大規模な反乱の目論見は、地元民の反応によって打ち砕かれた。彼らは、反乱者たちの「神と国」のためという意見に対し、「神と国だけではなくジェームズ王も支持している」と答えた。一行は、支持者であるスティーブン・リトルトンが所有するスタフォードシャーとの州境にある{{仮リンク|ホルベッチ・ハウス|en|Holbeche House}}に向かった。一方でトマス・ウィンターとリトルトンは別行動を取り、ジョン・タルボット卿の支援を得るべくシュロップシャーの邸宅ペッパーヒルを訪れたが無駄に終わった。ケイツビーらは午後10時頃にホルベッチ・ハウスに到着し、疲労と絶望感に苛まれる中で、ヘウェル・グランジで奪うも湿っていた火薬の一部を火の前に広げて乾かし始めた。火薬は物理的に圧力をかけないと爆発はしないが、火の粉が火薬にかかった瞬間、火柱が立ち、炎がケイツビー、ルックウッド、グラント、そしてモーガン(狩猟隊の一員)の4人を飲み込んだ<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=218–222}}</ref>。

トマス・ウィンターとリトルトンはホルベッチ・ハウスに向かう途中で、使者からケイツビーが死んだと知らされた。ここでリトルトンは逃亡して姿を消したが、トマスが家に駆けつけるとケイツビーは火傷を負っていたが生きていた。不運なグラントは炎で失明していた。ディグビー、ロバート・ウィンターとその異母兄弟のジョン、トマス・ベイツは去っていた。主要メンバーの中で残っていたのは、火傷で重傷を負ったケイツビーとグラント、ライト兄弟、ルックウッド、パーシーだけであった。彼らはこのままここに留まり、王の追跡者たちを迎え撃つ決意を固めた<ref name="Fraserpp222225">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=222–225}}</ref>。

11月8日の朝、ウスターシャーの州長官{{仮リンク|リチャード・ウォルシュ|en|Richard Walsh (English politician)}}率いる200人の部隊がホルベッチ・ハウスを包囲した。トマス・ウィンターは中庭を横切るときに肩を撃たれた。ジョン・ライトが撃たれ、続いて彼の弟、そしてルックウッドが撃たれた。逸話によれば、ケイツビーとパーシーはラッキーショットによって1発で仕留められたという。部隊は敷地内に突入し、敵側の死んだ者や瀕死の者の服を剥ぎ取った(この際にまだ息があったライト兄弟が死亡)。戦闘後、生きていたウィンター、ルックウッド、グラント、モーガンの4人が逮捕された<ref name="Fraserpp222225"/>。

== その後の対応 ==
[[File:Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury by John De Critz the Elder (2).jpg|thumb|right|upright|alt=A three-quarter portrait of a white man, dressed entirely in black with a white lace ruff. He has brown hair, a short beard, and a neutral expression. His left hand cradles a necklace he is wearing. His right hand rests on the corner of a desk, upon which are notes, a bell, and a cloth carrying a crest. Latin text on the painting reads "Sero, Sed, Serio".|初代ソールズベリー伯ロバート・セシルの肖像画({{仮リンク|ジョン・ド・クリッツ|en|John de Critz}}作、1602年)]]

ベイツとキーズは、ホルベッチ・ハウスが制圧された直後に逮捕された。出頭するつもりであったというディグビーもすぐに少人数の追跡者たちに捕まった。トレシャムは11月12日に逮捕され、3日後には[[ロンドン塔]]に連行された。犯人らと親しかったモンタギュー卿、モーダント卿、ストートン卿も塔に幽閉された。ノーサンバランド伯も11月27日にここに加わった<ref name="Fraserpp235236">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=235–236}}</ref>。計画の主要メンバーの中でもっとも長く逃亡に成功したのはロバート・ウィンターであった。彼はスティーブン・リトルトンと共に潜伏生活を続け、最終的には[[ハンフリー・リトルトン]](1601年のエセックス伯の乱に参加して反逆罪で投獄された国会議員{{仮リンク|ジョン・リトルトン|en|John Lyttelton (MP)}}の弟)<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=79}}</ref>の自宅である{{仮リンク|ハグリー|en|Hagley}}に匿われていた。ところが主人の食事の量に不審を抱いた料理人が裏切り、当局に通報した。こうして1月9日にロバートはスティーブンと共に当局に捕まり、主要メンバーは全員が逮捕されるか死亡したことになった。なお、2人の逃亡者の存在を否定して捜査を拒絶しようとしたハンフリーは当局の目を盗んで逃亡した{{sfn|Fraser|2005|pp=255–256}}。

その間、政府は陰謀が明るみに出たことを利用して、カトリック教徒への迫害を加速させた。エンフィールド・チェイスの[[アン・ヴォークス]]の家が捜索され、トラップドアや隠し通路の存在が明らかになった。恐怖に慄いた使用人たちは、この家によく滞在していたガーネットが、最近もここでミサを行っていたことを白状した。
[[ジョン・ジェラード]]神父は、ハローデンにあるエリザベス・ヴォークス(アン・ヴォークスの姉妹)の家に匿われていた。彼女はロンドンに連行され、取り調べを受けた。ジェラードが神父だとは知らず、「カトリック教徒のジェントルマン」だと思っていたと話し、また彼の居場所も知らないと毅然とした態度を通した。一味の家は捜索されると共に略奪に遭い、メアリー・ディグビーはこの略奪によって貧困に陥った<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=236–241}}</ref> 。
11月末までにガーネットは、ウスター近郊の{{仮リンク|ハインドリップ・ホール|en|Hindlip Hall}}に移り、枢密院に自身の無実を訴える手紙を書いた<ref name="ODNB Garnett">{{cite ODNB |last=McCoog |first=Thomas M. |chapter=Garnett, Henry (1555–1606) |title=Oxford Dictionary of National Biography |date=September 2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/10389 |accessdate=16 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/10389 |archive-url=https://web.archive.org/web/20161111060726/http://www.oxforddnb.com/view/article/10389 |archive-date=11 November 2016 |url-status=live }}</ref>。

火薬陰謀事件の阻止によって国王と皇太子たちが助かったことに対する国民の安堵感が高まり、続く議会では王への忠誠心と好意的な雰囲気に包まれた。
セシルはこれを巧みに利用して、エリザベス1世の時代よりも高い議会税(議会から国王へ与えられる補助金)を徴収することに成功した<ref>{{Harvnb|Croft|2003|p=64}}</ref>。
[[メイン陰謀事件]]によってロンドン塔に収監されていた[[ウォルター・ローリー]]はケイツビーの妻の従姉妹が妻であったことから、陰謀への関与を疑われたがまったく知らなかったと無罪を訴えた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=228}}</ref>。
ロチェスター司教はセント・ポールズ・クロスで説教を行い、この陰謀を非難した<ref name="Fraserpp232233"/>。
11月9日に両院で行われた演説で、ジェームズは[[王権神授説]]とカトリック問題という、王政の新たな関心事について説明した。ジェームズは、今回の陰謀はイングランドのカトリック教徒全体ではなく、一部のカトリック教徒によるものだと語り{{efn|ジェームズは「ローマの宗教を信奉する者がすべて同じ罪を犯しているということにはならない」と述べた<ref>{{Harvnb|Stewart|2003|p=225}}</ref>。}}、王は神によって任命されるものであり、自分が危機から逃れられたのは奇跡であるのだから、これを喜ぶべきであると議会に呼び掛けた<ref>{{Harvnb|Willson|1963|p=226}}</ref>。
セシルは海外のイングランド大使に事態を知らせる書簡を送り、国王が近隣諸国のカトリック教徒には害意を抱いていないことを念押しして説明した。
外国列強は、犯人たちを無神論者やプロテスタントの異端者と呼んで、大きく距離を置いた<ref name="Fraserpp232233">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=232–233}}</ref>。

=== 犯人及び関係者たちへの尋問 ===
[[File:Guy Fawkes confession.png|right|thumb|alt=A small irregular section of parchment upon which several lines of handwritten text are visible. Several elaborate signatures bookend the text, at the bottom.|ガイ・フォークスによる自白書の一部。「good」の下部分に、拷問直後に書かれた彼の弱々しい署名がかすかに見える(右下)。 ]]

事件関係者たちへの尋問は[[法務長官 (イギリス)|法務長官]]の[[エドワード・コーク]]が担当した。これは約10週間に及び、ロンドン塔の補佐官の宿舎(現在の{{仮リンク|クイーンズ・ハウス|en|Queen's House}})で行われた。最初の尋問において拷問が行われたという確証はないが、セシルが何度か拷問の実施を示唆している。後にコークが明かしたところによれば、陰謀の余波に巻き込まれた者たちの自白を引き出すには、多くは拷問するという脅しだけで十分であったという<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=241–244}}</ref>。

自白状の全文が記録されているのは、11月8日付のフォークスのものと、11月23日付のトマス・ウィンターのものの2つだけである。フォークスとは異なり、最初から陰謀に関わっていたウィンターは、枢密院に極めて貴重な情報を提供することができた。ただ、自白状の筆跡は間違いなくウィンター本人のものであるのに対し、署名(サイン)は明らかに従来のものと異なっていた。それまでのウィンターのサインは名前だけだったものが、この自白状ではファミリーネームがあり、さらに綴りは「Wintour」ではなく「Winter」となっていた。これに関しては何らかの政府の干渉があった可能性もあるし、あるいは、ホルベッチ・ハウスでの戦闘にて重傷を負った肩を固定された状態で書いたがために単に短く書いた方が痛みが少なくてすんだという可能性もある<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=106}}</ref> 。
ウィンターの自白では、兄ロバートについては一切触れられていない。
この2つの自白状は、1605年11月下旬に発行された、陰謀に対する政府の公式見解を急遽したためた書類、いわゆる『キングス・ブック(King's Book)』に掲載されている<ref name="ODNB Thomas Wintour">{{cite ODNB |last=Nicholls |first=Mark |contribution=Winter, Thomas (c.&nbsp;1571–1606) |title=Oxford Dictionary of National Biography |year=2004 |edition=online |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/29767 |doi=10.1093/ref:odnb/29767 |accessdate=16 November 2009 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160305123416/http://www.oxforddnb.com/view/article/29767 |archive-date=5 March 2016 |url-status=live }}</ref><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=242–245}}</ref>。

トマス・ベイツの自白はセシルがカトリック司祭を事件に結び付けるために必要な情報の多くを提供することに繋がった。12月4日にベイツはイエズス会の[[オズワルド・テシモンド]]神父が計画を知っていたと告白した。1606年1月13日の尋問では逃亡中の11月7日にケイツビーの命令を受けてコートン・コートのガーネットとテシモンドを訪ね、計画の失敗を伝えたことも明かした。また、テシモンドと一緒にハディントンに行って、彼がハインドリップ・ホールのハビントン家に向かうのを見送ったことや1605年10月にガーネット、ジェラード、テシモンドの3人で会ったことなどを尋問官に話した。尋問において陰謀にイエズス会が関わっていることを白状したのはベイツだけである{{sfn|Fraser|2005|p=132}}。ただし、[[アントニア・フレーザー]]は、ベイツの証言の信憑性に疑問を呈している。なぜなら、ベイツは他の仲間たちの中で唯一下層階級に属していたために拷問を受ける危険性が高く、このために尋問官の機嫌を取ろうとして虚偽の自白を行った可能性がある。後にベイツは自分の処刑が回避できないと知ると、これら自白を撤回した{{sfn|Fraser|2005|p=121}}{{sfn|Fraser|2005|p=249}}。

同様にトレシャムの証言も後々イエズス会、特にガーネット神父を追い込むことに繋がった。捜査に非協力的であったトレシャムは11月13日に自分が事件に関与していたことを認めたものの、ケイツビーの頼みを拒否した限定的な役割であったことや、計画を遅延させ、当局に通報する意思があったと弁明した{{sfn|Fraser|2005|pp=173-175}}。一方で陰謀発覚に寄与したモンティーグルの手紙に関しては何も触れなかった。また、自分が1602年から1603年にかけての「スペイン反逆事件」に関与していたことを明かし、その際にスペイン側の要人との取次としてガーネット神父を頼ったことを告白した<ref name="ODNB Tresham">{{Cite ODNB |last=Nicholls |first=Mark |contribution=Tresham, Francis (1567?–1605) |title=Oxford Dictionary of National Biography |volume=1 |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/27708 |access-date=16 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/27708}}{{subscription}}</ref>。12月に入ってトレシャムは尿路炎症によって健康を害し、塔内で治療を受けるも容態は悪化していった。そのままトレシャムは12月23日未明に亡くなった。臨終の間際にガーネット神父に関することなど、いくつかの自白を撤回したが、これは後のガーネットの裁判で当局に利用された。さらに、ガーネット宛の謝罪の手紙や、所持していたガーネットの論文なども、同裁判でコークに効果的に利用された{{sfn|Fraser|2005|p=290}}{{sfn|Fraser|2005|pp=311-315}}。
なお、逮捕された犯人達の中で唯一獄死し、裁判にかけらなかったトレシャムであったが、その遺体は斬首されてケイツビーやパーシーのものと一緒にノーサンプトンに晒し首にされ、身体はタワー・ヒルの穴に投げ込まれた<!-- Fraser says his estate went to his brother p253 --><ref>{{cite ODNB |last=Nicholls |first=Mark |chapter=Tresham, Francis (1567?–1605) |title=Oxford Dictionary of National Biography |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/27708 |accessdate=16 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/27708 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160105224523/http://www.oxforddnb.com/view/article/27708 |archive-date=5 January 2016 |url-status=live }}</ref>{{sfn|Fraser|2005|p=249}}{{sfn|Haynes|2005|p=104}}。

ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは困難な状況に立たされていた。11月4日に行ったトマス・パーシーとの昼間の食事は不利な証拠であり<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=93}}</ref>、トマスの死後は、彼の罪を立証することも、容疑を晴らすこともできる者がいなくなっていた。枢密院は、計画成就のあかつきにはノーサンバランド伯が傀儡の女王に即位させられたエリザベスの摂政になっていたと疑っていたが、彼を有罪にする証拠は不十分であった。伯爵はロンドン塔に留め置かれ、1606年6月27日、ついに侮辱罪で起訴された。彼はすべての公職から追放され、3万ポンド(2021年現在で約660万ポンド)の罰金を科され、最終的に1621年6月まで塔に幽閉され続けた<ref>{{cite ODNB |last=Nicholls |first=Mark |contribution=Percy, Henry, ninth earl of Northumberland (1564–1632) |title=Oxford Dictionary of National Biography |year=2004 |edition=online |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/21939 |accessdate=16 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/21939 |archive-url=https://web.archive.org/web/20161111061010/http://www.oxforddnb.com/view/article/21939 |archive-date=11 November 2016 |url-status=live }}</ref>。
モーダント卿とストートン卿は[[星室庁]]の裁判にかけられた。彼らにはロンドン塔への収監が宣告され、1608年に{{仮リンク|フリート監獄|en|Fleet Prison}}に移送されるまで幽閉されていた。また、どちらにも多額の罰金が科せられた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=333}}</ref>。

他にも陰謀には関与していないが、メンバーと個人的関わりがあって尋問を受けた者たちもいた。ノーサンバランド伯の兄弟であるアレン卿とジョスリーン卿が逮捕された。{{仮リンク|アンソニー=マリア・ブラウン (第2代モンタグ子爵)|label=第2代モンタグ子爵アンソニー=マリア・ブラウン|en|Anthony-Maria Browne, 2nd Viscount Montagu}}は、フォークスがかつて仕えていたこと、10月29日にはケイツビーに会っていたことから衆目を集めたが、数か月後に釈放された<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=125–126}}</ref>。{{仮リンク|アグネス・ウェンマン|en|Agnes Wenman}}はカトリックの家系で、エリザベス・ヴォークスと血縁関係にあった{{efn|ヴォークスは息子のエドワードの結婚に関してウェンマンに手紙を書いており、その中には解釈が難しい(怪しい)文言があったために、これを盗み見たリチャード・ウェンマンに疑われていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=151–152}}</ref>。}}。彼女は2回の尋問を受けたが、最終的には告発は取り下げられた<ref>{{cite ODNB |last=Griffiths |first=Jane |chapter=Wenman, Agnes, Lady Wenman (d. 1617) |title=Oxford Dictionary of National Biography |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/29044 |accessdate=16 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/29044}}</ref>。パーシーの秘書であり、後にノーサンバランド家の家計管理官となる{{仮リンク|ダドリー・カールトン (初代ドーチェスター子爵)|label=ダドリー・カールトン|en|Dudley Carleton, 1st Viscount Dorchester}}は、火薬が保管されていた金庫の借り主であったため、結果としてロンドン塔に幽閉されていた。セシルは彼の釈明を信じ、釈放を許可した<ref>{{cite ODNB |last=Reeve |first=L. J. |chapter=Carleton, Dudley, Viscount Dorchester (1574–1632) |title=Oxford Dictionary of National Biography |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/4670 |accessdate=16 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/4670 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150924155238/http://www.oxforddnb.com/view/article/4670 |archive-date=24 September 2015 |url-status=live }}</ref>。

=== 裁判 ===
[[File:Edward coke.jpg|right|thumb|upright|alt=Portrait of a man dressed in black with a white lace ruff|法務長官[[エドワード・コーク]]は陰謀に関与したと思われる者たちへの尋問を担当した。]]

1606年1月26日、この時点で生きていた事件の犯人たち8人に対する裁判が開かれた。彼らはウェストミンスター・ホールに喚問され、7人はロンドン塔から平船で、平民のベイツのみ{{仮リンク|ゲートハウス監獄|en|Gatehouse Prison}}から[[星室庁]]へと移送された。彼らの中には意気消沈している者もいたが、タバコを吸って平然としている者もいたという。
裁判の傍聴者の中には、国王とその家族も密かに参席していた。出席した諸侯委員は[[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|サフォーク伯爵]]、ウスター伯爵、ノーザンプトン伯爵、{{仮リンク|ウィリアム・キャベンディッシュ (初代デボンシャー伯)|label=デボンシャー伯爵|en|William Cavendish, 1st Earl of Devonshire}}、ソールズベリー伯爵(セシル)であった。ジョン・ポパムが主席判事を務め、以下、{{仮リンク|トマス・フレミング (裁判官)|label=トマス・フレミング|en|Thomas Fleming (judge)}}が財務府裁判所主席判事、{{仮リンク|トマス・ウォルムスレイ|en|Thomas Walmsley (judge)}}とピーター・ウォーバートン卿(Peter Warburton)の2人の判事が大法廷判事を務めた。反逆者たちの名前のリストが読み上げられたが、それは神父の名前からであった。すなわち、ガーネット、テシモンド、ジェラードである<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=263–265}}</ref><ref name="Haynespp110111">{{Harvnb|Haynes|2005|pp=110–111}}</ref>。

最初に答弁を行ったのは、下院議長(後に{{仮リンク|記録長官|en|Master of the Rolls}})の{{仮リンク|エドワード・フィリップス|label=エドワード・フィリップス卿|en|Edward Phelips (speaker)}}であり、陰謀の背後にあるものについて詳細に語った<ref name="Haynespp110111"/>。
続いて法務長官エドワード・コークの長い答弁が行われ、これはセシルの意図が強く反映されており、国王がカトリック教徒と約束したことは何もないという否定も含まれていた。
モンティーグル卿が陰謀の発見に貢献したことは歓迎され、また1603年に行われたスペインへの使節団(スペイン反逆事件)を非難する内容も強く取り上げられた。しかし、ジェラード神父は計画について何も知らなかったというフォークスの反論は、この答弁では省かれていた。外国の為政者について言及された場合には敬意が払われていたが、司祭の場合には非難され、その行動を可能な限り分析し、批判された。コークは今回の陰謀がイエズス会の発案であることは疑念の余地がないと断言した。ガーネットがケイツビーと面会した際に、ケイツビーが陰謀の非難を受ける謂れはないと述べたことは、イエズス会が陰謀の中心であることの十分な証拠だとされてしまった<ref name="Fraserpp266269">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=266–269}}</ref>。コークは、火薬陰謀事件は後世に「イエズス会反逆事件(the Jesuit Treason)」と知られることになるだろうと言った<ref name=WilsonP136>{{Harvnb|Wilson|2002|p=136}}</ref>。
また、王妃を始めとする国王一家の運命や、計画が成功した場合に爆発に巻き込まれたであろう罪のない人々のことを踏まえながら語っていった<ref name="Fraserpp266269"/>。

{{Quote box
| quote = 私はローマの司祭が関わっていない反逆事件を未だかつて見たことはないが、今回は非常に多くのイエズス会士が関わっており、彼らはすべての不正行為に関与し、黙認したことがわかっている。
| source = [[エドワード・コーク]]<ref name="Haynespp110111"/>
| width = 33%
| align = right
}}

さらにコークは死刑囚たちの運命([[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]])についても語った。彼らは仰向けにして地面を馬に引きずられながら死に向かう。「天と地の間で、そのどちらにもふさわしくない死を迎える」ことになるだろう。性器を目の前で切り取られて焼かれ、また腸と心臓も取り出される。そして斬首され、八つ裂き(四つ裂き)にされた身体の一部は「鳥の餌」となるよう晒される<ref name="Fraserpp266269"/>。
その後、罪人たちの自白書や宣誓書が読み上げられ、最後に彼らの発言が許された。ルックウッドは「この世の誰よりも敬愛している」ケイツビーに計画に引き込まれたと主張した。
トマス・ウィンターは、兄ロバートの免罪を請い、自らは絞首刑となることを懇願した。
フォークスは無罪を主張し、起訴状の一部については知らなかったと釈明した。キーズは自分の運命を受け入れた様子を見せ、ベイツとロバート・ウィンターは慈悲を請い、グラントは自分の関与を「関わったが未遂に終わった陰謀」と弁明した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=270–271}}</ref>。
別容疑で裁かれたディグビーだけは<ref name="Haynespp110111"/>、国王がカトリック教徒に対する寛容の約束を反故にしたと非難し、ケイツビーへの敬愛とカトリックの大義への敬信が自分に行動を起こさせたとして罪を認めた。
そのうえで斧による処刑([[斬首刑]])を望み、また残される幼い家族への国王の慈悲を求めた<ref name="ODNB Everard Digby">{{cite ODNB |last=Nicholls |first=Mark |chapter=Digby, Sir Everard (c. 1578–1606) |title=Oxford Dictionary of National Biography |date=September 2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/7626 |doi=10.1093/ref:odnb/7626 |accessdate=16 November 2009 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150924161927/http://www.oxforddnb.com/view/article/7626 |archive-date=24 September 2015 |url-status=live }}</ref> 。
彼らの答弁は無駄に終わり、コークやノーサンバランドに論破され、7人の共犯者とともに[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]での有罪を宣告された。
ディグビーは「もしもあなた方の中に私をお許しくださるようおっしゃってくれる方がいるのであれば、私はもっと気軽に絞首台に向かうでしょう」と叫んだ。これに対する返答は短く、「神よ、彼をお許しください。我らもそうします(God forgive you, and we do.)」<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=273}}</ref><ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=113}}</ref>。

=== ガーネット神父の逮捕と裁判 ===
[[File:Hindlip hall.jpg|thumb|right|alt=A monochrome illustration of a large medieval building, with many windows, turrets, and chimneys. Sculpted bushes surround the house, which is surrounded by fields and trees.|ウスターシャーにあった{{仮リンク|ハインドリップ・ホール|en|Hindlip Hall}}。建物は1820年の火事で焼失した。]]

先述の通り、トマス・ベイツらの「自白」を基に当局は事件にイエズス会が関与していたものとみなし、1606年1月15日に[[ヘンリー・ガーネット]]神父、[[ジョン・ジェラード (イエズス会)|ジョン・ジェラード]]神父、グリーンウェイ神父([[オズワルド・テシモンド]])に対する指名手配を行った。このうち、ジェラードとテシモンドはうまく当局の目を逃れ、最終的に国外逃亡に成功した<ref name="ODNB Gerard">{{cite ODNB |last=McCoog |first=Thomas M. |chapter=Gerard, John (1564–1637) |title=Oxford Dictionary of National Biography |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/10556 |accessdate=20 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/10556}}</ref>。しかし、ガーネットは運が悪かった。
ガーネットが潜伏していた{{仮リンク|ハインドリップ・ホール|en|Hindlip Hall}}は、トマス・ハビントン{{efn|モンティーグル男爵の義弟であり、本来はハンフリー・リトルトンのように犯人隠匿(司祭隠匿)の罪で死刑の恐れもあったが、事件解決に貢献した男爵の口添えにより恩赦を受けた<ref name=Fraser>Fraser, Antonia; ''Faith and Treason: The Story of the Gunpowder Plot'', New York, [[Doubleday (publisher)|Doubleday]] (1996)</ref>。}}の家で、同じイエズス会の[[エドワード・オールドコーン]]神父の拠点でもあった。ここには他に[[聖職者の巣穴]]の構築で有名な[[ニコラス・オーウェン (イエズス会士)|ニコラス・オーウェン]]も潜伏していた。ハインドリップ・ホールに当局の捜査の手が入ったのは1月20日のことであり、地方判事とその部下達は、家主であるハビントンの抗議を無視して連日の家宅捜査を続けた。24日にオーウェンとラルフ・アシュリーが空腹に耐えかね投降した。ここでガーネットとオールドコーンはもう少しだけ耐えれば当局は諦めて帰ると踏んでいたが、ハンフリー・リトルトンの逮捕がその予想を阻んでしまった。先述のロバート・ウィンターとスティーブン・リトルトンを匿っていたが当局に見つかり、逃亡したハンフリーはスタフォードシャーのプレストウッドにて逮捕された。その後、ウスターで死刑宣告されるも1月26日に助命を請いてガーネットの居場所を密告していた。このために当局は諦めることなくハインドリップ・ホールの家宅捜査を続け、結局、1月27日に、長期間に渡る聖職者の巣穴での生活で衰弱したガーネットはオールドコーンと共に当局に投降した{{sfn|Fraser|2005|pp=256-262}}。

ガーネットはまずウスターシャーのホルト城に連行された後、数日後にロンドンに移送され、最初はウェストミンスターのゲートハウス監獄に収監された。その翌日にはロンドン塔に移された{{sfn|Fraser|2005|pp=283-284}}。このロンドンへの移送の際には、長い潜伏生活で衰弱していたガーネットのために、国王の負担で良馬があてがわれ、またロンドン塔でも彼が「非常に素晴らしい部屋」と表現する部屋をあてがわれた{{sfn|Bengsten|2005|p=70}}。彼に対する尋問は23回にわたった可能性があるが、[[拷問台]](ラック)などが使用される恐れに関しては「Minare ista pueris(脅しが通じるのは少年のみ)」{{efn|Haynes (2005) は「Minute ista pueris」と間違えたようである。}}と答え、そうした行為が無駄だと示した。結局、ガーネットの返答や明かす情報は事前によく考えられたものであり、また限定的であった。尋問者たちは様々な手を考え、内通者にゲートハウス監獄にいる甥への手紙を中継することを申出させてその手紙を検閲したり、壁にわざと穴を開けて会話が可能なオールドコーンの独房と隣合わせに入れて、その会話を盗み聞きするなどと処置をとった{{sfn|Haynes|2005|pp=116-119}}。これは結果として、自分が計画を知っていたと証言できるのは一人だけだ、という重要な情報をガーネットが漏らすことに繋がった。その後の拷問によって彼はテシモンドを通してケイツビーの計画を事前に知っていたことを認めた{{sfn|Northcote Parkinson|1976|p=103}}。

ガーネットに対する裁判は3月28日に{{仮リンク|ギルド・ホール|en|Guildhall, London}}で午前8時から午後7時まで行われ、起訴内容は大逆罪であった<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=120}}</ref>。
コークの答弁ではガーネットが計画の立案者になっていた。彼は「ガーネットは天賦の才を与えられた者であり、博学で、数か国語に長けた専門家であり、本当に彼は同輩や高位のイエズス会士の前任者たちよりも優れている、悪魔のような反逆罪を企てたという点において。偽装の博士として王の破滅(Deposing)、王国の破滅(Disposing)、臣民の破滅(Daunting)と恫喝(Deterring)、そして破壊(Destruction)を企んだのである」と糾弾した。また、トレシャムの死に際に書かれたガーネット宛の謝罪の手紙が読み上げられ、それは1603年の「スペイン反逆事件」について書かれていたものにも関わらず、中身を知らないガーネットには1605年の出来事のものだと錯覚させた{{sfn|Fraser|2005|pp=310-312}}。さらに裁判では火薬陰謀事件だけではなく、彼自身の教義についても質問が行われた。トレシャムの遺品にあったガーネットの論文より、信仰のためには時に嘘を付くことも仕方がないとする「曖昧性の教義」は、「公然と、かつ大々的に嘘を放ち、偽証すること」とコークに糾弾され、さらにガーネットの立場を危なくした。テシモンドから聞いた内容は懺悔室の守秘義務の下で行われたために、当局に通報できなかったという弁明に対して、セシルはその時点で暗殺計画はまだ起きていないのだからできたはずだと指摘した。また、ケイツビーと無実の人々の死について直接会話した際にも同様にできたはずだと指摘したが、ガーネットはこの時点では質問と事件の関連性が理解できていなかったと弁明した。ノーザンプトン伯はラテン語で「quod non-prohibet cum potest, jubet(男ができることを禁じないのは、彼への命令と同じ)」と批判した{{sfn|Fraser|2005|pp=313-314}}。

ガーネットはすべての容疑に反論し、カトリックの立場を説明して自分はケイツビーを止めようとしたと弁明したが、それでも有罪となり、死刑宣告を受けた<ref name="ODNB Garnett"/>。

=== 死刑執行 ===
[[File:The execution of Guy Fawkes' (Guy Fawkes) by Claes (Nicolaes) Jansz Visscher.jpg|thumb|300px|right|alt=A monochrome illustration of a busy urban scene. Medieval buildings surround an open space, in which several men are being dragged by horses. One man hangs from a scaffold. A corpse is being hacked into pieces. Another man is feeding a large cauldron with a dismembered leg. Thousands of people line the streets and look from windows. Children and dogs run freely. Soldiers keep them back.|火薬陰謀事件の犯人たちが[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]に処された場面が描かれた版画]]

既に死亡していたケイツビーとパーシーは、遺体を掘り起こされ、斬首された後、その首は貴族院の外にスパイク(長槍)で串刺しにされ梟首にされた<ref name="Fraserpp235236"/>。
寒かった1月30日にエベラード・ディグビー、ロバート・ウィンター、ジョン・グラント、トマス・ベイツの4人は、ハードル(木の板<ref>{{Harvnb|Thompson|2008|p=102}}</ref>)に縛られて、ロンドンの混雑した通りをセント・ポール教会堂まで引き回された。
最初に処刑台に上がったディグビーは観衆に赦しを請い、プロテスタント司祭の説教を拒んだ。
衣服を剥ぎ取られシャツ1枚となった彼は、梯子を上り、絞首縄に頭を通した。
意識があるうちに性器を切り取られ、内臓を抉られ、他の3人の仲間と共に四つ裂きにされた<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=115–116}}</ref>。
翌日、トマス・ウィンター、アンブローズ・ルックウッド、ロバート・キーズ、ガイ・フォークスの4人は、爆破を計画していた建物の反対側にあたるウェストミンスターの{{仮リンク|オールド・パレス・ヤード|en|Old Palace Yard}}で、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された<ref>{{cite ODNB |last=Nicholls |first=Mark |chapter=Rookwood, Ambrose (c.&nbsp;1578–1606) |title=Oxford Dictionary of National Biography |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/24066 |accessdate=16 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/24066}}</ref>。
キーズは、絞首刑の執行を待たず自ら絞首台より飛び降り自殺を図ったが、死ぬことはできず舞台に連れ戻された。拷問で弱っていたフォークスも同じく絞首台から飛び降りたが、彼は頸椎を折って死ぬことに成功し、陰惨な処刑の後半の苦しみから逃れることができた<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=91–92}}</ref><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=279–283}}</ref>。

スティーブン・リトルトンはスタッフォードで処刑された。彼のいとこのハンフリーは当局に協力したにもかかわらず、ウスター近くの{{仮リンク|レッドヒル|en|Red Hill, Worcester}}で処刑された<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=129}}</ref>。
ガーネット神父の処刑は1606年5月3日に行われた<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=114–115}}</ref>。

== 余波・影響 ==
{{See also|{{仮リンク|火薬陰謀事件を基にした大衆文化|en|Gunpowder Plot in popular culture}}}}
[[File:Sheares Bible Gunpowder Plot.jpg|thumb|18世紀のプロテスタントの聖書に記された「火薬反逆事件(The Gunpowder Treason)」]]

1604年当時、そもそもローマ・カトリック教徒が自由に礼拝できるようになることは考えにくいことであったが、このような広範囲にわたる陰謀の発見と関係者の逮捕・裁判を経て、議会は新たな反カトリック法を導入することになった。こうした対カトリック政策の変更はスペインの希望を打ち砕くものでもあった<ref name="Allen154">{{cite book|last1=Allen|first1=Paul C|title=Philip III and the Pax Hispanica, 1598–1621: The Failure of Grand Strategy|page=154|date=2000|publisher=Yale University Press|isbn=978-0-300-07682-0}}</ref>。
1606年の夏、国教忌避者に対する法律が強化された。「Popish Recusants Act」は、エリザベス朝時代の罰金と規制を復活させ、聖餐式のテストと忠誠の宣誓([[至上権承認の宣誓]])を導入し<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=131}}</ref>、また、カトリック教徒たちに「ローマ教皇に破門された君主は退位または暗殺されるべき」という教義を破棄するように求めるものであった<ref name=MarshallP227 />。
カトリックが自由になるのは、それからさらに200年掛かったが、ジェームズ1世の時代においては、重要かつ忠実なカトリック教徒が政府高官として活躍していた<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=140}}</ref>。
確かにガーネット神父が期待していたようなカトリックに対する「寛容」のある「黄金時代」は到来しなかったが、ジェームズの治世下は比較的カトリックに寛容な時代であり、告発される者はほとんどいなかった<ref name="MarshallPP187-188" />。

劇作家[[ウィリアム・シェイクスピア]]は、『[[ヘンリー四世 第1部|ヘンリー四世]]』シリーズの劇中で、[[ノーサンバランド伯|ノーサンバランド伯一族]]の歴史を参照しており、火薬陰謀事件もまた、1600年のガウリー陰謀事件と共に、1603年から1607年の間に書かれた『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』の中で参照されていたようである<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=148–154}}</ref>。
火薬陰謀事件によって、悪魔に対する関心が高まった。国王は、スコットランドだけでなくイングランド王になる前の1599年に『[[デモノロジー]]』を執筆し、異世界の力に関する大論争に参加していた<!-- Inversions seen in such lines as "fair is foul and foul is fair" are used frequently, and another possible reference to the plot relates to the use of equivocation;
Garnet's A Treatise of Equivocation was found on one of the plotters --><ref>{{citation |last=Huntley |first=Frank L. |title=Macbeth and the Background of Jesuitical Equivocation |jstor=460744 |journal=PMLA |publisher=Modern Language Association |volume=79 |number=4 |date=September 1964 |pages=390–400|doi=10.2307/460744 }}</ref>。
この事件に影響を受けた他の作家としては[[ジョン・ミルトン]]がいる。彼は1626年に、ある解説者が「批評するに厄介な詩(critically vexing poem)」と呼ぶ『In Quintum Novembris』を書いている。この詩は「イギリスとプロテスタントの祝祭日に対する党派的な国民感情」を反映したものであり<ref>{{Harvnb|Demaray|1984|pp=4–5}}</ref>、1645年と1673年に出版された版では、この詩の前に火薬陰謀事件をテーマにした5つのエピグラムが掲載されており、これはミルトンが大作の準備のために書いたと推測されている<ref>{{Harvnb|Demaray|1984|p=17}}</ref> 。この事件は後の彼の代表作『[[失楽園]]』にも影響を与えた可能性がある<ref>{{citation |last=Quint |first=David |title=Milton, Fletcher and the Gunpowder Plot |year=1991 |journal=Journal of the Warburg and Courtauld Institutes |volume=54 |pages=261–268|doi=10.2307/751498 |jstor=751498 }}</ref>。

{{Quote box
| quote = Faith, here's an equivocator, <br/>that could swear in both the scales against either scale; <br/>who committed treason enough for God's sake, <br/>yet could not equivocate to heaven
| source = [[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]] 第2幕第3場
| align = right
}}

火薬陰謀事件は、特別な説教や、教会の鐘を鳴らすなどの公的行為によって何年も記念された。これは17世紀イングランドの国家的・宗教的生活に影響を与えたプロテスタントの祝賀行事として、より大きなものとなっていき<ref>{{Harvnb|Cressy|1989|p=n/a}}</ref>、今日の「ガイ・フォークス・ナイト」へと発展した。
歴史家の{{仮リンク|ロナルド・ハットン|en|Ronald Hutton}}は、『もし火薬陰謀が成功していたら?(What If the Gunpowder Plot Had Succeeded?)』の中で、陰謀が成功して貴族院とその関係者たちが抹殺された場合の後のことを考察している。
それによればハットンは、疑わしいカトリック教徒に対する激しい反発が起こり、外国からの援助がなければ反乱の成功はありえないだろうと結論付けた。宗派の違いはあってもイングランド人の多くは君主制には忠実であった。結果、議会改革や市民改革の道を歩まず、「17世紀の[[スウェーデン]]、[[デンマーク]]、[[ザクセン]]、[[プロイセン]]のようなピューリタン的な絶対王政」になっていた可能性がある<ref name="hutton">{{citation | last=Hutton | first=Ronald | title=What If the Gunpowder Plot Had Succeeded? | url=https://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/gunpowder_hutton_01.shtml | publisher=bbc.co.uk | date=1 April 2001 | accessdate=7 November 2008 | archive-url=https://web.archive.org/web/20090109062537/http://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/gunpowder_hutton_01.shtml | archive-date=9 January 2009 | url-status=live | df=dmy-all }}</ref>。

=== セシル黒幕説 ===
当時の多くの人々は、国王秘書長官ロバート・セシルが国王の寵愛を受けること、かつ、より強固な反カトリック法を制定するために陰謀に関与していたと疑っていた。
このような陰謀論は、セシルが実際の計画の首謀者、あるいは自分の手下を計画に参加させておき、プロバガンダのために計画の準備が進むことを黙認していたというものである<ref name="MarshallPP187-188">{{Harvnb|Marshall|2003|pp=187–188}}</ref>。
1678年の[[カトリック陰謀事件]]では、再び火薬陰謀事件への関心が高まり、これに対してリンカーン司教の{{仮リンク|トマス・バロウ|en|Thomas Barlow (bishop)}}が「事件がすべてセシル長官の策略という大胆だが根拠のない憶測」に反論した本を出版した<ref name="NorthcoteParkinsonp118">{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=118}}</ref>。

1897年、{{仮リンク|ストニーハースト大学|en|Stonyhurst College}}より、火薬陰謀事件で逮捕を免れたジョン・ジェラード神父の名前を名乗る著者の『火薬陰謀とは何だったのか(What was the Gunpowder Plot?)』という本が発表され、この中ではセシルが黒幕だと主張されていた<ref>{{Citation|last=Gerard|first=John|title=What was the Gunpowder Plot? : the traditional story tested by original evidence|publisher=Osgood, McIlvaine & Co|location=London|year=1897}}</ref>。
この主張はその年の内に{{仮リンク|サミュエル・ガーディナー|en|Samuel Rawson Gardiner}}の反論を受けた。ガーディナーは、何世代にもわたってイングランドのカトリック教徒たちを圧迫してきた火薬陰謀事件を「拭い去ろう」とするジェラードの行為は行き過ぎだと非難した。
ガーディナーはセシルの罪は単なる機会主義者に過ぎないとした<ref>{{Citation|last=Gardiner|first=Samuel|authorlink=Samuel Rawson Gardiner|title=What Gunpowder Plot was |publisher=Longmans, Green and Co|location=London|year=1897}}</ref>。
1969年にフランシス・エドワーズが発表した『ガイ・フォークス:火薬陰謀の真相』など、セシルが陰謀に関与していたことを証明する試みは続けられたが、明確な根拠がないため、ジェラードの主張と同様の結果に終わっている<ref>{{Citation|last=Edwards|first=Francis|title=Guy Fawkes: the real story of the gunpowder plot?|publisher=Hart-Davis|location=London|year=1969|isbn=0-246-63967-9}}</ref>。

議会地下室は、カトリック陰謀事件のニュースが流れた1678年まで個人に貸し出され続けていた。その後は、{{仮リンク|議会開会式 (イギリス)|label=議会開会式|en|State Opening of Parliament}}の前日に地下室を捜索することが賢明とされ、この儀式は現在まで続いている<ref name="NorthcoteParkinsonp118"/>。

=== ガイ・フォークス・ナイト ===
{{Main|ガイ・フォークス・ナイト}}
[[File:6 november bonfire from flickr user sjnikon.jpg|thumb|alt=A night-time photograph of a blazing fire is silhouetted by dark figures.|陰謀の失敗を記念して、イギリスでは毎年11月5日に焚き火が行われる。]]

1606年1月、事件後初の議会開催中に「{{仮リンク|1605年の11月5日遵守法|en|Observance of 5th November Act 1605}}」が可決され、11月5日を記念した礼拝や説教がイングランドの恒例行事となった<ref name="parliament">{{Citation|url=http://www.show.me.uk/gunpowderplot/adults_plot_ac.htm |title=Aftermath: Commemoration |date=2005–2006 |publisher=gunpowderplot.parliament.uk |accessdate=31 October 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110719141329/http://www.show.me.uk/gunpowderplot/adults_plot_ac.htm |archivedate=19 July 2011 |url-status=dead }}</ref>。この法律は1859年まで有効であった<ref name="factsheet">{{citation|author=House of Commons Information Office |url=http://www.parliament.uk/documents/upload/g08.pdf |title=The Gunpowder Plot |publisher=parliament.uk |date=September 2006 |accessdate=6 March 2007 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050215195506/http://www.parliament.uk/documents/upload/g08.pdf |archivedate=15 February 2005 }}</ref>。
教会が鐘を鳴らしたり、焚火を行って祝う週間は陰謀が発覚した直後から始まっており、初期の祝賀行事でも花火が打ち上げられていた<ref name="parliament" />。
イギリスでは、11月5日は「ボンファイア・ナイト(焚火の夜、Bonfire Night)」、「ファイアワークス・ナイト(Fireworks Night)」、「ガイ・フォークス・デー(Guy Fawkes Day)」などと呼ばれている<ref name="factsheet"/>。

イギリスでは、11月5日前後に[[花火]]を打ち上げる習慣が残っている。
伝統的には、11月5日までの数週間、子供たちは古着に新聞紙を詰めてグロテスクなマスクを付けた「ガイ」の人形(ガイ・フォークスを模したものと思われる)を作り、これを当日に焼いた。かつてはこの人形を街頭に出して花火代を集めることも行われていたが、これは現在では珍しいものとなっている<ref name="icons">{{citation |url=http://www.icons.org.uk/theicons/collection/bonfire-night/features/a-penny-for-the-guy-in-progress |title=Bonfire Night: A penny for the Guy |publisher=icons.org.uk |accessdate=6 October 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091113083659/http://www.icons.org.uk/theicons/collection/bonfire-night/features/a-penny-for-the-guy-in-progress |archivedate=13 November 2009 }}</ref>。
このように、ガイという言葉は、19世紀には奇妙な格好をした人を意味するようになり、やがて20世紀から21世紀にかけて男性を意味するようになった(タフガイやナイスガイなど)<ref name="factsheet"/>。

11月5日の花火大会や焚き火パーティーは、イギリス全土で行われ、大規模な公共の場でも個人の庭でも行われる<ref name="factsheet"/>。
特にサセックスでは、地元の{{仮リンク|サセックス・ボンファイア協会|en|Sussex Bonfire Societies}}が主催する大規模な行列や大きな焚き火、花火大会が行われ、中でも[[ルイス (イングランド)|ルイス]]では最も手の込んだイベントが開催される。

伝記作家の{{仮リンク|エスター・フォーブス|en|Esther Forbes}}によれば、独立前のアメリカ植民地ではガイ・フォークス・ナイトは非常に人気のある休日だったという。[[ボストン]]では「{{仮リンク|ポープ・ナイト|en|Pope Night}}(Pope Night)」と呼ばれ、この日の騒ぎは反権力的な雰囲気を帯びて、しばしば危険な状態に陥り、多くの人が家に籠ったという<ref>{{Harvnb|Forbes|1999|p=94}}</ref>。

=== 爆発の再現 ===
[[File:Itv gunpowder plot mike slee.jpg|right|thumb|alt=Viewed from a distance, with a telephoto lens, a large explosion is captured in its early stages. In the foreground, assorted building materials are visible. In the background, a hillside is partially covered by a forest.|爆発した瞬間の写真。]]

2005年に放映された[[ITV (イギリス)|ITV]]の番組『The Gunpowder Plot: Exploding The Legend(火薬陰謀事件:爆発の伝説)』では、貴族院の実物大レプリカを作り、合計1トンの火薬樽を使って爆破実験を行った。
実験はADVANTICA社が所有するスペイダム実験場で行われ、火薬が正常に使用されていれば、爆発によって建物内の全員が死亡しただろうことが実証された<ref name=Times>{{citation | url = http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article584830.ece | title = Gunpowder plotters get their wish, 400 years on | last = Sherwin | first = Adam | publisher = timesonline.co.uk | date = 31 October 2005 | accessdate = 18 January 2008 | archive-url = https://web.archive.org/web/20110604000218/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article584830.ece | archive-date = 4 June 2011 | url-status = live | df = dmy-all }}</ref>。
爆発の威力は、地下室を構成する深さ{{convert|7|ft}}のコンクリート壁(史料に基づいて旧貴族院の材質を再現したもの)のうち、玉座の直下に当たる樽があった端の壁は瓦礫と化し、隣接していた部分の壁もそれに巻き添えになる形で押しのけられるようになっていた。
爆風の威力を計算するために建物内に置かれていた測定器は、爆発によって破壊される直前に目盛りがオーバーしたことが記録されていた。廷臣や貴族、司教たちに囲まれる形で、玉座に置かれていたジェームズを模した人形の頭部の一部は、かなり離れた場所から発見されたという。
番組によれば、爆発から半径{{convert|330|ft}}以内にいた者は死亡し、[[ウェストミンスター寺院]]のステンドグラスはすべて粉々になり、宮殿周辺の窓もすべて粉々になっただろうと推測している。
この爆発は何マイルも離れたところからも見ることができ、音ならさらに離れていても確認できたと思われる。
フォークスが覚悟していたように、仮に火薬の半分しか爆発しなかったとしても、貴族院とその周辺にいた全員が即死したものと考えられる<ref name=Times/>。

また、番組では火薬が劣化していれば爆発は起こせなかったという説も検証し、否定した。
意図的に劣化させ、火器にも使えないような低品質の火薬の一部を山積みにして点火しても大きな爆発を起こすことができた。すなわち、劣化していても木樽の中に詰めれば、質に関係なく衝撃を拡大させることができた。圧縮された火薬はまず樽の上部から吹き上がり、数ミリ秒後に吹き飛ぶという大砲のような効果を見せた。
計算すると火薬の扱いに長けていたフォークスは必要な量の2倍用意していたことがわかった。
フォークスが使用したものと同じサイズの樽の中に、イギリスで入手可能な当時と同じ火薬{{convert|12|kg}}を入れて爆発させるテストを行ったところ、プロジェクトの専門家たちは、圧縮がもたらす爆発の効果に非常に驚いたという<ref>{{citation | url = https://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1501865/Guy-Fawkes-had-twice-the-gunpowder-needed.html | title = Guy Fawkes had twice the gunpowder needed | first = Fiona | last = Govan | publisher = telegraph.co.uk | date = 31 October 2005 | accessdate = 18 January 2008 | archive-url = https://web.archive.org/web/20120523012931/http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1501865/Guy-Fawkes-had-twice-the-gunpowder-needed.html | archive-date = 23 May 2012 | url-status = live | df = dmy-all }}</ref>。

フォークスが守っていた火薬の一部は現存している可能性がある。2002年3月、[[大英図書館]]で日記作者[[ジョン・イーヴリン]]のアーカイブを目録化していた作業員が、多数の火薬のサンプルが入った箱を発見した。この中にはガイ・フォークスが所有していたというイーヴリンの簡易な自筆メモが入っているものも含まれていた。19世紀に書かれた別のメモがこの出所を確認していたが、1952年に付け加えられたメモには「しかし、もう何も残っていなかった!(but there was none left!)」とあった<ref>{{citation |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1886016.stm |title=Guy Fawkes' gunpowder 'found' |date=21 March 2002 |publisher=news.bbc.co.uk |accessdate=3 November 2009 |archive-url=https://web.archive.org/web/20040405194212/http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1886016.stm |archive-date=5 April 2004 |url-status=live }}</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==
{{refbegin}}
* {{citation|title=The Early Stuarts 1603–40 |last=Brice |first=Katherine |year=1994 |publisher=Hodder Education |isbn=978-0-340-57510-9}}
* {{citation|last=Cressy |first=David |title=Bonfires and bells: national memory and the Protestant calendar in Elizabethan and Stuart England |year=1989 |publisher=[[:en:Weidenfeld & Nicolson|Weidenfeld & Nicolson]] |isbn=0-297-79343-8}}
* {{citation |last=Croft |first=Pauline |year=2003 |title=King James |publisher=Macmillan |isbn=0-333-61395-3 |url=https://archive.org/details/kingjames00crof }}
* {{citation|last=Demaray |first=John G. |year=1984 |title=Gunpowder and the Problem of Theatrical Heroic Form |work=Milton Studies 19: Urbane Milton: The Latin Poetry |editor1-first=James D. |editor1-last=Simmonds |publisher=University of Pittsburgh Press |isbn=0-8229-3492-2}}
* {{citation |last=Forbes |first=Esther |authorlink=:en:Esther Forbes |title=Paul Revere and the Times He Lived In |year=1999 |publisher=Houghton Mifflin |origyear=1942 |isbn=0-618-00194-8 |url=https://archive.org/details/paulrevereworldh00esth }}
* {{citation|last=Fraser |first=Antonia |authorlink=アントニア・フレーザー |title=The Gunpowder Plot |publisher=Phoenix |year=2005 |origyear=1996 |isbn=0-7538-1401-3}}
* {{citation|last=Haynes |first=Alan |title=The Gunpowder Plot: Faith in Rebellion |publisher=Hayes and Sutton |year=2005 |origyear=1994 |isbn=0-7509-4215-0}}
* {{citation|last=Hogge |first=Alice |year=2005 |title=God's Secret Agents: Queen Elizabeth's Forbidden Priests and the Hatching of the Gunpowder Plot |publisher=Harper Collins |isbn=0-00-715637-5}}
* {{citation|last=Marshall |first=John |title=John Locke, Toleration and Early Enlightenment Culture |publisher=Cambridge University Press |year=2006 |isbn=978-0-521-65114-1}}
* {{citation |last=Marshall |first=Peter |title=Reformation England 1480–1642 |publisher=Bloomsbury Academic |year=2003 |isbn=978-0-340-70624-4}}
* {{citation |last=Nichols |first=John |title=The Progresses, Processions, and Magnificent Festivities of King James the First, His Royal Consort, Family, and Court |publisher=J. B. Nichols |year=1828}}
* {{citation |last=Northcote Parkinson |first=C. |authorlink= :en:C. Northcote Parkinson |title=Gunpowder Treason and Plot |year=1976 |publisher=Weidenfeld and Nicolson |isbn=978-0-297-77224-8}}
* {{citation |last=Scott |first=George Ryley |title=History of Torture Throughout the Ages |year=1940 |publisher=Kessinger Publishing |isbn=978-0-7661-4063-9}}
* {{citation|last=Stewart |first=Alan |year=2003 |title=The Cradle King: A Life of James VI & 1 |publisher=Chatto and Windus |isbn=978-0-7011-6984-8}}
* {{citation |last=Thompson |first=Irene |title=A to Z of Punishment and Torture |year=2008 |publisher=Book Guild Publishing |isbn=978-1-84624-203-8}}
* {{citation |last=Willson |first=David Harris |authorlink=:en:David Harris Willson |origyear=1956 |year=1963 |title=King James VI & I |publisher=Jonathan Cape}}
* {{citation |last=Wilson |first=Richard |contribution=The pilot's thumb: ''Macbeth'' and the Jesuits |editor-last=Poole |editor-first=Robert |title=The Lancashire Witches: Histories and Stories |publisher=Manchester University Press |year=2002 |isbn=978-0-7190-6204-9 |pages=126–145}}
{{refend}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Gunpowder Plot}}
{{Commons category}}
{{Wikisource}}
* [http://4.1911encyclopedia.org/G/GU/GUNPOWDER_PLOT.htm ブリタニカ百科事典第11版](英語)
* [http://www.parliament.uk/about/living-heritage/evolutionofparliament/parliamentaryauthority/the-gunpowder-plot-of-1605/ The Gunpowder Plot]
* [http://www.newadvent.org/cathen/07081b.htm カトリック百科事典](英語)
* [https://archives.parliament.uk/collections/getrecord/GB61_HC_CL_JO_1_5 The original House of Commons Journal recording the discovery of the plot – Parliamentary Archives catalogue]
* [https://www.parliament.uk/about/living-heritage/evolutionofparliament/parliamentaryauthority/the-gunpowder-plot-of-1605/collections/thanksgiving-act/ Digital image of the Original Thanksgiving Act following the Gunpowder Plot from the Parliamentary Archives]
* [https://www.parliament.uk/about/living-heritage/evolutionofparliament/parliamentaryauthority/the-gunpowder-plot-of-1605/collections/1901-guy-fawkes-search/ Photograph of the Guy Fawkes Search that takes place at the start of a new Parliament – Parliamentary Archives]
* [https://www.parliament.uk/about/living-heritage/evolutionofparliament/parliamentaryauthority/the-gunpowder-plot-of-1605/collections/westminster-antiquities/ The Palace of Westminster in 1605 from the Parliamentary Archives]
* [https://web.archive.org/web/20100223181716/http://www.gunpowder-plot.org/ The Gunpowder Plot Society]
* [https://www.bbc.co.uk/history/the_gunpowder_plot The story of Guy Fawkes and The Gunpowder Plot from the BBC, with archive video clips]
* [https://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/gunpowder_hutton_01.shtml What If the Gunpowder Plot Had Succeeded?]
* [https://www.theguardian.com/politics/interactive/2008/nov/05/police Interactive Guide: Gunpowder Plot] [[:en:Guardian Unlimited|Guardian Unlimited]]
* [https://web.archive.org/web/20080921203716/http://www.mikeslee.co.uk/photos01.htm Website of a crew member of ITV's ''Exploding the Legend'' programme, with a photograph of the explosion]
* Mark Nicholls, ''The Gunpowder Plot'', Oxford Dictionary of National Biography online [http://www.oxforddnb.com/public/themes/92/92749.html (accessed 7 November 2010)]
* [https://www.history.com/topics/gunpowder-plot History.com – Gunpowder Plot]
* {{Kotobank}}


{{Normdaten}}
{{Normdaten}}

2021年10月30日 (土) 11:25時点における版

火薬陰謀事件
Three illustrations in a horizontal alignment. The leftmost shows a woman praying, in a room. The rightmost shows a similar scene. The centre image shows a horizon filled with buildings, from across a river. The caption reads "Westminster". At the top of the image, "The Gunpowder Plot" begins a short description of the document's contents.
17世紀後半から18世紀初頭に書かれたレポート
日付1605年11月5日
場所イングランドロンドン
関係者
結果計画の露見による失敗、大逆罪で処刑

火薬陰謀事件(かやくいんぼうじけん、Gunpowder Plot)とは、1605年のイングランドにおいて、ロバート・ケイツビーを首謀者とする同国のカトリック教徒たちが、国王ジェームズ1世の暗殺を企てたが失敗に終わった政府転覆未遂事件。イングランド国教会の成立に伴う半世紀以上にわたるカトリック教徒への迫害を止めさせ、カトリック教徒の君主に挿げ替える企てであった。当時は「火薬反逆陰謀事件(Gunpowder Treason Plot)」や「イエズス会反逆事件(Jesuit Treason)」と呼ばれていた。

このテロ計画は、1605年11月5日に貴族院ウェストミンスター宮殿)で行われる予定であった議会開会式を狙い、大量の火薬をもって議場ごと爆破し、国王ジェームズ1世以下その側近らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方英語版で民衆叛乱を起こし、ジェームズの9歳になる王女エリザベスをカトリックの傀儡君主として王位に就けるというものであった。ケイツビーが陰謀を企てたのは、新王ジェームズの宗教政策が期待していたほど寛容ではなく、イングランドのカトリック教徒たちが失望したためだと考えられている。ケイツビーの仲間には、ジョン・ライトトマス・ウィンターガイ・フォークストマス・パーシーの主要5名のほか、ロバート・キーズトマス・ベイツ、さらに彼らの縁者やカトリックの友人であるクリストファー・ライトロバート・ウィンタージョン・グラントアンブローズ・ルックウッドサー・エバラード・ディグビーフランシス・トレシャムなどがいた。この中でフォークスは、オランダ独立戦争(八十年戦争)で、反乱軍(独立軍)の鎮圧に失敗したスペイン軍側に10年従軍した経歴を持ち、計画の要となる爆発物の責任者となった。

1605年10月26日、第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカーに送られた匿名の手紙によって、この計画は当局に察知された。11月4日深夜、貴族院の探索が行われた結果、議場を瓦礫に変えるのに十分な量の火薬樽36本を隠し持つフォークスが見つかり、逮捕された。計画が露見したことを知った犯人らのほとんどはロンドンから逃亡するが、最後の抵抗として計画通りにミッドランズでの反乱を起こそうとした。しかし、もはやケイツビーらを支援したり協力しようとする者はおらず、スタッフォードシャーホルベッチ・ハウス英語版に滞在していたところを、州長官率いる200人規模の追跡隊に襲撃された。この戦闘でケイツビーら主だった者が何名か射殺され、生き残った者は逮捕された。他の場所へ逃げていた者もまもなく逮捕され、平民のベイツを除いて全員がロンドン塔に投獄された。1606年1月27日に行われた裁判において、フォークスを含む生きたまま捕縛された8人が大逆罪で有罪となり、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑が言い渡された。刑は同月30、31日に執行された。また、ケイツビーら既に死亡していた者も遺体を掘り起こされて斬首され、晒し首にされた。

当時の裁判では陰謀の首謀者はケイツビーらではなく、イエズス会が黒幕ということにされた。計画の詳細については、当時のイングランドにおけるイエズス会の要人であったヘンリー・ガーネット神父が知っていたとされる。彼は最終的に大逆罪で死刑宣告され、1606年5月3日に処刑されたが、実際にどれほど把握していたかについては議論の余地がある。彼は告解によって計画を打ち明けられたがために、告解室の絶対的な守秘義務によって当局に知らせることができなかった。

陰謀が発覚した直後より、イングランド政府は新たな反カトリック法を制定するなど、カトリック弾圧を強める姿勢を見せたが、実際には限定的なものであり、ジェームズ1世の治世下では多くの重要かつ忠実なカトリック教徒が政府高官として活躍した。また事件を起こしたのは、カトリック教徒の中でも一部の過激派であると見なし、外交政策でもスペインなどのカトリック国家との融和に努めた。また、事件は神によって未然に防がれたという認識も登場し、ジェームズは王権神授説の思想を強め、陰謀発覚の翌5日には失敗を記念する焚き火がロンドン市内で焚かれた。これはその後「11月5日の遵守法英語版」として正式な祝祭日となり、以降、この日には、特別な説教や教会の鐘を鳴らすといった公的な式典も行われるようになった。これが現在でも11月5日のイギリスで行われているガイ・フォークス・ナイトに発展した。

背景・前史

イングランドにおける宗教政策

A three-quarter portrait of a middle-aged woman wearing a tiara, bodice, puffed-out sleeves, and a lace ruff. The outfit is heavily decorated with patterns and jewels. Her face is pale, her hair light brown. The backdrop is mostly black.
イングランド女王エリザベス1世

1533年から1540年にかけて、ヘンリー8世ローマ教皇庁より、国内における宗教の実権を奪うべく行動を起こし、数十年にわたる宗教的緊張が始まった。イングランドのカトリック教徒たちは、旧教より分離し、新たに設立されたプロテスタントイングランド国教会が支配する社会での生活を強いられた。ヘンリーの娘であるメアリー1世の時代に少し揺り戻しが起こるものの、1558年に同じくヘンリーの娘でメアリーの妹である女王エリザベス1世の時代になると、彼女は公職や教会の役職に就いた者は、教会と国家の長である君主に忠誠を誓うことを義務付ける「エリザベス朝の宗教的解決英語版」を導入し、宗教対立の激化に対応した。この宣誓(至上権承認の宣誓)を拒否した場合の罰則は厳しく、宣誓を守らなかった場合は罰金を科せられ、再犯者には投獄や処刑の危険があった。カトリックは迫害され、司祭たちは拷問や処刑の脅威に晒されながらも、秘密裡に信仰を続けた[1]

王位継承権問題

未婚で子供のいなかったエリザベス女王はその生前において後継者を指名することを断固として拒否した。多くのカトリック教徒らは、彼女のいとこでスコットランド女王のメアリーこそが正当な王位継承者であると考えていたが、彼女は1587年に反逆罪で処刑された。継承問題に際しては、エリザベスの晩年に国王秘書長官ロバート・セシルが、メアリーの息子で後継者であるスコットランド王ジェームズ6世と秘密裏に交渉していた。その結果、1603年3月24日のエリザベスの死の数か月前には、ジェームズの王位継承が密かに内諾されていた[2]

イングランド国外に亡命したカトリック教徒の中にはスペイン国王フェリペ2世の娘イサベルがエリザベスの後継者に相応しいと考える者もいた。また、穏健派カトリック教徒の中には、ジェームズとエリザベスの従姉妹にあたるアラベラ・ステュアートに期待している者もいた[3] エリザベスの健康状態が悪化すると、政府は「主要な教皇派」と思われる者たちを拘束し[4]、さらに枢密院は心配のあまり、アラベラが教皇派に誘拐されるのを防ぐために彼女をロンドン近郊に移動させた(これは決して杞憂ではなく、実際にアラベラを王位につけようとした後述するメイン陰謀事件が存在した。)[5]

このように後継者候補には異論もあったが、上記の準備によって1603年3月24日のエリザベスの死に際して、王位継承の作業は円滑に行われた。同日、セシルはジェームズ6世への継承を布告し、のち7月25日にイングランド王及びスコットランド王ジェームズ1世として戴冠した。これは一般に祝福された。教皇派の有力者たちもまた、予想されていたような事件を起こすどころか、新君主への熱烈な支持を表明した。イングランド国内で発見されれば死刑に処されるイエズス会の司祭たちすら、「自然の摂理」を体現していると広く信じられていたジェームズへの支持を表明した[6]

約半世紀にわたってイングランド人たちは、王位継承者を指名しない君主の下で暮らしていたが、ジェームズには明確な継承権者を持つ家族がいた。彼の妻であるアン・オブ・デンマークは王の娘であった。彼らの嫡男である9歳のヘンリーはハンサムで自信に満ちた少年だと思われており、またその妹と弟であるエリザベスチャールズも含めて、ジェームズがプロテスタントの君主を続けるための王位継承者を用意できていることを示していた[7]

ジェームズ1世の初期の治世

ジェームズのカトリック教徒に対する態度は、前王よりも穏健であり、おそらく寛容であった。「静かで、見かけでも法に従う者は迫害しない」と誓い[8]、また「頭と身体が共にこの島から離れて[注釈 1]、海の向こうへと運ばれてくれれば私は嬉しく思う」と述べたように、死刑よりも国外追放の方が良い解決策だと考えていた[9]。 カトリック教徒の中には、ジェームズの母であるスコットランド女王メアリーの殉教が、ジェームズにカトリックへの改宗を促すのではないかと考える者がおり、こうした希望的観測はヨーロッパのカトリック修道院にもあった可能性がある[10]。 また、エリザベス女王時代から続く英西戦争は、プロテスタントの新興国であるイングランドと、カトリックの列強であるスペインという側面を持っていたが、国王に即位したジェームズは停戦を命じ、これを受けてフェリペ3世もまた両国は厳密にはまだ戦争状態にあったにもかかわらず、特使のドン・ファン・デ・タシス英語版を派遣してその即位を祝福した[11]。また、戦争の一環としてイングランドはオランダ独立を求める八十年戦争に際してプロテスタントの反乱軍を支援していたが、これについてもジェームズはオランダに残ったカトリック領の支配者であるアルブレヒト7世の使節を受けるなど融和的な態度を見せた[11]。この戦争に参加していたカトリック教徒にとって、イングランドに力ずくでカトリックの王政を取り戻せるかもしれない可能性は魅力的なことであったが、1588年のスペインによるイングランド侵攻の失敗(アルマダの海戦)を受けて、ローマ教皇庁はイングランド王位にカトリック君主が復帰することには、長期的な展望を持つようになっていた[12]。結果としてジェームズはスペインとの和解に成功し、翌1604年には両国はロンドン条約を調印して戦争は終結した。

16世紀後半、カトリック教徒たちはエリザベス1世の毒殺計画を始めとして、ヨーロッパやイングランドのプロテスタントの為政者に対する暗殺計画をたびたび起こした。イエズス会のフアン・デ・マリアナ英語版が1598年に刊行した『王と王の教育について』では、1589年にカトリックの狂信者に刺殺されたフランス王アンリ3世の暗殺を明白に正当化し、1620年代まではイングランドのカトリックの間でも暴君をその座から排除するためには王殺しも正当化されうると考えていた[13]。 「かなり神経質になっていた」[14]ジェームズの政治的な記録物の多くは、「カトリック教徒による暗殺の脅威と『信仰を異端者らと共に歩む必要はない』という(カトリック教徒の)主張への反論に関係していた」[15]

初期の陰謀計画

ジェームズが戴冠した1603年7月前後に、2件の大きな陰謀事件が発覚した。ジェームズがカトリック教徒への迫害をやめる兆しが見えない中で、数人の聖職者(反イエズス会の2人の神父を含む)が、自分たち手で決着をつけることを企てた。後にバイ陰謀事件[注釈 2]と知られるこの計画は、ウィリアム・ワトソン英語版ウィリアム・クラーク英語版の2人の神父がジェームズを誘拐してロンドン塔に監禁し、カトリックへの寛容政策を迫るというものであった。 セシルは、ジョージ・ブラックウェル英語版主席司祭英語版ほか複数の関係者からこの計画の情報を知らされ、またブラックウェルは司祭たちに一切関与しないよう命令した。 一方ではほぼ同時期に、コバム男爵ヘンリー・ブルック英語版グレイ・ド・ウィルトン男爵トマス・グレイ英語版グリフィン・マーカム英語版ウォルター・ローリーの4人が、ジェームズとその家族を排除して、アラベラ・ステュアートを王位に迎えるといういわゆるメイン陰謀事件が画策されていた[注釈 3]。彼らはスペインのフェリペ3世に資金援助を求めていたが、失敗に終わった。 両方の計画は未遂のまま露見して関係者らは逮捕され、同年秋には裁判が始まった。ブルックの弟ジョージ英語版は処刑されたが、治世の開始を血生臭いものにしたくないジェームズの計らいによって、ブルック、グレイ、マーカムの3人は処刑台に立たされた上で恩赦を受けた。彼らの処刑を見せつけられた数日後に処刑されることになっていたローリーもまた、赦免された。アラベラは陰謀のことは知らなかったと否定した。また、バイ陰謀事件の主犯であった2人の神父は断罪され、「非常に血生臭い」罰を受けた後、処刑された[16]

こうした陰謀事件のニュースはカトリック社会に衝撃を与え、更なる迫害の危機を想起させた。しかし、実際には陰謀の露見によって迫害の手は緩められることになった。 ジェームズは訴えられていた国教忌避者たちに恩赦を与え、罰金の支払いにも1年の猶予を与えた[17]

反カトリック政策の再開

1604年2月19日、ジェームズは、妻のアン王妃が、彼のスパイの一人アンソニー・スタンデン卿英語版を通してローマ教皇からロザリオを送られたことを知り[注釈 4]、即座にカトリック教会を糾弾した。その3日後には、イエズス会をはじめとするすべてのカトリック司祭に国外退去を命じ、国教忌避者に対する罰金の徴収を再開した[23] 。 また、ジェームズはイングランド国内のカトリック教徒たちへの懸念から、イングランドとスコットランドの連合に注力した[24]。 例えば財務大臣や枢密院顧問を歴任することになるジョージ・ホーム英語版といったスコットランド貴族を政権に招き入れたが、これはイングランド議会の不興を招いた。議員の中には「北方からの人々の流入」を歓迎しないことを表明し、「不毛の地から肥沃な地へと移された植物」に例える者もいた。また、スコットランド貴族に国教忌避の罰金徴収を許可したことは更なる不満を募らせた[25]。 1605年に5,560人が国教忌避で有罪判決を受け、そのうち112人が土地所有者であった[26]。 少数派である富裕層のカトリック教徒が、教区の礼拝に出席することを拒んだ場合、月に20ポンドの罰金が科せられた。さらに裕福な場合には、年間収入の3分の2が罰金として科せられた。中産層の国教忌避者の罰金は、週に1シリングであったが、これらの徴収は「無計画でいい加減」だった[27]。 ジェームズが権力を握ったとき、これらの罰金の総額は年間約5,000ポンド(2020年の価値に換算して約1,200万ポンド[注釈 5])であった[28][29]。 3月19日、ジェームズは初のイングランド議会での開会演説を行い、自分は平和を願うが、それには「本当の宗教を公表すること」によってのみ可能であると述べた。 彼はまたキリスト教連合について語り、宗教的迫害は避けたいと繰り返した。カトリック教徒にとってこの演説は「自分たちの信仰が再びできるよう希望している」にも関わらず、「この王国において数と力を増やしてはならぬ」と明確にされたものであった。ジョン・ジェラード神父は、この言葉がイエズス会への迫害を強める原因になったのは間違いないとし、オズワルド・テシモンド神父は教皇派が抱いていた初期のジェームズへの期待に対する答えだと把握した[30]。 この演説の1週間後、シェフィールド卿英語版はノーマンビーの巡回裁判所に連れてこられた900人を超える国教忌避者について国王に報告し、4月24日には、イングランドのカトリック教会の信者たちを違法化すると見なせる余地のある法案が議会に提出された[31]

火薬陰謀事件

ジェームズ1世の宗教政策に不満を覚えた過激派カトリック教徒のロバート・ケイツビーは、国王が出席する貴族院ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式を狙って、大量の火薬をもって議場ごと彼を爆殺することを企図した。これは国王ジェームズ以外にも式に参席する彼の近親者や枢密院議員なども重要なターゲットであり、他にも貴族院議員として出席する上級裁判官やプロテスタント貴族、イングランド国教会主教、また庶民院英語版議員も標的であった[32]。また、もう1つ重要なことは、これと同時にミッドランズ地方英語版で民衆叛乱を起こし、ジェームズの9歳になる王女エリザベス・ステュアートをカトリックの傀儡君主として王位に就けるというものであった。エリザベスはコヴェントリー近郊のクーム・アビーで暮らしており、これはウォリックの北10マイルのところにあり、彼女を確保するにあたってはミッドランズに住んでいた計画者たちには都合がよかった。 エリザベスの兄弟であるヘンリーチャールズの両王子の運命は成り行き任せであり、彼らが開会式に出席するかどうかは不明であった。また、計画者たちは第9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーをエリザベスの摂政とすることを計画していたとされるが、おそらく伯爵にはそのことを伝えていなかったと思われる[33]

スペイン反逆事件と計画の始動

火薬陰謀事件の主要メンバー
名前 参加時期 最期 関係
ロバート・ケイツビー 首謀者 戦闘で死亡
ジョン・ライト 初期5人の一人 戦闘で死亡
トマス・ウィンター 初期5人の一人 大逆罪で処刑
トマス・パーシー 初期5人の一人 戦闘で死亡
ガイ・フォークス 初期5人の一人 大逆罪で処刑
ロバート・キーズ 1604年10月 大逆罪で処刑
トマス・ベイツ 1604年12月 大逆罪で処刑 ケイツビーの使用人
ロバート・ウィンター 1605年3月 大逆罪で処刑 トマスの兄
クリストファー・ライト 1605年3月 戦闘で死亡 ジョンの弟
ジョン・グラント 1605年3月 大逆罪で処刑 ウィンター兄弟の義弟
アンブローズ・ルックウッド 1605年9月頃 大逆罪で処刑 キーズの従姉妹の夫
エバラード・ディグビー 1605年9月頃 大逆罪で処刑
フランシス・トレシャム 1605年9月頃 獄死 ケイツビーの従兄弟
Engraving
クリスピン・ド・パス英語版による13人の犯人たちのうち、8人を描いた当時の銅版画。描かれていないのはディグビー、キーズ、ルックウッド、グラント、トレシャム。

火薬陰謀事件の首謀者であるロバート・ケイツビーは、「古くからの由緒ある名門」の出身であった。彼は当時の人々から「身長約6フィートの美男子で、運動神経が良く、優れた剣士」と評されていた。エリザベス女王の時代から信仰のためには武力も辞さないと考えていた敬虔なカトリック教徒であり、宗教政策の変更を期待して多くのカトリック教徒も関与した1601年のエセックス伯の反乱英語版にも参加していた。この時は負傷して捕縛され、エリザベス女王より4,000マーク(2008年現在の価値に換算して600万ポンド以上に相当[注釈 6])の罰金を科す代わりに助命されて、支払いのためチャスルトン英語版の地所を売却することとなった[28][34][35]。1603年にジェームズが即位してスペインとの融和関係が作られ始めると、スペインによる武力侵攻でカトリック解放を期待していたケイツビーは、他のカトリックの友人らと共にスペインの新王フェリペ3世にイングランドへの侵攻を促す嘆願を行うことにし、後述のトマス・ウィンターが交渉者として派遣された。しかし、スペイン王はイングランドのカトリック教徒の窮状に同情してはいたが、それよりもジェームズとの和平を望んでおり、結局翌1604年にはロンドン条約英語版が締結され講和した[36] 。ウィンターは、この講和条約の特使としてイングランドにやってきたドン・ファン・デ・タシス英語版とも会談する機会を持ち、その際には「3,000人のカトリック教徒」がスペインによる侵攻に呼応する準備があると説得しようとしたが、相手にされなかった[37]。時の教皇クレメンス8世は、イングランドのカトリック勢力回復のために軍事力を用いることは、結果として残存するカトリック教徒を滅ぼすことになると懸念を表明していた[38]。このスペイン政府にイングランド侵攻を嘆願する使節団は、後の火薬陰謀事件の裁判において「スペイン反逆事件(Spanish Treason)」として糾弾されることとなった。

ケイツビーが貴族院を爆破する計画をいつから企てたのか正確な日時は不明だが、ジェームズが即位して間もない1603年6月頃、彼はアシュビー・セント・レジャーズの自宅においてカトリック教徒の友人であるトマス・パーシーの訪問を受けた[注釈 7][40]。パーシーはノーサンバランド伯爵家一族の出身で(第4代ノーサンバランド伯の曾孫にあたる)、宮中の著名人でもある現当主第9代ノーサンバランド伯爵ヘンリー・パーシーに仕えている人物であった。パーシーは伯爵に重用されており、1596年から同家の北部領地の代官に任命され、1600年から1601年にかけては伯爵と共にに低地地方(ネーデルラント)にも従軍していた。伯爵は同地にて指揮を執っていた頃、エリザベス女王の健康が思わしくないことを踏まえて、次期王位継承の有力候補であったスコットランド王時代のジェームズと密かに関係強化を図ろうとし、その密使役にもパーシーを選んだ[41]。パーシーはカトリックに改宗した「真面目な」人物と言われており、カトリック側の資料によれば、青年時代は「剣と個人の勇気」に頼る傾向があったという[42][43]。彼はこの機会を利用して次期国王にカトリックへの寛容政策の約束を取り付けたいと考え、またエリザベス女王の寵愛を受けていた妻マーサ・ライトとの別居に伴う家の不名誉も軽くしたいと考えていた。ノーサンバランド伯自身はカトリック教徒ではなかったが、イングランド国内のカトリック教徒の展望を良くしたいという意思は持っており、当時のジェームズとの書簡ではあからさまに活動しなければ処罰しないというような返信をもらい、伯爵は個人宅でミサを行うくらいは認められるようになるだろうと予想していた[44][45]。さらにパーシーは、自分の評判を高めたいために、(自分の交渉によって)将来の王がイングランドのカトリック教徒の安全を約束してくれた、とカトリックの仲間内に吹聴していた[46]。そうした経緯がある中で、イングランド王となったジェームズはパーシーが期待していたほどの宗教政策の変更を行う気配を見せず、これに裏切られたと感じた彼は不満を鳴らし、暗殺も辞さない態度を見せた。ケイツビーは彼の短慮を宥める一方で、「俺はもっと確実な方法を考えているから、すぐに君に知らせる」と回答した[47]

当時の記録によれば[注釈 8]、ケイツビーが最初に具体的な計画について言及したのは1604年2月のことである。ケイツビーはランベスの自宅にトマス・ウィンターを招き、貴族院での議会開会式において議場を爆破し、イングランドのカトリックを再興するという彼の計画を明かしたという[35]。 ウィンターは有能な学者として知られており、数ヵ国語を話せ、またオランダではイングランド軍兵士として従軍した経験もあった[48]。 彼の叔父フランシス・イングルビー英語版は、カトリックの司祭であったために1586年に処刑され、その後カトリックに改宗したという経緯があった[49]。 また、この密談には、敬虔なカトリック教徒で、当時最高の剣士の一人と評され、エセックス伯の反乱にもケイツビーと共に参加したジョン・ライトもいた[50]。 ウィンターは試みが失敗した場合の影響を懸念したが、「謀(はかりごと)を企て失敗したところでそれ以上のことはできない」というケイツビーの巧言に説得され、計画への加担を決めた[35]。ただ、ウィンターもケイツビーも、まだ外国からの支援を完全には諦めていなかったため、「我々は平和な静かな方法を試さないわけにはいかない」としてウィンターは支援を求めて再び大陸に向かった[51][52]

フランドル地方を訪れたウィンターはスペインの要人フリアス公英語版[注釈 9]と会談したが結果は芳しく無く[53]、次に元イングランドの司令官でスペインに寝返ったウィリアム・スタンリー英語版とウェールズ出身の亡命スパイであるヒュー・オーウェン(Hugh Owen)と会合を持った[54]。2人はスペインが支援してくれる望みは薄いと答えたが、その代わりにオーウェンは前もってケイツビーが「忠実な同志になるだろう紳士」と見当をつけていたガイ・フォークスを紹介してくれた。フォークスはイングランド出身の敬虔なカトリック教徒であり、オランダ独立戦争においてスタンリーの指揮する部隊に所属し、彼の寝返りを受けて自らもスペイン軍の兵士となり、1603年には大尉に推薦されていた男だった[55]。彼はまた1603年のスペイン宮廷にイングランド侵攻を嘆願する使節団にも参加していた。ウィンターはフォークスに「スペインによる戦争が我らの癒しにならないのであれば、イングランドで事を起こすことを決めている」[56]と、計画を伝え、1604年4月に2人はイングランドに戻った[57]。この数週間後にパーシーにも計画が伝えられた[58][59]

計画者たち5人の最初の会合は1604年5月20日に行われ、場所はおそらくトマス・ウィンターがロンドンに滞在する際の常宿であったストランドのすぐ近くにある宿屋ダック・アンド・ドレイクだったと思われる[60]。外部から隔離された個室において、5人は祈祷書に秘密の誓いを立てた。偶然だが、ケイツビーの友人で、陰謀を知らないジョン・ジェラード神父が別室で聖餐ミサ)を行っており、その後、5人は聖体を拝領した[61]

拠点構築と新たな仲間たち

A monochrome illustration of several short buildings clustered in a small space. A yard in the foreground is filled with detritus.
プリンス・チェンバーの東端(左端)と貴族院の東壁(中央)が描かれている19世紀初頭のイラスト

誓いを立てた後、計画者たちはロンドンを離れて各々の自宅に戻った。今議会は閉会に近づいており、翌1605年2月の開会を前提に計画を進められると考えたが、この時点で何か具体的な案があるわけではなかった。 転機は6月9日に、パーシーがノーサンバランド伯から50人からなる国王の近衛隊ジェントルマン・アット・アームス英語版(Honourable Corps of Gentlemen at Arms)に任命されたことであった。このことはパーシーがロンドンに拠点を持つこと、すなわち怪しまれずに一味のアジトを作れる理由となり、プリンス・チェンバー(Prince's Chamber)に近い、ジョン・ホワイニアード(John Whynniard)の借地人ヘンリー・フェラーズ(Henry Ferrers)が所有するウェストミンスターの小さな物件が選ばれた。 パーシーはノーサンバランドの代理人であるダドリー・カールトン英語版ジョン・ヒッピスリー英語版を通してこの家の使用人を手配した。さらにフォークスがパーシーの使用人「ジョン・ジョンソン(John Johnson)」として、このアジトに配置されることとなった[62]。 この建物には、イングランドとスコットランドの統一(合同)計画の検討を行うスコットランドの委員たちも滞在していたため、仲間たちはテムズ川の対岸にあるランベスのケイツビーの宿舎を借り、そこから保管していた火薬やその他の物資を毎晩、船で運び込めるようにした[63]。 一方、この期間中にジェームズは、カトリック対策を進めており、議会は7月7日の休会までに反カトリック法案を押し通していた[64]

The medieval House of Lords was part of a complex of buildings alongside the north bank of the River Thames, in London. The building which the plotters planned to destroy was at the southern end of the complex of Parliamentary buildings, alongside a minor alley that led to a staircase known as Parliament Stairs.
1746年にジョン・ロックが作成したロンドン地図から、ウェストミンスター宮殿(旧宮殿)内の貴族院の位置を赤で示したもの。

1604年10月、ロンドンに戻ってきた一味は、「破滅して借金を抱えた絶望的な男」ロバート・キーズを仲間に加えた[65]。彼は背が高く赤ひげを生やし、信頼できる人物でフォークスと同様に自分のことは自分でできるとみなされており、火薬などを保管してあるランベスのアジトの管理を任された。また、キーズの家族関係には著名人との関わり合いがあり、彼の妻の雇用主は著名なカトリック貴族のモーダント男爵英語版であった。 12月[注釈 10]、ケイツビーは、自身の使用人トマス・ベイツが計画に気づいたことを悟り、彼も引き入れることを決めた[66][65]。ベイツは主要メンバーの中では唯一の平民となった。

12月24日、議会の開会が延期されることが発表された。疫病(ペスト)への懸念から、一味が予定していた2月の開会ではなく、10月3日まで開かれないことになった。 後の裁判での検察側の説明によれば、この延期期間中、一味はアジトからウェストミンスター宮殿の地下に続くトンネルを掘っていたという。 それによればアジトのある建物に滞在していたスコットランドの委員たちが仕事を終えて12月6日に引き払ったことで、一味はトンネルを掘り始めた。しかし、作業中に地上から物音がしたため中断したという(この音の発生源は家主の未亡人によるものであった)。その代わり彼らは最終的に火薬樽を設置することになった貴族院の真下にあたる地下室の片付けを行った[67]。 ただ、このトンネルの話は政府の捏造であった可能性がある。検察側はトンネルの存在を示す証拠を提示することはなく、また痕跡も発見されなかったためである。 トンネルについての記録は、トマス・ウィンターの自白から直接得られたものだが[58]、ガイ・フォークスは5回目の尋問まで、このような計画があったことを認めていなかった。 現実論として、トンネルを掘ることは非常に困難であり、また一味にトンネル堀の経験がある者もいなかった[68]

旧暦(ユリウス暦)の新年にあたるレディ・デー英語版の3月25日、一味が再結集した時、ロバート・ウィンタージョン・グラントクリストファー・ライトの3人が新たに加わっていた。ウィンターとライトの参加は当然とも言えた。ロバート・ウィンターは、トマス・ウィンターの実兄で、敬虔なカトリック教徒であり、かつ寛大で人望のある人物だったと言われる。わずかな財産と共にウスター近郊のハディントン・コート英語版を相続したが、この邸宅は神父の避難所として知られるなど、潜伏中の司祭らを匿っていた。また、彼の妻はウスターシャーの有名な国教忌避者であるグラフトンのジョン・タルボット英語版の娘ガートルード(Gertrude)であった[49]。クリストファー・ライトは、ジョン・ライトの実弟で、兄やケイツビーと同じくエセックス伯の反乱にも参加し、当時は司祭の天国として知られていた、リンカンシャーのトウィグモア(Twigmore)に家族ごと移住していた[69][70]。また、1603年のスペイン使節団にもアンソニー・ダットン(Anthony Dutton)という偽名で参加していたとされる(ただし、異論もある)[71]。 ジョン・グラントはウィンター兄弟の妹ドロシーと結婚していた彼らの義弟であり、ストラトフォード=アポン=エイヴォン近郊のノーブルック荘園の地主であった。知的で思慮深いと評され、スニッターフィールド英語版の自宅にカトリック教徒たちを匿い、彼もまたエセックス伯の反乱に参加していた[72][73]ウォリックやストラトフォードに近いノーブルックは、ミッドランズでの蜂起において理想的な場所であり、グラントの役割は1605年の夏の間に同地で武器や弾薬といった物資を管理し[74]、また近くのウォリック城から希少な軍馬を調達することも担っていた[75][76]

地下室(アンダークロフト)とガーネット神父の説得

The medieval complex of Parliamentary buildings was mapped by William Capon around the turn of the 18th century. This image shows a plan view of the ground floor levels, where each building is clearly described in text. Reference is made in the House of Lords undercroft, to Guy Fawkes.
ウィリアム・カポン(William Capon)が作成した議会の構内図では「ガイ・ヴォークス(Guy Vaux)」が火薬を保管するために使用した地下室(アンダークラフト)に、明示的な印を付けている。
A monochrome illustration of a stone and brick-walled room. An open doorway is to the right. The left wall contains equally spaced arches. The right wall is dominated by a large brick arch. Three arches form the third wall, in the distance. The floor and ceiling is interrupted by regularly spaced hexagonal wooden posts. The ceiling is spaced by wooden beams.
1799年に描かれた貴族院の真下に位置する地下室。当時は長さ77フィート、幅24フィート4インチ、高さ10フィートだったとされている[77]

新たな仲間が加わった3月25日には、ウェストミンスター宮殿のジョン・ホワイニアードが所有する地下室(アンダークラフト英語版)の使用権利を契約した日でもあった。 17世紀初頭のウェストミンスター宮殿は、中世に建てられた旧王宮の会議室や礼拝堂、ホールを中心に建物が密集しており、議場や様々な王立裁判所が設置されていた。旧王宮には簡単に行き来きすることができ、商人や弁護士、様々な人々が、宮殿内の宿泊施設や商店、酒場などで働いたり寝泊りしていた。 ホワイニアードの建物は、貴族院と直角に並び、パーラメント・プレイス(議会広場)と呼ばれる通路を挟んで、議会階段とテムズ川につながっていた。 当時、地下室は一般的な設備であり、食料や薪などさまざまなものが保管されていた。 ホワイニアードの地下室は、宮殿1階の貴族院の真下に位置し、かつての旧王宮の厨房の一部だと考えられている。当時は使用されておらず不衛生な場所であったが、一味の計画には最適であった[78]。 フォークスによれば、最初に20樽の火薬を運び込み、続いて7月20日に16樽を持ち込んだという。火薬の売買は政府の専権事項であったが、違法な販売ルートから容易に入手することができた[79][注釈 11]

火薬陰謀事件に巻き込まれることとなったイエズス会ヘンリー・ガーネット神父が、ケイツビーと会話したのは6月の第2週のことであった。後にガーネットが説明したところによれば、何気ない会話の中で、ケイツビーから「罪ある者となき者をまとめて殺す」ことの道徳性について尋ねられ、ガーネットは、カトリックの神学に基づいて、戦争中には罪のない人々が敵と一緒に殺されることがよくあると答えたという(歴史家兼作家のアントニア・フレーザーは、ガーネットはフランドル地方での話だと誤解したと推測している)。次に2人は7月にエセックスのフレムランドで再会し、この時はガーネットは反乱を禁じる教皇の書簡を見せてケイツビーを戒めたと述べている。 この直後に、ガーネットはイエズス会のオズワルド・テシモンド神父からケイツビーから陰謀の告白を受けたことを報告された[注釈 12]。ここで問題になったのは、ガーネットはケイツビーの告白は告解ゆるしの秘跡)にあたると判断したことであり、告解であるならば守秘義務が発生することであった。よって、ガーネットはテシモンドから聞いた内容を当局に通報することはおろか、当事者のケイツビーにすら直接問いただすことができなかった[81]。 7月24日、ガーネットとケイツビーはエンフィールド・チェイス英語版にある裕福なカトリック教徒アン・ヴォークスの家で3回目の話し合いを行うこととなった[注釈 13]。この時、ガーネットは自分が陰謀の実態を知らない前提で、彼にそれを思い留まらせようとしたが、無駄に終わった[83]。 ガーネットはイエズス会総長であるクラウディオ・アックアヴィーヴァ英語版に手紙を書き、イングランドで反乱が起こることの懸念を伝えた。また、彼を通して「個人が反逆罪を犯したり、君主に対して武力を行使する危険性」としてローマ教皇に武力行使を禁止する声明を出すことも求めた。ただ、自分が計画を知っていることを隠そうとして、その対象をウェールズの反逆者向けだと示唆させることを提案してしまった[84]

7月28日、ペストの脅威は去らず、開会は11月5日火曜日まで再度延期された。フォークスは一時的に国を離れた。一方、国王は夏の間、都市部から離れて狩りに興じていた。都合の良い場所に滞在し、時には著名なカトリック教徒の邸宅に泊まることもあったという。ガーネット神父は陰謀の危機は去ったと確信し、巡礼の旅へと出た[85]

最後の詰め

Painting
陰謀者たちが傀儡君主に仕立てようとしたジェームズ1世の娘エリザベス・ステュアートの肖像画(ロバート・ピーク・ザ・エルダー英語版作、国立海洋博物館英語版所蔵)。

フォークスがいつイングランドに戻ったかは不明だが、8月下旬にはロンドンにおり、トマス・ウィンターと一緒に地下室の火薬が腐っていることを発見した。このため、薪に隠してさらに火薬を運び込んだ[86]。一味に最後の3人が加わったのは1605年も9月過ぎのことであった。

聖ミカエル祭英語版(9月29日[注釈 14])にケイツビーは確固たる信仰心を持つカトリック教徒のアンブローズ・ルックウッドを説得し、ストラトフォード=アポン=エイヴォン近くのクロプトン・ハウス英語版を借りさせた。ルックウッドは国教忌避者たちと繋がりを持つ青年であり、サフォークスタニングフィールド英語版にあるコールドハム・ホールの馬屋の経営者であったことは、蜂起の際の軍馬が必要な一味にとって仲間に引き入れる決定打となった。彼の両親ロバート・ルックウッド(Robert Rookwood)とドロテア・ドーリー(Dorothea Drury)は裕福な地主で、息子をカレー近郊のイエズス会の学校で教育した。 2人目のエベラード・ディグビーは人望のある青年で、バッキンガムシャーゲイハースト・ハウス英語版に住んでいた。1603年4月には国王よりナイトの称号を授与される一方で、ジョン・ジェラード神父によってカトリックに改宗していた。 ディグビーは妻のメアリー・マルショウ(Mary Mulshaw)と共に、神父の巡礼に同行したことがあり、ディグビーとジェラードは親しい友人であったといわれている。ディグビーはケイツビーに頼まれて、アルセスター英語版近郊のコートン・コート英語版を借りた[87][88]。また、パーシーが滞納していたウェストミンスターの物件の家賃1500ポンドを肩代わりした[89]

最後に仲間となったフランシス・トレシャムは、10月14日にケイツビーに声を掛けられた[90]。 トレシャムは裕福なカトリック教徒のトマス・トレシャム英語版の息子で、ケイツビーとは従兄弟同士であり、一緒に育った上に共にエセックス伯の反乱にも関与していた[91]。父トマスが亡くなったばかりで、その莫大な遺産を相続したばかりであったが、国教忌避者に対する罰金や高額の嗜好品による放蕩、エセックス伯の反乱の関与で財産を減らしていた[注釈 15][92]。ケイツビーとトレシャムは、トレシャムの義兄であり従兄弟でもあるストートン卿英語版の家で会った。 後のトレシャムの告白では、ケイツビーに「この計画は彼らの魂を呪うことにならないか」と尋ねたところ、ケイツビーは「そんなことはない」と答え、イングランドのカトリック教徒の窮状を考えるとこれは必要なことだと言っていた、と主張している。また、ケイツビーは2,000ポンドの援助とノーサンプトンシャーラシュトン・ホール英語版の使用を求めてきたというが、トレシャムは両方共に断ったという(ただし、トマス・ウィンターには100ポンドを渡している)。また、尋問官に対し、計画の前に家族をラシュトンからロンドンに移したと話した(もし計画に賛同していたならば、そんなことはしないだろうと弁明した)[93]

計画の残りの詳細部分は10月にロンドンとダヴェントリー英語版の酒場で決まった[注釈 16]。 フォークスは貴族院地下室の火薬樽に結んだ導火線に火を付けた後、テムズ川を渡って現場を離れる。時を同じくしてミッドランズ地方で反乱を起こし、ディグビー率いる「狩猟隊(hunting party)」がエリザベス王女を確実に確保する。その後、フォークスはヨーロッパのカトリック勢力にイングランドの状況を説明するため、大陸に向かうというものであった[95]

モンティーグルの手紙

A damaged and aged piece of paper, or parchment, with multiple lines of handwritten English text.
陰謀が露見するきっかけとなった第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカーに送られた差出人不明の手紙。歴史的にはフランシス・トレシャムが書いたとされているが、確定しているわけではない。モンティーグル自身の自作自演説[96]や、セシル説[97]などもある。

ガーネットの友人で自宅によく神父を匿い、カトリック教徒の知人も多かったアン・ヴォークスなど、メンバーらの妻や友人などの親しい関係にある者の中には、彼らの行動を疑い出す者も現れ始めていた[98]。また、メンバー内でも爆破の決行日に開会式に出席する予定のカトリック教徒の知人らの安否を心配する声が出てきた[99]。 パーシーは自分の主君であるノーサンバランド伯を心配し、若きアランデル伯の名前を挙げた。ケイツビーは、軽傷を負えば当日は出席できないのではないかと提案した。また、ヴォークス卿やモンタギュー英語版、トレシャムの義兄弟にあたるモンティーグル男爵やストートン卿といった各貴族の名前も挙がった。キーズは妻の雇い主であるモーダント卿を心配し、彼に警告を与えることを提案したが、ケイツビーはありえないとこれを嘲笑した[100]

10月26日土曜日、仲間内の打ち合わせでも名前が出たトレシャムの義兄にあたるモンティーグル男爵は、ホクストンの長らく使われていなかった家屋で食事を手配した。突然、召使いが現れ、道で見知らぬ人からモンティーグル卿への手紙を手渡されたと述べた。卿は、その手紙を皆の前で読み上げるように命じた。H・トレバー=ローパー(H Trevor-Roper)が「フランシス・トレシャムは事前に行ったこの策謀によって、陰謀を阻止するのと同時に、友人たちに警告を与えようとしたのである」と述べた手紙の内容は以下の通りである。

閣下、私はあなたの友人たちへの親愛から、あなたを守りたいと思っております。 それゆえに、もしご自身のお命を大事に思っておられるのであれば、今回の議会出席を見送るための何らかの口実を設けるべきことを、私はご助言いたします。なぜなら、神と人は今回の邪悪な行為を罰することに同意しているからです。 そして、この告知を少しも気にせず、自分のご領地に籠られ、安全に今後の出来事を予測できるようにしてください。 まだ騒動が起きているようには見えませんが、私は今議会において彼らが酷い打撃(blow)を受けると思っています。しかし、彼らは自分たちを害する者を見ることはできないのです。この助言はあなたに役立ちこそすれ、害を与えるものではないので、非難されるいわれはありません。なぜなら、あなたがこの手紙を燃やした時点で、危険は去っているからです。 私はあなたがこの助言を有効に活用するよう神が恵みを与えてくださることを願っています。神の聖なる保護があなたに委ねられんことを[101]

手紙の意味が分からないまま、モンティーグルはすぐにホワイトホールに向かい、国王秘書長官ロバート・セシル(当時はソールズベリー伯)にこれを渡した[102]。 セシルは、国教忌避者に同情的だと思われていたウスター伯エドワード・サマセットと、カトリック教徒疑惑のあったノーサンプトン伯ヘンリー・ハワードにはこの事を伝えたが、ケンブリッジシャーでの狩猟に忙しく、数日は戻ってこないであろう国王には連絡をしなかった。 一方、モンティーグルの使用人トマス・ワードは、ライト兄弟と家族ぐるみの付き合いがあり、ケイツビーに裏切りがあったことを伝えた。国王と一緒に狩りに行く予定であったケイツビーは、トレシャムを疑い、トマス・ウィンターと共に彼を詰問した。ケイツビーは「吊るしてやる」と脅したが、彼は密告の手紙は自分ではないと2人を説得し、翌日には手紙で計画を諦めるように促した[103]

セシルは手紙を受け取る前に策謀の臭いを嗅ぎ取っていたが、計画の全貌や誰が関与しているかは不明であった。このため、陰謀がどう展開していくか見定めるために、様子を見ることにしていた[104]

決行前夜の露見

In a stone-walled room, several armed men physically restrain another man, who is drawing his sword.
火薬陰謀事件の露見とガイ・フォークスの逮捕(ヘンリー・ペロネ・ブリッグス作、1823年)
現場で押収されたガイ・フォークスのランタン。

11月1日金曜日、ロンドンに帰ってきたジェームズにモンティーグルの手紙が渡された。読んだジェームズは「blow」という言葉に着目し、父ダーンリー卿1567年に爆殺された英語版のと同じ規模の「火や火薬を使った何らかの策謀」を暗示しているのではないかと察した[105][106]。 翌日、枢密院のメンバーがホワイトホール宮殿で国王に謁見し、1週間前にセシルが伝えた情報に基づいて、月曜日に宮内長官英語版サフォーク伯トマス・ハワードが議会の「天井も床下も」捜索を行うことを伝えた。 11月3日日曜日、パーシー、ケイツビー、ウィンターの3人は最後の打ち合わせを行い、パーシーは仲間たちに「極限の試練に耐えろ(abide the uttermost triall)」と言い、テムズ川に停泊中の仲間の船のことを思い出させた[107]。 翌4日にはディグビーはダンチャーチ英語版に「狩猟隊」を配置し、エリザベスを誘拐する手はずを整えていた[108]。 同日、パーシーは陰謀には関与していないノーサンバランド伯を訪ね、モンティーグル卿の手紙に関する情報が得られないか確かめた。 そしてパーシーはロンドンに向かうと、ウィンター、ジョン・ライト、キーズの3人に心配することはないと安心させ、グレイズ・イン・ロードの自分の宿舎に戻った。同夜、ケイツビーはジョン・ライトとベイツを伴ってミッドランズに向けて出発したと思われる。キーズを訪ねたフォークスは、彼から導火線の時間を計るためにパーシーが残した懐中時計を渡され、また1時間後にはルックウッドが地元の刃物屋(カトラリー屋)から刻印が入った剣を数本受け取っていた[109]

探索の回数とタイミングについては2つの説があり、王によれば最初に議会周辺の建物の探索が行われたのは、ちょうど計画者たちが最終準備に追われていた11月4日の月曜日であり、探索者はサフォーク、モンティーグル、ジョン・ホワイニアードの3人であった。彼らは貴族院の地下室で山と積まれた大量の薪を発見し、そこにいた、おそらくフォークスだと思われる使用人を連行して聴取したところ、彼は薪は主人のトマス・パーシーのものだと答えたという。2人が調査結果を報告するために立ち去ると、フォークスも建物を後にした。すでにカトリックの活動家として当局に知られていたパーシーの名前が出てきたために、王のさらなる疑念を引き起こし、より徹底した探索を行うことが命令された。その日の夜遅く、トマス・ニヴィット率いる探索隊が問題の地下室を訪れた。そこでマントと帽子を身にまとい、拍車のついたブーツを履いたフォークスを再発見した。逮捕された時、彼は「ジョン・ジョンソン」と名乗った。所持品を調べたところ、ランタンのほか、懐中時計、スローマッチ数本、火つけ木が見つかった(ランタンはオックスフォードアシュモレアン博物館に所蔵品として現存している[110][111]。 そして積み上げられた薪や石炭の下から36本もの火薬樽が発見された[112]。 フォークスは11月5日の未明に王のもとに連行された[113]

一味の逃亡とフォークスへの尋問

11月5日、私たちは議会を開会した。この議会には国王が直接出席するはずであったが、その日の朝に発覚されたある企てによって出席を見送られた。

この計画は玉座に座られた国王を、王が従えた、その子供たち、貴族、平民、さらに司教、判事、博士を巻き込み、一瞬にして爆破するというものであった。 刹那の爆発によってイングランドの国家と王国全体を破滅させる気だった。

そして、これを実現するため玉座の真下にあたる議場の地下に約30バレルの火薬と、大量の木材、ファゴット、鉄片、鉄の棒が置かれていた。
エドワード・ホビー卿(御寝所係官英語版)からブラッセル(Brussells〔ママ〕)大使のトマス・エドワーズ卿への手紙の抜粋 [114]

「ジョン・ジョンソン」逮捕のニュースがロンドンに残っていた仲間たちに広がると、彼らのほとんどは即座にワトリング・ストリート英語版に沿って北西(ミッドランズ方面)に逃げた。 まず、このニュースはストランド地区の豪邸(グレートハウス)を中心に広まった際に、クリストファー・ライトが事態に気づき、宿屋「ダック・アンド・ドレイク」に泊まっていたトマス・ウィンターの元へ駆けつけた。ウィンターは彼にニュースの真偽を確認するように命じ、政府が(ジョン・ジョンソンの雇い主であった)トマス・パーシーを探していることを確認すると、次にパーシーに警告に向かうように命じた。こうしてクリストファーとパーシーはひと足早くロンドンを脱し、キーズもニュースを知ると即座に脱した。出るのが一足遅かったルックウッドは1頭の馬で30マイルを2時間で走り抜け、ハイゲート付近で先行していたキーズを追い抜き、さらにリトル・ブリックヒル英語版でクリストファーとパーシーも追い抜いた。そしていち早くケイツビー一行(残りはジョン・ライト、ベイツ)と合流し、ロンドンの事態を報告した。間もなくパーシーらも合流し、一行はディグビーが用意した馬でダンチャーチ英語版に向かった。キーズは別行動をとることを決め、ドレイトン英語版のモーダント卿の家に向かった。一方でトマス・ウィンターはロンドンに残り、様子を探るため、ウェストミンスターにも行った。暗殺計画が暴かれたことを確信すると馬でノーブルック英語版にある妹の家に向かった後、ウスター近郊のハディントン・コート英語版に向かったという[注釈 17][115]

ケイツビーら6人は午後6時頃にアシュビー・セント・レジャーズ英語版に立ち寄り、そこでロバート・ウィンターに会って状況報告を行った。その後、ダンチャーチに到着し、ディグビー、グラントと合流した。計画の失敗にめげず、ケイツビーは武力抗争の余地はまだあると周りを説得した。ディグビーの「狩猟隊」には国王とセシルは死んだと嘘をつき、逃亡者たちは西のワーウィックへと移動した[115]

ロンドンで陰謀のニュースが広まると、当局は城門(ロンドン・ウォール)に警備を増やし、港を閉鎖し、怒れる暴徒に囲まれたスペイン大使の屋敷の警護にあたった。トマス・パーシーには逮捕状が発行され、彼の庇護者であるノーサンバランド伯は自宅軟禁となった[116]。 "ジョン・ジョンソン"は最初の尋問で母親の名前とヨークシャー出身であること以外は何も明かさなかった。ガイ・フォークスの名がある自分宛ての手紙を所持していたが、偽名の一つだと誤魔化した。"ジョンソン"は容疑を否定して無実を訴えるどころか、国王と議会を破壊することが目的だったと主張した[注釈 18]。しかし、彼は落ち着いており、自分ひとりだけの犯行だと主張した。王は彼の屈しない姿勢に感銘を受け、「ローマ人のような決断力」を持っていると評した[118]

Photo
ロンドン塔拷問台

11月6日、カトリックに強い憎悪を抱いていた首席裁判官ジョン・ポパム英語版は、ルックウッドの使用人に対し聴取を行った。その日の夜までにポパムは陰謀に関わった何名かの名前、すなわちケイツビー、ルックウッド、キーズ、ウィンター[注釈 19]、ジョン・ライト、クリストファー・ライト、グラントを特定した。一方、「ジョンソン」は、自分の話に固執し、発見された火薬[注釈 20]と共にロンドン塔に移送され、そこで王は彼への拷問を決定した[119]。 当時、拷問は国王大権や枢密院星室庁などの機関による許可がなければ禁じられていた[120]。ジェームズは11月6日付の手紙で「まずは優しい拷問が行われるべきである, et sic per gradus ad ima tenditur [and thus by steps extended to the bottom depths], and so God speed your good work.」と述べていた[121]。 「ジョンソン」は手鎖を受けて壁に吊るされていたと思われるが、彼はほぼ間違いなく拷問台の恐怖に晒されていた。 11月7日に自白の意思を固め、その日の遅くに情報を吐き、その後の2日間でさらに情報を吐きだした[122][123]

最後の抵抗、ケイツビーの死

11月6日、まだフォークスが沈黙を守っている中、逃亡者たちはウォリック城を襲撃して物資を調達し、さらにノーブルックに赴きグラントが用意していた武器を回収した。そこからハディントンへと向かい、その道中でケイツビーはコートン・コート英語版にいるガーネット神父や他の神父たちに、事の次第を伝え、カトリックの支持が強いとされるウェールズでの挙兵に協力することを要請する手紙を書いてベイツに届けさせた。手紙を読んだガーネットは、ケイツビーの思惑に反して、彼とその仲間たちに「邪悪な行為」を止め、教皇の説教に耳を傾けるよう懇願した。そして即座に逃亡生活に入り、これは結果としてガーネットらイエズス会の神父らが当局の捜査から数か月逃れられることに繋がった(何名かの神父は仲間の行く末を案じてウォリックに向かったが捕まり、ロンドンで投獄された)。午後2時頃、ハディントンに到着したケイツビーらをトマス・ウィンターが出迎えた。彼らの家族や友人らも含め、道行き出会った者たちは反逆罪に問われる恐怖から、彼らに実質的に何の支持も同情も与えなかった[124]

11月7日早朝、仲間たちはハディントンにて告解を行い、聖餐式に臨んだ。主要メンバーと支援者、そしてディグビー率いる狩猟隊を含めた一味の数は、この時点で36名にまで数を減らしていた[125]。降り止まぬ雨の中で彼らはヘウェル・グランジ英語版にあるウィンザー卿の空き家で武器や弾薬、資金を手に入れた。未だ彼らが期待していた大規模な反乱の目論見は、地元民の反応によって打ち砕かれた。彼らは、反乱者たちの「神と国」のためという意見に対し、「神と国だけではなくジェームズ王も支持している」と答えた。一行は、支持者であるスティーブン・リトルトンが所有するスタフォードシャーとの州境にあるホルベッチ・ハウス英語版に向かった。一方でトマス・ウィンターとリトルトンは別行動を取り、ジョン・タルボット卿の支援を得るべくシュロップシャーの邸宅ペッパーヒルを訪れたが無駄に終わった。ケイツビーらは午後10時頃にホルベッチ・ハウスに到着し、疲労と絶望感に苛まれる中で、ヘウェル・グランジで奪うも湿っていた火薬の一部を火の前に広げて乾かし始めた。火薬は物理的に圧力をかけないと爆発はしないが、火の粉が火薬にかかった瞬間、火柱が立ち、炎がケイツビー、ルックウッド、グラント、そしてモーガン(狩猟隊の一員)の4人を飲み込んだ[126]

トマス・ウィンターとリトルトンはホルベッチ・ハウスに向かう途中で、使者からケイツビーが死んだと知らされた。ここでリトルトンは逃亡して姿を消したが、トマスが家に駆けつけるとケイツビーは火傷を負っていたが生きていた。不運なグラントは炎で失明していた。ディグビー、ロバート・ウィンターとその異母兄弟のジョン、トマス・ベイツは去っていた。主要メンバーの中で残っていたのは、火傷で重傷を負ったケイツビーとグラント、ライト兄弟、ルックウッド、パーシーだけであった。彼らはこのままここに留まり、王の追跡者たちを迎え撃つ決意を固めた[127]

11月8日の朝、ウスターシャーの州長官リチャード・ウォルシュ英語版率いる200人の部隊がホルベッチ・ハウスを包囲した。トマス・ウィンターは中庭を横切るときに肩を撃たれた。ジョン・ライトが撃たれ、続いて彼の弟、そしてルックウッドが撃たれた。逸話によれば、ケイツビーとパーシーはラッキーショットによって1発で仕留められたという。部隊は敷地内に突入し、敵側の死んだ者や瀕死の者の服を剥ぎ取った(この際にまだ息があったライト兄弟が死亡)。戦闘後、生きていたウィンター、ルックウッド、グラント、モーガンの4人が逮捕された[127]

その後の対応

A three-quarter portrait of a white man, dressed entirely in black with a white lace ruff. He has brown hair, a short beard, and a neutral expression. His left hand cradles a necklace he is wearing. His right hand rests on the corner of a desk, upon which are notes, a bell, and a cloth carrying a crest. Latin text on the painting reads "Sero, Sed, Serio".
初代ソールズベリー伯ロバート・セシルの肖像画(ジョン・ド・クリッツ英語版作、1602年)

ベイツとキーズは、ホルベッチ・ハウスが制圧された直後に逮捕された。出頭するつもりであったというディグビーもすぐに少人数の追跡者たちに捕まった。トレシャムは11月12日に逮捕され、3日後にはロンドン塔に連行された。犯人らと親しかったモンタギュー卿、モーダント卿、ストートン卿も塔に幽閉された。ノーサンバランド伯も11月27日にここに加わった[128]。計画の主要メンバーの中でもっとも長く逃亡に成功したのはロバート・ウィンターであった。彼はスティーブン・リトルトンと共に潜伏生活を続け、最終的にはハンフリー・リトルトン(1601年のエセックス伯の乱に参加して反逆罪で投獄された国会議員ジョン・リトルトン英語版の弟)[129]の自宅であるハグリー英語版に匿われていた。ところが主人の食事の量に不審を抱いた料理人が裏切り、当局に通報した。こうして1月9日にロバートはスティーブンと共に当局に捕まり、主要メンバーは全員が逮捕されるか死亡したことになった。なお、2人の逃亡者の存在を否定して捜査を拒絶しようとしたハンフリーは当局の目を盗んで逃亡した[130]

その間、政府は陰謀が明るみに出たことを利用して、カトリック教徒への迫害を加速させた。エンフィールド・チェイスのアン・ヴォークスの家が捜索され、トラップドアや隠し通路の存在が明らかになった。恐怖に慄いた使用人たちは、この家によく滞在していたガーネットが、最近もここでミサを行っていたことを白状した。 ジョン・ジェラード神父は、ハローデンにあるエリザベス・ヴォークス(アン・ヴォークスの姉妹)の家に匿われていた。彼女はロンドンに連行され、取り調べを受けた。ジェラードが神父だとは知らず、「カトリック教徒のジェントルマン」だと思っていたと話し、また彼の居場所も知らないと毅然とした態度を通した。一味の家は捜索されると共に略奪に遭い、メアリー・ディグビーはこの略奪によって貧困に陥った[131] 。 11月末までにガーネットは、ウスター近郊のハインドリップ・ホール英語版に移り、枢密院に自身の無実を訴える手紙を書いた[132]

火薬陰謀事件の阻止によって国王と皇太子たちが助かったことに対する国民の安堵感が高まり、続く議会では王への忠誠心と好意的な雰囲気に包まれた。 セシルはこれを巧みに利用して、エリザベス1世の時代よりも高い議会税(議会から国王へ与えられる補助金)を徴収することに成功した[133]メイン陰謀事件によってロンドン塔に収監されていたウォルター・ローリーはケイツビーの妻の従姉妹が妻であったことから、陰謀への関与を疑われたがまったく知らなかったと無罪を訴えた[134]。 ロチェスター司教はセント・ポールズ・クロスで説教を行い、この陰謀を非難した[135]。 11月9日に両院で行われた演説で、ジェームズは王権神授説とカトリック問題という、王政の新たな関心事について説明した。ジェームズは、今回の陰謀はイングランドのカトリック教徒全体ではなく、一部のカトリック教徒によるものだと語り[注釈 21]、王は神によって任命されるものであり、自分が危機から逃れられたのは奇跡であるのだから、これを喜ぶべきであると議会に呼び掛けた[137]。 セシルは海外のイングランド大使に事態を知らせる書簡を送り、国王が近隣諸国のカトリック教徒には害意を抱いていないことを念押しして説明した。 外国列強は、犯人たちを無神論者やプロテスタントの異端者と呼んで、大きく距離を置いた[135]

犯人及び関係者たちへの尋問

A small irregular section of parchment upon which several lines of handwritten text are visible. Several elaborate signatures bookend the text, at the bottom.
ガイ・フォークスによる自白書の一部。「good」の下部分に、拷問直後に書かれた彼の弱々しい署名がかすかに見える(右下)。 

事件関係者たちへの尋問は法務長官エドワード・コークが担当した。これは約10週間に及び、ロンドン塔の補佐官の宿舎(現在のクイーンズ・ハウス)で行われた。最初の尋問において拷問が行われたという確証はないが、セシルが何度か拷問の実施を示唆している。後にコークが明かしたところによれば、陰謀の余波に巻き込まれた者たちの自白を引き出すには、多くは拷問するという脅しだけで十分であったという[138]

自白状の全文が記録されているのは、11月8日付のフォークスのものと、11月23日付のトマス・ウィンターのものの2つだけである。フォークスとは異なり、最初から陰謀に関わっていたウィンターは、枢密院に極めて貴重な情報を提供することができた。ただ、自白状の筆跡は間違いなくウィンター本人のものであるのに対し、署名(サイン)は明らかに従来のものと異なっていた。それまでのウィンターのサインは名前だけだったものが、この自白状ではファミリーネームがあり、さらに綴りは「Wintour」ではなく「Winter」となっていた。これに関しては何らかの政府の干渉があった可能性もあるし、あるいは、ホルベッチ・ハウスでの戦闘にて重傷を負った肩を固定された状態で書いたがために単に短く書いた方が痛みが少なくてすんだという可能性もある[139] 。 ウィンターの自白では、兄ロバートについては一切触れられていない。 この2つの自白状は、1605年11月下旬に発行された、陰謀に対する政府の公式見解を急遽したためた書類、いわゆる『キングス・ブック(King's Book)』に掲載されている[58][140]

トマス・ベイツの自白はセシルがカトリック司祭を事件に結び付けるために必要な情報の多くを提供することに繋がった。12月4日にベイツはイエズス会のオズワルド・テシモンド神父が計画を知っていたと告白した。1606年1月13日の尋問では逃亡中の11月7日にケイツビーの命令を受けてコートン・コートのガーネットとテシモンドを訪ね、計画の失敗を伝えたことも明かした。また、テシモンドと一緒にハディントンに行って、彼がハインドリップ・ホールのハビントン家に向かうのを見送ったことや1605年10月にガーネット、ジェラード、テシモンドの3人で会ったことなどを尋問官に話した。尋問において陰謀にイエズス会が関わっていることを白状したのはベイツだけである[141]。ただし、アントニア・フレーザーは、ベイツの証言の信憑性に疑問を呈している。なぜなら、ベイツは他の仲間たちの中で唯一下層階級に属していたために拷問を受ける危険性が高く、このために尋問官の機嫌を取ろうとして虚偽の自白を行った可能性がある。後にベイツは自分の処刑が回避できないと知ると、これら自白を撤回した[142][143]

同様にトレシャムの証言も後々イエズス会、特にガーネット神父を追い込むことに繋がった。捜査に非協力的であったトレシャムは11月13日に自分が事件に関与していたことを認めたものの、ケイツビーの頼みを拒否した限定的な役割であったことや、計画を遅延させ、当局に通報する意思があったと弁明した[144]。一方で陰謀発覚に寄与したモンティーグルの手紙に関しては何も触れなかった。また、自分が1602年から1603年にかけての「スペイン反逆事件」に関与していたことを明かし、その際にスペイン側の要人との取次としてガーネット神父を頼ったことを告白した[145]。12月に入ってトレシャムは尿路炎症によって健康を害し、塔内で治療を受けるも容態は悪化していった。そのままトレシャムは12月23日未明に亡くなった。臨終の間際にガーネット神父に関することなど、いくつかの自白を撤回したが、これは後のガーネットの裁判で当局に利用された。さらに、ガーネット宛の謝罪の手紙や、所持していたガーネットの論文なども、同裁判でコークに効果的に利用された[146][147]。 なお、逮捕された犯人達の中で唯一獄死し、裁判にかけらなかったトレシャムであったが、その遺体は斬首されてケイツビーやパーシーのものと一緒にノーサンプトンに晒し首にされ、身体はタワー・ヒルの穴に投げ込まれた[148][143][149]

ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは困難な状況に立たされていた。11月4日に行ったトマス・パーシーとの昼間の食事は不利な証拠であり[150]、トマスの死後は、彼の罪を立証することも、容疑を晴らすこともできる者がいなくなっていた。枢密院は、計画成就のあかつきにはノーサンバランド伯が傀儡の女王に即位させられたエリザベスの摂政になっていたと疑っていたが、彼を有罪にする証拠は不十分であった。伯爵はロンドン塔に留め置かれ、1606年6月27日、ついに侮辱罪で起訴された。彼はすべての公職から追放され、3万ポンド(2021年現在で約660万ポンド)の罰金を科され、最終的に1621年6月まで塔に幽閉され続けた[151]。 モーダント卿とストートン卿は星室庁の裁判にかけられた。彼らにはロンドン塔への収監が宣告され、1608年にフリート監獄英語版に移送されるまで幽閉されていた。また、どちらにも多額の罰金が科せられた[152]

他にも陰謀には関与していないが、メンバーと個人的関わりがあって尋問を受けた者たちもいた。ノーサンバランド伯の兄弟であるアレン卿とジョスリーン卿が逮捕された。第2代モンタグ子爵アンソニー=マリア・ブラウン英語版は、フォークスがかつて仕えていたこと、10月29日にはケイツビーに会っていたことから衆目を集めたが、数か月後に釈放された[153]アグネス・ウェンマン英語版はカトリックの家系で、エリザベス・ヴォークスと血縁関係にあった[注釈 22]。彼女は2回の尋問を受けたが、最終的には告発は取り下げられた[155]。パーシーの秘書であり、後にノーサンバランド家の家計管理官となるダドリー・カールトン英語版は、火薬が保管されていた金庫の借り主であったため、結果としてロンドン塔に幽閉されていた。セシルは彼の釈明を信じ、釈放を許可した[156]

裁判

Portrait of a man dressed in black with a white lace ruff
法務長官エドワード・コークは陰謀に関与したと思われる者たちへの尋問を担当した。

1606年1月26日、この時点で生きていた事件の犯人たち8人に対する裁判が開かれた。彼らはウェストミンスター・ホールに喚問され、7人はロンドン塔から平船で、平民のベイツのみゲートハウス監獄英語版から星室庁へと移送された。彼らの中には意気消沈している者もいたが、タバコを吸って平然としている者もいたという。 裁判の傍聴者の中には、国王とその家族も密かに参席していた。出席した諸侯委員はサフォーク伯爵、ウスター伯爵、ノーザンプトン伯爵、デボンシャー伯爵英語版、ソールズベリー伯爵(セシル)であった。ジョン・ポパムが主席判事を務め、以下、トマス・フレミング英語版が財務府裁判所主席判事、トマス・ウォルムスレイ英語版とピーター・ウォーバートン卿(Peter Warburton)の2人の判事が大法廷判事を務めた。反逆者たちの名前のリストが読み上げられたが、それは神父の名前からであった。すなわち、ガーネット、テシモンド、ジェラードである[157][158]

最初に答弁を行ったのは、下院議長(後に記録長官英語版)のエドワード・フィリップス卿英語版であり、陰謀の背後にあるものについて詳細に語った[158]。 続いて法務長官エドワード・コークの長い答弁が行われ、これはセシルの意図が強く反映されており、国王がカトリック教徒と約束したことは何もないという否定も含まれていた。 モンティーグル卿が陰謀の発見に貢献したことは歓迎され、また1603年に行われたスペインへの使節団(スペイン反逆事件)を非難する内容も強く取り上げられた。しかし、ジェラード神父は計画について何も知らなかったというフォークスの反論は、この答弁では省かれていた。外国の為政者について言及された場合には敬意が払われていたが、司祭の場合には非難され、その行動を可能な限り分析し、批判された。コークは今回の陰謀がイエズス会の発案であることは疑念の余地がないと断言した。ガーネットがケイツビーと面会した際に、ケイツビーが陰謀の非難を受ける謂れはないと述べたことは、イエズス会が陰謀の中心であることの十分な証拠だとされてしまった[159]。コークは、火薬陰謀事件は後世に「イエズス会反逆事件(the Jesuit Treason)」と知られることになるだろうと言った[160]。 また、王妃を始めとする国王一家の運命や、計画が成功した場合に爆発に巻き込まれたであろう罪のない人々のことを踏まえながら語っていった[159]

私はローマの司祭が関わっていない反逆事件を未だかつて見たことはないが、今回は非常に多くのイエズス会士が関わっており、彼らはすべての不正行為に関与し、黙認したことがわかっている。
エドワード・コーク[158]

さらにコークは死刑囚たちの運命(首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑)についても語った。彼らは仰向けにして地面を馬に引きずられながら死に向かう。「天と地の間で、そのどちらにもふさわしくない死を迎える」ことになるだろう。性器を目の前で切り取られて焼かれ、また腸と心臓も取り出される。そして斬首され、八つ裂き(四つ裂き)にされた身体の一部は「鳥の餌」となるよう晒される[159]。 その後、罪人たちの自白書や宣誓書が読み上げられ、最後に彼らの発言が許された。ルックウッドは「この世の誰よりも敬愛している」ケイツビーに計画に引き込まれたと主張した。 トマス・ウィンターは、兄ロバートの免罪を請い、自らは絞首刑となることを懇願した。 フォークスは無罪を主張し、起訴状の一部については知らなかったと釈明した。キーズは自分の運命を受け入れた様子を見せ、ベイツとロバート・ウィンターは慈悲を請い、グラントは自分の関与を「関わったが未遂に終わった陰謀」と弁明した[161]。 別容疑で裁かれたディグビーだけは[158]、国王がカトリック教徒に対する寛容の約束を反故にしたと非難し、ケイツビーへの敬愛とカトリックの大義への敬信が自分に行動を起こさせたとして罪を認めた。 そのうえで斧による処刑(斬首刑)を望み、また残される幼い家族への国王の慈悲を求めた[162] 。 彼らの答弁は無駄に終わり、コークやノーサンバランドに論破され、7人の共犯者とともに大逆罪での有罪を宣告された。 ディグビーは「もしもあなた方の中に私をお許しくださるようおっしゃってくれる方がいるのであれば、私はもっと気軽に絞首台に向かうでしょう」と叫んだ。これに対する返答は短く、「神よ、彼をお許しください。我らもそうします(God forgive you, and we do.)」[163][164]

ガーネット神父の逮捕と裁判

A monochrome illustration of a large medieval building, with many windows, turrets, and chimneys. Sculpted bushes surround the house, which is surrounded by fields and trees.
ウスターシャーにあったハインドリップ・ホール英語版。建物は1820年の火事で焼失した。

先述の通り、トマス・ベイツらの「自白」を基に当局は事件にイエズス会が関与していたものとみなし、1606年1月15日にヘンリー・ガーネット神父、ジョン・ジェラード神父、グリーンウェイ神父(オズワルド・テシモンド)に対する指名手配を行った。このうち、ジェラードとテシモンドはうまく当局の目を逃れ、最終的に国外逃亡に成功した[165]。しかし、ガーネットは運が悪かった。 ガーネットが潜伏していたハインドリップ・ホール英語版は、トマス・ハビントン[注釈 23]の家で、同じイエズス会のエドワード・オールドコーン神父の拠点でもあった。ここには他に聖職者の巣穴の構築で有名なニコラス・オーウェンも潜伏していた。ハインドリップ・ホールに当局の捜査の手が入ったのは1月20日のことであり、地方判事とその部下達は、家主であるハビントンの抗議を無視して連日の家宅捜査を続けた。24日にオーウェンとラルフ・アシュリーが空腹に耐えかね投降した。ここでガーネットとオールドコーンはもう少しだけ耐えれば当局は諦めて帰ると踏んでいたが、ハンフリー・リトルトンの逮捕がその予想を阻んでしまった。先述のロバート・ウィンターとスティーブン・リトルトンを匿っていたが当局に見つかり、逃亡したハンフリーはスタフォードシャーのプレストウッドにて逮捕された。その後、ウスターで死刑宣告されるも1月26日に助命を請いてガーネットの居場所を密告していた。このために当局は諦めることなくハインドリップ・ホールの家宅捜査を続け、結局、1月27日に、長期間に渡る聖職者の巣穴での生活で衰弱したガーネットはオールドコーンと共に当局に投降した[167]

ガーネットはまずウスターシャーのホルト城に連行された後、数日後にロンドンに移送され、最初はウェストミンスターのゲートハウス監獄に収監された。その翌日にはロンドン塔に移された[168]。このロンドンへの移送の際には、長い潜伏生活で衰弱していたガーネットのために、国王の負担で良馬があてがわれ、またロンドン塔でも彼が「非常に素晴らしい部屋」と表現する部屋をあてがわれた[169]。彼に対する尋問は23回にわたった可能性があるが、拷問台(ラック)などが使用される恐れに関しては「Minare ista pueris(脅しが通じるのは少年のみ)」[注釈 24]と答え、そうした行為が無駄だと示した。結局、ガーネットの返答や明かす情報は事前によく考えられたものであり、また限定的であった。尋問者たちは様々な手を考え、内通者にゲートハウス監獄にいる甥への手紙を中継することを申出させてその手紙を検閲したり、壁にわざと穴を開けて会話が可能なオールドコーンの独房と隣合わせに入れて、その会話を盗み聞きするなどと処置をとった[170]。これは結果として、自分が計画を知っていたと証言できるのは一人だけだ、という重要な情報をガーネットが漏らすことに繋がった。その後の拷問によって彼はテシモンドを通してケイツビーの計画を事前に知っていたことを認めた[171]

ガーネットに対する裁判は3月28日にギルド・ホールで午前8時から午後7時まで行われ、起訴内容は大逆罪であった[172]。 コークの答弁ではガーネットが計画の立案者になっていた。彼は「ガーネットは天賦の才を与えられた者であり、博学で、数か国語に長けた専門家であり、本当に彼は同輩や高位のイエズス会士の前任者たちよりも優れている、悪魔のような反逆罪を企てたという点において。偽装の博士として王の破滅(Deposing)、王国の破滅(Disposing)、臣民の破滅(Daunting)と恫喝(Deterring)、そして破壊(Destruction)を企んだのである」と糾弾した。また、トレシャムの死に際に書かれたガーネット宛の謝罪の手紙が読み上げられ、それは1603年の「スペイン反逆事件」について書かれていたものにも関わらず、中身を知らないガーネットには1605年の出来事のものだと錯覚させた[173]。さらに裁判では火薬陰謀事件だけではなく、彼自身の教義についても質問が行われた。トレシャムの遺品にあったガーネットの論文より、信仰のためには時に嘘を付くことも仕方がないとする「曖昧性の教義」は、「公然と、かつ大々的に嘘を放ち、偽証すること」とコークに糾弾され、さらにガーネットの立場を危なくした。テシモンドから聞いた内容は懺悔室の守秘義務の下で行われたために、当局に通報できなかったという弁明に対して、セシルはその時点で暗殺計画はまだ起きていないのだからできたはずだと指摘した。また、ケイツビーと無実の人々の死について直接会話した際にも同様にできたはずだと指摘したが、ガーネットはこの時点では質問と事件の関連性が理解できていなかったと弁明した。ノーザンプトン伯はラテン語で「quod non-prohibet cum potest, jubet(男ができることを禁じないのは、彼への命令と同じ)」と批判した[174]

ガーネットはすべての容疑に反論し、カトリックの立場を説明して自分はケイツビーを止めようとしたと弁明したが、それでも有罪となり、死刑宣告を受けた[132]

死刑執行

A monochrome illustration of a busy urban scene. Medieval buildings surround an open space, in which several men are being dragged by horses. One man hangs from a scaffold. A corpse is being hacked into pieces. Another man is feeding a large cauldron with a dismembered leg. Thousands of people line the streets and look from windows. Children and dogs run freely. Soldiers keep them back.
火薬陰謀事件の犯人たちが首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された場面が描かれた版画

既に死亡していたケイツビーとパーシーは、遺体を掘り起こされ、斬首された後、その首は貴族院の外にスパイク(長槍)で串刺しにされ梟首にされた[128]。 寒かった1月30日にエベラード・ディグビー、ロバート・ウィンター、ジョン・グラント、トマス・ベイツの4人は、ハードル(木の板[175])に縛られて、ロンドンの混雑した通りをセント・ポール教会堂まで引き回された。 最初に処刑台に上がったディグビーは観衆に赦しを請い、プロテスタント司祭の説教を拒んだ。 衣服を剥ぎ取られシャツ1枚となった彼は、梯子を上り、絞首縄に頭を通した。 意識があるうちに性器を切り取られ、内臓を抉られ、他の3人の仲間と共に四つ裂きにされた[176]。 翌日、トマス・ウィンター、アンブローズ・ルックウッド、ロバート・キーズ、ガイ・フォークスの4人は、爆破を計画していた建物の反対側にあたるウェストミンスターのオールド・パレス・ヤード英語版で、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された[177]。 キーズは、絞首刑の執行を待たず自ら絞首台より飛び降り自殺を図ったが、死ぬことはできず舞台に連れ戻された。拷問で弱っていたフォークスも同じく絞首台から飛び降りたが、彼は頸椎を折って死ぬことに成功し、陰惨な処刑の後半の苦しみから逃れることができた[178][179]

スティーブン・リトルトンはスタッフォードで処刑された。彼のいとこのハンフリーは当局に協力したにもかかわらず、ウスター近くのレッドヒル英語版で処刑された[180]。 ガーネット神父の処刑は1606年5月3日に行われた[181]

余波・影響

18世紀のプロテスタントの聖書に記された「火薬反逆事件(The Gunpowder Treason)」

1604年当時、そもそもローマ・カトリック教徒が自由に礼拝できるようになることは考えにくいことであったが、このような広範囲にわたる陰謀の発見と関係者の逮捕・裁判を経て、議会は新たな反カトリック法を導入することになった。こうした対カトリック政策の変更はスペインの希望を打ち砕くものでもあった[182]。 1606年の夏、国教忌避者に対する法律が強化された。「Popish Recusants Act」は、エリザベス朝時代の罰金と規制を復活させ、聖餐式のテストと忠誠の宣誓(至上権承認の宣誓)を導入し[183]、また、カトリック教徒たちに「ローマ教皇に破門された君主は退位または暗殺されるべき」という教義を破棄するように求めるものであった[13]。 カトリックが自由になるのは、それからさらに200年掛かったが、ジェームズ1世の時代においては、重要かつ忠実なカトリック教徒が政府高官として活躍していた[184]。 確かにガーネット神父が期待していたようなカトリックに対する「寛容」のある「黄金時代」は到来しなかったが、ジェームズの治世下は比較的カトリックに寛容な時代であり、告発される者はほとんどいなかった[185]

劇作家ウィリアム・シェイクスピアは、『ヘンリー四世』シリーズの劇中で、ノーサンバランド伯一族の歴史を参照しており、火薬陰謀事件もまた、1600年のガウリー陰謀事件と共に、1603年から1607年の間に書かれた『マクベス』の中で参照されていたようである[186]。 火薬陰謀事件によって、悪魔に対する関心が高まった。国王は、スコットランドだけでなくイングランド王になる前の1599年に『デモノロジー』を執筆し、異世界の力に関する大論争に参加していた[187]。 この事件に影響を受けた他の作家としてはジョン・ミルトンがいる。彼は1626年に、ある解説者が「批評するに厄介な詩(critically vexing poem)」と呼ぶ『In Quintum Novembris』を書いている。この詩は「イギリスとプロテスタントの祝祭日に対する党派的な国民感情」を反映したものであり[188]、1645年と1673年に出版された版では、この詩の前に火薬陰謀事件をテーマにした5つのエピグラムが掲載されており、これはミルトンが大作の準備のために書いたと推測されている[189] 。この事件は後の彼の代表作『失楽園』にも影響を与えた可能性がある[190]

Faith, here's an equivocator,
that could swear in both the scales against either scale;
who committed treason enough for God's sake,
yet could not equivocate to heaven
マクベス 第2幕第3場

火薬陰謀事件は、特別な説教や、教会の鐘を鳴らすなどの公的行為によって何年も記念された。これは17世紀イングランドの国家的・宗教的生活に影響を与えたプロテスタントの祝賀行事として、より大きなものとなっていき[191]、今日の「ガイ・フォークス・ナイト」へと発展した。 歴史家のロナルド・ハットン英語版は、『もし火薬陰謀が成功していたら?(What If the Gunpowder Plot Had Succeeded?)』の中で、陰謀が成功して貴族院とその関係者たちが抹殺された場合の後のことを考察している。 それによればハットンは、疑わしいカトリック教徒に対する激しい反発が起こり、外国からの援助がなければ反乱の成功はありえないだろうと結論付けた。宗派の違いはあってもイングランド人の多くは君主制には忠実であった。結果、議会改革や市民改革の道を歩まず、「17世紀のスウェーデンデンマークザクセンプロイセンのようなピューリタン的な絶対王政」になっていた可能性がある[192]

セシル黒幕説

当時の多くの人々は、国王秘書長官ロバート・セシルが国王の寵愛を受けること、かつ、より強固な反カトリック法を制定するために陰謀に関与していたと疑っていた。 このような陰謀論は、セシルが実際の計画の首謀者、あるいは自分の手下を計画に参加させておき、プロバガンダのために計画の準備が進むことを黙認していたというものである[185]。 1678年のカトリック陰謀事件では、再び火薬陰謀事件への関心が高まり、これに対してリンカーン司教のトマス・バロウ英語版が「事件がすべてセシル長官の策略という大胆だが根拠のない憶測」に反論した本を出版した[193]

1897年、ストニーハースト大学英語版より、火薬陰謀事件で逮捕を免れたジョン・ジェラード神父の名前を名乗る著者の『火薬陰謀とは何だったのか(What was the Gunpowder Plot?)』という本が発表され、この中ではセシルが黒幕だと主張されていた[194]。 この主張はその年の内にサミュエル・ガーディナー英語版の反論を受けた。ガーディナーは、何世代にもわたってイングランドのカトリック教徒たちを圧迫してきた火薬陰謀事件を「拭い去ろう」とするジェラードの行為は行き過ぎだと非難した。 ガーディナーはセシルの罪は単なる機会主義者に過ぎないとした[195]。 1969年にフランシス・エドワーズが発表した『ガイ・フォークス:火薬陰謀の真相』など、セシルが陰謀に関与していたことを証明する試みは続けられたが、明確な根拠がないため、ジェラードの主張と同様の結果に終わっている[196]

議会地下室は、カトリック陰謀事件のニュースが流れた1678年まで個人に貸し出され続けていた。その後は、議会開会式の前日に地下室を捜索することが賢明とされ、この儀式は現在まで続いている[193]

ガイ・フォークス・ナイト

A night-time photograph of a blazing fire is silhouetted by dark figures.
陰謀の失敗を記念して、イギリスでは毎年11月5日に焚き火が行われる。

1606年1月、事件後初の議会開催中に「1605年の11月5日遵守法英語版」が可決され、11月5日を記念した礼拝や説教がイングランドの恒例行事となった[197]。この法律は1859年まで有効であった[198]。 教会が鐘を鳴らしたり、焚火を行って祝う週間は陰謀が発覚した直後から始まっており、初期の祝賀行事でも花火が打ち上げられていた[197]。 イギリスでは、11月5日は「ボンファイア・ナイト(焚火の夜、Bonfire Night)」、「ファイアワークス・ナイト(Fireworks Night)」、「ガイ・フォークス・デー(Guy Fawkes Day)」などと呼ばれている[198]

イギリスでは、11月5日前後に花火を打ち上げる習慣が残っている。 伝統的には、11月5日までの数週間、子供たちは古着に新聞紙を詰めてグロテスクなマスクを付けた「ガイ」の人形(ガイ・フォークスを模したものと思われる)を作り、これを当日に焼いた。かつてはこの人形を街頭に出して花火代を集めることも行われていたが、これは現在では珍しいものとなっている[199]。 このように、ガイという言葉は、19世紀には奇妙な格好をした人を意味するようになり、やがて20世紀から21世紀にかけて男性を意味するようになった(タフガイやナイスガイなど)[198]

11月5日の花火大会や焚き火パーティーは、イギリス全土で行われ、大規模な公共の場でも個人の庭でも行われる[198]。 特にサセックスでは、地元のサセックス・ボンファイア協会英語版が主催する大規模な行列や大きな焚き火、花火大会が行われ、中でもルイスでは最も手の込んだイベントが開催される。

伝記作家のエスター・フォーブス英語版によれば、独立前のアメリカ植民地ではガイ・フォークス・ナイトは非常に人気のある休日だったという。ボストンでは「ポープ・ナイト英語版(Pope Night)」と呼ばれ、この日の騒ぎは反権力的な雰囲気を帯びて、しばしば危険な状態に陥り、多くの人が家に籠ったという[200]

爆発の再現

Viewed from a distance, with a telephoto lens, a large explosion is captured in its early stages. In the foreground, assorted building materials are visible. In the background, a hillside is partially covered by a forest.
爆発した瞬間の写真。

2005年に放映されたITVの番組『The Gunpowder Plot: Exploding The Legend(火薬陰謀事件:爆発の伝説)』では、貴族院の実物大レプリカを作り、合計1トンの火薬樽を使って爆破実験を行った。 実験はADVANTICA社が所有するスペイダム実験場で行われ、火薬が正常に使用されていれば、爆発によって建物内の全員が死亡しただろうことが実証された[201]。 爆発の威力は、地下室を構成する深さ7フィート (2.1 m)のコンクリート壁(史料に基づいて旧貴族院の材質を再現したもの)のうち、玉座の直下に当たる樽があった端の壁は瓦礫と化し、隣接していた部分の壁もそれに巻き添えになる形で押しのけられるようになっていた。 爆風の威力を計算するために建物内に置かれていた測定器は、爆発によって破壊される直前に目盛りがオーバーしたことが記録されていた。廷臣や貴族、司教たちに囲まれる形で、玉座に置かれていたジェームズを模した人形の頭部の一部は、かなり離れた場所から発見されたという。 番組によれば、爆発から半径330フィート (100 m)以内にいた者は死亡し、ウェストミンスター寺院のステンドグラスはすべて粉々になり、宮殿周辺の窓もすべて粉々になっただろうと推測している。 この爆発は何マイルも離れたところからも見ることができ、音ならさらに離れていても確認できたと思われる。 フォークスが覚悟していたように、仮に火薬の半分しか爆発しなかったとしても、貴族院とその周辺にいた全員が即死したものと考えられる[201]

また、番組では火薬が劣化していれば爆発は起こせなかったという説も検証し、否定した。 意図的に劣化させ、火器にも使えないような低品質の火薬の一部を山積みにして点火しても大きな爆発を起こすことができた。すなわち、劣化していても木樽の中に詰めれば、質に関係なく衝撃を拡大させることができた。圧縮された火薬はまず樽の上部から吹き上がり、数ミリ秒後に吹き飛ぶという大砲のような効果を見せた。 計算すると火薬の扱いに長けていたフォークスは必要な量の2倍用意していたことがわかった。 フォークスが使用したものと同じサイズの樽の中に、イギリスで入手可能な当時と同じ火薬12キログラム (26 lb)を入れて爆発させるテストを行ったところ、プロジェクトの専門家たちは、圧縮がもたらす爆発の効果に非常に驚いたという[202]

フォークスが守っていた火薬の一部は現存している可能性がある。2002年3月、大英図書館で日記作者ジョン・イーヴリンのアーカイブを目録化していた作業員が、多数の火薬のサンプルが入った箱を発見した。この中にはガイ・フォークスが所有していたというイーヴリンの簡易な自筆メモが入っているものも含まれていた。19世紀に書かれた別のメモがこの出所を確認していたが、1952年に付け加えられたメモには「しかし、もう何も残っていなかった!(but there was none left!)」とあった[203]

脚注

注釈

  1. ^ 斬首刑や四つ裂き刑にされず五体満足のままを意味している。
  2. ^ 後述のメイン陰謀事件に対比して「バイ(副)」と呼称される。
  3. ^ 前述のバイ陰謀事件に対比して「メイン(主)」と呼称される。
  4. ^ アンがいつ、どのような形でカトリックに改宗したかについては歴史家の間でも意見が分かれている。 「1590年代のある時にアンはローマ・カトリック教徒となった」[18] 「1600年以降、ただし1603年3月よりはかなり前に、アン王妃は王宮の隠し部屋にてカトリック教会に信仰を認められた」[19] 「(前略)ジョン・リンゼイ卿は、1604年11月にローマに赴いて教皇に謁見した際、王妃がすでにカトリック教徒であることを明かした」[20] 「このような状況を歓迎していたはずのカトリック教国の大使たちは、王妃が自分たちの手の届かないところにいることを確信していた。「彼女はルター派である」と、ヴェネツィアの特使ニコロ・モリンは1606年に結論づけている」[21] 「1602年に出された報告書では、アンが(中略)数年前にカトリックに改宗したとあった。著者のスコットランドのイエズス会士ロバート・アバクロンビ英語版は、ジェームズが妻の放棄(desertion)を平然と受け止めていたと証言し、「さて妻よ、そうではないと生きられぬというのであれば、できるだけ目立たぬように最善を尽くせ」と述べたとしている。実際、アンは自分の宗教的信念をできるだけ静かに保ち、残りの人生、さらに死後も、その内心は晦渋なままであった」[22]
  5. ^ 1605年と2008年の5000ポンドの貨幣価値の比より計算。
  6. ^ 1601年と2008年の3000ポンドの貨幣価値の比より計算。
  7. ^ トマス・パーシーの娘はケイツビーの8歳になる息子と婚約しており、2人の間に親族的な関係が築かれていた可能性がある。また、後述のケイツビーの友人であるジョン・ライトとは義兄弟の関係にあった[39]
  8. ^ これら記録は拷問や脅迫の元での証言や、政府の干渉を受けたと思われるものもあるため、信憑性には一定の疑いがある。
  9. ^ 後のポルトガル王ジョアン4世の母方の祖父にあたり、コンスタブル・オブ・カスティーリャ(Constable of Castile)の名誉称号も持つ。
  10. ^ ベイツ本人の告白による。
  11. ^ 当時、火薬は兵士や民兵、商船、火薬工場などからブラックマーケットを通して購入することができた[79]
  12. ^ Haynes (2005)は、テシモンドが告白を受けたのはトマス・ベイツとしている[80]
  13. ^ アン・ヴォークスは本事件の犯人たちのほとんどと親戚関係にあった。また、自宅においてヘンリー・ガーネットを始めとしてカトリックの司祭(神父)たちを匿っていた[82]
  14. ^ 旧暦であれば10月11日。
  15. ^ トマス・トレシャムはエセックス伯の反乱に加担した息子フランシスとケイツビーの罰金の一部を肩代わりした。
  16. ^ この時の集まりには劇作家で詩人のベン・ジョンソンも同席していたというが陰謀発覚後は、犯人たちとの交友を無かったとするに労力を要した。[94]
  17. ^ ハディントン・コート英語版はトマス・ウィンターの兄ロバートが相続した物件であり、神父たちの避難所としてしばしば密かなミサも行われていた[49]
  18. ^ ジェームズの言葉を借りれば、フォークスは「私だけではなく、あるいは私の妻や子孫だけではなく、国家そのもの」の破壊を企図していた、ということになる[117]
  19. ^ 原文は「Wynter」。
  20. ^ この火薬はロンドン塔に運ばれたが、「腐っていた」という[116]
  21. ^ ジェームズは「ローマの宗教を信奉する者がすべて同じ罪を犯しているということにはならない」と述べた[136]
  22. ^ ヴォークスは息子のエドワードの結婚に関してウェンマンに手紙を書いており、その中には解釈が難しい(怪しい)文言があったために、これを盗み見たリチャード・ウェンマンに疑われていた[154]
  23. ^ モンティーグル男爵の義弟であり、本来はハンフリー・リトルトンのように犯人隠匿(司祭隠匿)の罪で死刑の恐れもあったが、事件解決に貢献した男爵の口添えにより恩赦を受けた[166]
  24. ^ Haynes (2005) は「Minute ista pueris」と間違えたようである。

出典

  1. ^ Haynes 2005, p. 12.
  2. ^ Willson 1963, p. 154.
  3. ^ Haynes 2005, p. 15.
  4. ^ Fraser 2005, pp. xxv–xxvi.
  5. ^ Fraser 2005, p. xxv
  6. ^ Fraser 2005, pp. xxvii–xxix
  7. ^ Fraser 2005, pp. 70–74.
  8. ^ Brice 1994, p. 88
  9. ^ Fraser 2005, p. 46
  10. ^ Fraser 2005, pp. xxx–xxxi
  11. ^ a b Fraser 2005, p. 91
  12. ^ Fraser 2005, p. 7
  13. ^ a b Marshall 2006, p. 227
  14. ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 32–33
  15. ^ Marshall 2006, p. 228
  16. ^ Haynes 2005, pp. 32–39
  17. ^ Fraser 2005, pp. 76–78
  18. ^ Willson 1963, p. 95
  19. ^ Fraser 2005, p. 15
  20. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 36
  21. ^ Stewart 2003, p. 182
  22. ^ Hogge 2005, pp. 303–304
  23. ^ Fraser 2005, pp. 41–42
  24. ^ Fraser 2005, pp. 100–103
  25. ^ Fraser 2005, pp. 103–106
  26. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 8
  27. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 34
  28. ^ a b Officer, Lawrence H. (2009), Purchasing Power of British Pounds from 1264 to Present, MeasuringWorth, オリジナルの24 November 2009時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20091124192556/http://www.measuringworth.com/ppoweruk/index.php 2009年12月3日閲覧。 
  29. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 33
  30. ^ Fraser 2005, pp. 106–107
  31. ^ Fraser 2005, p. 108
  32. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 46
  33. ^ Fraser 2005, pp. 140–142
  34. ^ Haynes 2005, p. 47
  35. ^ a b c Northcote Parkinson 1976, pp. 44–46
  36. ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 45–46
  37. ^ Fraser 2005, p. 93
  38. ^ Fraser 2005, p. 90
  39. ^ Fraser 2005, p. 120.
  40. ^ De Fonblanque 1887, p. 254
  41. ^ Fraser 2005, pp. 47–48
  42. ^ Fraser 2005, p. 49
  43. ^ Fraser 2005, p. 50
  44. ^ Fraser 2005, pp. 51–52
  45. ^ Nicholls 1991, p. 98
  46. ^ Fraser 2005, pp. 50–52
  47. ^ Haynes 2005, pp. 49–50
  48. ^ Haynes 2005, p. 50
  49. ^ a b c Fraser 2005, pp. 59–61
  50. ^ Fraser 2005, p. 58
  51. ^ Fraser 2005, pp. 117–118
  52. ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 44–46
  53. ^ Haynes 2005, p. 42.
  54. ^ Fraser 2005, p. 87.
  55. ^ Fraser 2005, pp. 84–89
  56. ^ Nicholls, Mark (2004), “Fawkes, Guy (bap. 1570, d. 1606)”, Oxford Dictionary of National Biography (online ed.), Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/9230, http://www.oxforddnb.com/view/article/9230  (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)
  57. ^ Fraser 2005, pp. 117–119.
  58. ^ a b c Nicholls, Mark (2004). "Winter, Thomas (c. 1571–1606)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/29767. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  59. ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 46–47
  60. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 48
  61. ^ Fraser 2005, p. 120
  62. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 52
  63. ^ Haynes 2005, pp. 54–55
  64. ^ Fraser 2005, pp. 122–124
  65. ^ a b Northcote Parkinson 1976, p. 96
  66. ^ Fraser 2005, pp. 130–132
  67. ^ Haynes 2005, pp. 55–59
  68. ^ Fraser 2005, pp. 133–134
  69. ^ Fraser 2005, pp. 56–57
  70. ^ Nelthorpe, Sutton (November–December 1935), “Twigmore and the Gunpowder Plot”, Lincolnshire Magazine 2 (8): 229 
  71. ^ Nicholls, Mark (2008) [2004]. "Wright, John (bap. 1568, d. 1605)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/30036. 2010年10月25日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) (Paid subscription required要購読契約)
  72. ^ Fraser 2005, pp. 136–137
  73. ^ Haynes 2005, p. 57
  74. ^ Fraser 2005, p. 170
  75. ^ Fraser 2005, p. 139
  76. ^ Haynes 2005, p. 75
  77. ^ Haynes 2005, p. 59
  78. ^ Fraser 2005, pp. 144–145
  79. ^ a b Fraser 2005, pp. 146–147
  80. ^ Haynes 2005, p. 62.
  81. ^ Haynes 2005, pp. 62–65
  82. ^ Haynes 2005, pp. 65–66.
  83. ^ Haynes 2005, pp. 65–67
  84. ^ Fraser 2005, pp. 158–160
  85. ^ Fraser 2005, pp. 159–162
  86. ^ Fraser 2005, p. 170
  87. ^ Fraser 2005, pp. 159–162, 168–169
  88. ^ Fraser 2005, pp. 175–176
  89. ^ Haynes 2005, p. 80
  90. ^ Fraser 2005, pp. 171–173
  91. ^ Fraser 2005, p. 110
  92. ^ Fraser 2005, pp. 79–80, 110
  93. ^ Fraser 2005, pp. 173–175
  94. ^ Fraser 2005, p. 179.
  95. ^ Fraser 2005, pp. 178–179
  96. ^ Fraser 2005, pp. 182–185
  97. ^ Haynes 2005, pp. 85–86
  98. ^ Haynes 2005, pp. 78–79
  99. ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 62–63
  100. ^ Haynes 2005, p. 82
  101. ^ Fraser 2005, pp. 179–180
  102. ^ Haynes 2005, p. 89
  103. ^ Fraser 2005, pp. 180–182
  104. ^ Fraser 2005, pp. 187–189
  105. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 70
  106. ^ Haynes 2005, p. 90
  107. ^ Haynes 2005, p. 92
  108. ^ Fraser 2005, pp. 196–197
  109. ^ Fraser 2005, pp. 199–201
  110. ^ MacGregor, Arthur (January 2012), “Guy Fawkes's Lantern”, British Archaeology at the Ashmolean Museum (Tradescant Gallery, Gallery 27, First Floor, Ashmolean Museum, Oxford, England: britisharchaeology.ashmus.ox.ac.uk), オリジナルの7 November 2014時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20141107194310/http://britisharchaeology.ashmus.ox.ac.uk/highlights/guy-fawkes-lantern.html 2014年10月19日閲覧。 
  111. ^ Fraser 2005, pp. 201–203
  112. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 73
  113. ^ Haynes 2005, pp. 94–95
  114. ^ Nichols 1828, p. 584
  115. ^ a b Fraser 2005, pp. 203–206
  116. ^ a b Fraser 2005, p. 226
  117. ^ Stewart 2003, p. 219.
  118. ^ Fraser 2005, pp. 207–209
  119. ^ Fraser 2005, pp. 211–212
  120. ^ Scott 1940, p. 87
  121. ^ Fraser 2005, p. 215
  122. ^ Fraser 2005, pp. 216–217
  123. ^ Scott 1940, p. 89
  124. ^ Fraser 2005, pp. 218–222
  125. ^ Fraser 2005, pp. 205–206.
  126. ^ Fraser 2005, pp. 218–222
  127. ^ a b Fraser 2005, pp. 222–225
  128. ^ a b Fraser 2005, pp. 235–236
  129. ^ Haynes 2005, p. 79
  130. ^ Fraser 2005, pp. 255–256.
  131. ^ Fraser 2005, pp. 236–241
  132. ^ a b McCoog, Thomas M. (September 2004). "Garnett, Henry (1555–1606)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/10389. 2016年11月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  133. ^ Croft 2003, p. 64
  134. ^ Fraser 2005, p. 228
  135. ^ a b Fraser 2005, pp. 232–233
  136. ^ Stewart 2003, p. 225
  137. ^ Willson 1963, p. 226
  138. ^ Fraser 2005, pp. 241–244
  139. ^ Haynes 2005, p. 106
  140. ^ Fraser 2005, pp. 242–245
  141. ^ Fraser 2005, p. 132.
  142. ^ Fraser 2005, p. 121.
  143. ^ a b Fraser 2005, p. 249.
  144. ^ Fraser 2005, pp. 173–175.
  145. ^ Nicholls, Mark (2004). "Tresham, Francis (1567?–1605)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語). Vol. 1 (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/27708. 2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)(Paid subscription required要購読契約)
  146. ^ Fraser 2005, p. 290.
  147. ^ Fraser 2005, pp. 311–315.
  148. ^ Nicholls, Mark (2004). "Tresham, Francis (1567?–1605)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/27708. 2016年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  149. ^ Haynes 2005, p. 104.
  150. ^ Haynes 2005, p. 93
  151. ^ Nicholls, Mark (2004). "Percy, Henry, ninth earl of Northumberland (1564–1632)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/21939. 2016年11月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  152. ^ Fraser 2005, p. 333
  153. ^ Haynes 2005, pp. 125–126
  154. ^ Fraser 2005, pp. 151–152
  155. ^ Griffiths, Jane (2004). "Wenman, Agnes, Lady Wenman (d. 1617)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/29044. 2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  156. ^ Reeve, L. J. (2004). "Carleton, Dudley, Viscount Dorchester (1574–1632)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/4670. 2015年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  157. ^ Fraser 2005, pp. 263–265
  158. ^ a b c d Haynes 2005, pp. 110–111
  159. ^ a b c Fraser 2005, pp. 266–269
  160. ^ Wilson 2002, p. 136
  161. ^ Fraser 2005, pp. 270–271
  162. ^ Nicholls, Mark (September 2004). "Digby, Sir Everard (c. 1578–1606)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/7626. 2015年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  163. ^ Fraser 2005, p. 273
  164. ^ Haynes 2005, p. 113
  165. ^ McCoog, Thomas M. (2004). "Gerard, John (1564–1637)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/10556. 2009年11月20日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  166. ^ Fraser, Antonia; Faith and Treason: The Story of the Gunpowder Plot, New York, Doubleday (1996)
  167. ^ Fraser 2005, pp. 256–262.
  168. ^ Fraser 2005, pp. 283–284.
  169. ^ Bengsten 2005, p. 70.
  170. ^ Haynes 2005, pp. 116–119.
  171. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 103.
  172. ^ Haynes 2005, p. 120
  173. ^ Fraser 2005, pp. 310–312.
  174. ^ Fraser 2005, pp. 313–314.
  175. ^ Thompson 2008, p. 102
  176. ^ Haynes 2005, pp. 115–116
  177. ^ Nicholls, Mark (2004). "Rookwood, Ambrose (c. 1578–1606)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/24066. 2009年11月16日閲覧 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  178. ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 91–92
  179. ^ Fraser 2005, pp. 279–283
  180. ^ Haynes 2005, p. 129
  181. ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 114–115
  182. ^ Allen, Paul C (2000). Philip III and the Pax Hispanica, 1598–1621: The Failure of Grand Strategy. Yale University Press. p. 154. ISBN 978-0-300-07682-0 
  183. ^ Haynes 2005, p. 131
  184. ^ Haynes 2005, p. 140
  185. ^ a b Marshall 2003, pp. 187–188
  186. ^ Haynes 2005, pp. 148–154
  187. ^ Huntley, Frank L. (September 1964), “Macbeth and the Background of Jesuitical Equivocation”, PMLA (Modern Language Association) 79 (4): 390–400, doi:10.2307/460744, JSTOR 460744, https://jstor.org/stable/460744 
  188. ^ Demaray 1984, pp. 4–5
  189. ^ Demaray 1984, p. 17
  190. ^ Quint, David (1991), “Milton, Fletcher and the Gunpowder Plot”, Journal of the Warburg and Courtauld Institutes 54: 261–268, doi:10.2307/751498, JSTOR 751498, https://jstor.org/stable/751498 
  191. ^ Cressy 1989, p. n/a
  192. ^ Hutton, Ronald (1 April 2001), What If the Gunpowder Plot Had Succeeded?, bbc.co.uk, オリジナルの9 January 2009時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20090109062537/http://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/gunpowder_hutton_01.shtml 2008年11月7日閲覧。 
  193. ^ a b Northcote Parkinson 1976, p. 118
  194. ^ Gerard, John (1897), What was the Gunpowder Plot? : the traditional story tested by original evidence, London: Osgood, McIlvaine & Co 
  195. ^ Gardiner, Samuel (1897), What Gunpowder Plot was, London: Longmans, Green and Co 
  196. ^ Edwards, Francis (1969), Guy Fawkes: the real story of the gunpowder plot?, London: Hart-Davis, ISBN 0-246-63967-9 
  197. ^ a b Aftermath: Commemoration, gunpowderplot.parliament.uk, (2005–2006), オリジナルの19 July 2011時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20110719141329/http://www.show.me.uk/gunpowderplot/adults_plot_ac.htm 2010年10月31日閲覧。 
  198. ^ a b c d House of Commons Information Office (September 2006), The Gunpowder Plot, parliament.uk, オリジナルの15 February 2005時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20050215195506/http://www.parliament.uk/documents/upload/g08.pdf 2007年3月6日閲覧。 
  199. ^ Bonfire Night: A penny for the Guy, icons.org.uk, オリジナルの13 November 2009時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20091113083659/http://www.icons.org.uk/theicons/collection/bonfire-night/features/a-penny-for-the-guy-in-progress 2009年10月6日閲覧。 
  200. ^ Forbes 1999, p. 94
  201. ^ a b Sherwin, Adam (31 October 2005), Gunpowder plotters get their wish, 400 years on, timesonline.co.uk, オリジナルの4 June 2011時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20110604000218/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article584830.ece 2008年1月18日閲覧。 
  202. ^ Govan, Fiona (31 October 2005), Guy Fawkes had twice the gunpowder needed, telegraph.co.uk, オリジナルの23 May 2012時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20120523012931/http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1501865/Guy-Fawkes-had-twice-the-gunpowder-needed.html 2008年1月18日閲覧。 
  203. ^ Guy Fawkes' gunpowder 'found', news.bbc.co.uk, (21 March 2002), オリジナルの5 April 2004時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20040405194212/http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1886016.stm 2009年11月3日閲覧。 

参考文献

外部リンク