生化学

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生化学(せいかがく、英語:biochemistry[1])は、生命現象を化学的に研究する[2]生物学または化学の一分野である。生物化学(せいぶつかがく、biological chemistry)とも言う[3][4](若干生化学と生物化学で指す意味や範囲が異なることがある。生物化学は化学の一分野として生体物質を扱う学問を指すことが多い)。生物を成り立たせている物質と、それが合成分解を起こすしくみ、そしてそれぞれが生体システムの中で持つ役割の究明を目的とする[2]

概要

物質的観点で生命現象をとらえるならば、生体は多種多様な有機化学物質の集合体であるばかりでなく、それらの化学物質は相互に連携し、調和がとれ独立した物質の再生生産システムを形成している。すなわち、生体物質の変化(代謝)を司る主体も生体物質であるばかりではなく、それら主体となる物質の構造情報(遺伝物質)や製造プロセス(たんぱく質合成系)も生体物質で構成されている。あるいは物理化学的な平衡では自発的には生じないような生体物質を生産する為の多段階の反応経路(代謝経路)とその原動力となる化学ポテンシャルを生産する仕組み(エネルギー代謝)や遺伝物質を複製することで自己増殖してゆく仕組みなど、緻密で繊細な化学物質システムが構築されている。

したがって広義の生化学は、生物学の一サブジャンルというよりも、生命現象を化学的側面から研究する一つの切り口と捉えられる。あらゆる生体分子と生物、その環境が対象となりうる。現在の生物学で生化学的と言うときは、生体から目的の分子を取り出して試験管内(in vitro)で実験を行うことを指すことが多い。生体内(in vivo)で行う場合は生理学的という。

生物物理学細胞生物学分子生物学、などとも関連は深く、また応用化学としては生理学生物工学免疫学、遺伝学などとも連携して研究される為に、生化学とそれらの学問分野との境界は曖昧である。原理や方法は医学薬学農学などで実利的な応用にも役立ち[5][6][7][8]、医学との連携では医化学や臨床化学というジャンルで呼ばれる場合もある[2][9][10]。しかし、現在の生物学の研究は複数のジャンルの手法を駆使して行われることがほとんどであり、その境界は曖昧なものとなっており、寧ろ複合化が進んでいると言える。現在では、ケミカルバイオロジー化学生物学)などのジャンルも派生してきている[11][12]

生化学の研究対象は生体物質全般であるが、中でもタンパク質核酸糖質など生体由来の高分子は生化学システムを構成する主役であり、今日でも生化学研究の重要な研究対象の源泉である[13][14]。また、生体膜の主成分である脂質細胞および細胞内器官を形成するだけでなく生体物質間の情報伝達の役割も果たしており、生化学の研究対象としても重要である。蛋白質や核酸の研究はかなり進んでいるものの、糖質や脂質の生化学的な研究についてはまだ開拓中の分野である[15]

さらに、生体内での分子の動きを究極的に突き止める事で、人間の意識思考記憶行動など科学的な対象からかけ離れたものと考えられた精神活動も、生化学的手法によってアプローチできる可能性がある[2][16]

歴史

フリードリヒ・ヴェーラーは尿素の合成法を発見した[17]

最初の生化学の応用は、おおよそ5000年前、パンを膨らませるために酵母を用いたことにさかのぼるだろう[18]。18世紀後半にはカール・ヴィルヘルム・シェーレ (Karl Wilhelm Scheele) が生物から乳酸リンゴ酸など有機化合物を生物材料から取り出す事に成功していたが、[19]これら有機化合物は生物内からのみ抽出しうるものと考えられていた[2]。しかし1828年にフリードリヒ・ヴェーラー (Friedrich Wöhler) が無機物であるシアン酸アンモニウムの加熱によって人工的に有機物である尿素を得ることに成功し[17][20]人工的に有機物が合成できることが示された。1833年には、酵素の1つであるジアスターゼ(アミラーゼ)がアンセルム・ペイアン (Anselme Payen) によって発見された[21]。19世紀中盤以降、発酵の原因については論争が続いてきたが、1897年エドゥアルト・ブフナーによって生体細胞がなくともを発酵させうることを証明した[22][23][24]

上記のような研究・発見は生理学の一分野として行われており、19世紀には未だ生化学は独立した分野とは見なされていなかった[25]。一方この時期には有機化学において生体を構成する分子の研究が進んでおり、20世紀に入るとこの2つの分野が合流して新しく生化学という分野が独立した[26]。20世紀中頃にクロマトグラフィー[27][28][29]X線回折NMR、放射性同位体標識、[30]電子顕微鏡[31][32][33]分子動力学シミュレーションなどが開発されると、[34][35]生化学は急速に発展する。これらの技術は多くの分子や代謝経路の発見と解析を可能にした。

今日、生化学の知見は遺伝学から分子生物学農業から医学まで多くの分野で用いられている[5][6][7][8]

研究対象

生化学が研究対象とする生化学プロセスは大きく二つに分けるならば、物質代謝遺伝子発現である。前者は今日でも生化学の分野であるが、[36]後者は1980年代以降急速な進展により分子生物学あるいは分子遺伝学といった一大学問領域を形成している[37][38][39]

生体内の物質代謝のほとんどには酵素の関与が見られる。逆に酵素が有する基質特異性により、代謝反応の各段階にはそれぞれ固有の酵素が関連しているので物質代謝を研究することは裏返して見るならば酵素を研究することでもある。酵素タンパク質の発現や化学物質を介した情報伝達システムによる酵素機能の調節は分子生物学でも研究される。

セントラルドグマ」として知られる遺伝子発現機構は1950年代にワトソンとクリックが提唱したDNAモデル[40][41]に起源を持つ、遺伝子発現機構の主体であるDNARNAリボゾーム・タンパク質、リプレッサー・タンパク質は早くから研究されているが、その機能や調節機構は複雑かつ精密であり、今日でも分子生物学バイオインフォマティクスの重要な研究テーマである[42][43][44][45]

生化学実験

生化学実験はIn vitro実験とも呼ばれるように生体細胞の細胞器官内で生じる生化学反応を、複雑な代謝経路や調節機構から切り離してまさに試験管のなかで再現することで研究が進展してきた。21世紀に入ると標識化技術や測定技術の進歩で生きている細胞内で生化学反応を間接的に追跡することも可能になってきたが、生体組織から目的の成分を分離精製する実験技術は生化学研究においては重要な研究技術である。

一般に消化酵素ホルモンのように分泌型の生体物質でない限りは、酵素や受容体を含めて目的の生体物質は特定の組織細胞の特定の細胞小器官にのみ発現・存在している。したがって、生化学実験は標的組織を多数採集し、そこから目的の生体物質を分離精製するところから始まる。

DNAのように細胞破砕後に、エタノール沈澱するだけで捕集できるものもあるが多くの場合、細胞破砕後に密度勾配法による遠心分離で目的の細胞内器官を密度により選択し捕集する。溶液には塩化セシウムなどが用いられる。この状態では多くの場合、酵素や受容体は細胞膜に取り込まれていたり、膜の二重層に埋め込まれているので、界面活性剤を使って脂質膜と分離〈可溶化〉する必要がある。

目的の生体高分子の精製は古くは半透膜による透析が行われたが、20世紀後半からはゲル濾過クロマトグラフィーアフィニティークロマトグラフィーにより目的物を精製することが可能になった[46][47]

代謝による生体内物質の移動や変化の追跡にはトレーサー物質が利用される。古くから放射性あるいは非放射性同位体を組み込んだ生体内物質が広く利用された。しかし同位体置換した生体内物質を用意することは困難をともない、放射性トレーサーの場合はラジオアイソトープセンターなど専用実験施設が必要な為、今日では抗体染色ELISA法など同位体を使用しないトレーサーが広く利用されている[48]。また、微量機器分析技術の進展によりMALDI法などの質量分析でクロマトグラフィ・スポット(ピーク)から直接、標的物質の同定も可能である[49]

イオンチャネルの研究においては、生体膜にガラスの毛細管を押し当てることで、管内にイオンチャネルを閉じ籠めて生化学実験を行うパッチクランプの実験技術によって上記のように生体成分を分離せずに実験を行う技法も開発された。

1990年代以降には特定の無機イオンに反応して蛍光を発する標識色素やルシフェラーゼ遺伝子を応用した形質導入によって、細胞外から蛍光顕微鏡で発光現象を追跡することで間接的に生化学反応をトレースすることも可能になってきている。

炭素や水によらない生化学

宇宙生物学の見地から、現在知られているタンパク質や脂質、糖質、核酸などの有機化学に基づくシステム以外の生化学によるシステムの理論や仮説がごく一部で研究されている[50][51][52]分光学による生体物質の観測も行われている。しかし、2007年現時点では、炭素を基盤としない生命は発見されていない。

脚注

  1. ^ Mu, P., & Plummer, D. T. (2001). Introduction to practical biochemistry. Tata McGraw-Hill Education.
  2. ^ a b c d e 生化学辞典第2版、p.713 【生化学】
  3. ^ 生化学辞典第2版、p.725 【生物化学】
  4. ^ Da Silva, J. F., & Williams, R. J. P. (2001). The biological chemistry of the elements: the inorganic chemistry of life. Oxford University Press.
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  8. ^ a b Kaneko, J. J., Harvey, J. W., & Bruss, M. L. (Eds.). (2008). Clinical biochemistry of domestic animals. Academic press.
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参考文献

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関連項目

外部リンク