目黒蒲田電鉄新奥沢線
新奥沢線 | |||
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調布学園のすぐ横を通る新奥沢線 | |||
概要 | |||
現況 | 廃止 | ||
起終点 |
起点:雪ヶ谷駅(現・雪が谷大塚駅) 終点:新奥沢駅 | ||
駅数 | 3駅 | ||
運営 | |||
開業 | 1928年10月5日 | ||
廃止 | 1935年11月1日 | ||
所有者 | 池上電気鉄道→目黒蒲田電鉄 | ||
路線諸元 | |||
路線総延長 | 1.44 km (0.89 mi) | ||
軌間 | 1,067 mm (3 ft 6 in) | ||
電化 | 直流600 V 架空電車線方式 | ||
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停車場・施設・接続路線(廃止当時) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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新奥沢線(しんおくさわせん)は、かつて雪ヶ谷駅(現・雪が谷大塚駅)から新奥沢駅までを結んでいた、池上電気鉄道→目黒蒲田電鉄(現・東京急行電鉄〈東急〉)が運営していた鉄道路線である。
概要
[編集]現在の東急池上線に当たる路線を運営していた池上電気鉄道が、既存路線だけでは将来の発展が見込めないとして、国鉄中央本線国分寺駅方面への延伸を画策、1928年(昭和3年)に暫定的なものとして、雪ヶ谷駅(現・雪が谷大塚駅)より新奥沢駅に至る1.4kmの区間を開業させたものである。路線は雪ヶ谷駅を出てまもなく北西へ90度カーブし、後は直線的に進むものであって、直線部分は現在の環八通りに平行しており、調布高等女学校(現・田園調布学園)のすぐ裏を走っていた。
その暫定開業的性格から乗客数はもともと少なく、調布高等女学校の女生徒の利用が主であった。終点の新奥沢駅は諏訪分(現・東玉川)地内で奥沢地域に隣接してあり、駅名は「奥沢」を望んだが、目黒蒲田電鉄(後の東急目蒲線、現在の目黒線・東急多摩川線を運営)に奥沢駅が既に存在したことからこの名前となった。
しかし延伸計画の方は、五島慶太率いる目黒蒲田電鉄が大岡山駅 - 二子玉川駅間新線計画(現・東急大井町線)や田園調布開発計画に際し用地を確保していたこと、それに目黒蒲田電鉄そのものが池上電気鉄道の競合路線であり、五島がその事業拡大政策を妨害する方針を取っていたこともあり、頓挫する。池上電気鉄道そのものも、後に目黒蒲田電鉄に統合された。
五島が池上電気鉄道を買収してまもなく、同社では新奥沢線の廃止申請を出す。池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に統合された後も、暫定的に新奥沢線の運行は続けられたが、1935年(昭和10年)に廃止となった[1]。
路線データ
[編集]運行概要
[編集]- 列車運行間隔:午前4時50分から翌日午前0時50分まで、8分ないし16分間隔
- 全線所要時間:3分
- 全線運賃:5銭
車両は主に、4号電車と呼ばれる集電装置にポールとパンタグラフの両方を備えた車両を使用していた。
沿革
[編集]- 1927年(昭和2年)12月16日 鉄道免許状下付(荏原郡調布村-北多摩郡国分寺村間)[2]
- 1928年(昭和3年)10月5日 雪ヶ谷 - 新奥沢間開業[3][4]
- 1930年(昭和5年)7月3日 鉄道免許失効(荏原郡東調布町-北多摩郡国分寺村間 指定ノ期限マテニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)[5]
- 1933年(昭和8年)
- 1934年(昭和9年)10月1日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄に統合される[4]
- 1935年(昭和10年)11月1日 雪ヶ谷 - 新奥沢間廃止[6]
駅一覧
[編集]駅名 | 駅間 キロ |
営業 キロ |
接続路線 | 所在地 |
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雪ヶ谷駅 | - | 0.0 | 目黒蒲田電鉄:池上線 | 大森区 |
諏訪分駅 | 0.9 | 0.9 | 世田谷区 | |
新奥沢駅 | 0.5 | 1.4 |
輸送実績
[編集]路線の実績は不明のため駅の計数を使用
年度 | 新奥沢 | 諏訪分 | ||
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乗車人員 | 降車人員 | 乗車人員 | 降車人員 | |
1928 | 6,699 | 7,055 | ||
1929 | 52,287 | 52,980 | ||
1930 | 52,438 | 41,841 | ||
1931 | 56,498 | 48,507 | ||
1932 | 36,767 | 53,794 | ||
1933 | 43,197 | 50,036 | 201,238 | 203,541 |
1934 | 39,700 | 48,642 | 247,003 | 246,953 |
1935 | 37,737 | 44,100 | 256,262 | 250,454 |
- 東京府統計書各年度版
- 諏訪分停留場は1933-1935年度のみ掲載
路線跡
[編集]- 新奥沢駅跡(現在の世田谷区東玉川2丁目40付近[1])には現在、駅があったことを示す石碑が残されている。
脚注
[編集]- ^ a b 週刊『歴史でめぐる鉄道全路線06 東京急行電鉄(1)』(朝日新聞出版刊) 25ページ
- ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1927年12月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年10月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 4 関東2、新潮社、2008年、42頁。ISBN 978-4-10-790022-7。
- ^ 「鉄道免許失効」『官報』1930年7月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道一部運輸営業廃止実施」『官報』1935年11月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 『鉄道停車場一覧. 昭和9年12月15日現在』、239頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “新奥沢駅跡”. おくさわ親交会商店街. 2016年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月10日閲覧。
- 『池上町史 : 大東京併合記念』(国立国会図書館デジタルコレクション)写真 - 雪ケ谷駅と左手に分岐するのが新奥沢線
- 地理院地図|国土地理院(1936年~1942年頃空中写真) - 新奥沢線の廃止直後で、まだ区画整理がなされていない路線跡が確認できる。