是川銀蔵
是川銀蔵(これかわ ぎんぞう、 1897年7月28日 - 1992年9月12日)は日本の投資家、相場師。
激動の時代に翻弄されながらも、時には目の前の金をドブに捨てることも厭わない信念と人間味にあふれた生き様は、まさに最後の相場師の称号に値する[誰?]。
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[編集] 略歴
兵庫県赤穂市の貧しい漁師の七人兄弟の末っ子として生まれる。彼の旧姓である小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。高等小学校卒業後、貿易商の好本商会の丁稚となる。1914年に好本商会が倒産すると、ロンドンを目指し出国するが、中継地の中国に着いたとき第一次世界大戦が勃発したためそのまま滞在し、日本軍がいる山東半島を目指す。途中で金がなくなり生死を彷徨いながらも、青島で日本軍に取り入り、出入り商人となる。銀蔵十七歳の時であった。
1923年に関東大震災の一報を受けて「バラックが山ほど建つ」とひらめき、トタン板を買占め巨利を得た。しかし、災害で困っている人を利用したようで悪い、と利益の半分を(なぜか被災地でなく大阪府に)寄付。しかしその後の金融恐慌の時、預金している銀行が破綻し、借金している銀行が生き残るという不運と恐慌の煽りで、倒産してしまう。
恐慌を経験したことから資本主義に対して懐疑的になり、図書館に通い詰めて世界情勢、投資理論を独学した。その結果は「資本主義は崩壊せず」であり、株式相場に湧く堂島へ降り立った。1933年に大阪堂島で「昭和経済研究所」(後の是川経済研究所)を設立。1938年に朝鮮半島東部・江原道に是川鉱業を設立。これを短期間で軌道に乗せた後、1943年には是川製鉄株式会社を設立させ従業員1万人を雇用する朝鮮有数の大企業となった。朝鮮総督だった小磯国昭との知遇から、1944年の小磯内閣誕生の際には入閣要請を受けたが、これを断っている。幾度か破産の憂き目に遭いながら、人脈を利した資金の融通により事業家として蘇った人物として知られる。戦後、国策会社のオーナーである銀蔵は、新生朝鮮の警察に逮捕されてしまう。処刑を覚悟するが、朝鮮人を平等に扱っていたことから、嘆願運動に発展し、釈放される。
戦後は1960年に大阪府の泉北ニュータウン開発でも土地投機を行い3億円を得て、株式相場への復帰資金を攫む。
相場師として市場で話題となったのはすでに晩年となった昭和50年代に入ってからで1976年の日本セメント、1979年の同和鉱業、1982年の不二家、1983年の丸善石油、平和不動産の株買い占め、仕手戦で名前が知られた。最も良く知られたものは1981年から1982年にかけての住友金属鉱山の仕手戦であった。
[編集] 住友鉱山株買い占め
1981年9月に金属鉱業事業団(現独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が鹿児島県の菱刈鉱山で金鉱脈を発見したと発表した。是川は朝鮮で鉱業を営んでいた時の経験に基づき、いち早くこれに注目し現地視察を行ったうえ、住友金属鉱山株の買い占めを行う。買い占め前の8月の安値203円から仕手戦の様相となり翌年3月に大暴落の後、是川がもつ隣接鉱区を住友金属鉱山が買取、金鉱開発に着手すると発表した後に4月の高値1230円まで株は高騰となった。是川は約1500万株(本人の談話では名義書換を行ったのは1400万株)を買い占め200億円の巨利を得たとされる[1]。1982年3月末には住友金属鉱山を720万株を保有し第7位株主となっている。(他に所有する法人名義で約650万株)1983年に発表された高額納税者番付では申告額28億9090万円で全国1位となった。
[編集] 人物
最後の相場師と言われたが、本人は“実践派エコノミスト”と自任していたという[要出典]。“是銀”(これぎん)という愛称でもよばれた。生活は質素であり、若い頃に育った大阪市に多額の寄付を行うなど社会福祉事業にも力を入れ、1979年には私財14億円を拠出し是川奨学財団(交通遺児等奨学金:大阪府)を設立した。最晩年の1991年には所得税6億8000万円を滞納したため、自伝『波乱を生きる』の印税を大阪国税局に差し押さえられたと報道されるなど<;ref>1991年7月22日日本経済新聞</ref>、自伝にあるとおり「株の利益は一銭も残っていない」とされる。通常、株を買い占める際には提灯買いを防ぐため水面下で行うのが普通だが、是川は堂々名乗りを上げ行ったことが多い[要出典]。氏が発したという株式投資に関する格言や心得も多く[要出典]、不思議な魅力を持った人物として評される[誰によって?]。
また、唯一通った小学校の恩師が大物政治家になるなど[要出典]人脈にも恵まれていた。
「生き甲斐」というほどの自慢だった長男の是川正顕は、京都大学を卒業し国際的に活躍する地学者であり、フランクフルト大学で初の外国人教授に就任するなど輝かしい経歴の持ち主で、ノーベル賞の有力候補でもあった[要出典]。しかし、若くして喉頭癌に冒され、余命数年と宣告された。そんな息子を思い、是川は癌の特効薬を開発している企業の株を買い漁ったが、特効薬はできあがらずに大損し、正顕も50代の若さで帰らぬ人となった。
[編集] 著作
- 『自伝 波乱を生きる 相場に賭けた60年』(講談社、1991年) ISBN 4-06-204047-6
- 『相場師一代』(小学館文庫、1999年) ISBN 4-09-403471-4 『波乱を生きる』の文庫版
[編集] 評伝
- 木下厚『最後の相場師 是川銀蔵』(彩図社、2011年) ISBN 978-4-88392-790-6 生前親交のあったジャーナリストの作品。
[編集] 是川銀蔵をモチーフとした作品
- 津本陽『最後の相場師』
- (角川文庫、1988年) ISBN 4-04-171301-3
- (角川文庫、2007年新装版) ISBN 978-4-04-171334-1
[編集] 脚注
- ^ 1982年5月14日日本経済新聞