新沢基栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新沢 基栄
本名 新沢 基栄
生誕 1958年6月10日(51歳)
日本  新潟県柏崎市大字野田(のた)
国籍 日本
職業 漫画家
活動期間 1980年 -
代表作 ハイスクール!奇面組
  
画像:Logo serie manga.png
ウィキポータル
漫画作品日本
漫画家日本
漫画原作者
漫画雑誌
カテゴリ
漫画作品
漫画 - 漫画家
プロジェクト
漫画作品 - 漫画家
漫画雑誌

新沢 基栄(しんざわ もとえい、男性、本名同じ、1958年6月10日 - )は、日本漫画家新潟県柏崎市大字野田(のた)出身。日本工学院専門学校美術科卒。

代表作は『ハイスクール!奇面組』(週刊少年ジャンプ集英社))。1985年にはテレビアニメ化もされている。

目次

[編集] 経歴

専門学校を卒業後、日雇いの運送屋で最低限の生活費を稼ぎながら漫画家デビューを目指し、集英社『フレッシュジャンプ』賞の選外となるも、当時の『週刊少年ジャンプ』編集者に見出されて、1980年に同誌にて『3年奇面組』でデビュー。それ以前は妹の影響で少女漫画志望であったため、初期の同作品にはその面影が色濃く残っている。

その後『3年奇面組』、その続編の『ハイスクール!奇面組』が大ヒットとなりテレビアニメ化もされるなど、一躍人気漫画家となる。しかし漫画家として順風満帆だった最中、高校生の時に同級生と遊びでやった相撲が原因で患った腰痛が、過酷な週刊連載活動の中で悪化する。「締め切り間際の魔術師」と印刷会社から苦笑されながらも(単行本版での本人談)辛うじて連載は続いていたが、遂にそれが限界を迎えて『奇面組』の原稿を落とす事態に陥り、それを重く見た集英社の上層部との相談の結果、『奇面組』は1987年に連載終了となる。なお、新沢としてはそれ以前に登場人物の高校卒業に合わせて終了させる意向だったが、編集部の引き止めによって連載は継続され、同社の上層部には先述の休載に至るまで新沢の意向が伝わっていなかったとされる。

休養後、1988年に連載開始した『ボクはしたたか君』も奇面組ほどではないものの人気を博すが、再び慢性化していた腰痛が悪化した事が原因で休載となり、未完のまま打ち切りとなる。

それ以後は長期に渡り連載を持たず、新沢の元アシスタントだった佐藤正のアシスタントをするなどしていたが、数本の読み切り作品を経て2001年より『フラッシュ!奇面組』(スクウェア・エニックス 月刊少年ガンガン)の連載を開始する。腰の様子を見ながら仕事をしていたためか休載しがちであったが、遂に2005年6月号を最後に『フラッシュ!奇面組』もまた長期休載となり、それから3年以上経過した今も連載再開の有無・時期などは全く発表されていない。その理由の一つとして、腰痛以外に2000年に執筆された「帰ってきた ハイスクール!奇面組」について、当時の編集者が原稿を紛失する事件が起き、その際の態度に激怒した新沢は、2003年に原稿料と慰謝料合わせて610万円の損害賠償を求めて係争中で、それが現在も解決してない為に、判決が下るまで再開のメドが立てられないためとされているが定かではない。

[編集] 主な作品リスト

[編集] アシスタント

[編集] エピソード

  • 学生時代は地元新聞社の投稿欄にイラストを投稿。常連と言うほど掲載されていた。
  • 学生時代は高校の生徒会の副会長を務めていた。『3年奇面組』での「取組」の活動にはその頃の経験が生かされていると思われる。
  • ハイスクール!奇面組』の主題歌をうしろゆびさされ組が歌っていた縁で、たびたび夕やけニャンニャンの生放送を見に行っていたが、人気が出るにつれ不良達から目の敵にされ、外出は命懸けだった(本人が単行本コミックスで告白)。
  • ポアロのアルバム「おもちゃやめぐり」のジャケットをデザイン。奇面組の面々による、日常生活のひとコマ風ジャケットである。
  • 『帰ってきたハイスクール!奇面組』の辺りにトヨタ・ヴィッツを購入。本編の1エピソードにも事代先生の新しい愛車として描かれたものがある。
  • オトナファミ』(2008 JUNE)に『ハイスクール!奇面組』のアニメ版DVD-BOXの紹介記事が掲載された。その記事の「原作者インタビュー」では、最も影響を受けた漫画家として梶原一騎を挙げている。また、『奇面組』を描いたことで、ある程度有名になれたが、もうこれ以上インパクトのある漫画は描けないかもしれない、と述べている。

[編集] 外部リンク

他の言語