兼子正

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兼子 正
Tadashi Kaneko.jpg
生誕 1912年
東京都
死没 1942年11月14日
ソロモン諸島
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1929 - 1942
最終階級 海軍少佐
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兼子正(かねこ ただし 1912年(明治45年)- 1942年11月14日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少佐本籍山形県西村山郡谷地町[1]

略歴[編集]

兼子家の6人兄弟の三男。日本橋区久松小学校を卒業し[2]府立一中では柔道部に所属[1]。1933年、海軍兵学校60期卒。同期には、板谷隆一中佐、一中では1期先輩の鈴木實中佐など[3]

1934年、第26期飛行学生(霞ヶ浦)。同期に、横山保(海兵59期)、鈴木實、進藤三郎山下政雄(以上海兵60期)ら。同修了後の1935年、中尉任官。支那事変日中戦争)勃発時は、第一航空戦隊下の龍驤戦闘機小隊長。

1937年8月22日、宝山方面にて兼子中尉率いる複葉機ながら当時新鋭のわずか4機の九五式艦上戦闘機にてカーチスホーク及びボーイングP26戦闘機など敵18機との交戦の末、30分間足らずで相手9機撃墜の戦果を挙げ[4][5]、当時の東京朝日新聞紙上にて「空の英雄」として大々的に扱われた[2]。翌23日には、同期の鈴木實も95式艦戦4機にて相手カーチスホーク及びボーイングP26混成27機編隊相手に9機撃墜の戦果をあげた[4]

のち横須賀海軍航空隊付、鈴木實と共に12空勤務を経て、太平洋戦争大東亜戦争)開戦時は、真珠湾攻撃では翔鶴乗組み、階級は海軍大尉だった。板谷茂率いる第一次攻撃隊・第六制空隊長として零戦5機を率いて出撃。反撃もなくカネオヘ・ベローズ両飛行場を攻撃。1942年1月8日から同年2月2日に日本に戻るまで、ラバウルラエ攻撃に加わり、同年3月17日、インド洋作戦に参戦。同年4月9日のトリンコマリー攻撃では、味方艦上戦闘機10機で相手23機撃墜、味方損失1機であった[4]

ミッドウェー海戦では、第6空飛行隊長(1942年5月~7月)として赤城に便乗。1942年7月からミッドウェーで散り散りになった艦戦・艦攻などを集め新設なった飛鷹の飛行隊長に就任。部下には原田要らがいた。南太平洋海戦への途上、飛鷹の機関故障から同艦飛行隊の主力は同年10月24日、ラバウルに進出し第11航空艦隊ラバウル基地の基地航空戦に加わった。同年11月1日、ブインに進出し第三次ソロモン海戦に参戦。同年11月14日、ガダルカナルへの高速輸送船団の上空直衛の戦闘にて戦死。同日には同様に高速輸送船団の直衛にあたっていた菅波政治大尉(海兵61期、252空飛行隊長)も戦死[4]

操縦はさほどではなかったが、統率力に秀でていたとも評されていた。

親族[編集]

兼子一兼子宙は兄。

脚注[編集]

  1. ^ a b 読売新聞 1941年6月14日夕刊2面 「“ふたご隼”敵空を蹂躙 “燃える一中魂”渡部先生の喜び」
  2. ^ a b 東京朝日新聞 1937年8月29日号 10面 など
  3. ^ 一中同窓では他に、1937年8月南京空襲にて戦死した吉田和雄少佐(海兵55期同期に南郷茂章)、当時の朝日新聞の紙上座談会等に度々登場し、12空分隊長の1938年1月に南昌方面にて戦死した潮田良平少佐、1942年2月にスラバヤ上空で米軍機に体当たり攻撃をした3空浅井正雄中佐、台南空笹井醇一少佐など。
  4. ^ a b c d 『日本海軍戦闘機隊 戦歴と航空隊史話』(秦郁彦伊沢保穂著、大日本絵画、2010年7月10日) P22、P44~P48、P128、P141
  5. ^ 零戦搭乗員会編 海軍戦闘機隊史 第一章二節6など