リチャード・G・ヴォージ

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リチャード・ジョージ・ヴォージ
Richard George Voge
渾名 ディック[1]
生誕 1904年5月4日
イリノイ州 シカゴ
死没 1948年????
ニューヨーク州 ポート・チェスター英語版
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
軍歴 1925 - 1946
最終階級 海軍少将(名誉進級)
指揮 シーライオン
セイルフィッシュ
戦闘 第二次世界大戦
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リチャード・ジョージ・"ディック"・ヴォージRichard George "Dick" Voge, 1904年5月4日-1948年[注釈 1]は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は少将。主に潜水艦畑を歩み、太平洋戦争劈頭のフィリピンの戦いで早々に乗艦を失った。戦争後半は潜水部隊のスタッフに転じ、「裏方」として戦争を勝利に導く手助けをした。

生涯[編集]

“ディック”ことリチャード・ジョージ・ヴォージは、1904年5月4日にイリノイ州シカゴで生まれた。シカゴのハリソン技術高校を経て海軍兵学校(アナポリス)に進み、1925年6月に卒業。この世代は、卒業年次から「アナポリス1925年組」と呼称された。卒業後は装甲巡洋艦ピッツバーグ (USS Pittsburgh, ACR-4) に少尉候補生として配属され、1929年までの3年間乗艦する。乗艦中の1927年には国共内戦を経験。ピッツバーグがヨーロッパおよび極東の配備から帰国したあと、ヴォージはコネチカット州ニューロンドンの潜水学校に進み、受講後は海軍生活のほとんどの期間を潜水艦とともに過ごすこととなった。

1931年1月から1932年6月まではS-29 (USS S-29, SS-134) の艦長を務め、1932年7月から1933年9月の間はグレートレイクス海軍訓練施設英語版で訓練教官、1933年9月から1935年6月まではアナポリスで船舶工学の教官を務めた。その後はS-18英語版 (USS S-18, SS-123) およびS-33英語版 (USS S-33, SS-138) の艦長、ロングアイランドバルドウィン英語版にある海軍軍需品工場勤務を経て、1939年9月から1940年1月の間は駆逐艦ローワン英語版 (USS Rowan, DD-405) の艦長を務めた。

1940年2月、中佐に昇進したヴォージはアジア艦隊英語版に配属されるシーライオン (USS Sealion, SS-195) の艦長に就任し、マニラに向かう。以後、マニラを拠点として行動し、1941年12月8日の開戦を迎える。フィリピンに対する日本の攻撃は、まず空から行われた。12月10日、第十一航空艦隊塚原二四三中将)指揮下の第一航空隊に属する九六式陸攻27機がカヴィテ海軍工廠英語版マニラ港を爆撃した。当時、オーバーホール中のシーライオンは桟橋寄りのシードラゴン (USS Seadragon, SS-194) 、外側の掃海艇ビッターン英語版 (USS Bittern, AM-36) にはさまれて係留されていた。空襲時、シーライオンではヴォージと当直見張りが艦橋で上空を哨戒していたが、空襲が始まるとヴォージと見張りは艦内に退避した。直後、シーライオンは2発の直撃弾を受ける。司令塔後方と機関室後方に被弾し、乗組員4名が戦死した。また、破片でシードラゴンの将校1名も戦死した。シーライオンは後方に着底しつつ右に傾き、修理を行う状況ではなかったため放棄と処分が決まり、かくしてシーライオンは、第二次世界大戦で喪失した最初のアメリカ潜水艦となった。開戦2日目にして事実上乗艦を失ったヴォージであるが、すぐさま代艦として同型のセイルフィッシュ (USS Sailfish, SS-192) があてがわれた。12月17日以降、ヴォージはセイルフィッシュの艦長として4回の哨戒を行い、攻め寄せてくる日本軍との対決に追われた。5月の珊瑚海海戦と6月のミッドウェー海戦で痛恨の打撃を日本に与えるまで、潜水艦は日本に痛打を与えるほぼ唯一の存在であり、太平洋での戦いの行く末に明るい展望を与えた。ヴォージの艦長としての軍歴は、セイルフィッシュが1942年8月1日にフリーマントルに帰投して終わりを告げた[2]。艦長としての具体的な戦果としては、1942年3月2日に特設航空機運搬艦加茂川丸(東洋海運、6,440トン)を撃沈し[3]、7月9日に陸軍輸送船青葉山丸(三井物産、8,811トン)を撃破した[4][5]

1942年8月、ヴォージは太平洋艦隊潜水部隊の作戦兼情報担当参謀に就任する。1942年4月以降アメリカ海軍潜水部隊は大きく3つに分けられ、その時点で真珠湾の部隊はロバート・H・イングリッシュ少将(アナポリス1911年組[6])が指揮し、アジア艦隊潜水部隊の流れを汲む部隊のうちフリーマントルの部隊はチャールズ・A・ロックウッド少将(アナポリス1912年組)、ブリスベンの部隊はラルフ・W・クリスティ英語版少将(アナポリス1915年組[7])がそれぞれ率いていた[8]。このうちクリスティは、頻発していた魚雷の問題に対処させるため本国に呼び戻され、ヴォージが参謀に就任した時点ではジェームズ・ファイフ英語版少将(アナポリス1918年組[9])が司令官となっていた[10]。一方、海軍情報局を筆頭とする情報機関は日本やドイツの暗号解読に全力をあげた。太平洋関連で言えば、1942年7月に太平洋地域情報センターが設置され、傍受された諜報はセンター内の様々な部課を経て太平洋艦隊に届けられた[11]。ヴォージの役割はイングリッシュの幕僚として諜報担当者とじかに接触し、得られた情報を行動中の潜水艦に伝達すること、また、潜水艦からの情報を諜報担当者に伝達することであった[12]。1943年に入って早々にイングリッシュが航空事故で殉職してロックウッドが後任となったが[13]、任務は変わらなかった。

一見大言壮語のようにも聞こえるが、ヴォージはロックウッドとともに中部太平洋方面で行動する潜水艦の行動を事実上差配していた。対潜機雷の敷設に関する情報を入手すれば、安全な抜け穴が見つかるまで当該海域での行動を控えさせ[14]、重要艦船がトラック諸島などの根拠地に出入りするという情報をつかめば、至近の潜水艦に迎撃するよう指示を出した[15]。1943年以降、「マル・コード」と呼称された日本海軍の商船関連の暗号書である「海軍暗号書S」の解読に成功すると、ヴォージは「マル・コード」と日本商船から傍受された緊急電報を大いに活用して潜水艦の配置を決定し、味方の通商破壊戦に利益をもたらした[16]。また、ヴォージは指揮下の潜水艦が空母を撃沈することにこだわりを見せ、1943年12月に、かつて艦長を務めたセイルフィッシュが空母冲鷹を含む日本艦隊を迎撃できる位置にいることを知ると、セイルフィッシュに迎撃を命じた上で「空母を撃沈できる」と吹聴してまわり、この見解に疑念を示していた太平洋艦隊情報参謀のウィルフレッド・J・ホルムズ少佐[17]との間で1ドルを賭けることとなった[18]。セイルフィッシュは1943年12月14日に冲鷹を撃沈し、賭けに負けたホルムズ少佐は「セイルフィッシュのために」と書き添えた1ドルの小切手をヴォージに贈呈したが、ヴォージはその小切手を換金せず額縁に収めて飾り物とした[19]。ヴォージとホルムズ少佐ら諜報担当者との接触は、1945年1月24日に潜水部隊司令部のグアム前進とともに終わりを告げた[20]。これに先立つ1943年7月20日には大佐に昇進して、ワシントンD.C.海軍作戦部の情報参謀を兼ねる。1945年6月の日本海におけるバーニー作戦の立案も、ロックウッドとともに行った[21]

終戦後の1946年11月1日、ヴォージは少将に名誉進級して退役した。著述家セオドア・ロスコー英語版が書いた "United States Submarine Operetions in World War II" に文を寄せたり手直しを行ったほか、運用と管理の面から見た太平洋戦争におけるアメリカ潜水艦の戦いに関する書物を執筆する意思があったが、2年後の1948年にニューヨーク州ポート・チェスターのユナイテッド・ホスピタル英語版心臓発作により死去した[22][23]。死去の月日は不明で、43歳か44歳で没と言われている。

ガーシア級フリゲートの一艦であるヴォージ英語版 (USS Voge, FF-1047) は、ヴォージの名を記念して命名された。

ヴォージと阿波丸事件[編集]

1945年4月1日にアメリカの潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) が日本の緑十字船阿波丸日本郵船、11,249トン)を撃沈したいわゆる阿波丸事件に関しては、ヴォージはロックウッドと同じように阿波丸の動きが、対潜機雷堰にアメリカ潜水艦を呼び込むかのように見えて疑念を示した[24]。また、阿波丸を撃沈したクイーンフィッシュの艦長のチャールズ・E・ラフリン少佐(アナポリス1933年組)については、「生存者を探していたわけだから、故意にやったわけではなかろう」という見解を示し[25]、さらにはラフリン少佐を海軍における司法制度や日米双方からのあらゆる錯誤から来る誤解が生んだ犠牲者であると位置づけ[26]、ロスコーとともに手段を尽くして事件を曖昧にすることに力を注いだ[27]南カリフォルニア大学のロジャー・ディングマン教授は、ヴォージがラフリン少佐を「純粋な英雄に仕立て上げた」張本人としている[28]

ちなみに潜水艦宛の電文は上述のようにヴォージを介して送信されており、ヴォージは単に電文に目を通すばかりでなく自ら電文を起草することもあったが、阿波丸事件直前に関して言えば、ヴォージはフィリピンへ出張中で司令部には不在であり、副官が電文を起草した[29]。副官が起草した電文はヴォージのものと比べて要点が抜けているなど拙いものだったらしく、電文を読んだラフリン少佐はこうつぶやいたという。「生まれてから、こんなあほうな電文は見たことがない」[29]

記録[編集]

リチャード・G・ヴォージの哨戒記録
  出撃地 出撃日 日数 戦時中認定の戦果
隻数/トン数
JANAC英語版認定の戦果
隻数/トン数
哨戒区域
セイルフィッシュ-2 マニラ 1941年12月21日 55[30] 0 / 0[30] 0 / 0[30] 台湾近海[30]
セイルフィッシュ-3 チラチャップ英語版 1942年2月19日 28[31] 0 / 0[31] 1 / 6,440[31] 小スンダ列島近海[32]
セイルフィッシュ-4 フリーマントル 1942年4月22日 28[33] 0 / 0[33] 0 / 0[33] コレヒドール島(特別任務)[注釈 2]
セイルフィッシュ-5 フリーマントル 1942年6月13日 49[33] 1 / 7,000[33] 0 / 0[33] インドシナ半島近海

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ "Voge" の日本語読みは、翻訳者によって「ヴォーグ(ボーグ)」とも表記される(#ディングマンp.62)。本稿での表記は#ホルムズに準拠した(#ホルムズでは「ボージ」)。
  2. ^ 1942年5月6日の守備隊降伏により任務打ち切り。

出典[編集]

  1. ^ #Blair p.304
  2. ^ #SS-192, USS SAILFISHp.89
  3. ^ #Roscoe p.549
  4. ^ Chapter IV: 1942” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. HyperWar. 2012年6月17日閲覧。
  5. ^ #野間p.469
  6. ^ en:Robert Henry English
  7. ^ en:Ralph Waldo Christie
  8. ^ #秋山p.80
  9. ^ en:James Fife, Jr.
  10. ^ #秋山pp.80-81
  11. ^ #ホルムズpp.125-126
  12. ^ #ホルムズpp.140-141
  13. ^ #谷光p.520
  14. ^ #ホルムズp.170,188
  15. ^ #ホルムズp.148
  16. ^ #ホルムズpp.140-143
  17. ^ #Blair p.88
  18. ^ #ホルムズp.176
  19. ^ #ホルムズpp.176-177
  20. ^ #ホルムズp.213
  21. ^ #Blair p.857
  22. ^ #Blair pp.880-881
  23. ^ #ディングマンp.144,150
  24. ^ #Blair p.837
  25. ^ #Blair p.839
  26. ^ #ディングマンpp.154-155
  27. ^ #ディングマンp.152
  28. ^ #ディングマンp.154
  29. ^ a b #ディングマンp.62
  30. ^ a b c d #Blair p.903
  31. ^ a b c #Blair p.905
  32. ^ #SS-192, USS SAILFISHp.59
  33. ^ a b c d e f #Blair p.910

参考文献[編集]

  • (issuu) SS-192, USS SAILFISH. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-192_sailfish 
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1 
  • W.J.ホルムズ 著、妹尾作太男(訳) 編『太平洋暗号戦史』ダイヤモンド社、1980年。 
  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年。ISBN 4-257-17218-5 
  • 秋山信雄「米潜水艦の戦歴 草創期から第2次大戦まで」『世界の艦船』第446号、海人社、1992年、76-83頁。 
  • 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年。ISBN 978-4-05-400982-0 
  • ロジャー・ディングマン 著、日本郵船歴史資料館(監訳) 編『阿波丸撃沈 太平洋戦争と日米関係』川村孝治(訳)、成山堂書店、2000年。ISBN 4-425-94611-1 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。 
  • この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。 記事はここここで閲覧できます。

関連項目[編集]