ラトコ・ムラディッチ

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ラトコ・ムラディッチ
Ratko Mladić
Evstafiev-ratko-mladic-1993-w.jpg
1993年、サラエヴォにて
生誕 1942年3月12日
Flag of Independent State of Croatia.svg クロアチア独立国,サラエヴォ
所属組織 Logo of the JNA.svg ユーゴスラビア人民軍 (JNA)(en
Emblem Republika Srpska Army.svg スルプスカ共和国軍 (VRS)
軍歴 1965年 - 1995年
最終階級 上級大将
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ラトコ・ムラディッチセルビア語:Ратко Младић / Ratko Mladić、IPA: ['ratkɔ ˈmlaːditɕ]1942年3月12日[1][2][3] - 、ムラジッチの表記も)は、ユーゴスラビア、およびスルプスカ共和国の軍人。ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立した際、ボスニア・ヘルツェゴビナから一方的に分離を宣言したボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)の参謀総長となった。ムラディッチはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が続いた1992年から1995年までスルプスカ共和国軍(セルビア語: Vojska Republike Srpske、以下VRS)の参謀総長であった人物である。

ムラディッチは1992年から1995年にかけて行われたサラエヴォに対する包囲攻撃(サラエヴォ包囲)と、1995年7月11日にスレブレニツァで8000人以上のボスニア人が殺害されたスレブレニツァの虐殺に関連し、ジェノサイド戦争犯罪人道に対する罪などの容疑でハーグ旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(以下ICTY)から起訴されている。

ムラディッチに対しては、ICTYのRule61に基づいて国際令状が出されている。アメリカ合衆国はムラディッチとラドヴァン・カラジッチの逮捕に500万ドルの懸賞をかけている[4]。セルビア政府は2007年10月11日に、ムラディッチの逮捕に繋がる情報に対して100万ユーロの懸賞を掛けると発表した[5]。カラジッチは2008年7月に逮捕され、ハーグに送られたものの、ムラディッチの所在についてはその後も不明であった。2011年5月26日に、ムラディッチの逮捕がセルビアのボリス・タディッチ大統領により発表された[6]。 2011年5月31日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のあるオランダハーグに移送された[7]

経歴[編集]

サラエヴォ南西部ヤホリナ山近くの村ボジャノビッチにて生まれる。ムラディッチが生まれた時には、この地域はナチス・ドイツの傀儡国家としてつくられたクロアチア独立国に属していた。ムラディッチの父ネジョ(Neđo)はパルチザンのゲリラ戦闘員で、1945年春の戦闘の際に命を落としている。

小学校卒業後、サラエヴォ市内の「チトー商会」にて板金職人として働いていたが、1961年にゼムンの軍事工業学校に入学し、次にKOV士官学校、そしてOfficers Academyをトップの成績で卒業した。1965年9月27日、第3軍区に配属され、11月4日にスコピエにて歩兵第89連隊の補給部隊小隊長として勤務するようになる。1969年4月、偵察小隊指揮官に任ぜられ、以降順調に出世を重ねた。

1991年6月、ムラディッチは緊迫したコソボプリシュティナの部隊の副司令官となる。その後すぐにクロアチア情勢の急激な変化に伴いクニンへの移動を命じられ、ユーゴスラビア人民軍(Yugoslav People's Army, 以下JNA)の第9部隊の司令官となり、クロアチア軍との戦いに身を投じてゆく。1991年10月4日、ムラディッチは少将Major Generalに昇進する。ムラディッチの指揮下、クロアチア紛争で戦っていたJNAはダルマチア地方クロアチアのほかの地域から分断させようとしたが、失敗した。ムラディッチはまた、ミラン・マルティッチの民兵組織を助け、キイェヴォの占領を手助けした。 1992年4月24日、ムラディッチはGeneral Lieutenant-Colonelに昇進する。ムラディッチと彼の部下達は、ボスニア共和国の独立宣言の1ヵ月後の5月2日にベオグラードからの指令を受け、サラエヴォの街を包囲、街と外を繋ぐ交通網をすべて止めただけでなく、水や電気も止めてしまう。これがその後4年に渡ったサラエヴォ包囲の始まりであった。サラエヴォは爆撃を受け、狙撃者達は無差別射撃を行った。5月9日、ムラディッチはJNAのSecond Military District Headquarters において、Chief of Staff/Deputy Commanderとなった。5月10日には同部隊の司令官となった。

1992年5月12日、ボスニア・セルビア議会はスルプスカ共和国軍 (VRS) を作ることを決定。ムラディッチはVRSのCommander of the Main Staffに任命され、1996年12月までその地位に就いていた(1992年5月にJNAがボスニアから撤退し、JNAのSecond Military DistrictはVRSの中核となった)。ムラディッチは1994年6月24日、80,000の部隊を従えるGeneral Colonelに昇進した。

1995年7月、ムラディッチの部隊は、サラエヴォから撤退し、国連の安全地帯であったスレブレニツァジェパの開放を求めるNATO軍によるデリバリット・フォース作戦によって苦しめられる。スレブレニツァではムラディッチの命令のもと、推定で8,300人が処刑されたと見られている(スレブレニツァの虐殺)。

1995年8月4日、クロアチア軍はクライナ・セルビア人共和国への大規模な攻撃の準備を整えた。カラジッチはムラディッチを司令官の地位から外し、以降は自身で軍を指揮すると発表。カラジッチは、ボスニア西部の2つのセルビア系主要都市を失った責任はムラディッチにあるとし、命令系統の変更の口実とした。ムラディッチは"adviser"に降格されることになったが彼はこれに抗議し、 セルビア人達にサポートを求めた。カラジッチはムラディッチを「狂人」と呼ぶなどしたが、ムラディッチの人気は高く、結局8月11日に前言を撤回せざるをえなくなった

1996年11月8日、セルビア共和国大統領のビリャナ・プラヴシッチはムラディッチをその地位から降ろした。

指名手配[編集]

ボスニア内戦時のムラディッチ

1995年7月24日、ムラディッチはハーグのICTYより、ジェノサイドや人道に反する罪、戦争犯罪(サラエヴォでの無差別射撃を含む)の容疑で起訴された。同年11月16日、ムラディッチに対する容疑は増え、1995年7月に国連が安全地帯としたスレブレニツァへの攻撃も含まれるようになる。また、国際連合平和維持活動に携わっていた職員等を捕虜にとった容疑も掛けられている。

ムラディッチはセルビアかスルプスカ共和国に潜伏していると考えられている。2000年3月にはベオグラードで行われた中国対ユーゴスラビアのサッカーの試合を観戦したと報道された。ムラディッチはVIPの入り口から入り、8人のボディガードに守られながら特別席で観戦したと言われている。モスクワの郊外で目撃されたとか、テッサロニキアテネを定期的に訪れているといった情報もある。また、サラエヴォからそれほど遠くないスルプスカ共和国のハン・ピイェサク (Han Pijesak)に潜伏しているという情報もある[8]。2006年2月始め、セルビア軍諜報部の一部はセルビアの新聞Politika に、2002年6月1日、セルビアの議会がICTYと協力するという法案を通過させた時まで、ムラディッチはスルプスカ共和国軍とユーゴスラビア人民軍の施設に匿われていたとの情報を漏らした。当時のユーゴスビア軍の参謀長Chief Generalであった ネボイシャ・パヴコヴィッチNebojša Pavković)がムラディッチ側に施設を明け渡すように求めたとも言われている。

2004年11月、イギリスの防衛関係者たちは、カラジッチや他の容疑者の逮捕には、軍事行動よりも、バルカンの政府に対して政治的な圧力を加えることがより効果的ではないかと語った。

2005年6月にタイムズ紙は、ムラディッチはICTYに自首するとすれば、自分の家族とボディガード達のために5百万ドル の"保証金" を求めていると報じた。

セルビア政府は自国ではいまだに人気のあるムラディッチの足取りを注意深く追っている。政府としては右よりの有権者の支持を失いたくは無いが、将来のEU参加のためにハーグの要求にも従う必要があるとの見方もしている。

2006年2月21日、ムラディッチはベオグラードで逮捕され、トゥズラ経由でハーグに移送されると見られていたが、セルビア政府はこれを否定した[9]。しかし、セルビア政府は、降伏に関してムラディッチと交渉しているのではないかという噂は否定しなかった。

2006年2月22日、ICTYのカルラ・デル・ポンテはムラディッチが逮捕されたという噂を全く根拠の無いものとして否定した。カルラ・デル・ポンテはセルビア政府に対して、ムラディッチ逮捕をこれ以上遅らせないことを求め、ムラディッチは1998年以来セルビアにおり、セルビア当局の手の届く範囲にいると語った。また、逮捕されないならば、セルビアのEU参加に大きな障害となるであろうとも語った。

2006年2月22日、ルーマニア政府[10]とセルビアのメディアは、ムラディッチが、ルーマニアとイギリスで構成された作戦によってルーマニアのドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンで逮捕されたと報じた。この作戦は成功しなかったが、しかしセルビア・モンテネグロがEU参加のための努力を表すものとなった。

2006年5月1日、カルラ・デル・ポンテにより提示された逮捕期限が過ぎ、セルビアとEUの間の加盟交渉は中断された。ムラディッチはベオグラードにおり、住居を定期的に変えているといった報道もされたが、真偽の程は明らかではない。

その後、ムラディッチはロシアにいるという報道もなされた。2006年6月には3度目の卒中の発作を起こし、回復の見込みは少ないとも報道された。同時期にセルビア人民主党の報道官であるアンドリヤ・ムラデノヴィッチ(Andrija Mladenović)は、逮捕される前にムラディッチが死亡した場合、EU加盟交渉中断の責任はどこにあるのかとの疑問を呈した。いくつかの情報筋は、加齢と健康状態の悪化により、ムラディッチの外見は以前と比べて変わってきているとも伝えられた[11]

2011年5月26日に、セルビアのボリス・タディッチ大統領によりムラディッチが同国内で逮捕され、身柄は旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷へ引渡す方針であることが発表された[6]

2011年5月31日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のあるオランダハーグに移送された[7]

逮捕後・裁判[編集]

2011年6月3日、人定質問や起訴事実の朗読などの予備審理のため、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に初出廷した[12]ジェノサイド、人道に対する罪など11の罪状を挙げた起訴事実の読み上げに対し、ムラディッチ被告は「不快だ。聞いたこともない」と述べ、罪状認否を拒否した[12]

2011年7月4日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に2回目の出廷[13]。裁判長が起訴状の読み上げに移った際、ムラディッチ被告は「ノー、ノー、ノー。それを読むな。一言もだ」と叫び裁判を妨害をし、裁判長に退廷を命じられた[13]

2012年5月16日、ムラディッチ被告の裁判が開始された[14][15]。法廷では「喉をかき切るジェスチャー」を行い、裁判長からとがめられた[14][15]

家族[編集]

ムラディッチは妻ボサ・ムラディッチ(Bosa Mladić)との間に息子ダルコ (Darko)と娘アナ・ムラディッチ(Ana Mladić)がいる。息子ダルコ (Darko)は2006年に妻アイダ (Aida)との間に息子が生まれており、ムラディッチにとって初めての孫となる。

1994年3月、ベオグラード大学で医学を学んでいた23歳のアナ・ムラディッチ(Ana Mladić)は、父親の銃で自殺してしまった。彼女の自殺の原因としては、当時父親がセルビアのメディアから激しい批判を浴びていたことがあると考えられている。

参照[編集]

  1. ^ Bulatovic, Ljiljana (2001). General Mladic. Evro. 
  2. ^ Janjić, Jovan (1996). Srpski general Ratko Mladić. Matica srpska. p. 15. 
  3. ^ “Mladic shows no remorse as war crimes trial opens”. CNN. (2012年5月17日). http://www.cnn.com/2012/05/16/world/europe/netherlands-mladic-trial/index.html?hpt=hp_t3 
  4. ^ http://www.rewardsforjustice.net/english/index.cfm?page=Karadzic
  5. ^ http://www.b92.net/eng/news/crimes-article.php?yyyy=2007&mm=10&dd=12&nav_id=44506 B92
  6. ^ a b “重要戦犯・ムラジッチ被告逮捕…7千人虐殺指揮”. 読売新聞. (2011年5月26日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110526-OYT1T00917.htm 2011年5月26日閲覧。 
  7. ^ a b “戦犯ムラディッチ被告をハーグに移送、国際法廷で審理開始へ”. ロイター. (2011年6月1日). http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-21466620110601?feedType=RSS 2012年7月4日閲覧。 
  8. ^ http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/1423551.stm
  9. ^ http://www.timesonline.co.uk/article/0,,13509-2051525,00.html
  10. ^ http://www.evz.ro/article.php?artid=251069
  11. ^ http://arhiva.kurir-inFoča.yu/Arhiva/2006/jun/23/V-05-23062006.shtml
  12. ^ a b “ムラディッチ被告が戦犯法廷初出廷 「不快だ」と罪状認否拒否”. 日本経済新聞. (2011年6月3日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0304S_T00C11A6000000/ 2013年4月27日閲覧。 
  13. ^ a b “旧ユーゴ戦犯法廷、ムラディッチ被告に審理妨害で退廷命じる”. ロイター. (2011年7月5日). http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-22035320110705 2013年4月27日閲覧。 
  14. ^ a b “旧ユーゴ戦犯ムラディッチ被告の公判開始、遺族挑発する場面も”. 朝日新聞. (2012年5月17日). http://www.asahi.com/international/reuters/RTR201205170032.html 2013年4月27日閲覧。 
  15. ^ a b “旧ユーゴ戦犯ムラディッチ被告の公判開始、遺族挑発する場面も”. ロイター. (2012年5月17日). http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-22035320110705 2013年4月27日閲覧。 

外部リンク[編集]