ミハイル2世 (キエフ大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ミハイル2世

ミハイル2世(ミハイル・フセヴォロドヴィチ)ロシア語:Михаи́л Все́володович、ウクライナ語:Михайло Всеволодович、1179年 - 1246年9月20日)は、フセヴォロド4世ポーランド王カジミェシュ2世の娘の子。ペレヤスラヴリ公:1206年ノヴゴロド公:1224年 - 1229年チェルニゴフ公:1223年 - 1246年ガーリチ公:1235年 - 1239年キエフ大公:1238年 - 1239年、1241年 - 1243年。また1543年に、アルハンゲリスキー大聖堂聖者の群像画の中に書き加えられた。祭日は9月20日(グレゴリオ暦では10月3日)。

略歴[編集]

父のフセヴォロド4世がペレヤスラヴリからヤロスラフ2世を追放した後、しばらくペレヤスラヴリ公の座にあった。1223年カルカ河畔の戦いに参加し、ムスチスラフ3世の戦死後にチェルニゴフ公となった。1224年ノヴゴロド公を兼ねるようになると、すぐにユーリー2世(妻の兄にあたる)や大貴族たちとの紛争が起こり、捕虜交換を行った。

1226年には、ユーリー2世の援助でシヴェーリアオレグ等に対して遠征を行った。年代記は紛争の原因を記していないが、オレグがチェルニゴフの議会の決定を覆そうとしたためとみなす説がある。

1228年ピンスク公ロスチスラフ・スヴャトポルチェチやウラジーミル3世と連合して、ダニール・ロマノヴィチの領有するカミャネツ(現ベラルーシブレスト州の市)を包囲するが失敗した。

1229年ノヴゴロドで平民の負担を減らす政策を敷いた。また、ノヴゴロド公からチェルニゴフ公へ戻っても、ノヴゴロドの市長を任命して介入の姿勢を見せていたが、1231年にウラジーミル・スーズダリ公から攻められ、ノヴゴロドに関する抗争からは身を引いた。

1234年イジャスラフ4世側に立ってキエフをめぐる闘争に干渉し、ダニールの軍を包囲した。1235年にはダニールの領土であるガーリチを占領した。結果としてミハイルはガーリチ公、イジャスラフはキエフ大公となった。

1237年の秋、第一次モンゴルのルーシ侵攻に対する援助のためにリャザンへ向かった。(年代記によっては、兵の供出を拒んだとする記述もある)。

1238年ヤロスラフ2世の退いた後のキエフ大公の座についた。さらに、自分の長男ロスチスラフとガーリチの大貴族たちで編成した軍をリトアニアへ差し向けたが、軍隊が出払ったのを機としたダニールによってガーリチを占領された。

1239年(もしくは1240年初春)、自領のチェルニゴフにモンゴル帝国軍が現れた際にはキエフに滞在しており、長男ロスチスラフと共にハンガリーへの逃亡を余儀なくされた。なお、自領チェルニゴフの陥落、キエフの陥落(キエフ陥落は1240年。)の後、ダニールから封地としてルーツィクを受け取っている。

モンゴル帝国軍の侵攻の後は、荒廃したキエフに戻り、1243年までキエフを治めていた。しかし、長男ロスチスラフの結婚のためにハンガリーへと向かった際、モンゴルの勅令によってキエフの所有者はヤロスラフ2世に変わった。その後モンゴル側から招かれ、かつて統治していたチェルニゴフに戻ったが、殺害され、その生涯を終えた。

死と列聖[編集]

ミハイルの死に関して、ある年代記[1]は、「ミハイルはバトゥの幕舎に呼ばれ、異教の司祭から、彼らにとって神聖な火と偶像を参拝するよう命じられた。しかしそれを断ったために殺され、遺骸は彼の忠実な側近によってチェルニゴフへ運ばれた。」という主旨の記述を伝えている[2]。しかし実際はヤロスラフ3世のように、モンゴル側の息のかかった公によって毒殺されたようである。また、ほぼ同時期[3]に、ダニールはバトゥを直接訪問し、従属を認められている。

1572年、ミハイルの遺体は世に知られるところとなり、チェルニゴフからモスクワへ運ばれた。1772年には不朽体としてシリブリャーンカの聖骨箱に納められ、アルハンゲリスキー大聖堂に安置された。しかし聖骨箱は1812年ナポレオン軍の侵攻の際に盗まれたため、それ以降は青銅のもので代用されている。

なお、同じミハイルの名を持ち、且つジョチ・ウルスハーンに殺害されたミハイル・ヤロスラヴィチ(聖ミハイル、トヴェリのミハイルとも)とは別人である。

ミハイルと系譜[編集]

遺体がチェルニゴフからモスクワへ運ばれた後、ミハイルの名はロシア帝国において広く知られることとなった。それによって、世襲による爵位や称号をもたないオカ川上流の公たちは、ミハイルを祖先に位置付ける系譜を編集し始めた。系譜に関する書籍の中にみられる、おびただしい数のミハイルの子孫たちには以下の家系がある。すなわち、ドルゴルーコフ家、ヴァルコーンスキー家(ru)レプニン家、ゴルチャコフ家(ru)、アバレーンスキー家(ru)、オドエフスキー家(ru)、ヴォロティンスキー家(ru)、ボリャティンスキー家(ru)、そしてオレグ一門(オレグはミハイルの4代前の祖先にあたる人物。)を名乗ったすべての公たちである。

なお、21世紀に提示された遺伝学の研究[4]は、これらの一族が、ウラジーミル2世モノマフの男系[5]から生じたものではないことを示している。

妻子[編集]

妻はガーリチ公ロマンの娘である。子には以下の人物がいる。

また、子と推測される(後世の系譜の中に記述されている)以下の人物がいる。

脚注[編集]

  1. ^ 意訳すると「オルダでのチェルニゴフ公ミハイルと貴族フェオドシーの殺害の物語」(ru)と題された書物。
  2. ^ アレクサンドル・ダニロフ他『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(129頁)では、ミハイルの死因はバトゥによる殺害説を採っている。
  3. ^ アレクサンドル・ダニロフ他『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(126頁)では1245年。
  4. ^ Rurikid Dynasty DNA Project(英語)
  5. ^ モノマフは、ミハイルの6代前の祖先ヤロスラフ1世の孫にあたる。(モノマフまでの血縁関係:ヤロスラフ1世‐フセヴォロド1世‐モノマフ)、(ミハイルまでの血縁関係:ヤロスラフ1世-スヴャトスラフ2世-オレグ‐フセヴォロド2世スヴャトスラフ3世-フセヴォロド4世‐ミハイル)。

出典[編集]

  • Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона в 82 тт. и 4 доп. тт. — М.: Терра, 2001 г.
  • Богуславский В. В. Славянская Энциклопедия. Киевская Русь-Московия: в 2 т. — М.: Олма-Пресс, 2001., т.1, стр.728-729
  • Русский биографический словарь: В 25 т. /А. А. Половцов. — М., 1896—1918.
  • Жития Святых, на русском языке, изложенные по руководству четьих-минеи Св. Димитрия Ростовского. Книга третья. Издание Московской синодальной типографии. Москва. 1906. — Репринт: Издание Введенской Оптиной Пустыни, 1993.
  • Сказание об убиении в Орде князя Михаила Черниговского и его боярина Феодора // В: Повести и сказания Древней Руси. Отв. ред. Д. С. Лихачев. СПб., Диля, 2001, 243—247.
  • Горский А. А. Гибель Михаила Черниговского в контексте первых русских князей с Ордой // Средневековая Русь, 6, 2006, 138—154.

参考文献[編集]