ヴャチェスラフ1世

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ヴャチェスラフ1世(ヴャチェスラフ・ウラジミロヴィチ)ロシア語:Вячеслав Владимирович、ウクライナ語:В'ячеслав Володимирович、1083年? - 1154年12月)は、ウラジーミル2世モノマフの子。母はギータスモレンスク公:1113年 - 1127年トゥーロフ公:1127年 - 1132年1134年 - 1142年1143年 - 1146年ペレヤスラヴリ公:1132年 - 1134年、1142年 - 1143年。キエフ大公の位には、1139年2月22日 - 1139年3月4日、1150年7月、1151年4月 - 1154年の3回にわたって就いている。

1113年から1127年の14年間、ヴャチェスラフはスモレンスク公だったが、1127年にムスチスラフ1世(この当時キエフ大公。ヴャチェスラフの兄にあたる。)が、自身の息子のロスチスラフ1世をスモレンスク公としたため、ヴャチェスラフはトゥーロフ公となった。また、1132年にはヤロポルク2世(この当時キエフ大公。ヴャチェスラフの兄にあたる。)によってペレヤスラヴリ公となった。しかし、1134年、ヴャチェスラフは独断でトゥーロフへ帰ると、甥のイジャスラフ2世(後のキエフ大公。ムスチラフ1世の子。)を追い出した。その結果、オレグ一門の援助を受けた甥との闘争が始まった。

1139年2月18日に、キエフ大公位にあったヤロポルク2世が死ぬと、ヴャチェスラフはキエフ大公の位を相続した。しかし、ヴャチェスラフは性格や行動に欠点があり、母でさえ、キエフ大公の位をフセヴォロド2世(この当時チェルニゴフ公。オレーク一門に連なる。)に譲らせようとした。事実、1度目のキエフ大公位の在位期間はごく短期のうちに終わった。その後、1142年に2度目のペレヤスラヴリ公、1143年1月には3度目のトゥーロフ公となった。

1146年、キエフ大公位にあったフセヴォロド2世の死後、ヴャチェスラフは再び政治への積極的な干渉を試みはじめた。自身の去就以外にも、甥のウラジーミル・アンドレヴィチ(異母弟アンドレイ・ウラジミロヴィチの子。)の、ウラジーミル・ヴォリンスキー公への即位を画策した。しかし、新しいキエフ大公にはイジャスラフ2世が就き、ヴャチェスラフの領土だったトゥーロフと、甥のために画策したヴォルイーニは、共にイジャスラフ2世のものとなった。ヴャチェスラフには、ヴォルィーニの小都市・ペレソープヌィツャが与えられた。ヴャチェスラフはユーリー1世(後のキエフ大公。ヴャチェスラウの異母弟にあたる。)と連合する道を選び、1149年、連合軍はイジャスラフ2世を破った。また、ユーリー1世によって、小さいが戦略的に重要なキエフ近郊の都市・ヴィーシュホロドを得た。

1150年には、イジャスラフ2世の反撃によってユーリー1世が敗れた。ヴャチェスラフはキエフに乗り込み、一時的にキエフ大公(2度目のキエフ大公。)となった。しかし、敵対していたイジャスラフ2世と和解しキエフ大公位を譲渡、逆に、それまでの同盟者だったユーリー1世との戦争を始めた。彼ら3人によるキエフ大公位をめぐる闘争は、最終的には、1151年にイジャスラフ2世がユーリー1世に勝利することで決着がついた。イジャスラフ2世はヴャチェスラフを呼び寄せ、2人による共同統治が行われた。これはヴャチェスラフにとって3度目のキエフ大公となった。

共同統治は3年間続いたが、1154年にイジャスラフ2世が死去、同じ年の12月にヴャチェスラフも死去した。

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