ベンジャミン・W・リー

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ベンジャミン・W・リー
Benjamin W. Lee
Benjamin W. Lee
弟・チョルン提供
人物情報
生誕 1935年1月1日
日本統治時代の朝鮮 京城府
死没 1977年6月16日(満42歳没)
アメリカ合衆国 イリノイ州
居住 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州
市民権 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
国籍 日本帝国の旗 大日本帝国 (1935-1945)
韓国の旗 韓国(1945-1968)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(1968-1977)
出身校 マイアミ大学
ピッツバーグ大学
ペンシルベニア大学
学問
研究分野 理論物理学場の量子論素粒子物理学
研究機関 プリンストン高等研究所
ペンシルベニア大学
ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校
シカゴ大学
フェルミ国立加速器研究所
博士課程
指導教員
アブラハム・クライン
他の指導教員 シドニー・メシュコフ
博士課程
指導学生
姜周相
他の指導学生 アーネスト・S・アバース
主な業績 チャームクォークの質量の計算
自発的に対称性が破れたゲージ理論繰り込み
影響を
受けた人物
アブラハム・クライン
シドニー・メシュコフ
影響を
与えた人物
スティーヴン・ワインバーグ
ヘーラルト・トホーフト
アブドゥッサラーム
主な受賞歴 国民勲章・椿章
署名
Signature of Benjamin W. Lee
補足
姜周相 《李輝昭評伝》
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ベンジャミン・リーBenjamin Whisoh Lee (ベンジャミン・フィソ・リー)、1935年1月1日 - 1977年6月16日)は、日本統治時代の朝鮮で生まれたアメリカ理論物理学者である。

アメリカにおいては彼の英語名のニックネームでベン・リー (Ben Lee) として知られ、韓国ではイ・フィソ(이휘소、李輝昭)として知られている。

彼は20世紀後半に理論素粒子物理学において自発的に対称性が破れたゲージ理論繰り込み[1]チャームクォークの探索に関する研究に貢献した。

物理学者として本格的に活動し始めて以来、およそ20年間で総計107本の論文を発表し、このうち77本がジャーナルに出版された。10回以上引用された論文はこの中68本に達し、500回以上引用されたのは総計7本である。2011年6月現在、彼のすべての論文は12,500回以上引用されている。[2]

代表的な弟子には姜周相・高麗大学物理学科名誉教授がいる。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ベンジャミン・リーは1935年1月1日日本統治時代の朝鮮京城府元町(現在のソウル特別市龍山区)で3男1女の長男として生まれた。母親は元町の『慈恵病院』で働いており、父親は医者免許を所持していたにも関わらず、貧しい人たちからお金をもらって治療することを嫌がって開業医活動を行わなかったため、家計は母親が担っていた。父親がしばらく小学校教員として働いた時期があったが、母親とはこの時師弟関係であったという。[3]

7歳だった1941年に京城師範学校第一付属国民学校に入学した。当時の教育課程で、小学校の名称が皇国臣民学校を指す「国民学校」に変更されたのもこの年だった。[注 1]ベンジャミン・リーは付属第一国民学校の入試に受かって入学したが、彼が在学していた当時にいた朝鮮人は二人に過ぎなかった。この頃、ベンジャミン・リー一家は元町から新説町に引っ越していた。これは現在のソウル特別市城北区普門洞及び東大門区新説洞に該当する地域で、ベンジャミン・リーの家は特に現在の城北区普門洞に該当する地域にあった。母親はここで小児科と産婦人科を専門とする『慈愛医院』を開業した。[3]

ベンジャミン・リーには当時富裕な友人が一人いたが、彼の家には朝鮮が植民地から解放された後、日本人たちが帰国の際に残していった書籍が大量にあって、彼はこの友人からよく日本語書籍を借りて読んでいた。その中で彼が一番大好きだった本は月刊誌『子供の科学』だったという。彼が国民学校4年在学時に朝鮮は独立を迎えたが、独立とともに京城師範学校が閉校されたため、1947年に卒業する時はソウル大学師範部付属国民学校所属だった。卒業後は京畿中学校に進学した。部活動としては化学部に所属していたという。[3]

朝鮮戦争[編集]

彼が中学校4年生[注 2]に在学していた1950年6月25日韓国戦争が勃発した。ベンジャミン・リーの一家はソウル近郊の光陵(グァンルン)にある親戚の家にいたが、9月28日大韓民国国軍国際連合軍朝鮮人民軍からソウルを回復してからは実家に戻った。しかし1月4日中国人民解放軍朝鮮人民軍の反撃で大韓民国国軍国際連合軍がソウルを放棄して南に後退したときは、忠清南道公州市にある父親の実家に避難した。母親はここでも病院を開業していて、ベンジャミン・リーはそういう母親のお使いに隣の大田市に出かけて病院の運営に必要な薬品を買ってきていたという。[3]

その後父親が小学校の教員をしていたころの父親の弟子の忠告で、また慶尚南道馬山市に移った。この時父親は隣接した昌原市の保健所長として公職生活をはじめた。当時、馬山から昌原までは通勤が困難だったため、父親は主に昌原保健所で生活していて、週末のみ馬山の実家に戻っていた。しかし1951年12月のある深夜に家路を急いでいる途中、小さい川の堤の上で足を踏み外してしまい、死亡した。[3]

ベンジャミン・リーはソウルから公州、馬山へと避難生活を続けていて学校に通うことができなかったが、学校教育に関する戦時訓令によって、委託生徒の身分で近隣の馬山中学校に臨時編入した。それからすぐ京畿中学校が釜山に臨時移転してきたため、母校に戻って5年生課程を済ました。[3]

大学入学[編集]

それからベンジャミン・リーは検定考試(日本の高等学校卒業程度認定試験に該当)を受けて大学入学資格を得てから、入学試験に合格して1952年ソウル大学工学部化学工学科に首席で入学した。当時のソウル大学は釜山に臨時移転していた。そこにはソウル大学だけでなく、〈戦時連合大学〉という名称で全国のすべての大学が一か所に集合した状態で、授業だけ大学別に受けるようになっていた。[3]

大韓民国国軍国際連合軍がソウルを修復してからソウル大学は、ソウル大学師範部付属中学校のところに臨時校舎を建て、米軍が撤収してからは泰陵(テルン)に移転した。ベンジャミン・リーは10人1室の臨時宿舎で自炊生活をはじめた。ソウル大学工科部で1学期間授業をうけてから、ベンジャミン・リーは化学より物理学に大きく興味を抱き、以後文理科部物理学科への転科を何度も試みた。[3]

アメリカ合衆国への留学[編集]

しかしソウル大学は、彼が当時在学中であった工科部化学工学科から、文理科部物理学科への転科を許可しなかった。彼は大学講義とは別に独学で物理学を勉強していたが、転科を許可されなかったことでかなり失望していた。その後、朝鮮戦争参戦米軍将校婦人会の後援を受ける留学奨学生に選抜されたので、大好きな物理学を勉強させてくれないソウル大学を果敢に自主退学しアメリカへと留学することにした。彼が編入学する大学はオハイオ州オクスフォード市のマイアミ大学と決定された。1955年1月26日の朝、ベンジャミン・リーは汝矣島飛行場から出国した。[注 3]彼は東京ハワイサンフランシスコシカゴを経由して1月31日になってやっと目的地に着くことができた。[3]

ベンジャミン・リーは1955年1月オハイオ州マイアミ大学物理学科に編入学した。ソウル大学での成績が考慮され、彼には全部で70単位が認定された。これは当時のアメリカの大学学制でおよそ2年半程度に該当するため、彼は3年生課程に編入することができた。彼は毎朝7時前に起きて7時10分に朝食を食べ、8時から大学授業を受け始め、授業が終わってから図書館ですべての課題を終わらせて0時過ぎに宿舎に戻る生活を繰り返した。1956年6月に、彼は物理学科をスンマ・クム・ラウデ(Wiktionary:summa cum laude)で卒業し、学類長などの推薦でピッツバーグ大学大学院に進学した。[3]

大学院に入学する前の夏休みはかなり自由だったが、彼はインディアナ州パデュー大学大学院の若手夏の学校[注 4]で勉強した。また、この期間中自動車の運転も習った。[3]

ベンジャミン・リーは夏休みの終わった1956年8月から、ピッツバーグ大学大学院での生活をはじめた。彼はティーチングアシスタント(TA)奨学生で、工学科と医学科の学生たちの物理学実験のTAを担当した。翌年の秋学期からはリサーチアシスタント(RA)とTAを兼職するようになり、実験の指導だけ担当していたところから正式に1つの講義を割り当てられた。彼が秋学期に受講していたいくつかの講義の中で、理論核物理学を担当していたシドニー・メシュコフ(Sidney Meshkov)は以後ベンジャミン・リーの進路に大きな影響を与えることになる。この頃ベンジャミン・リーは物理学で本格的に素粒子物理学、正確には場の量子論の専攻を希望するようになった。[3]

ベンジャミン・リーはピッツバーグ大学大学院の博士課程進級試験で、次席者と総点差が20点以上着く高得点で首席合格した。しかしその後体調を崩し、気管支炎を患った。彼は病気を治してからすぐ修士論文に没頭し、1か月後に完成した。修士論文の題名は〈On the Analytic Properties of the S-Matrix with Some Application〉だった。彼は1958年に修士学位を取得した。[3]彼は修士論文にいくつかを加えて、この年の12月に《フィジカル・レビュー》に起稿した。[4]

彼はすでにピッツバーグ大学大学院の博士課程への進級を予定していたが、シドニー・メシュコフはリーの才能を惜しみ、彼を名門ペンシルベニア大学アブラハム・クライン(Abraham Klein)に推薦した。クラインはベンジャミン・リーの才能を認め、博士学位資格試験である予備試験を免除させ、さらにTA及びRA奨学金よりも恵沢の優れたハリソンフェローシップ(Harrison Fellowship)を周旋した。[3]

クラインは当時33歳の若い教授だったが、ベンジャミン・リーは彼とともに共同研究を行いながら自分の博士学位論文に少しずつ近づいた。そうして1960年11月に〈Study of K^+ N Scattering in the Double Dispersion Representation〉でPh.D.を授与されたが、この時彼は25歳に過ぎなかった。彼が博士学位証書を受領したのは1961年2月4日だった。博士学位論文ディフェンスが終わった11月から1961年8月まで、彼はペンシルベニア大学博士研究員及び専任講師に任用された。[3]

以後ベンジャミン・リーはプリンストン高等研究所の研究会員に招聘されたが、その任期は1年だった。それからの職場を考えなければいけなかったが、彼はクラインの配慮で1961年度から助教授に任用され、その助教授の資格を持ってプリンストン高等研究所の研究会員として訪問研究をする形式をとることができたので、プリンストン高等研究所の任期が終了してからの心配は要らなくなった。[3]ベンジャミン・リーはプリンストン高等研究所に赴任する前、アメリカ各地の大学教員に任用されバラバラになる同年の同僚たちと記念で共同論文を執筆し、これを『レビュー・オブ・モダーン・フィジクス』に起稿した。[5]

プリンストン高等研究所及びペンシルベニア大学にて[編集]

IAS Princeton.jpg

1961年の秋、ベンジャミン・リーはプリンストン高等研究所内のアインシュタイン街31番地にある未婚者用寄宿アパートに入所した。ベンジャミン・リーは夕食や飲み会のような社交的な集まりにほとんど顔を出さずに研究室にだけ頭門不出していたという。この頃ベンジャミン・リーはヤン=ミルズ理論理論の量子化にかなり興味を持っていた。[注 5][3]

翌年2月にニューヨークマンハッタンコロンビア大学の主任教授・イジドール・イザーク・ラービがベンジャミン・リーに直接電話をかけ、コロンビア大学の助教授に採用したいと提案してきた。しかしベンジャミン・リーはプリンストン高等研究所に来る前からすでにペンシルベニア大学の助教授に任用されていたので、独断で決めることはできなかった。ベンジャミン・リーはクラインに連絡してこの問題に関して相談したが、クラインはベンジャミン・リーのプリンストン高等研究所での任期を経歴として認定し、ペンシルベニア大学に復帰した直後から准教授に昇進するようにすると約束したので、ベンジャミン・リーはイジドール・イザーク・ラービの提案を丁重に断った。[3]

ベンジャミン・リーはフィラデルフィアを離れプリンストンに来る直前から、マレーシア華僑マリアン・ムン・チン・シム(Marianne Mun Ching Sim、沈蔓菁)と交際し始めていて、プリンストン高等研究所に勤務していた時1か月に2回くらいの週末にフィラデルフィアに戻ってマリアンとのデートを楽しんでいた。その後1962年3月に二人は婚約し、アメリカ合衆国の移民局がベンジャミン・リーの永住権を発給する次第結婚することにした。[注 6]5月7日に、ベンジャミン・リーとマリアンはワシントンで結婚式を挙げた。彼の27歳の時だった。夫婦は間に息子ジェフリー・ファウンティン・リー(Geoffery Fountain Lee)と娘イレネ・アン・リー(Irene Anne Lee)をもうけた。[3]

1962年6月初旬、彼は国際原子力機関が主催するイタリアトリエステ理論物理学セミナー(Seminar on Theoretical Physic)に参加する10人のアメリカ代表団に選ばれた。[注 7]トリエステ理論物理学セミナーは1962年7月16日から8月25日まで開催された。この頃のベンジャミン・リーは若手研究者としてかなりの名声と才能を得ていたが、その段階ではまだ何も本格的な成果をあげてはいなかった。彼の大事な学問的成果はすべて1970年代に至ってから表れ始める。ゆえに、「1960年代中盤にもうノーベル物理学賞を授与するべきだった」や「私の下にはアインシュタインもいたが、彼の方がもっと優れている」などの、一部の韓国の小説の中の登場人物の陳述による描写は誇張しすぎた偽りである。[3]

1963年に、ベンジャミン・リーはアルフレッド・P・スローン財団の研究会員を務めた。[6]彼はプリンストン高等研究所での任期を終えてペンシルベニア大学に復帰したが、クラインの約束通りただちに准教授に昇進した。それから1965年にまた教授に昇進した。[注 8][3]

ニューヨーク州立大学ストーニブルック校在職時期[編集]

楊振寧

1965年の秋に、プリンストン高等研究所の教授だった楊振寧がベンジャミン・リーを訪ねた。彼はニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のアインシュタイン教授職に選任されていたが、ベンジャミン・リーにも一緒に転職しようと誘いに来たのである。[注 9]ベンジャミン・リーは1966年5月16日にニューヨーク州立大学ストーニブルック校に訪問教授として招聘され8月31日まで在職して、秋学期が開始してからは9月25日から理論物理学研究センターの教授として赴任した。[3]

当時は論文の原稿を提出したら、審査が終わって学術誌に掲載されるまで通常6か月以上かかっていて、 一番早いといえる《フィジカル・レビュー・レター》さえも最低限1か月以上は覚悟しなければいけなかった。しかし素粒子物理学はその研究のテンポがほかのどの学問よりも早く、論文一編を学術誌に送付したとしてもその論文が出版されるまで時間がかなりかかるため、その間に誰かがそれに対する批判の論文、その論文が引用された別の論文を書く可能性が高かった。このために学術誌に出版されるまで待っているばかりではなく、興味を持っている学者たちに研究内容を早めに知らせておく必要があった。インターネットが普遍化された現在はarXivのようなウェブサイトが存在し、全世界のインターネットが使用できるすべての物理学者たちがほぼすべてのプレプリント(en:preprint, 出版前論文)を手早く探せて数秒以内に落として読めるようになっているが、インターネットが普及される数十年前だった当時はarXivのような恵沢は夢見ることすらできなかった。当時はすべての物理学者たちがSLAC国立加速器研究所にあるスタンフォード物理学情報検索システムに自分の論文の写本を送付して登録し、そこで発刊するプレプリント目録を定期的に購読していた。そして目録で興味のある論文を見つけたら、その著者にハガキを書いて写本を要請し、その著者の好意で写本をやっと受けることができるシステムであって、実際論文を受けるまではかなりの時間がかかった。当時のベンジャミン・リーは莫大な分量のプレプリント集を保有しさらに体系的にまとめていたが、彼はこれをもとに世界各国の碩学たちを訪ねて交流し、共同研究を行っていたという。[3]

1967年11月に、スティーヴン・ワインバーグは《フィジカル・レビュー・レター》に〈A Model of Leptons〉を発表した。[7]ベンジャミン・リーは論文掲載審査を依頼されたので彼の論文を読むようになった。ワインバーグはこの論文で弱い相互作用に関する説明を試みていた。弱い相互作用は自然系の4つの相互作用の一つで、このような4つの相互作用を仲介するのが光子、グルオンなどのゲージボゾンたちである。これらはゲージ対称性を持っているが、対称性が保たれるためにはまずゲージボゾンの質量が0である必要があった。しかし弱い相互作用を仲介するウィークボゾンは測定した結果かなり重い質量を持っていたことがわかって、これはそれまでの常識ではなかなか受け入れられないことだった。当時はこれを説明するために、ゲージ理論のラグランジアンに人の手でわざとゲージボゾンの質量項を差し入れようとする、多少荒っぽい論文が氾濫していたが、スティーヴン・ワインバーグだけはこのゲージ対称性が自発的に破れているとしてそこからゲージ粒子の質量を自然と得ようとする独唱的な試みをしていた。彼はその論文ですべての計算に成功したわけではないが、この方法が正しいだろうという妥当な根拠を提示していた。[3]

ベンジャミン・リーは1968年アメリカ合衆国市民権を取得した。彼はアメリカ市民になった直後、翌年の1969年までグッゲンハイム基金の研究会員(en:List of Guggenheim Fellowships awarded in 1968, No.128)を務めたが、この期間中彼はフランスで家族と一緒に休日(en:Leave of absence)を過ごしながら、高等研究実習院で自由な研究活動を行った。ここで彼は自発的対称性の破れとそれによる南部ゴールドストーン・ボソンなどに深い興味を抱き、マレー・ゲルマンモーリス・レヴィ(Maurice Lévy)が確立した線形シグマ模型(en:Sigma model)の繰り込みに関する論文を執筆した。[8][9][3]

1970年6月、ベンジャミン・リーはコルシカ島でのカジュース(en:Cargèse)夏の学校に講演者として招聘された。ここでベンジャミン・リーはシグマ模型の自発的に破れた対称性とその繰り込みに関して講義した。オランダの大学院生ヘーラルト・トホーフトは指導教員のマルティヌス・フェルトマンと一緒にヤン=ミルズ理論の繰り込みに関して研究していて、夏の学校のベンジャミン・リーの講義を受けたが、これに決定的に助けられたと後日回顧した。[10]カジュース夏の学校から戻ってきてからは、ソビエト連邦キエフでの第15回高エネルギー物理学国際会議に参加して、はじめて共産圏国家に足を運んだ。この会議は8月26日から9月4日まで開かれた。[11][3]

1971年にベンジャミン・リーはマレー・ゲルマンの招聘で、ロサンゼルス近郊パサデナにあるカリフォルニア工科大学の交換教授で5か月間在職した。この年の夏にベンジャミン・リーは、当時韓国科学院副院長のチョン・グンモ博士とともに韓国で夏の学校を定期的に開く事業を積極的に推進していた。しかしベンジャミン・リーは、韓国で独裁体制が強化していくとのことで、1972年にチョン・グンモに次のような手紙を送り、夏の学校を台無しにしてしまった。

……衛戍令の発動、学生運動の弾圧など、最近韓国で起こっている一連の事態で、私たちが推進している夏の学校事業を再考してしまいます……私が夏の学校の運営に努めるなら、まるで私が韓国の独裁政権とその抑圧政策を支持するかのように映るか大変心配です。実に困ったところです。正直なところ韓国の科学発展のために頑張りたいところですが、でもこのような民主主義の原則を無視する韓国政府の仕打ちにかなり失望していますので、反対意思を明らかにしたいところです。

それゆえ、韓国政府からこれに関する招聘があっても断じて受諾しないことにします。ふざけるなと思いになるかもしれませんが、韓国国民の将来を心配する一人として選択できる唯一なことです……

—ベンジャミン・W・リー(1972年にチョン・グンモに送った手紙より)

一方、ヘーラルト・トホーフトはベンジャミン・リーから得たアイデアを用いてマルティヌス・フェルトマンと一緒にヤン=ミルズ理論の繰り込みに成功し、これを1972年の夏にオランダ・アムステルダムの粒子物理学国際学術会議で発表した。しかし当時の彼らのスキムは一般的な場合にすべて適用できるものでもなく、かつ当時の物理学者たちが簡単に理解できないような内容だったが、ベンジャミン・リーが積極的に乗り出してこれをわかりやすく解説し、経路積分形式などのほかのスキムにまで拡張して述べたので、そこからやっと多くの物理学者たちがこれを理解することができた。[12][13][14][15]トホーフトとフェルトマンはこのような功績を認められ、1999年にノーベル物理学賞を受賞した。[3]

1972年10月朴正煕が自分の独裁のために維新憲法を宣布したとき、ベンジャミン・リーは外国人同僚たちに合わせる顔がないと、近くの韓国人友人たちに吐露していた。当時に姜慶植・元ブラウン大学教授は在米韓人科学技術者協会の副会長で、たまに母国訪問学術会議や夏季シンポジウムの講演者招聘の受諾をベンジャミン・リーに勧めていたが、その度ベンジャミン・リーは朴正煕が独裁を続けている限りはそういうことは断じてしないと固く断っていた。[3]

ベンジャミン・リーの代表的な弟子に姜周相・高麗大学校物理学科名誉教授がいる。彼はこの頃ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校で博士学位論文の指導を受けていた。ベンジャミン・リーがカリフォルニア工科大学で客員教授として在職したときも一緒に移って1学期間指導を受けた。ベンジャミン・リーはアメリカの市民になってはいたが、韓国に対する関心は一刻も捨てずに持っていて、姜周相とともに韓国の政治、経済、社会問題をよく話し合っていたという。ある日には核兵器に関する話が話題になったが、その時彼は次のように自分の考えをはっきり表したと姜周相は覚えている。

核兵器は必ずこの世界から消えるべきで、特に独裁の行われている開発途上国での核兵器開発は決して許容されてはいけない。

—姜周相 『李輝昭評伝』

1972年の秋学期にベンジャミン・リーはニューヨーク州立大学ストーニーブルック校でゲージ理論に関する大学院講義を行ったが、この講義録をアーネスト・S・アバースという大学院生が整理して《フィジックス・レポート》(en:Physics Reports)に単行本形式で発表した。[16]

フェルミ国立加速器研究所在職時期[編集]

フェルミ国立加速器研究所

ベンジャミン・リーは1973年9月フェルミ国立加速器研究所の理論物理学部長(Head of the theoretical physics department)に赴任し、この年の9月から1975年8月までブルックヘブン国立研究所の高エネルギー諮問委員を務めた。この頃は各地で彼をスカウトしようとする動きがあったという。マサチューセッツ工科大学は彼に物理学科教授を提案する手紙を1973年5月23日に発送していて、フェルミ国立加速器研究所も彼に理論物理学部長を提案していた。[注 10]彼はフェルミ国立加速器研究所の理論物理学部長に就任しながら、1974年4月からシカゴ大学の教授も兼任することにした。俸給はフェルミ国立加速器研究所で受けて、シカゴ大学ではある意味でのアルバイトで働くことにしたが、ベンジャミン・リーが希望すればいつでも正式教授になることもできた。ニューヨーク州立大学ストーニブルック校では1966年8月31日からベンジャミン・リーを休職処理し、1974年9月25日から物理学化先端教授(leading proffesor)に任用する特別待遇をした。これは1976年8月30日まで続いた。フェルミ国立加速器研究所の理論物理学部長に在職しながら、ベンジャミン・リーはここでのほぼすべての理論研究に関与し、実験計画も一緒に立てていた。1974年6月からはSLAC国立加速器研究所の科学政策委員会諮問委員を務めた。この任期は1978年8月までだった。[3]

1974年の夏、ベンジャミン・リーはイギリス・ロンドンでの第17回高エネルギー物理学国際会議に参加した。[17]彼は全体会の講演者として招聘され、そこで電弱理論のそれまでの発展状況を要約して発表することにした。この頃ワインバーグの1967年の論文[7]はかなり有名になっていて、電弱理論は当時までワインバーグ理論と呼ばれていたが、この会議でベンジャミン・リーは電弱理論に対するアブドゥッサラームの貢献を認め、この発表で初めてこの理論をワインバーグ=サラム理論と命名した。それから学系ではベンジャミン・リーの命名を尊重してワインバーグ=サラム理論という名称を使い始め、このおかげでサラムはワインバーグ、グラショーと一緒に1979年ノーベル物理学賞を受賞した。[3]

1974年にベンジャミン・リーは20年ぶりに母国を訪問した。アメリカ合衆国国際開発庁(USAID)の借款によるソウル大学援助計画のアメリカ側評価委員の資格だった。評価委員たちの援助妥当性調査事業はその年9月1日から10月2日まで一か月間行われた。朴正熙が独裁をし続ける限りは韓国に足を入れることは断じてないと決めていたベンジャミン・リーがどうしてUSAIDの評価委員委嘱を受諾したのかははっきりされていない。母国に推薦されたからとの理由でアメリカ国務省に説得された可能性もあり、朴正熙が死ぬほど嫌いな気持ちは理解できるが最低限韓国の科学教育だけでは助けるべきではないかと周りの同僚に説得された可能性もある。[3]

ピョートル・カピッツァ

ソビエト連邦出身の物理学者でピョートル・カピッツァがいる。彼は1918年サンクトペテルブルク工科大学を卒業し、1930年代に大英帝国ケンブリッジ大学などで活躍しながら名声を積んでいた。ヨシフ・スターリンは優秀な人材である彼がソ連で研究することを望んでいたが、ソ連に抑留されることを警戒した彼は身辺保障ができない限りソ連に入ることはないと断っていた。スターリンは直接身辺保障覚書を書きながら母国訪問を慫慂した。そうやってカピッツァは毎年の夏、覚書をもらってソ連を一時訪問していたが、ある年には彼の夏季訪問時期が迫ってくるのにも身辺保障覚書が届かなかった。大使館職員はただ行政的処理が遅れているだけなので、心配せずにまずソ連に出発するように勧めた。もう数回ソ連を往来していたカピッツァは一片の疑いもなくソ連に入ったが、やはりこれはスターリンの罠で、彼はそのままソ連に抑留されてしまった。[3]

ベンジャミン・リーはこの事件をよく知っていたので、朴正熙の独裁の下の韓国訪問をさらに警戒していた。[注 11]しかし今回の一時帰国は個人資格でなくアメリカ政府代表団の一員としての訪問なので、どうせ朴正熙がベンジャミン・リーにめったに手を出すことはできない状況だった。ベンジャミン・リー万全を期しては身辺保障の確実な龍山米軍基地の隣の在韓アメリカ大使館職員宿所に泊まることにした。それでも安心できなかったか、彼は自分の母国訪問期間中、朴正熙が余計に手を出した場合に神速に連絡を入れるべき数ヶ所を自分の秘書にしっかりと周知させてから、やっと韓国へと出発した。[注 12][3]

1976年に三度プリンストン高等研究所の研究員として招聘された。またこの年にアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選出された。[18]

交通事故[編集]

1977年6月16日午後1時22分頃、アメリカ合衆国イリノイ州ケワニー(en:Kewanee, Illinois)近くの州間高速道路80号線上で交通事故で死去した。彼はフェルミ研究所の夏の研究審議会のために家族と一緒にコロラド州アスペンに向かっている途中だった。[19][20]

韓国の雑誌《科学と技術》 1994年1月号に載った、〈私の知っている故・李輝昭博士〉という姜慶植・元ブラウン大学教授の特別起稿文には、ベンジャミン・リーの当時の秘書が事故直後姜慶植に電話をかけて説明した事故当時の状況が書いてある。これによると、ベンジャミン・リーは1977年6月16日12時前に家族たちを自家用に乗せてコロラド州アスペン市に出発し、それからおよそ1時間30分間イリノイ州内の州間高速道路80号線アイオワ州境界からおよそ30マイル離れた支点まで正規速度時速55マイルで運転していたが、対向の内部高速道路船を東側に走っていた大型トレーラーのタイヤがパンクして、コントロールできずに中央分離地帯を侵犯してきて、西側に走っていたベンジャミン・リーの自家用の運転席を襲ったのである。この事故で後ろの座席で寝ていたベンジャミン・リーの家族たちは軽傷を浴びたが、本人はその場で死亡した。[21]一方、事故の経緯をベンジャミン・リーの同僚の伝言の形式で報道した1977年6月18日ニューヨーク・タイムズ訃報記事は、ベンジャミン・リー一家が乗った車両の対向車線で走ってきたトラックのタイヤがパンクし、トラックが高速道路中央の分離地域を滑り、午後1時22分ごろにベンジャミン・リー一家の自家用と衝突したと報道している。[22]

また、韓国放送公社の取材で発見された、イリノイ州警察署に保管されている当時の事故記録によると、ベンジャミン・リーの車両は1975年型ダッジ・ダート(en:Dodge Dart#1975)[23]で、幅20メートルの中央分離地帯を滑ってきた36トン級タンクトラック[注 13]と衝突した。当時加害トラックドライバーのジョン・L・ルイスは、トラックで大きな音がして(heard a noise)、トラックが右側に回って(swerved to right)、また左側に回った(swerved to left)と述べたが、韓国の大徳大学自動車学部のイ・ホグン教授は、その大きな音の原因をタイヤのパンクの音だと推定した。[24]

タイヤのパンクにおいて、大型トレーラーのような場合は危険性が高まり、専門教育を受けていない一般人の場合慌ててハンドルを激しく操作するか特に急ブレーキを踏むようになるが、そのような状況では車が統制不能状態に落ちる。

イ・ホグン教授、大徳大学自動車学部, [24]

また事故記録にはトラックの前部と後部が直角に折れたと記録されている。[注 14]この状況でトラックが20メートルも滑って対向車線を侵犯した理由についてイ・ホグン教授は次のように述べた。[24]

アスファルトやコンクリート道路での摩擦係数は制御が可能であるが、一旦芝生に乗せられてからはほとんどスケートに載ったかのように滑るしかない。一度滑り始めたらその状況では方向転換が決して不可能で、進行方向にまっすぐ滑っていくと思えばよい。

イ・ホグン教授、大徳大学自動車学部, [24]

また、意図的にパンクを起こしてベンジャミン・リーの車両を襲う可能性を調べるためにKBS取材陣と大徳大学自動車学部側は数回にわたって実験を行ったが、パンク直後の車両の軌跡は一定でなかった。この実験の結果とともにイ・ホグン教授は最後に次のように述べた。[24]

高速道路中央の緩衝地帯が路面材質の異なる芝生になっていて、また対向車線で走ってくる車両の速度も不明確で、またどの車線で走ってきているのかも不明確で(州間高速道路80号線は当時も往復4車線だった)、またトラック自身が車線を離脱し中央分離地帯を渡っていく状況で、反対側から走ってくる車が急ブレーキを踏むかそれとも車線を変更するかもわからない状況である。このような状況で統制不能状態の車両を対向車線の車両と意図的に衝突させるというのは理論的に不可能な状況である。

イ・ホグン教授、大徳大学自動車学部, [24]

ベンジャミン・リーは1977年8月に国民勲章・椿章を授与された。そして2006年には韓国科学技術翰林院により韓国科学技術人名誉の殿堂に挙げられた。

家族[編集]

  • 父親 李逢春(イ・ボンチュン)
  • 母親 朴順姫(パク・スンヒ)
    • 長男 ベンジャミン・フィソ・リー (Benjamin Whisoh Lee)
    • 二女 イ・ヨンジャ
    • 三男 イ・チョルン
    • 四男 イ・ムオン
  • 夫人 マリアン・ムン・チン・シム (Marianne Mun Ching Sim)
    • 息子 ジェフリー・フォンテーン・リー (Geoffrey Fountain Lee)
    • 娘 イレネ・アン・リー (Irene Anne Lee)

業績[編集]

自発的に対称性が破れたゲージ理論の繰り込み[編集]

1964年にリーは彼の指導教員クラインと自発的対称性の破れに関する論文[25]を発表し、素粒子の質量の存在を説明するヒッグス機構の登場に貢献した。素粒子はゲージ粒子(光子、グルオンなど)と呼ばれる粒子を共有しながらお互い相互作用し、物理系のファンダメンタルな力を受けるが、従来まで確立されたゲージ理論だけでは自然に質量の存在を説明できなかった。局所ゲージ対称性を持つラグランジアンで、ゲージ粒子の質量項は局所ゲージ対称性に違反するので存在できず、ゆえにゲージ粒子は質量を持たないという結論が得られる。一方20世紀中盤、南部陽一郎ジェフリー・ゴールドストーン(en:Jeffrey Goldstone)などにより「必ず対称的な状態が一番安定的でなくても良い。対称的な状態よりも安定的な状態があり得、もしそうならば自然界は自分で対称性を破ってでもより安定的な状態になろうとする。」という自発的対称性の破れの可能性が提案された。リーとクラインは、自発的対称性の破れの例として当時流行っていた超伝導体と比べながら、何が南部ゴールドストンボソンになれるかを議論し、結局無質量粒子の場として追加的なスプリオン(en:Spurion)の存在が必要だと主張した。もちろんこの当時にはヒッグス粒子の存在は知られていなかったため、この論文はヒッグス機構のような理論の登場を促進するような役割をしたのである。

1969年にリーは、自発的対称性の破れを議論するときおもちゃモデルとして愛用されている、シグマモデル(en:Sigma model)の繰り込みに成功した。[8][9]この頃、当時オランダの大学院生だったトホーフトヒッグス機構ヤン=ミルズ理論に応用して局所ゲージ対称性が自発的に破れる模型を研究していた。彼は1970年コルシカでのカジュース(en:Cargèse)夏の学校でリーの講義を聴いたが(この講義録がChiral Dynamicsとして出版された)、この時彼は自分の学位論文テーマだった非可換ゲージ理論の繰り込みに関して決定的なアイデアを得て、それに成功している。[26]非可換ゲージ理論の一番基本的な(リー代数的に SU(2)に該当する)ヤン=ミルズ理論で不必要な無限大の制御に成功したということは、忽ちに他のNon-Abelian Gauge Theoryにも応用できるということを意味した。この業績でトホーフトは当時の彼の指導教員だったフェルトマンとともにノーベル物理学賞を受賞した。[27][28]この二人は素粒子理論物理学系では繰り込みの方法として次元正則化(en:Dimensional regularization)を考案したことで有名である。

ポリツァーは彼の2004年ノーベル賞受賞記念講演で、リーが電弱統一理論に対するトホーフトの研究結果を再解釈してわかりやすく説明したおかげで、当時の学者たちがその重要性に気づくことができたと述べた。[29][30]

チャームクォークの質量の予測[編集]

素粒子はベータ崩壊とともにその電荷を変えるが、珍しいながらベータ崩壊のあとでもその電荷が変わらないこともある。これを中性カレント(en:Neutral current)と呼ぶ。しかし研究結果、ストレンジネスを持つ粒子がベータ崩壊するといつも中性カレントが存在しえないという結論が得られた。シェルドン・グラショールチャーノ・マイアーニジャン・イリオポロス(en:John Iliopoulos)は1970年に、チャームクォークの存在を仮定してこの説明を行った。ここでベンジャミン・リーは1974年8月に、ガヤールド(en:Mary K. Gaillard)、ロズナー(Jonathan Rosner)とともに〈チャームクォークの探索(Searching for charm)〉[31]K中間子のmixingとdecayingに該当する量を計算して、もしチャームクォークが存在するなら、それが持ち得る質量の範囲を予測した。

この論文をガイドとして探索実験が行われたが、この論文がジャーナルで発表される前の11月11日SLAC国立加速器研究所バートン・リヒターチームとブルックヘブン国立研究所サミュエル・ティンチームによってほぼ同時に、チャームクォークとその反クォークで組まれたジェイプサイ中間子が発見されたので、チャームクォークの存在が間接的に確認された。これが可能だった理由は、ベンジャミン・リーたちが論文をジャーナルに送付するとともにプレプリント(en:Preprint、出版前論文)[32]としても公開していたが、チャームクォークの探索実験のガイドとしてはこのプレプリントが使われていたからである。ベンジャミン・リーがUSAID評価委員として韓国に一時帰国する直前に作成したのが、評価が終わってアメリカに戻ってから2か月弱して発見されたのである。

現代宇宙論的リー=ワインバーグ境界の計算[編集]

1977年に、リーとワインバーグは重いニュートリノ質量の最低境界に関する論文を発表した。[33]この論文で彼らは、初期宇膨張の痕跡として、対消滅でやがてほかの粒子に崩壊するような、十分重くてまた安定的な粒子があるなら、それらの相互作用の大きさは最低限2GeVであろうと予見した。ここで彼らが扱った粒子は軽い暗黒物質(en:Light dark matter)の候補として考えられるWIMP(en:Weakly interacting massive particle)である。WIMPの質量が小さくなるほどその対消滅反応断面積(en:Cross section (physics))の大きさも小さくならなければいけないが、そのオーダーは\approx m^2/M^4程度である。ここでmはWIMPの質量で、MZボソンの質量である。これは初期宇宙で大量に生成されたWIMPの中で、軽いWIMPは重いWIMPより早く相互作用をやめた、つまり宇宙の温度がより高かった時に相互作用をやめたWIMPだということを意味する。ベンジャミン・リーとスティーヴン・ワインバーグの計算によると、WIMPの質量が\sim 2 GeVよりも軽ければ、その跡の密度は宇宙のスケールを上回る、即ちありえない値を持つことになる。WIMPの質量がそれ以上軽くなりえないようなこの境界をリー=ワインバーグ境界と呼ぶ。

この論文はPhysical Review Lettersが1977年5月13日に受け付け、1977年7月25日にボリューム39の4番目のイッシュに載せた。しかしリーはその年の6月16日にもう亡くなっていたので、この論文の出版を迎えられなかった。これはスティーヴン・ワインバーグがクィッグとともに直接Physics Todayにリーの訃報論文[19]を書く一つのきっかけとなった。クリス・クィッグはベンジャミン・リーに継いでフェルミ国立加速器研究所の次期理論物理学部長になった。

著書および論文[編集]

著書[編集]

論文[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時京城師範学校に付属した皇国臣民学校は全部で3か所で、原則的に日本人だけが入学できるが朝鮮人の入学も完全に不可能ではなかった付属第一国民学校、朝鮮人が入学できる付属第二国民学校、そして主に教育実習生が教える、田舎の学生たちを対象にした単級国民学校がそれであった。
  2. ^ 現在の高等学校1年生に該当
  3. ^ 当時にはジェット機が普及されてはいなかったため、彼が乗ったのはプロペラ機で渡米までは数日がかかった。
  4. ^ en:Summer school
  5. ^ ゲージ理論の量子化は正準量子化でも、経路積分量子化でもかなりのテクニックを要する高難度作業である。
  6. ^ マリアンはメルク社の研究室の細菌学者として勤務していて、女子医科大学入学を準備していたが、交換ビザ(J-1ビザ)でアメリカに来ていたので、滞留期間が2年と限られていた。しかしベンジャミン・リーがアメリカ合衆国の永住権を獲得すれば、その配偶者としてマリアンもまた自動的に居住許可を得ることができた。以後マリアンは医科大学の入学許可を獲得したが、ベンジャミン・リーの内助に専念するために、医科大学を卒業するだけで開業医活動はしないことに決めた。
  7. ^ この頃はまだアメリカ合衆国市民権を取得していなかったのにもかかわらず、アメリカ代表団に選抜されたのである。
  8. ^ 1964年に再び1年間プリンストン高等研究所の研究会員を務めたのが経歴として認められたためであった。
  9. ^ ペンシルベニア大学側はベンジャミン・リーの残留を希望していたが、クラインは転職を気楽に承諾したという。
  10. ^ もうフェルミ国立加速器研究所に転職してから数か月後の11月29日に、ペンシルベニア大学が彼に教授職(Gaylord P. and Mary Louise Harnwell Professorship)に招聘するという手紙を送ったこともあった。
  11. ^ 1973年にせっかく母国の近くの日本の京都大学を訪問したときにすらも、朴正熙を警戒してわざと帰国せず、多少の不孝でありながら母親を日本に呼び出す程であった。
  12. ^ 彼は学術会議などで海外出張が頻繁だったが、この韓国訪問の件の時のように警戒していたのは以前にも以後にもなかったという。
  13. ^ KBSの取材によると、そのような大きさのトラックは当時タンクトラックというあだ名で呼ばれていたようである
  14. ^ アメリカでジャックナイフ(jackknifed)だと呼ばれる状況である。

脚注[編集]

  1. ^ 地球の裏側の小林・益川理論”. 総合研究大学院大学 (2010年). 2010年1月20日閲覧。
  2. ^ Lee, Benjamin W.” (英語). Stanford Physics Information Retrieval System. in SPIRE β. 2011年6月11日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 姜周相 『李輝昭評伝』 ラックスメディア(LuxMedia)、ソウル、大韓民国、2007年(韓国語)。ISBN 978-89-6234-041-9
  4. ^ Lee, Benjamin W. (December 1958). “Dispersion Relation for Nonrelativistic Potential Scattering”. Physical Review 112 (6): 2122–2124. doi:10.1103/PhysRev.112.2122. http://prola.aps.org/abstract/PR/v112/i6/p2122_1. 
  5. ^ Behrends, R. E.; Dreitlein, J.; Fronsdal, C.; Lee, Benjamin W. (January 1962). “Simple Groups and Strong Interaction Symmetries”. Review of Modern Physics 34 (1): 1–40. doi:10.1103/RevModPhys.34.1. http://rmp.aps.org/abstract/RMP/v34/i1/p1_1. 
  6. ^ Sloan Research Fellowships” (英語). The Alfred P. Sloan Foundation. The Alfred P. Sloan Foundation. 2011年6月4日閲覧。
  7. ^ a b Weinberg, Steven (November 1967). “A Model of Leptons”. Physical Review Letters 19 (21): 1264–1266. doi:10.1103/PhysRevLett.19.1264. http://prl.aps.org/abstract/PRL/v19/i21/p1264_1. 
  8. ^ a b Lee, Benjamin W. (March 1969). “Renormalization of the \sigma-model”. Nuclear Physics B 9 (5): 649-672. doi:10.1016/0550-3213(69)90065-0. http://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/0550321369900650. 
  9. ^ a b Gervais, J.-L.; Lee, Benjamin W. (September 1969). “Renormalization of the \sigma-model (II) fermion fields and regularization”. Nuclear Physics B 12 (4): 627-646. doi:10.1016/0550-3213(69)90145-X. http://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/055032136990145X. 
  10. ^ Soo-Jong Rey (1999年12月). “1999年のノーベル物理学賞: トホーフト、ヴェルトマン、ベンジャミン・リーそして素粒子物理学の未来” (韓国語). 物理学と先端技術. 2011年5月22日閲覧。
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  13. ^ Lee, Benjamin W.; Zinn-Justin, Jean (June 1972). “Spontaneously Broken Gauge Symmetries. II. Perturbation Theory and Renormalization”. Physical Review D 5 (12): 3137-3155. doi:10.1103/PhysRevD.5.3137. http://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevD.5.3137. 
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  32. ^ Gaillard, Mary; Lee, Benjamin W.; Rosner, Jonathan (August 1974). “Search for charm”. FERMILAB-Pub 74 (86-THY): 1-102. http://lss.fnal.gov/archive/1974/pub/Pub-74-086-T.pdf. 
  33. ^ Lee, Benjamin W.; Weinberg, Steven (July 1977). “Cosmological Lower Bound on Heavy-Neutrino Masses”. Physical Review Letters 39 (4): 165-168. doi:10.1103/PhysRevLett.39.165. http://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevLett.39.165. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]