パルヴェーズ・ムシャラフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

パルヴェーズ・ムシャラフ
پرویز مشرف
パルヴェーズ・ムシャラフ

任期: 2001年6月20日 – 現職
副大統領: なし

出生: 1943年8月11日
インド
デリー
政党: パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派
配偶: セヘバー・ムシャラフ

パルヴェーズ・ムシャラフウルドゥー語: پرویز مشرف, 英語:Pervez Musharraf, 1943年8月11日 - )は、パキスタン軍人政治家。パキスタン陸軍参謀総長兼統合参謀本部議長在任中の1999年10月に,時の首相ナワーズ・シャリーフとの確執からクーデターを敢行し「行政長官」(首相に相当。日本の一部報道では「最高行政官」)として最高権力者となった(国家元首は2001年までタラル大統領が続投)。その後パキスタン大統領に正式に就任した (2001年6月20日 - )。大統領に就任するまでは軍事政権の最高意思決定機関である国家安全保障会議の議長も兼ねていた。

親米派として知られる。クーデターで実権を握ったが、腐敗した当時の政権に嫌気がさしていた国民には支持されている。が、最近は批判も高まり、情勢も混迷している。血液型A型

2002年3月に来日している。

目次

[編集] 生い立ちと家族

ムシャラフはイギリス統治時代のインド、オールド・デリー、ダリヤーガンジで、中流家庭の三人兄弟の次男として1943年8月11日に生まれた。1947年インドパキスタンの分離独立によって、一家はカラーチーへ移住した。父親はインドのアリーガル大学出身の外交官で、パキスタン大使館館員としてトルコに1949年から1956年まで駐在した。したがってムシャラフも幼年時代をトルコで過ごした。母親は大学で英文学を修め、1986年に退職するまで国際労働機関(ILO)に勤務した。ムシャラフの妻はパンジャーブ州オーカーラー出身のセヘバーで、夫妻には一男一女があり、2007年現在4人の孫がいる。

1958年にムシャラフはカラーチーの聖パトリック高校を卒業し、ラホールのフォアマン・クリスチャン・カレッジで学んだ。彼はクエッタの指揮幕僚学校とパキスタン国立防衛大学を卒業した後、イギリスの王立防衛大学で学んだ。教官は彼を「有能で自己の意見をはっきり言える将校である。本校で価値のある印象を創り上げた。彼の祖国は有能な軍人を得て幸運である」と評価した。

[編集] 軍歴

1961年に彼はカークールのパキスタン陸軍士官学校に入学し、11番の成績を修めて卒業した後、1964年に砲兵連隊に配属された。1965年の第二次印パ戦争では青年将校として従軍し、Imtiazi Sanad勲章を受章した。1964年、クエッタの指揮幕僚学校とパキスタン国立防衛大学で学んだ後、コマンド部隊を志願し特殊部隊で7年間勤務した。1967年に大尉に昇進。1971年の第三次印パ戦争ではコマンド連隊の中隊長として従軍する。その後、彼は砲兵部隊及び装甲部隊を指揮し、参謀本部の監察局、軍事作戦計画局で勤務した。1991年1月15日に少将に昇進すると、ロンドンの王立カレッジ附属高等指揮幕僚課程を研修し、1992年から1996年までオカルの歩兵師団を指揮した。1995年10月21日に中将に昇進し、1996年から1998年までマングルの軍団を指揮した。

ムシャラフはその軍歴において重要職を歴任し、1993年から1995年まで陸軍最高司令部長官であった。1998年10月7日にパキスタン陸軍長官ジャハーンギール・カラーマト将軍が辞任を強要されたとき、ムシャラフは陸軍参謀総長に指名された。1999年4月9日に統合参謀本部委員会議長の職を追加して与えられた。

[編集] クーデター

ムシャラフは1999年10月12日に無血クーデターを行い、行政長官に就任し事実上パキスタンの国家元首となった。その日、ナワーズ・シャリーフ首相はムシャラフを解任し、パキスタン統合情報局 (ISI) の局長フワージャー・ズィヤーウッディーンを参謀総長に据えようとした。ムシャラフは外遊中であったが、民間航空機によって急ぎパキスタンに帰国した。陸軍の副官はムシャラフの解任の受諾を拒否したが、パキスタンの法律では参謀総長の解雇は首相の権限であった。シャリーフはムシャラフの乗った機の着陸を阻止するためカラーチー空港の閉鎖を指示したため、機はカラーチー上空を旋回し待機した。クーデターによって軍部はシャリーフの指揮権を剥奪し、空港を奪還した。機は燃料切れの数分前にようやく着陸し、ムシャラフは政府の掌握に取りかかった。シャリーフは自宅軟禁され、後に国外に亡命した。以降、シャリーフやその他複数の民主化運動指導者はパキスタン帰国を阻まれている。情報筋によれば、ムシャラフとシャリーフの確執は、カルギル戦争を外交的に解決しようとするシャリーフの意図を巡るものだと言う[1]

その後、ムシャラフは国会および州議会を解散した。インド政府との対話のためのアーグラー訪問のぎりぎり数日前、2001年6月20日にムシャラフは形式的存在となっていたタラル大統領を事実上解任し、正式に大統領に就任した。

[編集] 再選

2007年10月6日に大統領選挙が行われ、圧倒的多数の票を得たが、陸軍参謀総長の大統領選挙出馬は違憲の訴訟が係争中だったため、当選決定が大幅に遅れた[2]。このため11月3日、当選無効判決を阻止すべく、軍を動員して最高裁判所を封鎖。全土に非常事態宣言を行ない憲法を停止して戒厳令状態に置いた[3]。陸軍参謀総長の大統領選挙出馬訴訟は合憲と確定したことを受け、選挙管理委員会は11月24日にムシャラフ当選を正式発表した。

[編集] 評価

これまでのところパルヴェーズ・ムシャラフは、比較的リベラルで進歩的な考え方をした、穏健な指導者だとみなされている。ムシャラフはパキスタンを近代化するため、多くの経済構造、社会構造の改革に取り組んできた。ムシャラフは尊敬する政治家として、国内の宗教的反世俗主義者を一掃した近代トルコ建国の父ケマル・アタテュルクを挙げている。

[編集] 参考資料


[編集] 外部リンク

前任:
ムハンマド・ラフィーク・ターラル
パキスタンの大統領
2001 -
後任: