サンドン・ストール

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サンドン・ストール Tennis pictogram.svg
基本情報
ラテン文字名 Sandon Stolle
フルネーム Sandon Frederick Stolle
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 同・シドニー
生年月日 1970年7月13日(44歳)
身長 193cm
体重 79kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1990年
引退年 2003年
ツアー通算 22勝
シングルス 0勝
ダブルス 22勝
生涯通算成績 515勝371敗
シングルス 100勝120敗
ダブルス 415勝251敗
4大大会最高成績・シングルス
全豪 2回戦(1992・94・96・99)
全仏 2回戦(1997)
全英 3回戦(1992・96・97)
全米 2回戦(1992)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(2001)
全仏 準優勝(2000)
全英 準優勝(2000)
全米 優勝(1998)
優勝回数 1(米1)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 50位
ダブルス 2位

サンドン・ストールSandon Stolle, 1970年7月13日 - )は、オーストラリアニューサウスウェールズ州シドニー市出身の男子プロテニス選手。フルネームは Sandon Frederick Stolle (サンドン・フレデリック・ストール)という。当地の往年の名選手フレッド・ストールの息子で、ダブルスのスペシャリストとして活動し、1998年全米オープン男子ダブルスでシリル・スークチェコ)とペアを組んで優勝した。4大大会男子ダブルスでは、他に3度の準優勝がある。自己最高ランキングはシングルス50位、ダブルス2位。ATPツアーでシングルスの優勝はなかったが(準優勝1度)、ダブルスで22勝を挙げた。

サンドンは6歳の時から、父親のフレッドにテニスを習い始めた。テレビ解説者になった父親は、息子に「お前が大きくなったら、テレビでお前の試合の解説をしたいと思う」と口癖のように話していたという。サンドンはアメリカテキサス州フォートワースにあるテキサスクリスチャン大学で、2年間マーケティングとビジネスを専攻した後、1991年からプロテニス選手になった。1991年ウィンブルドンで、サンドンは大会初出場から2回戦に進出し、センター・コートでジョン・マッケンローと対戦した。父親のフレッドがこの試合のテレビ解説を担当し、ストール親子はここで夢を実現させた。1992年10月、台湾台北市開催大会のダブルスでジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、男子ツアーでダブルス初優勝を果たす。1993年1月の「NSWオープン」男子ダブルスでは、同じ年のジェイソン・ストルテンバーグと組んで2勝目を挙げた。間もなく、サンドンはダブルスの分野で躍進を始める。

1994年にストールは男子ツアーでダブルス3勝を挙げたが、3月末に日本大阪大会でマルティン・ダムチェコ)と組んだ優勝もあった。1994年後半から1995年にかけて、彼はアレックス・オブライエンアメリカ)と組んで大半のトーナメントに出場した。1995年全米オープンで、ストールとオブライエンは初めて4大大会の男子ダブルス決勝に進出する。この決勝戦では「ウッディーズ」の愛称で知られるマーク・ウッドフォードトッド・ウッドブリッジ組(ともにオーストラリア)に 3-6, 3-6 のストレートで敗れ、準優勝に終わった。ストールとオブライエンは、同年10月中旬の「セイコー・スーパー・テニス」にも出場し、準決勝でパトリック・マッケンローアメリカ)&ヤコブ・ラセクスイス)組に敗れたが、このトーナメントはスポンサー撤退のため1995年の第18回大会を最後に開催中止となった。

1996年6月、ストールはイギリスノッティンガム大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)でシングルス決勝戦に進出したが、ヤン・シーメリンクオランダ)に 3-6, 6-7 で敗れ、初優勝を逃した。彼のツアー経歴を通じて、これが唯一のシングルス決勝戦進出となる。彼の4大大会シングルス成績は、全豪オープン全仏オープン全米オープンは2回戦止まりだったが、ウィンブルドン1992年1996年1997年の3度3回戦進出があり、芝生コートのウィンブルドンとはシングルスでも相性が良かった。

1997年から1998年の2年間、ストールは大半のトーナメントでシリル・スークチェコ)とペアを組んだ。スークの家族も名門のテニス一家で、彼の母親ベラ・スコバ1962年ウィンブルドン女子シングルス準優勝者になった名選手であり、姉のヘレナ・スコバも女子ツアーのトップ選手である。ストールとスークの“親子2代選手ペア”は、1998年全米オープンの男子ダブルスで初優勝を飾った。ストールにとっては、1995年以来3年ぶり2度目の全米ダブルス決勝戦だった。2人はダニエル・ネスターカナダ)&マーク・ノールズバハマ)組に 4-6, 7-6, 6-2 の逆転勝利を収めた。サンドンの父親フレッド・ストールは、全米選手権(当時の名称、1968年から「全米オープン」に変更)で1966年の男子シングルス優勝、1965年1966年1969年の3度男子ダブルス優勝がある。全米オープンの男子ダブルスで、ストール家は親子2代で優勝を飾った。

その後、ストールは1999年ウェイン・ブラックジンバブエ)、2000年ポール・ハーフースオランダ)や、オーストラリアの後輩選手レイトン・ヒューイットなどとペアを組んだ。1999年ウィンブルドン2回戦でゴラン・イワニセビッチに敗れた試合を最後に、ストールはシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。2000年はハーフースとのコンビで好成績が多く、全仏オープンウィンブルドンの2大会連続で男子ダブルス決勝に進出したが、両大会とも同じオーストラリアの「ウッディーズ」に連敗して準優勝になった。全仏オープンとウィンブルドンでは、サンドンは親子2代優勝の夢を果たせなかった。2001年3月5日付で、サンドン・ストールはATPツアーでダブルスランキング「2位」に入り、この年にツアーで年間5勝を記録した。2002年10月、オーストリアウィーン大会でジョシュア・イーグル(同じオーストラリアの選手)と組み、決勝でチェコペアのイリ・ノバクラデク・ステパネク組を 6-4, 6-3 で破った勝利が、ストールの現役最後の優勝になった(22勝目)。2003年1月、全豪オープンの男子ダブルス1回戦敗退を最後に32歳で現役を引退。引退後はテニスコーチとして活動し、2007年9月から「オーストラリア・スポーツ研究所」のテニスコーチに指名された。

4大大会ダブルス成績[編集]

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (ツアーサイト内から、一部の伝記情報が消滅。本記事の第2段落は、この公式ガイドブックを参照した)