ヤコブ・ラセク

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ヤコブ・ラセク Tennis pictogram.svg
基本情報
ラテン文字名 Jakob Hlasek
国籍 スイスの旗 スイス
出身地 チェコスロバキア・プラハ
生年月日 1964年11月12日(50歳)
身長 187cm
体重 78kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1982年
引退年 1996年
ツアー通算 25勝
シングルス 5勝
ダブルス 20勝
生涯通算成績 801勝603敗
シングルス 434勝331敗
ダブルス 367勝272敗
4大大会最高成績・シングルス
全豪 3回戦(1985)
全仏 ベスト8(1991)
全英 4回戦(1987・96)
全米 4回戦(1988・96)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト4(1996)
全仏 優勝(1992)
全英 ベスト4(1986・92)
全米 ベスト4(1996)
優勝回数 1(仏1)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 7位
ダブルス 4位

ヤコブ・ラセクJakob Hlasek, 1964年11月12日 - )は、スイスの元男子プロテニス選手。チェコスロバキアプラハに生まれる。1992年全仏オープン男子ダブルス部門で、マルク・ロセとペアを組んで優勝した選手である。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス4位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルスで1992年全仏オープンを含む20勝を挙げた。身長187cm、体重78kg、右利き。

ラセクの家族は、彼が4歳の時にチェコスロバキアからスイスチューリヒへ引っ越した。1983年にプロ入りし、同年のウィンブルドン4大大会にデビューする。1984年ロサンゼルス五輪で、テニスが21歳以下の選手による「公開競技」として行われた時、19歳のラセクはベスト8まで進出した。その後、ラセクは1988年ソウル五輪1992年バルセロナ五輪にも出場し、スイス代表選手として3度のオリンピック出場を果たした。

ヤコブ・ラセクは1991年全仏オープンで4大大会のシングルス自己最高成績を出し、初めての準々決勝でアンドレ・アガシに 3-6, 1-6, 1-6 のストレートで完敗した。その翌年、1992年全仏オープン男子ダブルスにおいて、ラセクは同じスイスマルク・ロセとペアを組んで活躍する。ラセクとロセは、初めての決勝でアンドレイ・オルホフスキーロシア)&デビッド・アダムズ南アフリカ)組を 7-6, 6-7, 7-5 で破って初優勝を遂げた。続くウィンブルドンでは、ラセクはフランスギー・フォルジェとペアを組んで男子ダブルス準決勝に進出したが、ジョン・マッケンローミヒャエル・シュティヒ組に 6-7, 3-6, 6-7 のストレートで敗れた。

ウィンブルドン選手権の後、ラセクはバルセロナ五輪にも出場したが、シングルスは3回戦、ロセとの男子ダブルスでは準々決勝で敗退する。このバルセロナ五輪で、ロセが男子シングルスの金メダルを獲得した。1992年は、スイスが男子テニス国別対抗戦・デビスカップで初の「ワールドグループ」(世界最上位16ヶ国)決勝進出を果たした年でもある。ラセクとロセの2人がチームを牽引したが、12月4日-6日の決勝でスイスはアメリカに「1勝3敗」で敗れ、ラセクも出場3試合すべてを落とした。[1]

現役最後の年になった1996年、ラセクは男子ツアー大会の前半戦で早期敗退が続いたが、全仏オープンの男子ダブルスでギー・フォルジェとペアを組み、4年ぶり2度目の決勝に進出した。2人はエフゲニー・カフェルニコフ(ロシア)&ダニエル・バチェク(チェコ)組に 2-6, 3-6 のストレートで敗れ、ラセクは4大大会ダブルス2勝目のチャンスを逃した。それから、ラセクはウィンブルドン全米オープンの2大会連続で男子シングルス4回戦に勝ち上がった。ウィンブルドンは1987年以来9年ぶり、全米オープンは1988年以来8年ぶりの4回戦進出であった。最後のウィンブルドンではジェイソン・ストルテンバーグオーストラリア)に 2-6, 6-7, 2-6 のストレートで敗れ、全米オープン4回戦では第2シードのマイケル・チャンに 3-6, 4-6, 2-6 で敗れている。ラセクは同年12月の「グランドスラムカップ」準々決勝でボリス・ベッカーに敗れた試合を最後に、32歳で現役を引退した。

ヤコブ・ラセクは優れたデビスカップ選手として、通算勝利数(49勝30敗)・通算シングルス勝利数(34勝20敗)・通算ダブルス勝利数(15勝10敗)の3部門でスイス・チームの歴代1位記録を保持している。

脚注[編集]

  1. ^ [1]

外部リンク[編集]