サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)
サンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)は、フィレンツェにあるフランシスコ会の主要な教会で、カトリック教会のバシリカ。サンタ・クローチェ広場にあり、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂からは南東800mのところに位置する。元々は市の城壁の外側にある湿地帯だった。この聖堂は、ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった有名なイタリア人たちの埋葬場所でもあり、そのことから「«pantheon» delle glorie italiane(イタリアの栄光のパンテオン)」として知られている。
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建物[編集]
サンタ・クローチェ聖堂はフランシスコ会の世界最大の教会である。16の礼拝堂を有し、その多くはジョットおよびその弟子たちによって装飾されている。さらに墓碑・記念碑も多く存在している。
言い伝えによると、サンタ・クローチェ聖堂はアッシジのフランチェスコ自身によって建てられたと言われる。古い建物から現在の教会に建て替える工事は、町の裕福な家のいくつかが資金を出し、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で、1294年5月12日からスタートした[1]。1442年には、ローマ教皇エウゲニウス4世によって聖別された。建物のデザインはフランシスコ会の質素さを反映したものである。平面図にすると、エジプト十字、あるいはフランシスコ会のシンボルであるタウ十字の形をしていて、八角形の柱列によって、長さ115mの身廊および2つの側廊に隔てられている。教会の南側には修道院があって、その建物は現存している。
主回廊には、パッツィ家礼拝堂がある。これは1442年から1446年にかけて、参事会会議場として建てられ、最終的に1470年代に完成したものである。先にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドームを作ったフィリッポ・ブルネレスキは、 精密なシンプルさと簡素さを保てるよう、そのデザインに留意した。 1560年に、対抗改革の余波を受け、内陣仕切りが取り外され、ジョルジョ・ヴァザーリが屋内を再建築することになった。その結果として、教会の装飾が損傷し、仕切りのところにあった祭壇画の多くは失われてしまった。
鐘楼は、最初のものが落雷によって傷んだため、1842年に再建された。ゴシック・リヴァイヴァル建築の大理石のファサードは、1857年から1863年にかけて、ニッコロ・マタスが制作した。
1866年のイタリア統一運動の一応の終了後、修道院制度が廃止された時は、サンタ・クローチェ聖堂全体が政府の国有財産となった[2] [3]。
付属美術館は昔の食堂をあてられ、回廊とは分けてある。その回廊にはフローレンス・ナイチンゲールの祈念碑が建っている。ナイチンゲールはこの町の生まれで、名前も町の名から付けられた。ブルネレスキは内側の回廊も手掛け、1453年にそれは完成した。
1966年に、アルノ川が氾濫し、フィレンツェ市内の殆どが浸水した。サンタ・クローチェ聖堂もその被害に遭い、教会の建物は泥と汚染物質と暖房油まみれになってしまった。建物自体と美術品の損害は甚大で、修復までに数十年を要した。
かつてのフランシスコ会士の寄宿舎は、現在、Scuola del Cuoio(革製品の学校)になっている[4]。訪問客は伝統工芸の財布や書類入れ、その他の革製品を見ることができ、またそれらは隣接する店で売られている。
美術[編集]
サンタ・クローチェ聖堂には、以下の美術家たちの作品が現存している。
- ベネデット・ダ・マイアーノ - 説教壇。パッツィ家礼拝堂の扉(弟ジュリアーノ・ダ・マイアーノと共同制作)。
- アントニオ・カノーヴァ - ヴィットーリオ・アルフィエーリの記念碑。
- チマブーエ - 『キリスト磔刑』(1966年の浸水で被害を受け、現在は食堂にある)
- アンドレア・デッラ・ロッビア - メディチ家礼拝堂の祭壇画。
- ルカ・デッラ・ロッビア - パッツィ家礼拝堂の装飾。
- デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ - カルロ・マルスッピーニの墓碑。パッツィ家礼拝堂のフリーズ。
- ドナテッロ - 南壁の『受胎告知』のレリーフ。バルディ家礼拝堂左手のキリスト磔刑像。食堂の『トゥールーズの聖ルイ(Louis of Toulouse) 』(元々はオルサンミケーレ教会のために制作)。
- アーニョロ・ガッディ - カステラーニ礼拝堂および内陣のフレスコ画群。内陣のステンドグラス。
- タッデオ・ガッディ - バロンチェッリ礼拝堂のフレスコ画群。聖具室の『キリスト磔刑』。食堂の『最後の晩餐』(彼の最高傑作と言われている)。
- ジョット - ペルッツィ礼拝堂およびバルディ家礼拝堂右手のフレスコ画群。バロンチェッリ礼拝堂の祭壇画『聖母戴冠』もおそらく彼の作品だろうと言われている。
- ジョヴァンニ・ダ・ミラノ - リヌッチーニ礼拝堂のフレスコ画群(『聖母マリアとマグダラのマリアの生涯』も)。
- マーゾ・ディ・バンコ - バルディ・ディ・ヴェルニオ礼拝堂のフレスコ画群(シルウェステル1世の生涯を描いたもの)。
- ヘンリー・ムーア - 主回廊の戦士の彫刻。
- オルカーニャ - フレスコ画の大部分はヴァザーリによる改築中になくなったが、食堂にいくつかの断片が残っている。
- アントーニオ・ロッセリーノ(Antonio Rossellino) - 南側廊の『マドンナ・デル・ラッテ(乳の聖母)』のレリーフ(1478年)。
- ベルナルド・ロッセリーノ - レオナルド・ブルーニの墓碑。
- Santi di Tito(Santi di Tito) - 北側廊の祭壇画『エマオの晩餐』ならびに『キリストの復活』。
- ジョルジョ・ヴァザーリ - ミケランジェロの墓碑(彫刻はValerio Cioli、Iovanni Bandini、Battista Lorenzi)。『カルバリへの道』[5]。
- ドメニコ・ヴェネツィアーノ - 食堂の『聖ヨハネと聖フランチェスコ』。
メディチ家礼拝堂の中にあった、ロレンツォ・ディ・ニッコロ(Lorenzo di Niccolò)の多翼祭壇画は、現在二つに分割されて、フィレンツェ・ギャラリーズとミラノのバガッティ・ヴァルセッキ博物館にある。
記念碑[編集]
サンタ・クローチェ聖堂は、礼拝と保護の場所として、フィレンツェ市民の人気の場所、さらに誉れある偉大なフィレンツェ人を埋葬・追悼する場所となった。バルディ家やペルッツィ家といった有力な家は、自分たちの礼拝堂を所有していた。時が進むと、フィレンツェ以外の著名なイタリア人にもその場所が与えられた。500年の間に教会に祈念碑を建てられた人々は以下の通りである。
- レオン・バッティスタ・アルベルティ(15世紀の建築家、建築理論家)
- ヴィットーリオ・アルフィエーリ(18世紀の詩人、劇作家)
- エウジェーニオ・バルサンティ(Eugenio Barsanti、内燃機関の共同開発者)
- ロレンツェ・バルトリーニ(Lorenzo Bartolini、19世紀の彫刻家)
- ジュリー・クラリー(ジョゼフ・ボナパルトの妻)ならびにその娘シャルロット・ナポレオーヌ・ボナパルト
- レオナルド・ブルーニ(Leonardo Bruni、15世紀の学者、歴史家、フィレンツェ共和国首相)
- ダンテ(遺体はラヴェンナに埋葬されている)
- ウーゴ・フォスコーロ(Ugo Foscolo、19世紀の詩人)
- ガリレオ・ガリレイ
- ジョヴァンニ・ジェンティーレ(20世紀の哲学者)
- ロレンツォ・ギベルティ(ルネサンスの彫刻家)
- ヴィットリオ・ギベルティ(その息子)
- ニッコロ・マキャヴェッリ(Innocenzo Spinazzi作)
- カルロ・マルスッピーニ(Carlo Marsuppini、15世紀のフィレンツェ共和国首相)
- ミケランジェロ・ブオナローティ
- Raffaello Morgheni (19世紀の彫刻家)
- ジョアキーノ・ロッシーニ
- Princess Louise of Stolberg-Gedern(Princess Louise of Stolberg-Gedern、チャールズ・エドワード・ステュアートの妻)
- グリエルモ・マルコーニ
- エンリコ・フェルミ
脚注[編集]
- ^ Chiarini, Gloria (2007年). “Basilica of Santa Croce”. Florence Art Guide. 2007年7月30日閲覧。
- ^ Besse, J M (1911年). “Suppression of Monasteries in Continental Europe: C. Italy”. Catholic Encyclopedia. New Advent. 2007年7月30日閲覧。
- ^ “Santa Croce: Overview”. Opera of Santa Croce. 2007年7月30日閲覧。
- ^ Scuola del Cuoio - Laether Schhol
- ^ Borsook, Eve (1991). Vincent Cronin. ed. The Companion Guide to Florence, 5th Edition. HarperCollins; New York. pp. page pages 100-104.